わだつみの宮にさよなら 小説版

高木解緒 (たかぎ ときお)

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 悲しいことがあったとき 泣けばいいよと人は言う
 くやしいことがあったとき 涙を流せと人は言う 

 そういう気持ちになるとき 頭の中では 
 そういう気持ちにさせる物質が どばどば 分泌ぶんぴつされているのだ
 そういう物質で 脳が 心が よごされているのだ

 涙は そういう物質を よく かす
 それなので 涙がいいのだ 

 泣くとき 
 涙を流して泣くとき

 ぼくたちは 

 そういう物質を 涙にたっぷり溶かし込んで からだそとへ追い出しているのだ 
 心のよごれは 涙で 洗い流してしまえるのだ 

 だから泣けばいい

 涙を流して おもいっきり 泣けばいい

 なんとも、科学的なアドバイスというわけだ


 でも そうすると 

 涙は

 あのひとのほほをつたう涙は

 み切って きらきらと光って
 あんなにもきれいなのに 

 でも 

 排泄物はいせつぶつ

 あのひとのけがれに 満ちている

 ぼくの涙も ぼくのけがれで飽和ほうわしている

 涙は みんな けがれている 

 洗面所で お風呂場で 
 泣いて 泣いて
 泣いて 泣いて  
 ぼくたちは けがれを 川へと流す


 下水げすい処理しょりは むずかしいだろうね
 

     ※


「ついて来ないで!」
 百メートルもないほどの遅れだったが、乱暴に追い付くことのはばかられた帆織は足早あしばやに進むトヨミを追ってしばらく、小走りに走った。距離を自然にちぢめることができたのは永代えいたいから月島つきしまへ向けて相生橋あいおいばしを渡り掛かるのぼり傾斜のおかげだ。
 だが背後へせまる足音に気付いたトヨミは振り返って叫ぶと再びすたすた、橋の歩道を渡り始めてしまう。
 帆織は慌てて走り寄り、
「何を怒ってるんだ? さっき言ったことで気を悪くしたのならあやまる!」
 横から声をかけるが、かついだもりを固く握り、トヨミはこちらへ目もくれない。
「ついて来ないでって言ってる。これ以上は本当に危ないの。門を、おさえきれない」
「――何を言ってるんだ?」
「だから、ついて来ないでって言ってるの!」
 彼女の肩へ伸ばしかけた帆織の手を、トヨミは払いのけて歩き続ける。
「ほんと、悪かった。それをふせぐために毎日戦ってる君に、冗談でも言ってはいけないことだった。本当に、申し訳ない」
「私が、戦っている?」
 トヨミがぴたりと立ち止まった。帆織へ向き直り、燃える瞳で彼を見据みすえた。
「そうだよね。私が戦ってる。戦ってるのは、私――」
「そうだ。君の戦いを冒涜ぼうとくするようなことを言ってしまった。すまない!」
 その時だ。テテンッ、と小太鼓こだいこを軽く打つような音がして帆織は顔を上げた。
 きょろきょろと見回し、だが何も見当たらない。するとまた、テテンッ――。
「トヨミ、今の……」
 だがトヨミには聞こえなかったらしい。まっすぐ帆織を見つめたまま、
「そんなにいやなの?」
「なんだって?」
「大人になるには世界を他人事ひとごとにしなきゃならない決まりでもあるの? そうだとしても、一人くらいそうでない大人がいるって、私もそうなりたい大人がいるって、目印めじるしにしたい大人がいるって、期待しちゃいけないの?」 
「いつ俺がそんなこと言ったよ?」
「ずっと言ってるじゃない!」
 トントントットコ、トコトントットコ、トントントットコ、トコトコトットコ――。
「成長するにつれてこの世界をあきらめなくちゃいけない理由でもあるの? この世界を未来まで自分のものだって言い張って、好きなままでいてはいけないの? そんな今や未来に意味はあるの? 結局は目をらさなきゃならないこの時間に、意味はあるの?」
 橋の中ほどで向かい合う二人。小太鼓の音色ねいろは今や帆織の耳一杯みみいっぱいに聞こえる。トヨミのうったえがかき消されそうなほど大きくなっている。
 と、それらがふと消えて、
「私は――、どこへがればいいのよ」
 顔をそむけて言った彼女の、その言葉だけが帆織の耳へ響いた。
「どこへ……上がる?」
 帆織は戸惑とまどいすぎるほど戸惑とまどっている。意思の疎通そつうがまるで取れない。つい先ほどまで一緒に冒険してきた相棒はどこにもらず、別人も別人、初対面の人間と話しているようだった。だがその一方いっぽう、この結果は当然予見よけんされていた、という気もどこかでしていた。
「わかってる」
 静かな口調でトヨミが言う。
「私、わかってるんだ。今の帆織さんに、ひどいこと言ってるってわかってるんだ。でもダメだ。ダメなんだ。幼稚ようちでごめん。子供でごめん。わがままで、ホント、ごめん」
「わがままだなんて、そんなことは……」
 つぶやいた帆織の目が突然くらむ。閃光せんこうが夜に走り、繰り返し空へ焼き付いたのだ。驚いて目をやれば川全体が稲妻いなづまのように輝き、丁度ちょうど、最後に一際ひときわ強くひらめいて再び沈黙するところで、
「おい、今の見たかッ?」
 振り向き、いきおい込んでたずねる。だが、
「だめ!」
 全く彼を無視し、周囲を見回しながらトヨミは悲痛な叫び声を上げた。
「違うの、これは違うの! そうじゃないの!」
 少女は虚空こくう懇願こんがんする。呆気あっけに取られる帆織の耳へ、再びあのリズムが聞こえ始める。
 トントントットコ、トコトコトットコ、トントントットコ、トコトコトットコ――。


