わだつみの宮にさよなら 小説版

高木解緒 (たかぎ ときお)

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 爆発音には振り向きもせず、彼はとおりを突っ切って走った。腰をかがめ、できるだけ頭を下げた姿勢で走るのは流れだまに用心することが習慣化しているからだが、今起こった爆発が人為的なものかどうかは分かるはずもない。道路へ散乱する瓦礫がれきや電線に足を取られないよう、かついだリュックが暴れすぎないよう、ただ、ひたすらに走る。
 走り疲れてきたところで飛び込んだ廃墟は、どうやら百貨店デパートの跡地らしい。薄暗い店内へ向けて耳をすませたが、とりあえず人の気配は無いようだ。一息ひといきつくと同時にドッと汗が噴き出してきた。
 叩き割られたショーケースのあいだを縫うように歩いて奥へ進む。いくら足音を立てないように注意しても数歩ごとにガラスへんが靴の下で割れ、嫌な気持ちにさせられた。うつろな店内へこだまして他人の足音のように聞こえるからだ。
 外では時折、銃声が鳴り響いている。幾度かの略奪のあとでもうるものは何も残っていないはずだから、態々わざわざ入ってきはしないだろう。だが一階にるのが外から見つかると面倒かもしれない。ちょうどエスカレーターを見つけたのでのぼることにする。
 もう何十年も動いていないのだろう。足の裏に独特のきしみを感じながらどんどん登る。登り切るまで登る。最上階はほとんど真っ暗だったが、薄明うすあかりを頼りに進んで行くと、それはざされたドアの隙間かられ出してくる光だった。カギはかかっていないようだ。耳を当てて充分に向こう側の気配をさぐり、ようやく、しかし慎重に、ゆっくりと押し開いた。
 彼は息を飲んだ。まだこんな場所が残っていたかと感激した。数秒ののち、我に返り、素早く入り込んで扉をめた。万が一誰か登って来ても見つかりにくいように、貴重なダクトテープを数メートルも犠牲にしてドア枠へ目張めばりを行い、光の漏れを防ぐ。出る時は出る時だ。その時があれば、また考えればいい。
 折よくかたわらにあった、しゃれた金属製の椅子をドアノブの下にあてがって開かないようにする。部屋の中に向きなおり、深呼吸した。
 おそらく、VIP用の接待スペースか何かだったのだろう。ほこりはらったその下の、ソファやテーブルにかなりかねがかかっている。これだけでも一晩過ごすどころでない、完全に、ねぐらとして絶好ぜっこうの場所だ。この街、この区画が、あるいは最低でもこの建物がそれなりに安全だと分かれば、の話だが。
 ひび割れ一つないところから見て一番良い時代の、一番良い耐衝撃ガラスが使われているらしい大窓おおまどに歩み寄り、目の高さのところだけちりを少しぬぐい取った。
 外界を見下ろす。かつてったはずの素晴らしい眺望を思いえがこうとしてみる。当時ここを訪れた金持ちたちはごく自然に、なんの感動も気負きおいもなく、それをたりにしていたことだろう。
 だが今はもう、所々の焦げ跡をアクセントとした廃墟がりなす灰色の街並みが、どこまでもどこまでもうねるばかりだ。人口がり、空気だけは昔より格段にんでいるために、かえってその現実ばかりが胸にせまると思われる。死灰色しにはいいろの波の中で幾つかたなびいている細い煙は煮炊にたきより、暴動の残り火によるものが多いはずだった。
 いつから世界はこうなってしまったのか。いや、もうずっと、こんな風だった気もする。
 ため息をついた彼は長椅子ながいすへ戻り、どっかと腰をろした。しばし放心したのち、自作の物見窓ものみまどから差し込む光が眼前がんぜんのテーブルいっぱいにあふれていると気付く。
 思わず、にやりとした。
 リュックを引き寄せてふたを開くと、ずっしり重い、一抱ひとかかえもある底付きの球形瓶きゅうけいびんを慎重に取り出す。少し顔を寄せ、中身に異常が無いことをたしかめてから、天板の上、光の中に安置した。このガラス球は相当の骨董こっとうで、光を透かすあの大窓の御仲間だ。一番良い時代に、一番良い耐衝撃ガラスを、一番腕利うでききの細工師さいくしが最高に調整された一点ものの機械で吹いた、最高級の透明度を持つガラス球瓶きゅうびんなのだ。かしガラスで密閉されたガラスぶたの周囲だけが妙に不格好ぶかっこうで目につくが、これは製造からずっと後に、彼が慣れない手付きでひろもののバーナーを恐る恐る使った結果だ。だが、そんなものは瑕疵かしにもならない。
 球体内に満ち満ちた水は陽光ようこうを存分に吸い込んで、まるでそれ自体が光りかがやくようだった。繁茂はんもした水草が内側で揺らめくそのたびに、大理石の天板へ長く投げかけられる影が優しく踊った。あざやかな緑が見る者の心を刺すほどにやすらげた。
 生産者の光合成による酸素放出と炭酸同化、これを利用する消費者、そして分解者による浄化と窒素固定のプロセス。循環さえ万全ばんぜんであれば、完全な密閉空間にも生命の息吹いぶきは流れ続ける。清澄せいちょうけがれを知らぬ、彼だけの小さなバイオスフェア――。
