姥捨て山に墜ちた星

高木解緒 (たかぎ ときお)

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                               西暦一九二五年

「伝説の……怪物、だって?」
 その時の私の顔はきっと、馬鹿みたいだったに違いない。恭介の口から絶対出そうにない言葉のようで、しかしこの幻想世界の住人めいた男にはなるほど似合わなくもない、そんな感想が脳内で混合し、とりあえずは口をぽかんと開けっ放しにしていたからだ。
「――どこからそんな話が出てくるんだ?」
「彦造の後ろ首が裁ち割られていたのは覚えているかい?」
「あまり思い出したくはないがね」
「背後から襲撃され、大きな爪に横一文字で薙ぎ抉られた傷みたいだったろう? だが、熊や猪に襲われたのではああはならない」
「それはそうだが……」
「そもそも、あの彦造を襲おうとする熊や猪も中々いないだろう」
「だからと言って、……伝説の怪物かい?」
「さるのばけ、と言うんだ。三メートルくらいある巨大な肉食猿の化け物らしい。いわゆる邪悪な猿神の流れを組む奴だろう。凶星が堕ちるのを前兆として約百年に一度の間隔で現れ、村を襲うそうだ。そして前の出現から数えて今年は、どうも百年目らしい……」
「ちょっと待ってくれ、恭介!」
 いくらなんでも幻想に偏りすぎだ、と私は慌てて口を挟んだ。
「そんなもの、本当にいるわけがないじゃないか。南洋の孤島ならともかく、ここは開化されてだいぶ経つ日本なんだぜ?」
「南洋の孤島でもそんなものがいるとは思わないがね」と恭介。
「確かに、鉄の塊が空を飛んで爆弾の雨を降らせようかというこの御時世には似つかわしくない存在だ。僕だって信じない」
「じゃあ……」
「だが、この集落の人間たちは信じてる。心から。凶星墜落の目撃もされているようだし、怪獣出現のお膳立ては整っているわけさ。ただ、出てくる時期が見込みではもう少し遅くなるらしかったが」 
「あ、それで……」
 私は彦造の通夜で飲んでいた住人たちの、「早いでねえか」という言葉を思い出した。なるほど、新進派の永吉君が東京から来た私に聞かせたくないのも頷ける。清心な彼にしてみれば、邪神の存在を当然と信じる隣人の存在が我がことのように恥ずかしいだろう。
「集落の人々は皆、信じてるのか?」
「それどころか」
 恭介はにやりとして、
「君は彦造を見つけてから屋敷を出ていないから分からんだろうが、通夜の手伝いに出なかった住人達は今、大わらわなんだぜ。どの家も土蔵に食料を運び込んで、迫りくる籠城戦準備の真っ最中さ」
「なるほど……」
 そう言えばこの地域を初めて峠から見下ろした時に印象深かったのが、どの家も大なり小なり、土蔵を持っているらしいということだった。どんなに貧乏そうな家でも母屋よりよほど立派な蔵を必ず敷地内に備えているのだ。何か特産物で納屋などへ置いておけない品でもあるのかと思ったが、あれらは全て、古い信仰が今なおありありと生き続けている証拠だったらしい。
「思い出してみたまえ」
 恭介は促す。
「彦造の死は、異常な死に方だった割に、すんなり通夜が始まっただろう? 皆彼の死因を知っているから、警察すら呼ばれなかったんだ。ああ〝知っている〟と〝信じている〟から、だね」
「しかし駐在だってあの死体は見ている。いくら彼がここの人間で、猿神を信じているからと言って、上に変死の報告くらいするだろう。そうすれば死因に不審を持つ外部の人間が、捜査の指示くらい……」
「身寄りのない下男の死因なんぞ誰も気にしないさ。それにこの佐々間の家が葬式まで出してやると言っているのに、それを突いて気分を害されたら、ただでさえ忙しいお上の仕事が余計に増える」
