姥捨て山に墜ちた星

高木解緒 (たかぎ ときお)

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                               西暦一九二五年

 辺りが急にしんとして、一度止んでいた雪が再び降り始めた。
「引っ越しが終わった後で良かったな」
 土間へ入り、裏のポンプ井戸から運んだ水を甕へ汲み込みながら言ったが、すぐそばで菜漬けを刻むタヅからは返事がない。横顔は白く、凛と冷たい気がして、追加で何か言う気も削がれてしまう。 
 私は框を上がって囲炉裏端へ腰を下ろした。手を炙っているうちに体そのものも温まって余裕が出る。火にかけられた時代物の鉄鍋はふつふつといい音を立てていた。蓋の隙間からうまそうな匂いの湯気が漏れ出ているから、中を見ずに居られない。蓋を取ればもうもうと香りが立つ。具沢山で熱々の味噌汁だった。
「これ、なかみはなんだい?」
 返事を期待するでもなく、自然と口が動いたが、
「大根。あとは、シッタカとか、クロメとか」
 土間から上がってきた彼女は、私の前へ膳を据えながら不愛想に答えた。予想外の返事は嬉しいが何を言われたのか分からない。
「あと、シオッピも二匹入ってる」
「……?」
「貝と蟹。昨日の夜、引き潮の時に拾ってきといたんだ」
「このためにか? 雪降ってたろ?」
「大根だけじゃさみしいでしょ?」
「いや、まあ、そうだが……」
「悪いけど、あたしもここでお昼使わせて。佐々間はこの時間だともう、お昼終わってると思うから」
「そりゃ、もちろん構わんが……おい、何してるッ?」
 私は思わず大声を出した。土間へ降りて自分の飯をよそったタヅが上がり框へ自分の膳を置き、その前に正座して箸を取ったからだ。
 きょとんとこちらを見た彼女は、なぜ私が声を出したのかまるで分からないらしい。私は手招きして、
「そんなところじゃ寒いだろ? こっちに来て、一緒にこの力作を食おう。それに、菜漬けだけで飯を食うつもりか?」
 飯の支度だけでない。事件の捜査でほとんど出ずっぱりの恭介に代わり、荷車の後押しなどの力仕事もやってもらった。
「腹、空いてるだろう? ほら、タヅの分も干物を炙ろう」
「お礼ならいらないよ。ここにいる間の二人のご飯支度はあたしが言いつけられてるんだから」
「お礼じゃない。ただ飯を一緒に食べようってだけだ」
「でも……」
 タヅは居心地悪そうな表情をして、中々腰を上げようとしない。
「おいおい、昨日今日の仲じゃないだろ? そんなに怖がるなよ」
「怖がってなんかない」
 ぶっきらぼうに言うと、膳を持ってすっくと立ち、彼女は大股に歩いてきた。囲炉裏を挟んで向かいに座る。キッとこちらを見据え、
「――これでいい?」
「ああ、充分だな」
 それで私たちは食べ始めた。味噌汁はこれまで食べたものの中で一番と言えるほど美味かった。料理の腕を褒めたが、タヅがそれをどう受け取ったのかは分からない。むっつり咀嚼している。
 そのうち、
「怖がってるんじゃないから」
 唐突に彼女が言った。
「なんだって?」
 顔を上げると薄煙の向こうで輝く両目が澄んでおり、
「私はいつも独りで、台所で食べてるから、誰かと御飯を食べるのに慣れてないんだ。だから戸惑った。それだけ」
 先生を怖がってるんじゃないよ、と彼女はもう一度素早く言って顔を伏せ、不機嫌そうに箸で干物を毟り出した。
 やがて視線を落したまま、「……なんで、笑ってるの?」
「見てないのによく分かるな」
「……」
 無言で、しかし今度は威勢良くぱくつき始めた彼女だ。だがその様子を見ていると、段々に胸のつかえが取れ出した気がする。
「ありがとう」
 私は言って、自分の食事を再開した。なるほど、こういう時には相手の視線がよく分かる。しばらくは二人で黙々と食べ続けた。