 やがて、世界のぬしが水草の間から姿をあらわす。有尾人ゆうびじんの、少女。ただひとりの、少女。目が合う。そこには悲しみも苦しみも最早もはや無い。ガラスの壁ごしに、お互いゆっくり、顔を寄せ合う。
 上目遣うわめづかいに彼女は彼を見上げる。水草のはしに、ちょこん、と手をかける。眼窩がんかの奥の、小さな脳が彼をみとめる。純朴じゅんぼくな、その瞳。やがてにっこり、彼女は微笑ほほえもうとし――、

「それはわたしのものだ!」

 突然嘲笑あざわらう声とともに白い光がはじけ、全てが消え去った。


     ※


 屋根を叩く雨音で意識を取り戻した途端とたん、後頭部の側面から首筋にかけてひどく痛んだ。
 うめき、殴られた部分へ手をやろうとして、両手がうしに拘束されていることに帆織は気付く。腰を床へ落とした姿勢で、前へ伸ばした両脚も足首をしばられており、
「大丈夫、帆織さん?」
 どこかの屋内おくないらしい暗闇の中、すぐ隣でトヨミの声がした。
「ああ、なんとか。そっちは?」
「なんともないよ。でも装備は取り上げられちゃったし、手足縛られてて動けない」
「こっちと同じか。ここはどこだ?」
「わかんない、でも……」
 トヨミがそこまで言った時、ふいに照明が点灯する。薄暗いが充分に周囲が見えた。二人は息を飲んだ。
 目の前に巨大な水槽がそびえていた。小型の貨物コンテナぶんの体積はあるアクリル水槽で、なみなみと水がたたえられている。底に置かれた水中灯すいちゅうとうくと青味《あおみ》がかった水を光がかし、倉庫のトタン屋根へ奇妙な模様をうつし出した。行燈あんどんの薄明りにも似てはかなげに照らされるこの場所はどうやらあの廃倉庫はいそうこの中らしいが、今はもう、そんなことはどうでもいい。
 壁をつたう配管へ並んで縛り付けられた二人を水槽の中からじっと見つめる、たくさんの瞳があったのだ。動物園で珍種を見つめる子供のようにキラキラした眼差まなざしで、
「違う」
 トヨミがつぶやく。
「――こいつら、ノガレじゃない」
 帆織もうなずいた。水槽にうごめくのは確かに無数の、あの、白い体だ。人の子供に似た上半身とおたまじゃくしのような尾びれが特徴的な下半身を持つ深海の人魚、今まで二人が戦っていた海の小悪魔こあくまと姿かたちはまるで同じだ。それが透明なおりの中にごった返し、それまではしゃいでいたのを急にやめたという塩梅あんばいでこちらを見ている。今にもあのいやらしい笑いがひしめき始めるようで、嵐の前の静けさかと、帆織は自然と身構みがまえたくらいだ。
 だが、違った。
 小さな黒い両眼りょうめには嘲笑ちょうしょうではなく、健全な好奇心のひらめきがあった。獲物の隙をうかがい続けたがゆえ、生物としての〝かた〟とさえなった狡猾な鋭さでなく、なにか楽しいこと、面白いことへの純粋な探求心があった。全てワクワクと輝いていた。見覚えのある光で、だから二人同時に直観した。
「……もしかして」
 我慢しきれず、それでも押し殺した調子で口を開いたのはトヨミだ。帆織はとても言う気にならなかった。そんなバカげたこと、と心の奥底へ封じ込めようとするのに必死だった。
「もしかしてこの子たち、人間じゃないの? 本当は大川の子供たちなんじゃ……」
「そんなこと、ありえない――」
御明察ごめいさつよ、トヨミちゃん」
 帆織の反論をさえぎり、乾いた拍手が倉庫内に響いた。巨大水槽の陰から一人の女が姿を見せる。自信に満ちた微笑みを浮かべてゆっくりと歩み寄り、二人を見下ろす。
潤地うるちさん……」
「帆織君、お疲れさま。ケガさせちゃってごめん。でも、そうでもしないとトヨミちゃんがおとなしくついてきてくれないと思ったから。悪かったわ」
「あなたがダゴンネットの管理人、〝フック〟なんですね?」
「真奈さんかと思った? 安心できて良かったじゃない」
「どういうことですか、これはッ?」
 食ってかかろうとする帆織だったが、潤地の後ろにぞろぞろつらなって現れた子供たちの姿が、彼に続きの言葉を飲み込ませる。コハダがいる、カジメがいる、海獣博士やその他の水軍のメンバーがいる。佃水軍つくだすいぐんだけでない、近隣の水軍や元フィンズの子供たちが勢揃せいぞろいして突っ立ち、無表情に帆織とトヨミを見つめている。
 その目。彼ら、彼女らと目が合った時、帆織は背中の毛が一斉いっせい逆立さかだつのを感じた。――あの目。白い顔の中にあるとも分からない、あの目。
「こいつらがノガレなんだよ、帆織さんッ」
 トヨミが叫んだ。
「入れ替わったんだ!」
「そんなバカな」
 帆織の否定はほとんど義務感から出た言葉だったが、
「じゃあ、実際にお見せするわね」
 準備をかさねた教師が楽しい実験授業を始めるかのような口ぶりで、潤地が笑う。