「この家はそんなに権力があるのか? 警察が気を使うほど?」
「所詮ど田舎のしもた屋、と思っていただろう?」
「いや、そんなことは思わんが……」
 分家筋とはいえ直接の関係者を前にして、私は慌てて誤魔化す。
「いいんだよ。それに、佐々間の家そのものに警察が遠慮しているというよりは、この集落に端を発する周辺地域における信仰へ配慮しているんだ。つまり、さるのばけ信仰だ」
「……それほどのものなのか?」
「子供時分から銀ブラが日課の君には分かるまいが、こうした地域信仰というのは中々馬鹿にならない影響力を持つんだ。というのはそれを軸にして地域の人間関係が成り立っているからだ。もちろん熱心な信心者の怒りを買うことだって怖いがね。佐々間の家の気分を損ねるのは、そのどちらの可能性も持っている」
「――この家は、憑き物筋みたいなものかね?」
 探偵小説にオカルト風味を付け加えようという動機から私は以前、フォークロアの大家に〝憑き物〟について取材したことがあった。
 結局そのネタはまだ〝危ない〟との忠告を受け、企画そのものがお蔵入りになってしまったのだが。
「鋭い」と恭介が頷いた。
「四国なんかの憑き物と違うのは、あちらは筋の家を栄えさせる、こちらは筋の家を敬う地域全体を災いから守る、というところだ。佐々間家だけじゃない。この集落の御三家、佐々間、佐竹、佐原が猿神への防壁を担っているとされている。そしてその代償として、富の独占や地域住民の隷属を保証されてきた。中でもこの佐々間は今、一番隆盛を誇る。だからとにかく、下男の首がちょん切られたくらいじゃ、現行犯で誰か捕まっているのでもない限り、ここらの警察は自発的には動かない。佐々間の家の、あの刀自の意向をまず伺って、その通りにやるのさ。そしてあの婆様がこの屋敷に警察を入れるわけがない。原因が猿、と人々が信じる死に方ならなおさらだ。警察なんぞ入れて、間近に迫るさるのばけ襲撃を回避するための準備を妨げられては困るんだ」
「だが、化け物の仕業じゃ……ないんだろう?」
「もちろんだ」
 恭介は力強く頷く。
「さるのばけ、なんかであるもんか。そんなものは絶対にいない」
「……そして、事故でもないと」
「あんな死に方をする事故ってなんだい。化け物に襲われたように見せかける利点は今言ったように、警察、佐々間双方の動きを制限できるからだろう。だけど僕は彦造の死を〝おとり〟として使うのが本来の目的だったと思う。満代さんを通夜で殺害するために」
「そのためにわざわざ、彦造は殺されたと言うのか?」
「それが楽ならそうするさ。満代さんは鋭い人だったからね。淫楽好みの呑気な若後家に見えて、集落の人間に心を開いていなかった。彼女を殺したい奴がいたとして、上手くやるのは難しかったはずだ。佐竹の屋敷には義弟や用人たちがいるし、本人はあまり外に出ず、たまに出ても車、付き添う人間も必ずいる。彼女に対して腹に一物ある人間が呼び出して殺すには用心深過ぎる相手だ。結局、葬式を佐々間で出すのが一番手っ取り早い。それも、さるのばけ絡みなら、佐竹の人間が出てこないわけにはいかない」
「名家同士の付き合いを利用したということか」
「外部出身といえ、満代さんが佐竹の現筆頭には違いないからね」
「満代さんの義弟というのが来るかもしれないじゃないか」
「君もそのうち会うだろうが、そっちは満代さんとまた別の意味で外に出すのが危うい人間でね。処女信仰のある山人の娘を見境なく襲うんで狂人かつトラブルメーカーとして集落の腫物扱いなんだ。三名家の人間でなければとっくに私刑されていてもおかしくない。通夜にもいなかっただろう?」
「確かに……」
「それに満代さんは絶対、彦造の通夜へ来なければならなかった。なぜなら間接的とは言え彦造の死の原因を作ったのは彼女かもしれなかったからで、その可能性に満代さん自身気がついていたからだ」