 現佐々間家当主、佐々間永一郎の妻、久子の死因は、やはり中毒であるとのことだった。満代の殺害に使われたものとおそらく同じ毒が使用されたらしい。しかし、殺人なのか事故なのかはまだ警察でも判断しかねているそうだ。
「つまり、久子さんが納屋に隠されていた洋酒の壜を偶然見つけて凶器と気づかず試してみた結果、亡くなってしまったのだと?」
「可能性の問題だよ」
 夫人死亡の翌々朝、佐々間家の裏口から夜逃げのようにこそこそ始まった引っ越しの場にやってきた恭介は、一日手伝いが出来ないことの詫びがてら、捜査の進展状況を話してくれた。荷台の後ろに腰を掛け、足をぶらつかせているタヅへ気を使いながら、
「しかしその方が君にとって都合がいいじゃないか。偶然の事故であれば、何もあんなあばら家へ追い出される必要は無い」
「それはどうだろうな」
 私は腕組みをして頭を振った。
「筋が通ろうが通るまいが、当主に疎まれて食客を続けるわけにもいくまい。永一郎さんは僕が満代さん殺害の報復で久子さんに毒を盛ったのだと信じ切っているようだからね」
 それもおかしな話だった。つまり永一郎は自分の家の誰かが満代殺しに関わったのだと考えていることになる。もっとも警察到着後に設けられた全員への聞き取りの場で、あまり決めつけた言い方をする永一郎へ恭介がその理屈を開陳したことが、当主の激高へ油を注いだのだったのだが。もちろん永一郎は満代殺害への佐々間家の関与を頑なに否定した。それから再び、私の久子夫人殺害を声高に主張し始めたのだった。
「村から生きて出られると思うな!」
 家の息がかかっているとは言え、官憲の同席を憚ることなく私へそう決めつける彼の目は、正気とは思われないほど血走っていた。
「時が来たら、きっと貴様を嬲り殺しにしてやる!」
「父さん!」
 窘める永吉君を足蹴にして脅しをかけてくる彼に、なぜそこまで言われなければならないのかと、つい、私も腹が立って、
「だから、私は何も関わっていないと言っているでしょう。奥様が亡くなった頃合いをさっき刑事さんが仰いましたが、その時間、私はアヤ様の勉強を見ていたんですから」
「口ごたえするな! 貴様以外の誰が久子を殺すというんだ!」
 赤黒く顔を染めた〝陰険な雪だるま〟は唾を飛ばして喚いた。
「話にならない。ではあなたの思い込みの他に僕が、やったという証拠でもあるんですか?」
「そんなものがあるか!」
 その後、集落そのものからも追い出されるのではないかと心配なほど罵倒を受けたが、そこは鶴の一声、佐々間の刀自の冷静な判断により屋敷から持ち家の一つへ移されることで片が付いた。アヤの家庭教師がいなくなると困る、というようなことを刀自は言ったが、捜査中に関係者が抜けることを嫌う警察への配慮もあったかもしれない。だが、とにかく私はアヤと妙な形のまま別れることにならずホッとした。
「まあ、永一郎さんは単純に、自分に馴染みのない存在には素直に敵意を抱く人間なんだな。あまり頭がよろしくないのは確かだ」
 恭介が言う。
「田舎者の悪い部分を煮詰めて権力を与えたらああなる典型さ。君のような生まれも育ちも東京山の手、インテリの物書きなんざ彼にとっては潜在敵でございと看板背負って歩いているようなもんだ。その上美少女にも年増にもモテる色男とあっては、醜い中年の田舎大尽から見ればもう、全ての恨み辛みを向けて惜しくない相手だ。人間は自分へ劣等感をもたらす相手を攻撃するのに都合のいい理由を、熱心に奉りやすいものだよ」
「殺人者として嘘の告発をしたくなるほど、彼が僕に嫉妬していると言うのか? 一宿一飯どころでない日数を泊めてもらっておいてなんだが、ろくに面識もないんだぞ?」
「面識があれば欠点も見えるじゃないか。君の場合は、特にね」
 カラカラ笑った恭介に、そうかよ、と私は肩を竦める。
「しかし、僕は久子さんもほとんど知らないんだが、小汚い納屋で見つけた出所不明で開封済みの酒瓶へ口をつける人なのかい?」
「それは確かにそうなんだ」
 恭介は頷いた。
「そもそも納屋へ独りで行くような人じゃないんだ。誰かに会いに行って、酒を飲まされた方がしっくりくる。毒殺事件のあった直後でも油断させられてしまうような誰かにね」
「密会、ということか? 相手は誰だ?」
「あれ、君じゃないのか?」
「やめてくれッ」
 からかう目つきの彼へ私は心底の抗議をした。タヅを顎で示し、
「それでなくてもこの屋の人たちや近隣の住民からの目が明らかに変わったんだ。使用人には明らかに僕を怖がっている者もある。僕が個人的に警察から聴取されたことを広めた奴がいるんだな。もしこれ以上話が変に捻じ曲がって……」
「アヤに伝わると困る?」
「そういうことだ。ただでさえ、あの後から部屋へ招かれてないんだから。これ以上、不必要に彼女を傷つけたくない」
「色男らしい、驕った表現だね」
「恭介!」
「冗談だよ。こっちは今、君以外にも可能性がありそうな奴を探してる最中だ。それを警察へ伝えるだけで捜査の幅も広がるだろう」
「そんなのがいるのか?」
「誰もが疑惑の対象さ。僕や永吉君も含めて」
「――永吉君だって? しかし彼は……」
「久子さんは永吉君の継母なんだ。それもごく新しい。元々は峠の二つ向こうの長者の娘なんだがね、役者狂いが高じて行かず後家の扱いだったところを、縁者が内緒で佐々間の後妻にぶち込んだ過去があるんだ。年下の美男子に目がないんだね。縁づいた後でそれが明らかになった時、刀自は激怒したらしい。もっとも永一郎さんが久子さんを可愛がったので離縁にもならなかったそうだがね。ただ久子さん本人としては片付き先の旦那より、その息子で、この辺境には珍しい好青年とどうにかなろうとしても不思議はない」
「だが、永吉君の方に継母へ毒を飲ませる動機がないだろう?」
「だから、すべてはまだ可能性の段階なんだ。集落内へ目を向ければ男はもっといる。あるいは不貞が明らかとなり、可愛さあまって憎さ百倍で永一郎さんが久子さんを殺し、その罪を君になすり付けようとしている可能性だって充分にある」
「あれがお芝居だと?」
「必死な人間は芝居もうまいさ。いずれにせよこの事件はまだまだ続くだろうから君は少し離れていた方がいい。追い出される形ではあるけれど、僕は却って、この引っ越しは幸運だったと思うよ」 