御前みまえきてみちそなえ! 御前みまえきてみちそなえ!〟


 ぎょっとする帆織。
 今、二人は相生橋あいおいばし川上側かわかみがわに立っている。その反対、橋の川下側かわしもがわからはずっと遠くまで大川派川おおかわはせんすえと、各運河に囲まれて広がる豊洲とよす晴海はるみニューシティから有明ありあけタウンまでの街並まちなみを一望できるのだが、どうやらこの旋律せんりつはそちらの方角ほうがくから近づいてくるらしかった。それへ気が付き、広い車道を挟んで川下側を向いた帆織は遠く、川面かわもがぼんやり光っているのを見た。街灯まちあかりの反射ではない。下だ。川底の光がけているのだ。
「だめ! 開かないで!」
 トヨミが車道へ飛び出す。深夜で交通が少ないのがさいわいだ。彼女は橋を横断して川下側の欄干らんかんへ飛びつき、身を乗り出して川を見つめる。帆織も後を追って川面かわもを見やり、息をんだ。遠く、海から続いているらしい光る領域はどんどんと川をさかのぼり、こちらへせまってくる。
 そしてその中に、砂底から体を抜き、踊りくるうウミユリたちの一大いちだいパレードが見えた。トントントトットコ、トコトコトットコ――、それは軽快なリズムに乗ってよっこらよっこら近づいてくる。
 そのまた後ろに続く、水中の百鬼夜行ひゃっきやこう
 と言っても妖怪ではない。絶滅した海棲動物かいせいどうぶつたちの大行列だ。
 ステラーカイギュウだけでない、愛くるしい顔つきを見せびらかし、甲高い声で鳴いているのは原始アザラシのエナリアルクトス、現生のカバに似たパレオドキシアやデスモスチルスはのんびり鼻歌を歌い、アンブロケトゥス、ジョージアケタスなどいま四肢ししを持つ者から、それらをひれへ持ち変えたプロトケトゥス、バシロサウルスに至る原始鯨類げんしげいるいは、ある者は不器用に、またある者は優雅ゆうがに泳ぎ回っている。あるいはがっしりしたフラミンゴめく海鳥プレスビオルニス、こうした連中が新生代しんせいだいの代表だ。
 まだいる。
 中生代ちゅうせいだいを代表するのは勿論もちろんプレシオサウルスやフタバスズキリュウ、モササウルス、リオプレウロドン、イクチオサウルスなど巨大海棲爬虫類きょだいかいせいはちゅうるいだが、目をらせばネズミより小さい哺乳類が必死で水をく様子もうかがえる。カメ類やワ二類が大繁栄したのもこの時期だ。混雑の大浴場めいてひしめく有脊椎連中ゆうせきついれんぢゅう、そのあいだをさらに無理矢理めるように巨大なアンモナイトが泳ぎ回る。
 古生代こせいだい代表ももちろん豊かだ。オルドビス期の初期型魚類しょきがたぎょるいは泳ぎ下手だが、それでも一所懸命いっしょけんめいに行列へ追いつこうと、必死で身をくねらせる。その他、様々な魚類、三葉虫さんようちゅう鸚鵡貝おうむがいからカンブリア大爆発の怪物どもまで、古生物図鑑を水でふやかしでもしたかのように様々な海棲古生物かいせいこせいぶつ和気藹々わきあいあいと川をさかのぼって来る。もちろん、その周りには現生の魚や甲殻類こうかくるいも仲良く、楽し気に踊りくるっている。再生された記憶を全会一致で歓待かんたいしている。
 そして一つあきらかなことは、この大パーティに今の水量すいりょうではせますぎるのだ。まもなく、ぼんやりとそれ自体が光りながら川面かわもの全てが隆起を始めた。違う。川はすでにヨドミだった。いつのにかあふれ出た膨大なオリに飽和ほうわして、大川河口の全域がヨドミとなっていた。川はヨドミとなり、海洋記憶の完全な再生媒体さいせいばいたいとなり、立体スクリーンとなって空高く、際限さいげんなく伸長しんちょうを始めた。
「待ってよ! お願い、待って!」 
 立ち上がる水の壁に少女の声はまるで届かない。トヨミが駆け出した。向かう先、橋のたもとには親水公園へ降りる石段がある。段を飛ばし降りた彼女は川岸の護岸遊歩道ごがんゆうほどうに立ち、目の前一杯いっぱいに立ち上がり続ける水を見上げた。追いついて横に立ち、巨大にうごめく水のかたまりを同じく見上げた帆織だったが、やがてふと、トヨミの横顔を、目が離せなくなった。
 れ光る瞳の奥には、怒りも悲しみも最早もはや無い。あきらめ、おだやかな絶望の萌芽ほうががある。
「だから、夜はきらい」
 彼女はつぶやいた。