「満代さんが手紙を書いたという話だね?」
「ああ」
「しかしあの手紙は彦造が僕を殺すために出したものだろう。それを満代さんが書いたということは、彼女も僕の殺害計画に一枚噛んでいたということになる。満代さんが僕を殺そうとするなんて考えられんよ。なぜなら……」
「彼女は君に惚れていたから。そう言いたいんだろう?」
「いや、その、そこまで言い切れるものでもないが……」
 言いよどむ私を恭介が笑った。
「いや、その通りだと思うよ。自信を持ちたまえ、色男」
「やめてくれ。じゃあなぜ、彼女が僕を殺そうとする?」
「彼女は君を殺そうとしたわけじゃない。君をアヤから引き離そうとする彦造の作戦に協力しただけなんだ。おそらく満代さんは彦造に騙されたのさ。呼び出して、アヤとこれ以上関係を深めないよう少し脅しつける、くらいに言われていたんだろう。それで字の書けない彦造に代筆してやった」
「だが、彦造は最初から僕を殺すつもりだった」
「多分ね。崖の上から岩を投げつけて殺すつもりだったんだろう」
「しかし失敗した」
「そうだ。なぜなら君を殺害する計画を別の誰か、満代さん殺しを企む誰かに利用されてしまったからだ。手紙を代筆した満代さんにしてみれば、彦造が死に、その場に君がいたらしいと聞いた時点で自分の手紙がどういう役割を果たしたのか気になってたまらなくなるだろう。だからその点でも、哀れな彦造の粗末な計画を利用することに利点があったのさ。信心絡みの認識で警察が動かず、しかし常識的な責任感を持つ満代さんを必ず誘き出せると踏んで、犯人はまず彦造を殺した。そして通夜の席に紛れ、満代さんを毒殺した。彼女の膳の吸い物へ毒を入れてね」
「……ちょっと待て。佐々間家の人々は上の方で席順も決まっているようだったが、満代さんのあの膳は客用で、誰がその前に座るかなんて予め知ることはできなかったはずだ。僕や君、全く無関係な大勢の手伝い客のうちの誰かだったかもしれない。そうだとするとこれは、参加者を狙った無差別の犯行なんじゃないか?」
 私が何気なく言うと、恭介は露骨に「あちゃあ」という顔をして見せた。「気を悪くしないで欲しいんだが……」
「なんだい?」
「犯人はデコイの名人だ。そこでも君を誘蛾灯に使ったんだ」
「なんだって?」
「満代さんが君に熱い気持ちを持っていることは、この辺りの人間なら誰でも知っている。まず当の満代さんが身の回りの誰かれなく君の魅力を吹聴していたからね。そしてそれを噂話好きな用人下人が集落中でふれ回っていた。だから最近の各方面井戸端会議で君は満代さんの次期愛人候補だったんだぜ? 義弟と一緒になることを拒み続けていた彼女が君を咥え込んで佐竹を乗っ取っちまうんじゃないか、て話もあったくらいだ」
「……ちっとも知らなかった」
「そりゃ、君はアヤに夢中だからさ。そしてそのことが満代さんを余計に焦らせ、広報活動へ駆り立てた。あんな人だから自分の魅力を素通りする男の存在は自我の揺らぎに繋がったろうし。それで、とにかく煙さえ立てて火事があったことにしちまえばそのうち本当に燃え出すだろう式の性格もあり、古式ゆかしいこの辺りの、大勢の人目があるところですら大胆に君を誘っていた」
「毒入り膳の前に彼女を座らせる方法、の話をしてるんだぜ?」
「気付きたくない気持ちは分かる。だがもう理解しているはずだ。毒入り膳の前に座ったんじゃない。彼女は君の正面に座ったんだ。ただ、それだけのことなんだ」
「……」
「君はあの時、相当酔っていた。ほとんど最初から会席の列の中で位置を定めていた。逆に満代さんは、手伝いの実働部隊だったから、かなり遅れて席を決める。その時、君の真向いの膳が空いていればどうだろうね? あの人なら躊躇しないだろう?」
