わだつみの宮にさよなら 小説版

高木解緒 (たかぎ ときお)

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 垂直にび上がった水面すいめんは夜空へじかに接続し、そのはるか底では相生橋あいおいばしの川下に広がる晴海はるみ豊洲とよすの街並みが石珊瑚いしさんご群生ぐんせいめいてゆらめいている。そびえ立つ〝水の壁〟と言うより、そのずっと向こう、おそらく海まで延々、それまで空と海のあいだだった空間を隆起りゅうきした濃い水が埋め尽くしているらしい。
 その中央には荘厳そうごんな大神殿と足元へ広がる美しいそのが見える。そして神殿は、膨大な水塊すいかいの全てごと徐々にこちらへ近づいていた。
 眼前がんぜんの光景にトヨミは棒立ちで見惚みとれている。帆織ほおりもまた同様の姿勢を維持し、彼女より数歩うしろで動くことができない。だがふと、視界のすみに立つ影に彼は金縛りをやぶられた。
「真奈……」
 去ったばかりの元婚約者が優しい微笑みを浮かべて彼を見つめる。思わず駆け寄ろうとした帆織だったが、彼女の後ろに立つ人影へ気付き、ぎくりとすくんだ。
ひいらぎ、か?」
 皮肉屋らしいゆがんだ笑顔がトレードマークだった昔の親友は今、彼らしくもない純朴じゅんぼくかつ優しい眼差まなざしで帆織を見つめ、もちろん微笑み、微動びどうだにしない。
 そして、
潤地うるちさん……所長……」 
 その他、青の秩序ブルー・オーダーの幹部であったり、あるいは水上警察らしい制服を着た老人など、帆織が見覚えのない大人たちもあわせて幾人いくにんか、やはりずぶりとその場に突っ立って、星明ほしあかりに照らされながら優しい微笑みを無表情に投げかけ続けている。帆織は目をらすことができない。
 やがて彼ら、彼女ら、全員の口から黒い液体が一筋ひとすじれ始める。それはたちまち皆の足元まで途切とぎれることなく垂れしたたり、しかしとどまることを知らない。粘性の高い、黒い水溜みずたまりをめいめい作っていく。見ているうちに帆織は彼自身の口からも何か垂れていると気付いた。途端に吐き気をもよおし、吐瀉としゃしてしまう。だが出てきたのは消化されかけの胃の内容物でなく、やはり黒い水だった。大人たちの足元に溜まる液体はやがて出しくされ、今度は自力じりきで一つところに集合を始める。大きな水たまりとなり、その中から影が立つ。
 不定形な黒い人型ひとがたはしばらくのあいだ好々爺こうこうやめいた老人の姿を取ったり、行商人の恰好かっこうをしてみたりしていたが、レトロモダンな風采ふうさいの男が現れるとすぐ、その形に決まった。しっくりくる、とでも言いたげに銀縁ぎんぶち丸眼鏡まるめがねをずり上げ、
「やあ」
 おおらかな挨拶を投げて寄越よこす。
 帆織はその声に聞き覚えのあるような気もしたが、はっきりとは思い出せなかった。それで、
「――何者だ?」
「この姿では、おはつ、というべきかな。僕はフブチという者です」
 驚いたことに、帆織はこの現象へ即座に順応じゅんのうできた。それどころか、現れるべきものが現れたという気持ちすらしていた。
 フブチははにかんで笑い、
「彼女のファンだよ」
 言って、こちらをちらとも見ずに眼前がんぜんの光景へ釘付くぎづけのトヨミを指さす。
「彼女の侍従長じじゅうちょうというところかな」
「じ……なんだって?」
「あの玉座ぎょくざは誰のためにあると思うんだ? そこにおはすは未来の女王様さ」
 僕はその忠実な召使めしつかいというわけなんだ、とフブチはにんまりして見せる。
「玉座だと?」
 言われて見やれば確かに、王の椅子めく巨大建造物が水中神殿の奥に見えた。白く輝く威厳いげんに満ちた意匠いしょうは大理石のけずしだ。色とりどりの珊瑚さんごや海藻が周囲を飾り、正面の床にえられる大皿一杯にたたえられた真珠の海が、照明わりに玉座を下から照らし出している。
「お疲れさま」
 フブチは帆織を優しくねぎらった。
「君は洗礼者せんれいしゃとしての役割をじつによく果たしてくれた。これほどうまく運ぶなんて、女王御帰還ごきかんの計画を立てた僕自身、ちょっと驚いているくらいなんだ」
「俺の……洗礼者としての役割?」
「うん」
 怪人はにこやかに頷く。
「君はここで終わりだからね。女王として立つ彼女の姿を見せてあげられないことは、僕も非常に申し訳なく思ってはいるんだよ。まあ先導者せんだつとしての宿命だと思って――」
 飲んでくれたまえ、と言うフブチの目に一瞬、残忍な光がひらめいた。しかしすぐにまた、彼は優し気な表情へ立ちかえって、
「さて陛下へいか戴冠式たいかんしきと参りましょうか」
 歩み寄り、トヨミの手を取ろうとした。