「作家の弧川先生はこちらですか?」
 回想が破られる。寒風が吹きこむので閉めてあったが、しんばり棒はかけていないと言うと、引き戸が開いて男が一人入ってきた。
「お初にお目にかかります、佐竹幸次と申します。先生と親しくさせていただいていた佐竹満代の、義理の弟にあたります」
 タヅが私へ目配せをした。


     ※


「義姉の通夜や葬式では、ろくに御挨拶もできませんで。義姉から楽し気な話はたくさん聞いていましてね、もっと早くにお伺いしたかったのですが、私は佐々間がどうにも苦手でして」
 丸刈り頭に丸縁眼鏡、ちょび髭を生やし、質朴だが上品な木綿の合わせを着た佐竹幸次は、人の好い田舎教師然とした紳士だった。
 これが、処女信仰を持つこの辺りの山人の娘を見境なく手籠めにして絶望と忌避の身分へ落とし、集落と山人たちの間にあわや宗教紛争を勃発させようとした危険人物とは到底思われない。嘘つきでぐうたらの不信心者だと、佐々間の者の口に上るのを聞いた時にもいかにも分限者の放蕩次男らしい人物像が浮かび、〝佐竹のオジ〟と言えばこの集落で低能の代表のごとき言われ方をされているのをよく聞くが、少し話をしただけでも、どうしてどうして、都会にも中々いないような教養の持ち主であるらしい。
 もちろん、山人の娘に関する話が本当ならばさもありなんだが、もしそれが悪意ある噂に過ぎないのであるならば、これでなぜ彼が満代と相いれなかったのだろうと思わせる。佐竹の長男、正太郎氏が亡くなった時、いわゆる「おじもん」の扱いだった幸次が佐竹を継ぎ、満代をどうにかする、つまり娶るか追い出すかする話は当然あったのだと恭介から聞いている。だが幸次は、満代を追い出しはしなかったが、嫁とすることも頑なに拒んだのだ。彼は義姉に家を任せ、自分は今まで通りの厄介叔父でいることを選んだ。
「先生のお作ですと、私は以前の方が好みですな」
 昼飯はまだだと言うから、タヅに急いでもう一人分用意してもらい、三人で囲炉裏を囲むことになった。
「最近のはダメですか?」
「いや、ダメと言うことはないですが……、私にはどうも派手派手しいようです」
 なるほど、同じ進歩派でも派手好みの満代とは馬が合わなかったのかもしれない。幸次は髭についた汁を拭いながら、
「まあ、最近はなんでもかんでも派手ですからね。しかし美少女を塩漬けにするとか、ミンチにしてソーセージを作るなんて話は、私などには、どうも、探偵趣味と言えんような気がするのですよ」
「いや、あれは仕事として頼まれて書いただけですよ。猟奇流行りですからね、版元が書け書けと煩かったんです」
 タヅがぎょっとした目でこちらを見たので、私は慌てて弁解した。
「女の子でソーセージを作るの?」
「仕事で嫌々書いただけさ。君が肥え桶を洗うようなもんだ……、いや、失礼。僕の以前のと仰ると、どういうのがお好みです?」
 これ以上評判が悪くなっては困る。私は他人の口から、かつての栄光を引き出そうと努めた。果たして本当にそんなものが存在していたのかは知れないが。
「ヨクメエグリ、というのがあったでしょう。あれを初めて読んだ時、私は探偵小説の新しい可能性を見た気がしましたよ」
「いや、それは褒めすぎでしょう」
 私は素直に照れた。自分の気に入っている作品を褒められて悪い気はしない。タヅが「どんな話?」と訊くから胸を張って解説する。 
「東京と山梨の県境にある架空の村の祭事が舞台なんだ。大晦日の晩にヨクメエグリという鬼の仮面をつけた男衆が、村の小さな子供の居る家を回って、子供たちを思いっきり脅かすんだな。作り物の大きなノミを左手にギラギラ光らせて、右手には木槌だ。お面には本物みたいな目玉が幾つもついていてね。これは過去に欲深者たちから引っこ抜いた目玉を植え付けてあるっていう設定があるのさ。それで、小槌でのみの尻をコツコツ叩きながら歌うんだよ」