「……君と反対側の、僕の隣も空いてたさ。なにせ余所者だから」
 そこに彼女が座ったかもしれない、と言う私へ恭介は首を振る。
「通夜の会席で隣に座ったとしても、お喋りなんぞできないだろ。向かい合わせに座れば君を目配せでからかうことができる。彼女にとってはそれだけでも楽しいのに、真正面に座ってそれをやれば、君との関係性を周囲の人間へアピールすることができる。火の無い煙を煽ることができるんだ。土地の名家の人間で、元から君と噂のある彼女に遠慮して君の正面へ座る人間も中々いないだろう。そうなると彼女の運命はかなり操作し易かったはずだ」
「満代さんは結局、自分で膳を選択させられたということか――」
「君の責任じゃない」
 彼女の顔が眼前にちらついた。色恋はさておき、私は純粋に満代を好いていたのだ。悪ぶるところはあっても、嫌な人間では絶対になかった。閉鎖的な空気が肌に合わないだけの快活な女だった。
 私の中で怒りが湧き上がってきた。
「満代さんが殺されたのだとして、理由はなんだい?」
「それはまだ分からないさ。だけど」
 恭介の顔が珍しく歪む。
「僕の嫌いなタイプだ。物質的な姦計でなく、人の心につけ込んでくる犯人だ。もしかすると満代さん殺しも何かの餌かもしれない」
「相手をするだろう? 僕たちで」
「もちろんだ。しかし……」
 まだまだ続きそうな気がするんだよな、と物憂げに彼は言った。


     ※


「タヅですのね」
 英文翻訳の手を止め、ふとアヤが言った。囁き声だった。
「何がだい?」
「先生へ、早く東京へ帰るように勧めた者です。タヅですのね?」
 見据える眼差しは真剣で、奥には怒りの種火が燃えている。私は窮した。部屋の静けさが耳に沁みた。
 先ほど、ほとんど二日ぶりとなる座敷牢への訪問にアヤは歓喜を隠さなかった。部屋へ入った私の後ろでタヅが襖を閉じるより早く駆け寄ってきた。私が東京へ帰ったのではないかと心を痛めていたらしい。私は首を振って笑い、それを勧める人間もあるが、実行しようとは夢にも思わない、と言った。安堵したアヤは無邪気に笑い返し、しばし見つめあい、しかしなんとなく照れくさくお互いこれと言った行動を起こさず、いつも通り勉学の時間が始まった。それから五分。今になって彼女は私の発言を聞き咎めたのだ。
 目が合う。そうなるともう、唇を動かすまでもなく真相は彼女へ伝わってしまう。アヤは小さく鼻を鳴らし、白い頬を膨らませた。
「あの子ったら!」
 その目は閉ざされた襖越しに、板張りの前の間でじっと待機している双子の妹を睨む。長い睫毛、鳶色の瞳がくっきりとする。
 私は慌てて、
「タヅはタヅで僕のことを心配してくれているんだよ。いや、僕の心配というより、君への心配の延長なんだな」
「そうでしょうか?」
「そうさ。姉さんのどん臭い男友達が傷つくようなことがあれば、姉さんが悲しむ。事件に巻き込まれるにしても、化け物に襲われるにしても……タヅは〝さるのばけ〟を信じているんだろう?」
「多分……。あら、お聞きになりましたのね」
 再びこちらを向いた彼女からは険しさが消えていた。全く偶然の産物だが、今度の発言は成功だったのだ。私は急いで言葉を継ぎ、
「さっきまで恭介と、ずっとその話をしていたんだ」
 私は満代さんや彦造の死には触れず、さるのばけについての会話部分のみを伝えた。
「――君も信じてるの? 邪悪な猿神の存在を」
「……どうでしょう。でも私は、そのためにここに居りますから」
 アヤは不思議な表情を見せた。恭介から一部始終を聞いている今となっては、どこか哀切さえ感じさせる眼差しだった。

 地域の守り屋である〝さ〟のつく三家、この佐々間家、満代さんが嫁いだ佐竹家、そして、とうに没落してしまった佐原家――。
