姥捨て山に墜ちた星

高木解緒 (たかぎ ときお)

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                               西暦一九二五年

 峠を越えても油断はできなかった。さるのばけ信仰に基づく影響がどの程度まで広がっているのか分からなかったからだ。
 あの集落は未だ混乱の渦中にあり、大部分の人々はアヤの犠牲によってさるのばけが倒されたことも気づかぬまま、明るくなるまで、あるいは数日を土蔵に閉じこもって暮らすのだろう。その間真相を知る者はタヅと私だけだ。だから刀自亡き今可能性は低いが、集落から直接追手がかかるとしても少しは我々に時の利がある。
 だが、第二第三の恭介を佐々間家が世間へ放っていないとも限らない。手の者はタヅを見知っているはずだ。見慣れぬ男を同道した彼女が集落の外を歩いていれば異常事態に気付き、とりあえず連れ戻そうと強引な策を仕掛けてくるかもしれない。
 タヅと相談の結果、近隣で車を拾ったり馬を借りたりすることは目立つので諦め、かなり無理して小田原まで歩いた、脚を引きずり、人目を避けながらの行程はタヅの気づかいと支えをもってしても、それなりの時間がかかった。
 そして小田原で私たちは捕まった。と言っても、集落の追っ手にではない。私の父の追っ手だ。知人の家で金を借り、鉄道で東京へこっそり帰るつもりだったのだが、その知人が我々をもてなす隙に通報したのだった。すぐさま車が飛んできた。
「しょうがないな」
 護衛付きで東京へ戻る汽車の中、私は言った。
「他のことは諦める。でも、彼女のことは認めさせないと」
「その価値は充分にあるでしょうな」
 父の部下はにんまり笑って頷いた。
「御父上も御子息がああした小説で世間に遍く顔を知られるより、愛らしい奥様を連れてお戻りになられる方を喜ばれましょう」
「いや……、タヅはそういう娘ではありませんよ」
 私は慌てて否定する。
「ただ、外に置いておいては彼女の身が危ういかもしれんのです」
「そうでしょうとも」
 相手が含み笑いを浮かべながらカイゼル髭を撫でた時、そのタヅが戻ってきた。私の隣に座り、興奮した目でこちらを見上げる。
「汽車ってすごいだろ」
「ウン! こんなに大きいものがゾロゾロ動くんだもんね」
「東京へ行けばまだまだ沢山、びっくりするものを見せてやるさ。ひょっとすると飛行機にだって乗せてやれるかもしれん」
「楽しみ!」
 そこでふと、彼女の表情は曇った。アヤにも見せたかったな、とその目が言っていた。私は彼女を引き寄せ、頭を抱いた。
「アヤにとって自分の解放は二の次だったんだ。君を解き放つことこそ、彼女の動機、真の目的だった」
「……」
「君がアヤの分まで、人生を楽しむんだ。いいね」
「……はい」
 顔を上げた彼女は弱々しく微笑んでいる。だが、その弱々しさを自ら克服していこうとする力の萌芽が目の奥に認められた。その色はあの時のアヤに少し、似ていた。未来を見据える、あの眼差し。
 私は見惚れた。
 この力、強い気持ちを継ぐことができれば、きっと呪いは解いていける。過去からの呪いを打ち消すことができる。前世代が次世代にとって闇を掃う灯火となり、次世代が前世代にとって希望の導となる。そんな世界がきっとくる。本当の世界、あるべき世界を作ることができる。一〇〇年後には、きっと――。
 私の脳裏に一瞬、広大な緑の草原を走り回ってじゃれる、美しい姉妹が見えた。二人は心底幸せそうに、声上げて笑いあっていた。

「そうだ、先生」
 さっと身を起こし、タヅが呼んだ。
「あたし、先生に訊こうと思ってたことがあるんだ」
「なんだい?」
「先生の本当の名前はなんて言うの? 弧川茂っていうのは小説を書く時の嘘の名前なんだ、ってアヤが言ってた」
「ああ、そのことか」
「アヤは知ってたんでしょ?」
「ああ。前に話に出たことがあったからな」
「ずるい。あたしにも教えて」
 ぷっとむくれ顔をして見せるタヅ。
 私はなんだか愛おしくなって、彼女の頭へそっと手を置いた。
「じゃあ、なぞなぞだ。いいかい?」
「いいよ!」
「茂というのは本名なんだ。そして弧川というのはまあ、言い換えみたいなものかな。僕の姓の」
「言い換え?」
「孤独の人に無いものと、地面の川ではないところ」
 さて何でしょう、と問いかける。
 眉を寄せて難しい顔をするタヅに、私は笑いを堪えきれない。
「あいはら、というんだ」



                                     了
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