 その言葉を合図に二人の目の前へ引きずり出されたのは、キャスター付きの肘掛ひじかけ椅子にしばり付けられたイナコと、水を張られ、台車だいしゃに乗せられた小ぶりの風呂桶ふろおけだった。潤地が近づくと桶の中からオリジナルのノガレが顔を出し、獲物をいたぶるオオカワウソのようにいやらしい声で、キョキョキョキョ、と鳴いた。
 一方猿轡さるぐつわまされ、手足を拘束されたイナコはぐったりしているが、大きく乱れた黒髪や着衣は必死で抵抗したあかしだろう。結束バンドで椅子に固定された色白の足首には赤い擦過傷さっかしょう幾筋いくすじも見えた。バケツの水を数杯、真正面から全身へびせられるとゆっくり頭を起こし、怒りに燃える目で潤地をにらみ付ける。
「そんな顔で見ないでちょうだい」
 こいつらの餌にしたってかまわないんだからね、と言う女史の声は冷たかった。
「子供たちが漁に出ない理由があなたをハブくためですって? 水中に飽き飽きしていた連中があこがれの上陸を果たして、なんでまた川へ出なきゃいけないの。子供は大抵そういうものだけど、それにしたって、ちょっと自意識過剰がぎるわよ、あなた」
 いいこと――、と親身しんみな教師がきかん坊をさとす調子で、
「改造アマモや金元素きんげんその回収が大人たちの目当てだと、あなたは見破ったつもりだったんでしょ。でも、全然だめ。目に見えるものにまどわされ過ぎてる。唯物主義や利益第一のスタンスなんて、しょせんはあきらめから生まれる目くらましよ。理想こそ、いいえ、理想に向かおうとする態度こそが人をより成長させるの。そこをあなたは読みちがえた。大人たちの悪影響の犠牲者と、見られなくもないけれどね」
 でも――、と彼女。
「あなたみたいな子供は、本当なら入ってはいけないの。子供らしくない子供なんて不自然な存在ですもの。理想とは正反対の存在ね。自分のことほかの子よりずっと大人だと思ってたんでしょう。でも、あなたは大人じゃない。大人の毒が余計に回ってる、ただそれだけの子供。勝負に勝っていると思っていて、本当は最初から勝負すらできていなかった可哀想かわいそうな子供なの。だから大目おおめに見てあげるのよ。途中までは私のためにちゃんと働いてくれたから、そのおまけみたいなものなの」
 猿轡さるぐつわはずす手へ噛みつこうとした横面へ平手打ちを食らわせ、潤地は優しく微笑ほほえむ。にせの子供が二人がかりでイナコの頭をらせ、鼻をつまんで小さな口をこじ開けた。別の個体が大型のプラスチック漏斗ろうとを少女の喉奥のどおくへ向けてねじ込み、
「やめろッ! やめないか!」
 帆織の制止に耳を貸す者はいない。朦朧もうろうとする少女へ顔を寄せた潤地が一転、さもいとに、
「大丈夫、未練なんてすぐに無くなるから。あなたも入れるわ、きっと」
 急がなきゃ、という台詞せりふを合図に、ポリタンクの液体を漏斗へそそぎ込み始めたのはカジメだった。本当の彼も以前、やはり同じようにされたのだろう。少女のふるえを伝える漏斗から立ちのぼる乳白色のガスに、帆織は見覚えがある。タンクの中身はおそらく、
「オリの濃縮液……」
元来がんらい生物は、常にほかの可能性を探してる。生き残るためにね。生き残るために、自分の立ち位置を常に不安がって、うたがってる。オリにはその疑いを増幅する効果があるの」
 汚染水をなく流し込まれて痙攣けいれんする体をさすってやりながら、潤地は解説する。
「オリの蓄積が存在のを不安定にするの。そうなると存在はほかの場所で生きる可能性を猛烈に探し始める。その場で生き続けるよりも、その場を捨てる道を選びたくなってくる。そんなところへ新天地の可能性を見せつければどうなるかしら。例えそれが本当の新天地だという保証がなくても、別の場の存在へ気が付いてしまいさえすれば、そちらのほうが今の場所よりずっと美しく、自分がるべき場所のように感じられてしまうんじゃないかしら? でもそれは自然なことよ。隣の芝生が青く見えるのは、それが生物の本能、可能性を夢見続ゆめみつづける本能だからなんですもの」
 イナコの口から漏斗が引き抜かれた。少女の腹は不自然なまでにふくれていたが、吐き戻そうとする気配けはいは無い。そのままの姿勢で彼女は天井を見つめ、がくがくと全身を戦慄わななかせている。目尻まなじりに涙を浮かべ、この世の汚いこと、下らないことにおびえ、嫌悪けんおし、恐怖している。
 だがその一方で、彼女に残る純心じゅんしん、普段ひねたことを言ってはいても、まだ、どこかでこの世界を歓迎しようとしていた未来への期待が、少女の全身をほんのりと光らせ始めていた。それは、完全に打ちくだかれぬうちに、それまでの場、それまでの体を捨て、体中の毛穴けあなから抜け出そうと欲する彼女の真心まごころの輝きなのだ。
「こうなるともう、あとはきっかけ、必要な情報を与えてやるだけでいいのよ。もちろんお互いの記憶もコピーし合うから、すぐに〝相手〟としてもふるまえるってわけ」
 透明なてぐす糸の一端いったんをイナコの右小指に結び付け、もう一端へ大ぶりの釣りばりを結び付けた潤地は、それをノガレの入った浴槽へ無造作にほうんだ。