 欲深居れば 目を抜いて 豆と煮て喰や うまかろう
 欲深居れば 目を抜いて 何も見せなば 落ち着こう

「ってね。身体は前後から一枚ずつ蓑で覆って、足にはがちゃ下駄っていう足音が乱暴になるように工夫された下駄を履くんだ。これで今の歌を面にこもる感じで不気味に歌いながら大晦日の日暮れにやってくる。その晩の村では、目ン玉カキエグルゾォッ、て迫真の演技と子供たちの怒号みたいな悲鳴や謝罪が飛び交う、阿鼻叫喚の惨状が繰り広げられる」
「……それのどこが面白いの?」
「祭りそのものはあくまで道具なんですな、舞台設定のための」
 黙ってしまった私に代わり、幸次がタヅへ言った。
「東北のナマハゲやナモミハギ、能登のアマメハギ、鹿児島は甑島のトシドンみたいに、やってきた異形の神様が子供や新嫁を散々に驚かす風習そのものは珍しくありません。ナマやナモミ、アマメというのは囲炉裏に長いこと当たってできる火傷みたいなものです。つまり怠けの象徴なんですな。それを剥ぐぞと脅かすことで怠惰を戒めるのがこうした風習の目的です。トシドンは子供たちのその年の悪事を暴いて、来年への反省を強制しつつ新しい年をくれるから〝トシ〟ドン。いささか脅迫的な教育効果を目的とする風習は実際、日本中にあるそうですよ」
「先生が本当にあるお祭りを真似してお話を書いたということ?」
「モデルにした、と言ってほしい」
「そうですね。あの架空の風習には中々リアリティがありました。ですが、私が感心したのは、ああいった風習の登場が犯行の動機を丁寧に描くことへ直結していた点です」
「と仰いますと?」
「独特な風習のある村で、ただ殺人事件が起こる、というだけではサスペンスの演出として安易に過ぎます。実世界では完遂の難しい非現実的なトリックへ存在意義を与えるために、それらしい風習をでっちあげるなら分かる。むしろパズルが目当ての探偵小説では、そちらが正しい在り方でしょうな。そう、先生のあの御作では殺人方法の解明は二の次ですから、探偵小説としてはやはり少々不完全かもしれません」
「はあ……、そうかもしれないですね」
「いやいや、これは非難ではないのです。むしろ先生のあの御作は昨今流行るトリック重視、動機軽視の探偵小説へ一石を投じるものだったと思うのです。小説は結局人の心を描くための作為なのですから、その点を軽んじる限り探偵小説は小説遊戯に留まるしかない。一般文学作品から弾かれても自業自得のところがあるわけです」
「しかし探偵小説にも心の描かれた作品は幾つかあると思いますが。例えば、お嫌いな猟奇趣味も心の描写には違いないのでは?」
「猟奇は性癖であり、目的です。実際のところパズルもそうです。ですが心の描写とは、過程の描写なのですね」
「私のあの作品がそれを描いていたと?」
 頷く幸次。
「正確には描かれるべき動機を描いておられ、結果、心を描くことに成功された、ということですか。後付けとしての痴情のもつれや目的としての変態嗜好でなしに、あの動機自体が御作に必要不可欠でしたでしょう」
「……描かれるべき動機、ですか?」
「省略しても物語が続けられる、事件発端の言い訳としての動機でなく、物語の血脈として働く動機、ということです」
「なるほど」
「注目すべきは、ヨクメエグリの風習が子供たちの記憶に一種の傷として刷り込まれ、人生を通して清貧を強制するという犯人の理論です。この理論をもとにして御作の犯人は連続殺人を犯しますね。無意識下に植え付けられた恐怖において村出身の子供は幼少期から良心の発動を回路として強制されており、大人になってからも巧い立ち回りが必要とされる人生の様々な分岐において欲をかくことを遠慮し、その結果清貧の道を歩まざるを得ない。都会に出て行った出身者にしても村に残った者にしても、常にどこかで敗北を味わい続けなければならない。それが自己否定へつながり、さらなる遠慮を生む悪循環が完成する。だから、村の将来を案じるなら、却って、村の伝統を破壊しなければならない。そうでしたね?」