 あわや足の動いた帆織は本能のめいずるまま駆け寄り、その手を強くはたこうとする。だがトヨミのほう余程よほど素早い、
「おっと」
 もりの先端を喉元のどもとへ突き付けられ、苦笑いしたフブチは両手を挙げながらあとずさりする。
「まだ〝こちら側〟に御未練ごみれんがおありとは――、何をなさるおつもりで?」
「私はいかない」
往生際おうじょうぎわの悪いことをおっしゃる。あなた様にはあちらの素敵な王国が約束されているのですよ? あの楽園、そこの大人たちなどには到底とうてい、足を踏み入れることさえもかなわない、本当の、昔ながらの楽園です。痛みも苦しみも最早もはやない、永久とわに続く安楽あんらくそのです。そして――」
 あなた様はその王たるべき御方おかたなのです、とひざまずいて見上げる怪人。
「この川はあなた様であり、あなた様はこの川なのですから。あの楽園はそのあなた様をおけするためにちてきたのですよ? あなた様をそそがれるため、はるばる御迎おむかえに来たのです」
「私は人間よ。〝迎え〟なんて知ったこっちゃない」
「重大な決断はよく御確認されてからなさりませ。あなた様の御帰還ごきかんを待ち望む者は、私ばかりではないのです。ほら、あれを……」
 指をさすフブチにつられ、二人は再び下流を見やる。
 トヨミの顔が強張こわばった。
「こちらに残っているのは、もう、あなた様だけなのです」
 美しく輝く、しかしいまからの玉座。その周りにはべるのは人魚の群れだ。
 コハダがいる、マルタがいる、カジメもイナコもいる。今や全て入れ替わり、白い人魚となった子供たちが尾びれを楽しげにくねらせて玉座のぬしを心待ちにしている。王の帰還を今か今かと待ち望んでいる。人の子だけでない、魚が泳ぐ、エビがねる。門番のかには爪をささげ、軟体動物は砂底から抜き出てしまいそうなほどにくねっている。古生物も現生生物も皆、自らの着物があればそれを脱いでき広げんばかりに騒ぎ立て、


御前みまえきてみちそなえ! 御前みまえきてみちそなえ!〟


「そもそもあなた様が、あの子供たちをおまねきになられたのです」
「私がっ? 馬鹿言わないで」
「いえいえ。あなたが御祓おはらいになられたシラブカは鯨骨げいこつ依代よりしろにオリを肉付にくづけしたもの。ただし、ただのオリではない。川底にまったオリからおそれの感情成分だけを取り出してこしらえたものだったのです。あのシラブカはいわば、川を含めた自然全てに対する恐怖、遺伝子深くに刻まれた畏敬いけいねん象徴しょうちょう。それをあなたは御祓いになられた。もちろん恐怖の象徴ですから、これを駆除くじょしようかと考える発想はごく自然なものですが、それをすべきかいなかはまた違う。畏れの祓われた川に対して、子供たちの警戒心は無いも同然」
  夜の禁忌きんいは子供たちの第六感、野生の勘とでも言うべき、強いおそれの気持ちから自然発生的に生じた自主規制だった。フブチとノガレはその感情の対象をシラブカという偶像ぐうぞうにしたてて分かりやすくしたのだ。そして対象の具現化は対象消失の具現化と同義どうぎだった。シラブカの消滅は恐怖そのものの消失を野生の勘に誤認ごにんさせた。畏れを失い、危機感知の力を麻痺させた子供たちはそれまでの反動はんどうもあり、みずから夜の大川へ近づいていった。そして、取って替わられた。 
「シラブカはコハダたちを誘い込むためのおとりだった……そして、だから、本当に、コハダを変えてしまったのは、潤地さんたちでなく、あなたでもなく……やっぱり……」
 あなた様です、と怪人は少女の震え声にかぶせて微笑ほほえんだ。
「特にあの頭領格とうりょうかくの娘は、幼いころからあなた様に親しんでいたためでもあるのでしょう、人一倍、畏れに対する感受性が強かった。なので象徴がはらわれた効果も余計に大きかったのです。特別なお友達でございましょ? 楽園へおさそいになるのは当然というものです。もちろん私も手筈てはずを尽くしましたが、実際のところは、あなた様ご自身がそれをお望みになられたのです。だからこそこうなった。そしてあの娘も、ほら」 
 あなた様に感謝していますよ――。
 フブチが指さすその先で、ちんまりした体を目いっぱいのびのびさせた元気いっぱいの人魚がにこやかに手を振っている。本来の、昔ながらの親しみを込めて愛らしく笑いかけている。トヨミの手からもりが落ち、コンクリート護岸にぶつかって派手な音を立てた。
「この子に近づくな!」
 帆織が彼女とフブチのあいだに割って入り、
「君もいい加減、あきらめたまえよ」
 怪人はあざけりをき出しに笑う。
「確かに彼女は魅力的だ。この先、人間としてどう成長していくかも非常なものには違いないけれどね……」