 ノガレは光る針軸はりじくを小魚か何かと見間違みまちがえてあさましく食らい付く。当然針掛かりし、悶絶もんぜつしつつも嚥下えんかする。
 数人の子供たちが暴れるノガレを手慣てなれた調子で水からげる一方、イナコの拘束が素早くかれた。ステンレスの作業台へほうり上げられ、ころがった彼女は仰向けに力なく横たわる。水産試験場すいさんしけんじょう採卵さいらん受精作業じゅせいさぎょうを思わせる、無造作と丁寧が入り混じった雰囲気の中、鼻孔びこうと口から水をらし、少女はぼんやり虚空こくうを見つめていた。冷静にうごめく子供達の手によって力づくであごを天井へ向けられ、無理矢理目蓋まぶたを開かされた状態で頭部を固定されたが、最早なされるがままだった。
 そこへふいに、糸でつながった〝相方〟の顔面が突き出された。一人と一匹の目が強制的に合わされた。びくん、とイナコの体が一際ひときわ大きく波打つ。釣り糸によって二人の運命は交差し、今、あやふやになっていた運命はお互いがお互いを、お互いのニッチを認識することでい始め――、それはおそらく、相同そうどうな運命の乗りえだったのだ。思春期を待つ少女の体内における卵母細胞、さらにその内側において次世代の多様性を増すことに努める染色体と同様に、対合たいごうした二つの運命間で情報の交換が起こった。人生における行き先が組み替えられた。
 冷たく光る作業台の上で二つの体が同時に変態を開始する。肉体の変化はほとんど一瞬だった。イナコの服に包まれたノガレの〝ようなもの〟と、裸で横たわり、目をぱちくりさせて視野の調節をしているイナコの〝ようなもの〟を呆気あっけに取られてながめる帆織へ、
「あら、だめよ」
 潤地が悪戯声いたずらごえで注意する。
「今は、人間の女の子なんですからね」
 イナコのようなものが飲み込んでいた釣り針を粘液のかたまりとともに吐き出して交換変身は終了だ。本来のイナコが着ていた衣服がそれに与えられ、人魚に姿を変えた元のイナコは巨大水槽へ放り込まれた。見上げる潤地の目が満足気まんぞくげに輝く。 
「ちょっと待ってください」
 帆織は思わず叫んだ。何か言わずに居られなかった。
「ノガレの存在にはきっかけがないと気づけないはずです。あなたはどうやって――?」
「あのねえ帆織君」
 そんな頼りないこと言わないで頂戴ちょうだい、と潤地はあきれ声で彼を見下ろす。
「きっかけなんて幾らでも見つけられるものなの。ちょっと、ほんのちょっと人より目を覚ましてさえいればね」
「なぜ、こんなことをするんです? 子供が好きってのは嘘だったんですか?」
 可愛かわいらしい質問ね、と潤地。
「もちろん嘘じゃないわ。私、子供たちが大好きよ。この子たちが、本当に、大好き」
 教育学者は静かに、真摯しんしに答えた。
「これは救済なの」
「救済? 化け物に変えることがなんの救いになるって言うんです?」
 問いながら、帆織はかすかな耳鳴りを感じて頭を振った。だが潤地は相変わらず平然としている。
「年寄り連中はね、この世界をみそぐための祭壇さいだんとして、手始めにこの川を選んだの。そして祭壇へ捧げる生贄いけにえが、大川の子供たち」
「年寄り連中? 誰のことです?」
「みんなよ。大人たちみんな。実際に動いているのは中津瀬会なかつせかいだけど、結局はこの世界の大人たち全てが、この儀式に加担している。無意識のうちにノガレと契約しているの。みずからが産んだオリをはらうために子供たちを、子供たちの未来を、人質として化け物へ差し出している」
 彼らにとって次世代はあくまで〝資源〟ってわけ、と潤地。
「まあ、この子たちがいなければ、カイギュウを逃がさずにアンチエイジングへ応用できてたかもしれないんだし、その時のうらみが計画をスムーズに後押ししてる、ってところもあるでしょうけど。執念深しゅうねんぶかいな年寄りって嫌なものよ?」
「中津瀬会がこれに、ノガレに直接、関わってるって言うんですか?」
「正確には楽園復活の計画にね。計画が実際に始動した発端ほったんは偶然起こったジャック事件だったけれど、井崎教授いさききょうじゅの仮説に会はだいぶ前から目をつけていたわ。だから調査にも金を出した。よそ者が川で気ままに活動できたのだって、会が必要を認めたから」
「子供たちの統合のために、青の秩序ブルー・オーダーを利用した、って話ですか」
「統合そのものは仮の目的ね。本当のことを言えば、彼らはある意味、追い込み漁での追い子だったのよ。予期されていなかったカイギュウ登場が、現生の大川を相対的に楽しくしすぎてしまうことを会は危惧きぐしたの。誰もが現世げんせに満足した状態では楽園へのとびらひらけないでしょう。だから中津瀬会はあくまで、子供たちの楽しい日常へ水を差し、川における楽園開門の期待を醸成するために青の秩序を支援したってわけ」
「その裏で青の秩序を切り捨て、イナコを利用して子供たちをまとめ上げようとした……」
 ああ、聞いたのね――、と潤地は微笑む。