「ええ……よく覚えておいでですね」
「私のお気に入りですから。御作では実はその風習は隣藩が過去にでっち上げさせたもので、村は実験対象だったという解説がついていましたが、昨今の世界情勢を見ているとなるほど、そういうやり口も有効かもしれないと思いますよ。戦う前に相手の戦意の根源を挫いておくわけです」
「まあ、私も昨今の情勢に縛られているくちですから、その考え方は出ているでしょうね」
「事件の発端、動機を社会に根差した探偵小説としては本邦初ではないでしょうか。社会派探偵小説、とでも分類できますかな」
「それは少し大仰ですよ」
 私は笑いながら相槌をうった。だが少し、気おくれがしていた。彼はいかにもひとかどの理論めいて熱弁を振るうが、結局のところはただ、彼の好みに過ぎないではないか。つまりは私のその作品に一種の説得力があったというようなことなのだろう。
 それはもちろん作家冥利に尽きるありがたい感想だ。だが感想を理論化することに意味はあるのだろうか。そもそも恭介との会話の中で日本各地に似たような風習があることを知り、そうした風習を持つ地域の子供は人間心理から見てどういう成長を遂げるのだろう、という彼の台詞をヒントとして粗筋を思いついた作品だった。私はむしろ架空の祭りをでっち上げることそのものが楽しくてならず、動機はアドバイスを参考に後付けしたようなもので、その点で既に幸次の弁舌は的を外している。
 単なる自分の好みをもっともらしく武装し、好まざるものを攻撃するやり方は苦手だ。この教養深そうな紳士ですら、結局は知力の自己欺瞞に自縛されてしまうのだろうか、と私は飽いた気にもなり、また、読者はひどく深読みをするものだ、と感心しもした。
 ぷぁん、とタヅがあくびを噛み殺すのが横目に見えたが、幸次は気付いてすらいない。
「だからあの御作では――」
 生き生きと、目を輝かせて続ける。
「動機を解き明かすことが犯人当ての鍵でしたね。子供たちの将来を案ずる村長が、新時代になってもまだ負の伝統を続けようとする村の老人たちを殺害していたわけですが、論理や科学的な推理だけでは、村長を犯人として特定することはできない。でも読者が作中の子供たちの将来を心配するまでに入り込むことができれば自然と動機が見え、犯人が見えてくるわけです。あの構造には鳥肌が立ちましたよ。あれは既に、一般小説として素晴らしい」
「恐縮です」
「いや実際、最近の猟奇趣味の流行には辟易しとるのですよ。精神異常には動機がありませんから。動機が無ければ話の構造など無いに等しい。どうとでも思いつくまま進められるのですから。そんな小説は過激な表現で背徳感をもぞつかせることはあっても、理性を興奮させることはできません。それを探偵小説とは呼べない」
「動機こそが探偵小説の、説得力の要、ということですか?」
「ええ。確かに現実には無考えな乱暴がまかり通っていますがね、理想としては、人の行動は全て動機に基づいていなければならないでしょう。それが理性の証明、人の、人たる所以でしょう」 
「その理想を見せるのが、探偵小説の役割であると?」
「そうです」
 幸次は深く頷いた。
「探偵小説の存在理由にしても、犯罪を見せるのが執筆の動機ではないと思うのです。それならば解決はいりませんからね。解決までのプロセスが重要であることは、探偵小説愛好家なら誰でも認めるところでしょう。ですが、事件発生は既に通過点に過ぎんのです。大本がもっともっと重視されてしかるべきだ」