 アヤとタヅの姉妹は、その佐原家の生き残りなのだそうである。
 佐原家最後の当主、つまり姉妹の父親が自宅に火をかけ一家心中を図った時、今は亡き先代の佐々間家当主が燃え盛る炎の中へ飛び込んでなんとか救い出したのがこの二人だということだ。
 だが残念なことに、その救助活動は英雄的精神をもって行われたわけではなかった。それは、佐原家没落後の佐々間家での姉妹への扱いを見れば瞭然である。
 三家はいずれかの家に生まれた女児を猿巫、すなわちさるのばけ専属の巫女として育てることにより、この地域の安全を保障する家として富と権力の集中を許されてきた。よって三家は、少なくともさるのばけが出現する百年の節目節目には必ず適齢期の娘を養っていなければならない。
 現在でこそ佐々間家には瑠璃という娘が生まれているが、当時の御三家において、女児は佐原の双子姉妹だけだった。そしてアヤとタヅ、どちらを猿巫に立てるかを決める直前、二人の父、佐原和夫は自邸に火をかけたのだった。元々神経衰弱の気がある腺病質な男で、一家無理心中を図った動機について集落の人々は「ついに気がふれた」と噂しあったそうだ。だが恭介曰く、
「僕はあまり知らないが、真面目な人だったそうだから。愛らしい娘二人の将来に絶望して、でも逃げだすこともできず、思いつめた挙句の発作的行動だったのかもしれない」
「しかし生贄だか人柱だかになる運命だというならともかく、巫女という進路はそれほどに親を絶望させるものなのかね?」
「そりゃ、今のアヤを見ている君ならわかるんじゃないか? 僕はアヤを見たことはないが、タヅと瓜二つできれいな顔なら、相当な美人だ。年頃の美人を牢に閉じ込めて、その人生を架空の化け物へ嫁がせるんだ。ろくすっぽ人と会わせることもなく、この狭い集落の狭い屋敷の、狭い座敷牢で彼女の時間は更けていく。和夫さんの存命中にはアヤ、タヅ、どちらの娘が巫女として育てられるかまだ決まっていなかったはずだがね、一人っ子だった場合に比べれば、残った一人をまともに育てられる可能性があるからと言って素直に喜べるもんでもないだろう。君が父親なら、どんな思いがする?」
「……逃げ出せばよかったんだ。妻と娘たちを連れて」
 実に都会者らしい発想だ、と恭介は鼻を鳴らす。
「君の世界は広い。だが和夫さんには、ここが世界のすべてだったのさ」
 それで佐原和夫は妻女を殺害、まだ歯も生えない姉妹を生かしたまま籐籠へ入れて上から蓋をし、屋敷に燃料油を撒いたのだった。
 救助後、アヤが猿巫として立てられることになったのは、単に顔へ火傷を負っていなかったからだ。キズの無い方がよかんべえ、と誰かが言って、それでアヤは座敷牢の姫となり、タヅはその御付き女中兼佐々間家の下働きとして育てられることになった。
 十七の歳まで姉は人の顔を面を通してのみ知り、妹は妹で五歳の頃にはもう、柴拾いや風呂焚きなどさせられていたのだという。
 座敷牢に幽閉されたアヤの境遇そのものについては最初に知った時驚きもし、腹立ちもした私だったが、まさかここまで前時代的な事情があるとは思ってもみなかった。せいぜい血縁に頭のおかしい者でもおり、その性質を濃く受け継いでるように見えるとかで隔離されているのだろう、くらいに考えていたのである。その不条理な境遇を思わせぬ彼女の聡明。健気な――と、思うより他ない。
「初めて先生にお会いした時、本当にびっくりいたしましたのよ」
 家庭教師も最初の頃、そう言って微笑んでいた彼女を思い出す。その笑みはどこかいたいけだったが、しかし全く健やかだった。
「なにに驚かれたんです?」
 と、私もまだしゃっちょこばった物言いの頃で、
「人間って、こんなにも違うものかしらって」
「なるほど。……しかし、本当のところ……」
 私は声を落とし、秘密めかせて、