「これは全て子供を先兵せんぺいとした楽園植民計画の一環いっかんなのよ。目的は、増加するオリの処分地を確保すること。トヨミちゃんみたいに、ヨドミなったオリをただ散らすだけではなくてね」
「楽園植民? オリの処分? 中津瀬会が……なぜ、そんなことを?」
「彼らは新日本経済連合しんにほんけいざいれんごうの文化部門よ。そんなの決まってるわ。この川にいれば忘れがちだけど、世界の全てが順調に発展しているわけじゃない。呪いは相変わらずはびこって、オリ、人の心の負性残滓ふせいざんしが川へ流れ込む量も速度も大きくなる一方じゃないの」
「――呪い、ですって?」
「人をけが有象無象うぞうむぞうよ。この世界は完全に呪いから解放されたわけじゃない。科学技術の発展は呪いをはらうものと見えて結局は相反あいはんしない。蓋をしているように見せかけるだけ。きれいな川とバヤックが子供たちとノガレを出会わせたみたいに、どんなに科学が進んで、宇宙の果てまで行けるようになったとしても、私たちは常に呪いにさらされてる。期日きじつまでにプログラムを組めなければ死ぬしかないとか放射能がうつるとか、そんなセリフのどこが科学的なのかしら? 私たちは科学すらも呪いへ作り変えてる。そしてと言うかだからと言うか、呪いは科学技術同様に現実へ作用する。呪いにけがされた人々はまったうみを少しでも心からき出して、オリとして川へれ流し続けるしかない。化学汚染の時と同じに、このままじゃ自然の霊的浄化速度をあっというに追い越すでしょうね」
 そうなるとどうなるの、と彼女は問いかけ、
「世界は循環不全におちいるわ。オリは気化して川からあふれ、陸へ逆流してけがれを補強する。そうなれば街は瘴気しょうきに閉ざされる。世界そのものがヨドミになるの。人々は自家中毒じかちゅうどくを起こして精神活動が停滞、生産性は低下、経済の発展も見込めなくなる。即戦力として移民を導入してみたところで、それもまたオリにおぼれてしまえば同じこと。むしろ文化衝突などの汚染源が増えるだけ。だからまず、このオリをある程度、一気にはらうことが必要だという結論に中津瀬会はたっしたの」
 その先にあるのが楽園植民、そしてオリの大規模処分地計画だ。
「首都のオリを一掃いっそうできれば、それは停滞する世界経済、精神文化の中にあって大きなアドバンテージになるわ。物理的浄化技術を輸出の根幹こんかんとしつつ、この国を、それも散々怨嗟さんざんえんさまとになって来たこの街を、しん聖地せいちとして再生できる。原始の楽園をみ台にして再び過去の栄光を取り戻せる――。そう、彼らは考えたのね」
「待ってください。……楽園にこだわりながら、彼ら自身は楽園の住人になる気は無い、ってことですか?」
「それはそうよ。こちらでの利益がなにより大切な人たちですもの」
 楽園を利用した現世振興計画げんせいしんこうけいかく――。
 これまでノガレたちがめ込んでいたオリは楽園の記憶を呼び出すための呼び水と、彼らの活動自体を活性化させる基質きしつの役割をねていただけに過ぎない。処分地がひらけばそれらもまとめて全て一気に、向こう側へとはらうのだ。海洋記憶にアクセスし、原始の楽園を開いた状態で固定できさえすれば、無垢むく極まる原始の楽園と現世ではオリの濃度差のうどさがかなり大きいので、拡散作用かくさんさようによってこちら側のオリは自動的に楽園へ流れ込むことになる。川にしょうじた門を定常的に開き、とどめるだけで、もう一つの精神世界分だけの容量を持つ処分場が完成する。そしてそのためには、
「こちら側にゆかりのある存在をあちら側へ送り込む必要があるの。ようは、生贄として」
 その言葉に帆織は、巨大水槽の中で不自然なほど興奮し、騒いでいる子供たちをぼんやり見上げた。
 それを必要とする自分たちが直接つながる必要は無い。自分たちとえんのある者が、自分たちの希望をつなぎ止めておければよい。
 計画者たちの目論みは、つまりはそういうことだ。
 そして「自分たちの希望」と「自分たちと縁のある者の希望」が同じとは、もちろん限らないのである。
「むしろ……」
 帆織は言おうとして、口に出せなかった。
 むしろ……そのアイデアそのものこそが巨大な呪いではないのか。呪いによるけがれをはらうために新たな、それもより性質たちの悪い呪いを産み出そうとしているだけではないのか。だがそれを言うことは、潤地の言葉を認めたことにもなるのだ。
 口から飛び出そうとする気づきを無理矢理おさみ、
「しかし子供たちを向こう側へ送ってしまえば、こちら側での需要はどうします? 観光資源や無償むしょうの労働力として、会は子供たちを計算に入れていたはずです」