「動機、ですね」
「そうです。過程の根源です。これは現実でもそうですが、本当に説くべき謎というものがありますね。人生で言えば生き残るためにその人が解くべき謎です。それらはやはり、動機を注視して初めて現れてくると思うのです。人生でも、動機こそが肝心です」
「なるほど……」
 私は辟易していた。東京ではこんな与太話を飲み屋の二階で延々語り合うことも平気だった。しかし、もしかすると私はこれまでの生業から離れ出しているのかもしれなかった。
 アヤを連れて家に帰ればこれまでの〝不孝〟を許してもらえるのだろうか、などと幾分不快な発想がふと頭をよぎり、慌てる。
 そもそも、作家として私が幸次の話を拝聴する必然性はどこにもないのだ。恭介の代役は難しかろうが、話すべきことは他にある。
「満代さんが亡くなったことについてはどうです? 探偵小説論を現実の事件に当てはめるのは不謹慎ですが、動機が分かれば犯人も分かる、という考えは応用できますよね?」
「応用はできるでしょうが、中々難しいでしょうね。何と言っても実際の犯罪です。無考えな乱暴の結果ということも充分ありうる」
 そしてすぐ、少し頓狂な響きを露わにタヅへ菜漬けのおかわりを求める様子がわざとらしかった。タヅはタヅで、やっと解放されたとでも言いたげに、弾むように立ち上がって土間へ降りる。
 私はその後姿を眺めてから再び幸次を見た。彼は一体、何をしに来たのだろう。文学的な鬱憤を晴らすため、話のできそうな人間に自己流探偵小説論を聞かせたかったからだろうか。
 彼の〝動機〟は何か。
 ふと私は、この男は本当は満代と関係があったのではないだろうか、と考えた。それならば彼にも復讐という久子殺しの動機がある。そして自身の犯行が濡れ衣として私に着せられていることを知り、偵察に来たのではあるまいか。
 私は少し挑発してみたい気になって、
「永一郎さんは私が久子さんを殺したと仰るんです。私が満代さんと関係を持っていて、満代さんが佐々間家に殺されたと思って復讐したのだと。なるほどこれは〝動機〟に成り得る」
 だが挑発は不発だった。幸次は何も感じない様子で、
「義姉と寝ていたのですか?」
「……いえ、本当に、ただの友達でした」
「残念です。義姉は先生が好きでしょうがなかったようですから。先生がいらしてからは、いつもお噂を聞かされていました」 
「……ですが、本当にただの気の合う友人だったのです。それに、仮に私が満代さんとなんらかの関係を持っていたとしてもですよ、なぜ永一郎さんは復讐を前提に話をなさるんでしょう?」
「つまり、彼か、あるいは佐々間の誰かが本当に義姉を殺したので、久代さんが復讐で殺されたのだと永一郎さんが考えてしまうのではないか、ということですね?」
 この滑らかな頭の回転と独断的文芸論を振りかざす先ほどまでの様子が、ひどくアンバランスに感じられて私は当惑する。 
「ええ……。そもそも満代さんを殺したがるような佐々間の誰かに心当たりがおありですか? いや、佐々間家に限らずですが」
 私は恭介の推理を思い出しながら訊ねた。恭介の推理によれば、満代殺しの犯人は態々、彦造殺害という寄せ餌を撒いてまで彼女を誘い出し、殺さなければならなかったのだ。
 だが、この問いにも幸次は気のない様子で首を捻った。
「さあて。でも、佐々間、佐竹、佐原の三家は昔からいがみ合っていたそうですからね。さるのばけについてはお聞きですか?」
「ええ。三家の中から巫女を立てるという話も」
「そうでしょうね。アヤ様と御昵懇というお噂ですからな。では歌もお聞きになったことがおありですか? 手鞠歌ですが」
「ああ、さのつくさんけのさるだのみ、って歌ですね?」
 幸次は頷き、あの独特の節回しで歌いはじめた。