「タヅさんのお顔くらい、御覧になったことがおありでしょう?」
 他愛もない軽口の一つだった。だが、そう訊いた時の彼女の顔が私は今も忘れられない。ただでさえ大きな目を驚きでさらに大きく見開き、頬は紅潮し、鼻の孔まで少しは広げ……、おそらくそれが意気投合のきっかけだったのだ。
「どうしておわかりですの!」
 一瞬にしてアヤの目には尊敬の念が満ち溢れていた。私は大得意で、衆人環視の中で事件の謎解きをしている時の恭介はこんな感じなのだろうか、と考えた。なるほどこれは病みつきになる。
 身の回りの力仕事をさせていた彦造については本当に、顔を見たことはおろか言葉を交わしたことすらなかったらしい。だから私はアヤが物心ついてからこの世界で出会った二人目の人間だった。
「いや、なに、簡単な推理ですよ」
 東京の日常でよく聞いた恭介の台詞を引用しながら、私は横顔に受ける熱い視線の快感に酔いしれた。これは〝辺境への逃避行〟でなく〝運命の呼び声への応答〟だったのだ、と思い始めていた。
 私は初めての家庭教師経験、しかも相手は深窓の令嬢にして真の美少女、アヤにとっては初めての外界人類との直接遭遇にして相手は成人男性、それまではお互いにかなりの緊張をもって接していたのだが、この頃から私たちは次第に打ち解け出した。
 そして少々の時間がさらに流れ、
「でも、やっぱり私、先生に御会いして、とっても驚きましたわ」
「そうかい?」
「だってタヅは鏡を見ているのとほとんど変わりませんもの。でもよそさま、それも男の方を初めて見るのは……」
 それに、ちょっとショックでしたのよ、とアヤ。
「ショック?」
「だって全然、違うんですもの」
「違う? タヅさんと違う、ということ?」
「いえ、なんといいましょう……、私が物語を好きなことは、もう先生も御存じです。その中に色々な殿方がお出でなさるでしょう? 私、殿方を挿絵の他ではまるで存じませんでしたから、こんな感じかしら、あるいはこんな、と思い描きながら読んでおりましたの。けれど先生に御会いして私、自分の貧しい想像力に本当、がっくりいたしましたわ」
 そう言って彼女は俯き、はにかんで笑うから、
「小説の中のヒーローたちと比べられては困るな」
 私は笑い返す。
「生身の男なんてこんなもんだよ。失望させて申し訳ないがね」
「それは違います!」
 アヤは慌て、声高に否定した。「失望などしておりません。むしろ私、嬉しいのです。最近は皆、生き生きしてるんですもの!」
「……皆?」
「お話の中の殿方ですわ。いいえ、殿方だけじゃありません。他の皆もそれに合わせて、この頃は本当に生き生き動くんですのよ」
 彼女の話す言葉が丁寧なのも同様の理由だそうだが、基本となる読み書きは佐々間の刀自がタヅへ仕込み、それをタヅが牢で伝える形で行われてきたから、アヤは読書に不自由しない。
 現に私が家庭教師を務めるのも英語とドイツ語、基礎的な数学と科学くらいで、国内の古典などについては却って彼女の素養へ舌を巻くことも少なくなかった。私は他人の教養については結構素直に感心し、尊敬の念を顔に出してしまう方だから、そんな時のアヤは得意顔を堪えながらもうきうきと、心底楽し気に色々教えてくれる。
 私はまだ入ったことがないが、奥の洋間には大きな書架が備わり、かなり充実した蔵書なのだという。だが、
「これまでは物語を読みましても、街も人も、なんとなくしか光景が浮かばなかったのです。平安の都も霧の倫敦も、それほど違いがあるように感じられなかったのです」
 アヤは頬を紅潮させ、ゆっくり積み上げるように説明した。