      ※ 


 暗闇の只中ただなかで浮かびもせず沈みもせず、無意識に尾鰭おびれを動かしながら立ち泳ぎに寝るのでは熟睡じゅくすいができない。水の動きに変化が無い時でも、うとうとするのがやっとだ。
 だが、そのささやかな〝うとうと〟が一番危ない。こちらの意識がふっと遠ざかる、その瞬間を待っている連中がいるのだ。気がつけば水がざわめき、巨大な捕食者の気配が背後はいご素早すばやくのしかかってくる。そうなるともう動けない。後ろで、大きな口がいっぱいに開き――。
 ハッと目が開いた。薄明うすあかりに周囲が見える、そのことにまず戸惑とまどう。しばらくじっとしているとやがて夢の余韻よいんは消え、記憶がよみがえってくる。上陸の記憶、交換の記憶、あれほどうらやんでいた、人間としての記憶だ。そこで彼女はようやく、ほっと一息つく。四肢しし、特に両足のある感触を確かめ、コハダの〝ようなもの〟は静かに半身はんしんを起こした。
 薄暗い倉庫の中、コンクリートの上でそのまま寝てしまっていたのだ。カビ臭い空気が鼻をくすぐる。先ほどまで稼働かどうしていたエアコンのせいで、外気にくらべ室温はかなり低い。体の冷えを彼女は感じた。濡れた薄着うすぎのまま寝ていたから当然なのだが、不便に思うのはこういう時だ。深海で低温高圧にさらされて平気なもとの体から見れば、人間の体は脆過もろすぎるほどにもろい。外部の圧力に合わせて恒常性を維持いじする機能すらろくにそなわっていない。
 違う、と彼女は思った。いや、彼女の思考力は〝人間〟としてはまだまだ未発達だから、この「不便と思う自分」に違和感を覚えた、と言うのが正しいのかもしれない。そして、人間にはいらなかったのだ、とも感じた。そういう機能を不要とし、もろい体で生きていけるほどに地上は住みよい場所なのだろう。彼女はぐつぐつと、勝者の笑いをのどおくらした。
 道のりはただされたのだ。最初からこうあるべきだったと言えなくもないが、むしろ整備せいびされた道のりをあとから利用し、のっとる方が、生物の手段としては余程よほど洗練されている。
 あたりを見回すと巨大なからの水槽が目にまった。側面が破壊された残骸だ。白色はくしょくライトの冷たいあかりを受け、残る耐圧アクリル面が青味あおみがかってうつろに光っていた。
 そうだった、と彼女は思い出す。を終えて戻り、放流された人魚たちの後片あとかたづけを最後までませたところで、休憩を取れと指示が出たのだ。だが今、あれの姿は倉庫内に見えない。いつのにか出て行ったらしい。
 いつもみたく自分ばかり面白い思いをしようとしてもそうはさせない、と彼女は唇をゆがめた。これまでは話を聞くばかりだったが、今はこちらにもあしがある。自分で歩き、見に行くことができる。彼女は立ち上がった。
 すぐ隣で寝ていたおすの個体はっていた彼女が離れてえたものか、小さなくしゃみを一つした。見下みおろす彼女はぐつぐつ笑う。思い切り腹をとばし、起こしてやる。怒って飛び掛かってきたその雄としばらくくんずほぐれつしているうちに、他の個体もみな、目を覚まして立ち上がった。全員が嗜虐しぎゃくの興奮を剥き出し、暗がりに目をぎらつかせて二人をながめている。
「バカねぇ」
 周囲の視線に気付いた彼女は、マルタの〝ようなもの〟を押しのけて立ち上がり、精一杯コハダの口ぶりを真似まねして言った。
「これから、もっと面白いものが見られるの!」
 それで皆も思い出したらしい。倉庫内にくぐもった歓声が広がる。残酷なのぞ見根性みこんじょうに血をたぎらせ、やがて、子供のようなものたちは次々とそのあとにした。
 定着の時がせまっている。
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