「どちらかと言うと、それは子供たちを完全に転換てんかんしたあとのための下準備なのよ。陸上おかあがりした元ノガレたち、すなわち大川の新しい子供たちも、会はもちろん利用するつもりよ。子供であるあいだは大川の、世界の健全なにぎわいを示すマスコットとして使える。金草きんそうに関わる無償奉仕むしょうほうしは、深海でくすぶっていた彼らに新しい道のりを示してあげたことへの見返りだから、当然のこととしか彼らは思わないでしょうね。そして元ノガレの子供たちが成長すれば、深海の水圧と餌不足えさぶそくに延々えてきた連中なんですもの、きっと色んな労働環境ろうどうかんきょうで役に立つわ。でもそれは会が人に見える彼らを利用しているのじゃなく、世代間調和せだいかんちょうわの成功なのだと演出する必要がある」
 だから、今のうちから関係を作ってしつけておかなきゃならない、と彼らは思ってるの、と潤地。やれやれと微笑んで肩をすくめ、
「どこまでもムダ無く使いたい、ってのが彼らのモットーだから」
 楽園を呼び出す工作の他、ノガレと中津瀬会はエージェントを介して陸上人との肉体交換にくたいこうかん契約けいやくわしたのだと彼女は言う。だがノガレも馬鹿ではない。老いさらばえた肉体を求めはしない。転生を夢見る不摂生な肉体も必要ない。彼らは彼らで新しい可能性を追い求め、陸上に別の運命のスタートを夢見ていたからだ。彼らが自ら歩むはずだったと信じるその道を、取り戻したがっていたからだ。「お前たちは入れない」とは、やはりそういうことだったのだ。最初から子供たちが選ばれていた。若く健康で、陸上での無限の可能性を秘めた青き肉体――。
 そしてエージェントは最初に一人、生贄を見本みほんとして示す必要があった。その一人が、
「コハダちゃんよ。あの子は確かに最高の見本なのよ。会にとっては交換後の彼女が生贄供給いけにえきょうきゅうシステムのトップに座るのが自然で申し分無かったし、ノガレにとってはあれくらいに陸での明るい可能性を感じさせる子もない。入れ替わるノガレ側の選定は最初くじ引きが提案されたけど、結局血みどろのトーナメントのすえに彼女になる個体が決まったらしいわ」
「そうやって子供たちが差し出された……あなたは会の手先として指導員や、ダゴンネットの管理者の立場から子供たちを、生贄の道へ誘導した……」
 嫌悪けんおに満ちたトヨミの声。潤地は優しく首を振り、
早合点はやがてんしないで。それに会から役割を与えられていたのはあなたも同じなのよ? 大人たちがあなたを本当にやり込めようとしなかったのは、何もあなたが川の魔女としてすぐれていたからじゃない。ジャミングシステムで撮影ができなかったからでもない。それが気休めに過ぎないことは、ここの子供でもあるあなたならよく分かってるはず。違うのよ。ノガレに対し、人が優位に立っていると示す保険としてあなたが適当だったという、ただそれだけのことなの。あなたが最低限の騒々そうぞうしさだけで狩りをできていたのは、会があなたに関する情報を操作して抑え込んでいたからよ。だから結局あなたも、会に泳がされていただけ」
 あわれみの眼差まなざしをトヨミへ向け、
「まあ、最後にはあなたも変えるつもりだったから、来てくれてちょうどよかったわ」
 会の方針には反するんだけどね、と潤地は腕を組んだ。得意気とくいげに胸を張り、
「確かに私をこの川へ派遣したのは中津瀬会だし、安定した生贄供給経路いけにえきょうきゅうけいろの構築が私の元々の使命だけど、私は彼らの思い通りに動くつもりはない。自ら気づき、自分の意思で動いている点で、私はあなたと違うの」
 子供が好きだって言ったでしょう、と笑い、
「あなたのことだって大好きなのよ?」
「……そりゃどうも。でも、本当に子供好きな人がこんなことしないと思うの」
「そそまま受け入れることだけが愛じゃないわ。この子たちを本当に救うためなら、私は喜んで憎まれ役になる。矯正きょうせいの全てが悪と言うのは前時代的教育論ぜんじだいてききょういくろんね」
「人間をやめさせて、子供たちを救うって言うの?」
「子供たちの熱い血でみがり、柔らかな毛髪でみがぬのむ、そんな年寄りばかりの世の中よ。それであいつらは懸命に自分の墓石をみがいている。そんな世界に居続いつづけることが子供たちにとって幸せかしら。この子たちは先兵せんぺいなんかじゃない、生贄いけにえなんかじゃない。むしろこの子たちこそ、楽園へつながるべきなの。この子たちだけが生き残ることを許されているの。清浄な原始の楽園の住人として、人類の歴史をわだつみのみやからつなぐ者として、ほろびゆく我々を向こう側からながめていていい存在なのよ。私はこの子たちがその門をくぐるお手伝いをするだけ。そう、私は楽園へ入るにあたいしない。このけがれた世界を作り上げる側に、意識的にせよ無意識的にせよ加担してきたんですもの。私は楽園に入れない。でも、わずかな気付きと意志さえあれば、この子たちを楽園に至る門へいざなうことはできる。年寄り連中の陰謀を逆手さかてにとって、楽園での肉体を提供することはできる。自らをあがないにして、道をそなえることができる」
「……その熱いおもいが、みんなに届くといいですね」
 教育家の熱弁に肩をそびやかすトヨミ。
「あなたッ」
 潤地の声音こわねがきつくなった。
「そんな、ひねた見方みかたするもんじゃないわ!」