 ♪ さのつく さんけの さるだのみ
   ささまのいえは おんないえ
   さたけのいえは おとこいえ
   さはらのいえは うんだのみ

   さのつく さんけの さるだのみ
   さはらのいえは おっちんで
   さたけのいえは きぐるいで
   ささまのいえは ちょうじゃさまに ならしゃった

「ですが、これは最近できた新しい歌い方らしいのです。元々は」

 ♪ さのつく さんけの さるだのみ
   さはらのいえは おんないえ
   さたけのいえは おとこいえ
   ささまのいえは うんだのみ
 
   さのつく さんけの さるだのみ
   ささまのいえは おっちんで
   さたけのいえは きぐるいで
   さはらのいえは ちょうじゃにならしゃった

「私は暇人ですからね。幾人か古老に話を聞いてまとめてみると、この歌の変遷は実に興味深いのです」
 幸次は嬉しそうに説明した。
「何通りか、パターンがあるようでしてね。佐竹と佐原のどちらが長者になるのかは時代によってあやふやなのですが、最近のものを除けばどの歌でも、佐々間の家の衰退だけは固定なのです」
「現状と全く違いますね」
「ええ。実際には、佐原の家がおっちに、佐竹の家、つまり私、がきぐるいというわけです。もっともアヤとタヅが生き残っていますから、佐原の家が完全におっちんだというわけでもないのですが」
「歌われる時代での三家の勢力関係を表しているのですか?」
「そうでしょうね。おそらく、子供たちの遊び歌にすら、その時代の頭目筋からの指導が入るのでしょう。あるいは周囲の大人が気を使って変えて歌うよう指導するのでしょう。いずれにせよこの歌の存在そのものが三家の在り方を示していると思うのです。家の名の部分だけ入れ替えの利く競い合いの歴史ですね。百年の節目節目に合わせて巫女を立て、その時代の頭目になることだけを目的として永らえてきた家々です」
「だからって、ライバルの家の人間を殺したりしますか? いや、もし三家の争いが事件の発端だったとしても、今、力を持っているのは佐々間家ですよね。他の家に大胆な工作を仕掛ける必要がありますか? 満代さんを殺す必要が佐々間に無いとすれば、佐々間の久子さんが報復として殺される必要もない」
「……弧川先生、だから動機が大切だと思うのですよ」
「どういうことですか?」
「世界には謎があふれていますからね。混乱を混乱のままに見ればこの世の全てが謎の寄せ集めですよ。しかしそれは謎の氾濫であり、本当に考えるべき謎、生きていくために人が解かねばならない謎、というのはそれほど多くは無い。しかしそれらは往々にして見つけ出すことが難しいものです。ですが一度それを見出せば、正対し、取り組むことができれば、人は大往生を遂げられます。そしてそれを探し出す発端が動機なのです。ある意味、動機とは謎そのものであるわけです。だからこそ動機を軽視している探偵小説には意味が無い。探偵小説の要そのものである謎を軽視していることになるのですから。そこでですよ、さて今、先生がご覧になっている動機は果たして、解くべき謎の現れなのでしょうか」
「三家の争いという動機が実際にあるとしても、それが仰るところの〝解くべき謎〟を見出す鍵となるかは分からない、と?」
「そうです」
「つまり満代さん殺しの犯人が誰か、という謎は今、私が向き合うべき謎ではない、と仰りたいのですか?」
「さすがです、先生」
 深々と頷いた幸次はこちらへにっこり微笑みかけたが、実際には私はちんぷんかんぷんだった。動機動機と力説するこの男の動機がやはりよく分からない。薄気味悪くすら思われる。確かに動機は、謎そのものかもしれない。
「では一体、私が向き合わなければならない謎、動機というのは、どんなものなのでしょうかね」
「決まってます」幸次は断言し、「とりあえずは、先生が大往生するために今解かなければならない謎は何か、という謎でしょう」
「……?」
 からかわれているような気分であまりいい心持ちはしなかった。
 だが幸次はこちらに一向頓着せず、
「そしてその謎は、やはり動機を探すことで解かれるのですよ」
「なんの動機です。誰の、動機です?」
「それは先生が考えるしかないのではないですか? 先生の周りは考えるべき動機で溢れているように思われますが」
「どういう意味です?」
 私は苛ついた。
「まるで、私自身が事件へ深く関わっているような仰りですね」
「謎が氾濫するのですから、動機も氾濫します。いえ、本当は動機こそ氾濫しているのです。しかし考えるべきはいつも、今描かれるべき動機、今あなたの居られる世界の構造に直結する動機は何かということですよ。一つとは限りませんが目の眩むほど多くもない。全く、それだけです」
「……どういう意味です?」
 その時だ。刻んだ菜漬けで山盛りのどんぶりがどかり、と幸次の脇へ置かれた。タヅは前掛けで手を拭いつつ、自分の禅の前へ腰を下ろして、