「それは、挿絵の入る本も幾つかございます。違うお話し、ということくらいは分かるのです。けれど、その中の人々の動きが大変、ぎこちなかったと、今となっては感じられるのです。それが先生に御会いしてからは、だいぶ滑らかに動きます。街にも色が見えるのです。京の大路に牛車が動き、倫敦の駅は汽車の乗り降りで大変な人いきれです。どこかに本当にある場所だ、と思わせるのですわ。そうなるともう、これまでに読んだことのある本ですら読みなおすのが楽しくって、楽しくって!」
「……そりゃ、好いことだね」
「ええ、本当に!」
「ウン、非常に、好いことだ」
 瑞々し過ぎる興奮にあてられて、私の舌は巧く回らなかった。私を含めた一般の本好きが幼少期から日常的に、外界と内的世界とのバランスの間で培うはずの想像力を、彼女はこの半月ほどで急速に成長させているのだった。その衝撃は確かに計り知れない。
 私は羨望を感じた。同時に彼女を、とても愛らしいと思った。
「でも、困ることもありますわ」
 少し悪戯っぽくアヤが微笑む。
「――なんだい?」
「どんなお話でも主人公が皆、先生のお姿で浮かんでくるのです」

 瞳を煌かせて話の落ちをつけた彼女に、私はその時落とされたのだ。奇妙な生い立ちを知った今もその気持ちに変わりはなかった。むしろ加速している。そしてそれは、アヤの方でも同様らしい。
 だが私はこの先、どうすれば良いだろう。ただ幽閉されているのでない、彼女は共同体から重要な使命を担わされているのだ。切り開いてみたい道の先に、得体の知れぬ靄がかかっている気がする。
 しかし、それでも、
「誰しも、生まれながらに何かの犠牲であっていいはずはない」
 これだけは確かだ。言い切る私をアヤはぼんやり見つめた。
 私は勢い込み、
「今はまだ、いいアイデアが浮かばない。でも僕が必ず君に自由を見せる。外の、本当の生きた世界を見せてあげる。この御時世だ。邪悪な猿神がいようがいまいが関係ない、君が君として生きる方法は、どこかに必ずあるはずだ」
「……大丈夫ですわ」
 ふいに彼女が言った。
「なにがだい?」
「もし猿の怪物が本当にいるなら、私が先生を守ります。だって、そういうことですもの」
 彼女の顔には自信がある。あの時の瞳の煌きが顔、いや、全身に漲っているように見える。私が何も言わずに見つめ返していると、
「まだ成ってはいませんけれど、やがて成るんだそうです」
「成る?」
「私の、巫女としての力です。さるのばけを封ずる力」
「ああ……」
「私、これまでは自分の身の上が嫌でしょうがありませんでした。虚ろなお飾りの人生がずっと続くもの、と思っていましたの」
「いや、そんなことは……」
 取りなそうとした私を彼女は力強い視線で押しとどめ、
「でも、今は違いますわ。もし、さるのばけが存在するなら、私、先生を……、お慕いする殿方を守る力を持っていることになります。そんな娘、お話の中だってそうはいません。でもやっぱり、そんな怪物はいなくて、やっぱり私は、世間知らずのただの娘でしかないのだとしたら……」
「だとしたら……?」
 いつの間にか二人の顔はひどく近いところにある。自分の鼻先とアヤのちんまりした鼻先の区別がつき辛くなる。彼女が言葉を継ぐのが早いか、それとも……。だが、その時だ。 
「お待ちください!」
 タヅの強い制止が聞こえ、私たちは慌てて離れた。二人同時に襖を見やる。だが開かれてはいない。その外で牢の格子の閂をがちゃつかせる音がし、タヅの声が再び、鋭く響くのへ被せて、
「小説家! 東京の小説家! いるんだろう! でてこい!」
 聞き覚えのある声だった。この家の現当主で永吉君の父親である佐々間永一郎氏だ。居丈高な男で、分家筋だからなのか恭介へ非常に高圧的な態度をとる。その客分である私には今まで声一つかけたことがなかった彼のただならぬ調子に、私は何事かと膝を立てた。
「先生、まだ開けないでッ。まずアヤ様を奥へ!」