「しかし、この子たちが楽園に入るのは中津瀬会の計画の延長でしょう。それなら結局は、会の目論見もくろみが成功することになるんじゃありませんか?」
 帆織はおだやかにたずねつつ、こっそりひじでトヨミを突く。この状況で相手を怒らせるのは得策でない。両手は思いのほかきつくしばられ、逃げ出せる見込みはまるでないのだ。
 だが潤地は彼の言葉を真面目まじめに受けとめ、にんまり微笑ほほえんだ。
「閉じるのよ、楽園を」
「楽園を、閉じる……?」
「アクアリウムを作る時、水槽の準備ができていないのに魚をぶち込むバカはいないわ。それと同じ。まだ、楽園は完全じゃない。だけどこの子たちは舞台がととのえばすぐにでもはなたれるわ。そのあとで楽園の門を閉じるのよ。子供たちを永遠に楽園へ、向こう側へふうめるの。この子たちをあいつらの思うがままになんてさせない。処理場は完成前から閉鎖よ。御老体ごろうたいの皆様はいずれ、自分のひり出したオリにまみれておくなり、ってわけ」
「そんなこと、一体どうやって……?」
「それこそ簡単よ。どうしてこの川に原始の楽園がよみがえろうとしているの? 物質的に浄化されたからよ。なまじ美しくなった大川に呼び起された、か弱き人々の郷愁きょうしゅうが海洋記憶とつながって、それで楽園が呼ばれたのよ。なら、楽園を閉じるには? もう一度、川を汚くしてやればいい。人々が美しい郷愁や思い出を刺激されることもないほどに、いつも目をそむけていたくなるほどに汚してやればいい。それだけの話よ。そうすれば自動的に楽園は閉じる。境界がはっきりよみがえる」
「……そんなレベルの汚染があなた個人に可能だと思ってるんですか?」
「どうして私個人だなんて思うの? 私は今、私自身の工作員を手に入れているのよ? 深くて暗い海の底に帰らずにむのなら何でもやる〝子供のようなもの〟たちが人の子として成長し、色々な場所へ入り込む。中津瀬会や新経連しんけいれんの本部に加わる個体だってきっといる。こころざしの低い科学者に成りすます者もいれば、危険に鈍感なふりのうまい技術者に成りすます者も出てくるわ。そんなのすぐよ? そうすれば私は、私の意志は、川の浄化技術だけじゃない、化学工場もエネルギー機関も行政も司法も、この国の命運に繋がる全てをにぎるのよ」
 この川を毒汁どくじるふさぐことはおろか、国土全体をどくきりで覆い尽くすことだって不可能じゃないわ、と彼女は強い眼差まなざしでった。そんな中、帆織の耳鳴りはまだ、続いている。
「この子供たちが切り離されてさえいれば、残された世界はどうなってもかまわないと?」
「どうなっても構わないんじゃない。私たち全員で罪を背負せおうの。ロードローラーでつぶしてすら来ていない、ブルドーザーで面倒事めんどうごとを未来へ未来へ押しやってきただけの、私たち自身、これまでの世代自身の罪をね。スクラップ&ビルドが聞いて呆れる。再生や復興なんて言葉にすがりついて見て見ぬふりをしてたのは私たち自身でしょ? この子たちは関係ない」
「これから生まれる子供たちはどうします? 川にまじわらない子供たちは? 全ての子供たちを救うことを目的とするべきではないんですか?」
「それは私も心苦しいわ。でもどこかで切らなきゃ、の連鎖は続くばかりよ」
「その切り時を、あなたが選ぶ?」
「そんなこと言ってない。私はもうじき始まる楽園の開門にそなえているだけなのよ。楽園が開いた時がその時なの。その時までに少しでも多くの子供たちに備えをさせるの」
「どうして、もうじき開くと分かるんです? もうじきって、いつです?」
 楽園が開くのは一体いつなんです――、と帆織がたたけたのは、話の終わりがそろそろ見えてきたからだ。
 この話が終われば、次の転換はトヨミに対して行われるだろう。こっそり動かしていた両手のいましめがゆるんだとはまるで思われなかったが、それでも帆織は時を稼ごうと必死だった。
 だが、彼の最後の質問は予想外の効果をもたらした。トヨミがふと体を動かした気配につられて帆織が彼女を見やり、再び向き直った時、潤地はそれまでの能弁が嘘のようにだまり、棒立ちになって硬直していたのだ。
「いつ、開くかですって……?」
 一昨日おととい献立こんだてを思い出そうとでもする顔つきで、しかし全く思い出せないらしい。記憶を手繰たぐせようとして空回からまわりしている。チャンスかもしれなかった。
 相手をましてはいけない、帆織はとにかく口を動かす。
「あと一つ、トヨミの狩りを会が目こぼししていたって話ですが、ならば最近、目こぼししなくなった理由は何です? 急に彼女の活動がネット上で出回るようになりましたよね、都市伝説風の尾ひれまでついて。ノガレへの抑止力に使うなら、トヨミを自由に泳がせておいたほうが良いわけで、なのに彼女の活動をおさえかねない操作を会がしたのは、一体なぜなんです?」
 帆織を見つめる目は見開かれて表情が無く、洞穴ほらあなのようだった。ひたい脂汗あぶらあせがじりじりと浮いているのが分かった。唇が戦慄わななき、口元が今にも痙攣けいれんを始めそうで、