「佐竹のオジ、好きなだけ食べていいよ」
「こりゃずいぶんあるなぁ。ありがたい。先生もどうです?」
「もちろん」
 実際、この大根葉の塩漬けは非常に美味いのだ。
「じゃあ、よそったげる」
 お茶碗こっちに頂戴、とタヅが手を差し出す。急に視界が明るくなったように感じられる。飯時に探偵小説論やら殺人譚は不要だ。
 私は幸次が再び話し出す前に、急ぎ会話の転換を図った。
「しかし、こんなに色々おかずを持ち出してきて、タヅが佐々間で怒られたりしないか?」
「ああ、それは大丈夫」
 幸次が加わった時にお櫃へ移し替えてきていたので、私の茶碗へ新しい飯まで盛りながらタヅは言った。
「ご飯と味噌は佐々間からの持ち出しだけど、干物や味噌汁の実はあたしが取ってきたのだし、菜漬けも台所の余りをあたしが漬けたんだ。だから先生が欲しけりゃ、もっと持ってこられるよ」 
「へぇ、菜漬けもタヅのお手製か。うまいもんだ。片付けも掃除も早くて上手だし、飯もうまい。いい嫁さんになれるぞ、きっと」
 笑いかけて言ったが、タヅの手が止まったので、私はしまったと思った。こちらが本心から出した賞賛でも、どう受け止められるかは相手次第だ。彼女が自分の顔に残る火傷痕について、大いに気にしているであろうことくらい配慮できて当たり前だ。
「すまん」
 私は軽口を呪った。だが、返ってきたのは意外な言葉だった。
「いいよ。先生は本当に気にしてないんだもの」
「……そうか?」
「そう」
 茶碗をこちらへ戻すタヅは珍しく、にやりと微笑み、
「目を見りゃ分かる。口ではどんなに優しい言葉かけてくれても、目が、お前にろくな貰い手なんぞありゃしない、て言ってる奴らがほとんどだから。だからせめて、首から下だけでも使ってやるぞ、みたいな。でも先生は違う。本当にこの顔を気にしてない。あたしそのもの気にしてないのか、火傷を気にしてないのかまでは分かんないけど、この痕が在っても無くても、先生は多分同じなんだ」
「ううむ」
 これまで二人きりになることはあっても、それは佐々間家の邸内、人目がある場所でのことだった。それが今日は朝からずっと二人で働き回り、今は一人増えたとはいえ、集落から外れた静かな古屋で温かいものを一緒に食べているこの状況は、普段閉じがちな彼女の口も軽くするらしい。いつのまにかタヅの瞳はくるくると動き、表情は豊かだ。
「例えば、さっきオジが火傷痕の話をしたでしょ。ナモミやアマメが低温火傷のことだって。その時オジは少しあたしを見て、あたしが気にしないか気にしてた。その気遣いはありがたいけど、正直、ちょっと嫌。でも先生は全然気にしないんだ。こっちをちらりとも見ないで干物食べてた」
「それはしかし……悪い特性じゃないか? 干物に夢中だっただけかもしれんぞ?」
 自分で言うのもなんだが、と私。
「心から他人を気にかけないのなら悪いのかもしれない。でも先生は、そういうんでもないでしょ?」
「……まあ、そうかもしれん」
「ほんと、先生は変な人だよ」
「変? どこが変だ?」
「変だよ。この痕を気にしてないのも変だし、あの時だってそう」
「あの時?」
「あの、ほら、……あたしを見た時。峠の温泉で」
 頬の紅潮は囲炉裏で体温を上げたためか羞恥のためか、おそらくその両方だろう。ややためらいがちに、しかし真剣な口ぶりで、
「あの後、先生は私に二回も謝ったでしょう」
「そうだったかな?」
「そう。温泉での出合頭に一回、私が佐々間の下働きだって知ってから、明るいうちに、わざわざ女中部屋に顔を出してもう一回」
「しかしそりゃ、年頃の娘さんにそれだけのことをしたからさ」
「そこも変。この辺りの男連中とは違う。そもそもこの辺りの男にあそこで出くわしてたら、体見られるだけじゃ済まないもの」
「そんなことはないさ」
「あるから言ってる」
 タヅは言った。強引に話の舵を切り、
「とにかく先生は変だってこと。変、って言うのが変なら東京の人。ここには合わないの。分かったでしょう、あたしが最初に帰れって言った時に帰ってれば、こんな面倒に巻き込まれることも無かったんだよ?」
「そりゃまあ、そうだが……」
「タヅも連れて行ってもらえばいいんだ」
 唐突に幸次が言った。
「アヤ様はともかく、お前には何のしがらみもない。だから先生が東京へお帰りになるとき、一緒に連れて行ってもらえばいい。先生も向こうで腕のいい飯炊きが居れば執筆も進むだろうし、いっそ、先生に丸ごともらってもらえれば、嫁入り先の心配もなくなる」
 そのあとに訪れたのは完全な沈黙だった。静か過ぎて、外で雪の降り積もる音まで聞こえるようだった。
「ごちそうさま」
 タヅが立ち上がって洗い場に行った。私は再び、この男は何をしに来たのだろう、と考えた。客はうまそうに菜漬け飯をかき込んでいた。目が合う。何か念を押された気がした。
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