 タヅの指示があるより早く、アヤは自分から奥の間へ飛び込んでいる。彼女が襖を閉ざす直前、目が合った。ぴしゃり、と二人の間に襖が入るのと牢格子の閂の外れる音が同時だ。くぐり戸を必死に押さえていたのだろう、弾き飛ばされたらしいタヅの呻きと彼女の転がる音、床板が乱暴に踏み鳴らされ、それでもさらにタヅが、
「旦那様、面をお付けください! 永吉様も!」
「黙れッ! そんなこと言っとる場合かッ」
「父さん、待って!」
 前の間の襖を開け放った永一郎氏は凄まじい形相で私を睨みつけた。禿頭に顎のほとんど無い丸顔、中背だが酒樽めいて肥えた体へ上等の絹物を重ね着しているのでかなり膨れて見える。〝陰険な雪だるま〟といつか恭介が評した男の普段生白い顔は今、赤黒く膨れていた。彼の背後から冷えきった外気が一斉に流れ込んでくる。
 私は身震いしながら立ち上がった。
「どうしたんです? なにかありましたか?」
「なにか、だとッ?」
 荒々しく床を踏み鳴らして闖入した永一郎氏はそのままこちらへ飛びかかる。だが間一髪、追い縋った恭介と永吉君に止められた。
「離せ! この男をぶちのめすんだッ」
 唸る当主、恭介や永吉君はもちろん、タヅにしても弾かれた時に外れたのだろう、全員、この部屋で素顔を晒しているのがこの屋におけるよほどの緊急事態を告げている。
「……一体、何事です?」
 アヤと近づき過ぎたことを咎めているのだろうか、とすればこの部屋はどこかから監視されているのか、などと取り留めもないことを考えながら私は相手の剣幕にただ、たじろぐ。そのくせ、ばれたならこれからどうしようかなどと悠長に思いもしている。なるほど自分はここまで腹が決まっているのか、と感心もする。だが、
「お前が殺したんだろう!」
 永吉君と恭介君を振り払おうともがく永一郎氏の叫びには唖然とするしかない。彼は顔面をなお赤黒く染めて唾を飛ばし、
「分かってるんだ。お前が、殺したんだ!」
「ちょっと待ってください。彦造さんのことですか、それとも満代さんのことですか? どちらにしろ私は……」
「久子だッ!」
 永一郎氏はそう叫ぶと突然、床に崩れ落ちて顔を覆った。
「恭介……どういうことだ?」
「弧川君、佐々間久子さん、つまり……」 
「僕の母が亡くなりました」
 恭介を遮り、永吉君が言う。私は唾を飲み、彼の横に立ったタヅと顔を見合わせた。彼女も目を丸くし、言葉が出ないようだ。
 と、我に返ったらしい恭介が足早に部屋を出る。二つ面を持って帰ってくると一つ永吉君へ差し出し、もう一つを彼自身がつけた。
「先ほど納屋で見つかったんです」
 手早くひょっとこの面を着けながら永吉君が付け加える。
「どうやら満代さんと同じように、毒を飲まされたらしい」
 般若の面の恭介が後を継いだ直後、
「飲まされたんだッ、そいつに!」
 再び顔を上げ、永一郎氏が飛び掛かってきた。今度はタヅも含め三人が彼を押さえる。危うく飛びのいた私だが、さらに後ずさると背が奥の間の襖に当たった。もう逃げられない。
「あいつが飲んだ毒入りの酒瓶は、元々満代がお前にくれてやったものだそうじゃないか!」
「酒瓶? あの洋酒の瓶が、納屋にあったんですか?」
「とぼけるな!」
「待ってください、どうして私が奥様をこ……奥様に危害を加えなければならないんです? 私は奥様とお話したことすら無い」
 こういう場面が苦手な私は声が震えそうになるのをひたすら抑えながら問いかけたが、永一郎氏は猛り狂う猛獣めいて叫ぶ。
「満代の仇を討ったつもりなんだろう! お前が佐竹の後家とできていたことは、ここのもんなら皆知っとるんだッ!」
 タヅがこちらを見た。
 背後の襖越しに、ぎしり、と板の間の鳴る音が聞こえた。
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