わけの分からないこと、言わないでちょうだい!」
 その時だ。帆織は以前からの耳鳴りが急激に大きくなるのを感じた。違う。全員が反応する様子を見て、これが耳鳴りでないことに気が付いた。まりかけた金属パイプへ無理矢理に熱い空気を通した時のような、実際の音だ。耳障みみざわりに甲高かんだかく、それがさらに高く、大きくなっていく。
 潤地も気づいたらしい、ふと巨大水槽を見やり、
「どうしたの!」
 けわしい声を上げた。帆織もつられてそちらを見る。水槽の中、人魚化した子供たちの様子があきらかにおかしかった。嫌なものを振り払うかのようにぐるぐる、やたらめったらに泳ぎ回っている。頭をさぶっている。音がさらに強まり、あ、と思った瞬間、水槽の右側面が粉砕ふんさいされてはじけ飛んだ。数百トンの水が一気に押し寄せ、配管に固定されている帆織とトヨミをのぞく全員が壁際かべぎわまで押し流された。内側からの流れに乗って白い体がいくつもいくつもあふれだし、水が抜けたコンクリートの床へころがってぴちぴちねた。
「大変!」
 血相けっそうを変えた潤地が子供もどきの手下たちに、すぐさま人魚化した子供を川へ運ぶよう指示を出す。
「まだひらいてないけど、仕方ないわ! 放流しましょう!」
 彼女は自らも一度に二人かかえて走り出した。倉庫内は混乱する。騒ぎにまぎれ、天井から配管を伝ってりてきた影がナイフを取り出し、帆織とトヨミの拘束をあっさりいた。
「マルタ!」
「すまねえ、遅れた。でも陽動作戦、うまくいったろ?」
 これ取り返してきてやったぜ、とトヨミの装備ベルトを彼女へ渡してやりながら、少年は得意気とくいげに親指を立てて見せる。
「わりい、二人の携帯は見つけられなかった」
「すぐに捨てられたんだろう。それより今のあれ、爆弾か?」
 帆織の問いへたのもしき副漁労長ふくぎょろうちょうはからから笑い、
「んな物騒なもん持ってねえよ。カジメのキャビテーション用振動発生装置しんどうはっせいそうちを両面テープで張り付けただけさ。ここであの装置を幾つか見つけたんだ。だから水槽のアクリルを材質アプリでスキャンして、固有振動数こゆうしんどうすう共鳴きょうめいさせてやったんだ。装置をセットするのはステルスゲームみたいで面白かったけどよ、携帯に振動数を計算させるのと、アクリルが割れるまでに予想より時間かかってさ、やっぱ無理かなってあきらめかけたとこにあれだぜ? 理屈では分かるけど、あんなにすげぇとは思わなかった!」
「結構多いさ、そういうこと」
 興奮冷こうふんさめやらぬマルタ、それをなだめる帆織の二人を、
「逃げるよ!」
 準備を終えたトヨミが鋭く呼んだ。と、
「ダメ、だよ」
 三人が一斉いっせいにその声へ振り向く。コハダの〝ようなもの〟が微笑みながら立っている。歩み寄り、マルタのラッシュガードのすそをきゅ、とにぎると愛らしげに笑った。
「あちゃぁ」
 マルタがまるで場面にそぐわない、気の抜けた声を上げて頭をく。
「気づかねぇふりしてたんだけどなぁ!」
だまされないでッ。そいつはコハダじゃない。さっきのイナコ見てなかったの?」
 トヨミが幼馴染おさななじみの偽者に突っかかろうとする。だが、それをさえぎったのはマルタだった。
「見てたよ」
 頷き、少年は穏やかに笑う。
「確かにこいつはコハダじゃねぇ」
「じゃあ……」
 狼狽うろたえるトヨミ。
「だけど、俺ひとりで逃げるわけにもいかねえんだよ。俺だって、こいつのそばにいてやるつもりなんざさらさらねぇが、あいつのそばにはずっといるって、いつだか約束しちまったからよ」
 倉庫の床でまだね回っている白い体の群れへあごをしゃくり、マルタは言った。
「あんな恰好かっこうになっちまってよ、きっとあいつは今、すげぇビビってるんだ。だから俺が行ってやらなきゃならねぇ。てか、俺がそばにいてやりてえ。元々もともと俺の目的はあいつが元気になることなんだからな。お前や保安官とは行き先がはなっから違うのさ」
 世界を救うのはお前らにまかせる、俺は――、
可愛かあいいあいつを救うぜ、なんてな!」
「バカ!」
 叫ぶなりトヨミは出口へ向かって駆け出した。事態の収拾にあたっている子供もどきが幾人か、捕虜逃亡の予兆に気付く。鼻腔びくうを使い、人の声とも思われない、ホイッスルを鳴らすように甲高い警戒音を立て始めた。
 慌ててトヨミのあとを追おうとする帆織、
「保安官!」
 マルタから差し出されたのはバヤックのかぎだ。首を振り、
「自分の船を使うよ」
「この辺りで見当たらなかったぜ? 見つけられて、沈められたんだろ」
 愕然がくぜんとする帆織へ少年は同情の笑みを浮かべる。鍵を押し付け、
「俺のは裏の運河のすみに引き上げて、ゴミかぶせて隠してある。トヨミをたのんだ!」

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