 突っかかろうとする帆織を片手でせいし、
「ほら、彼女も腹を決めた」
 見れば、トヨミの衣類が全て、自然にげ落ちたところだった。少女はそのまま眼前がんぜんの光景へ一歩み出す。あゆかずだけ体が変わる。肩までしかなかったはずの黒髪は今や腰へ届くほど豊かに流れ、その下ですこやかに日焼けしていた肌はみるみるもとの色を取り戻していく。あわく白く、裸身らしんは月光に青味あおみがかって夜にただよう。やがて白々しらじら光る尻の割れ目が結合組織けつごうそしきで埋まり始める。ていこつ伸長しんちょうを始め、両脚りょうあしが短くなっていく。下半身がに置き換えられていく。
「なぜだッ――?」
変換開始へんかんかいしのプロセスかい? 釣り針を飲ませてどうこうってやつ?」
 うめくようにう帆織へ、フブチは得意気とくいげな目つきを返す。
「そのにはいらないんだ。女王のニッチは彼女だけのものだ。その娘だけは他の誰とも入れ替われない。その代り、全ての決定権けっていけんが最初から彼女に与えられている。女王の女王たるゆえんさ」
 まだわずかに自由な足先でトヨミは一歩、また一歩と懸命に、だが、たゆとうように水へ近づく。
「トヨミ!」
 駆け寄り、彼女の両肩をつかんだ帆織の手が粘液ですべった。いきおい、下半身へすがりつく形になる。強くいたひざの痛みは気にならない。前のめりにころびかけたトヨミを慌てて支えた帆織だ。だが少女はぬめりにおおわれた全身をくねらせて彼のかいなへ猛然とあらがい、なおも前進をこころみ続ける。漁師とその腕にき取られた巨大ウナギのように二人は川辺でからみ合い、くねり合う。その様子をながめるフブチがいよいよ馬鹿にした調子で鼻を鳴らす。
「やれやれ。散々彼女を裏切って、彼女の最後の望みすら、君はかなえてやることができないのかね」
「――俺がこの子を裏切っただと?」
「裏切り続けたじゃないか。君はその子の期待をかたぱしから無意識に、無慈悲に、みつけてきたじゃないか。ただ裏切るよりたちが悪い。それらしい素振りを見せ、少し期待させては踏みつぶし、期待させては踏み潰しして、それでもまだ信じてくれようとしたその子を、最後に思い切り突き放した。上げるだけ上げて梯子はしごやしたんだ、君は」
「何の話だッ?」
 ついにトヨミの両脚は消失した。肉鰭類シーラカンスのものに似た、の長い腹鰭はらびれが残るばかりとなった。肉厚の尾が帆織の横面よこづらへ力強い一打ちをくれる。すきを突いてさらにもがく彼女を彼は危うく抱え込み、
「この子が俺に期待していただと――ッ?」
「そうだよ。誰かにとっておとずれるべき未来だったこの世界、それをそのむすめは必死で守っていた。ひとりで守り続けていた。そして、以前の居場所で正義をつらぬき、悪と相打あいうちに傷ついた男が来ると聞いたその子はね、やっと、大人がやってくると思ったのさ。自分みたいなわせの子供でなく、ヒーローかもしれない、まともな大人がようやく来てくれるとごくごく素直に期待した。だが実際にやってきたのは、世界の危機に鈍感で、心の底で以前の戦いを後悔し続けている、ただのおっさんだった」
 何か反論はあるか、と問いかけるフブチの眼差まなざし。帆織は何も言えなかった。愉快ゆかいそうに目を細めてフブチは続ける。
「だが、それでもその子は期待し続けずにいられなかった。この世の不条理ふじょうりつかれはしても、子供らしい生真面目きまじめさから世界と真摯しんしに向き合わなければならないと思い込むがゆえに、希望のきざしをさがさなければやっていけなかった。彼女は君がこの川に来た時からすでにいっぱいいっぱいだったんだ。それなのに君が期待はずれの上、鈍感すぎるから、彼女はつい、しびれを切らしてしまった。目覚めのきっかけを君に無理矢理、与えてしまった。だがそんな不自然な目覚めは結局、ゆがみを内包ないほうしているに決まっている。歪みは時がつにつれて増幅ぞうふくしていくものだろう? 君の鈍感が、彼女をあやまらせた」
「そんな――」
「そう、君の気持ちも分からなくもない。何も言われなくても気がつけなんて無理な話さ。いかにも幼稚な、子供の甘えでしかない。だけどね、君。自分の人生のやりくりをこなせてさえいれば大人なのだという考えだって、結局は君たちだけの勝手かってぶんかもしれんのだぜ? そして、大人である君の、大人らしい余裕よゆう達観たっかんあふれた善意が、彼女の期待の延命えんめいを続けた……」
「――それをまた、俺が裏切ったというのか?」
「最後に一発、盛大に。ま、それもこれも、子供たちの間に広まった君の前歴の噂話うわさばなしからして僕の計略のうちだがね。自分たちがみずからの意志でこの世界を動かしていると信じる老人たちも、理想や愛におぼれた有識者層のおばさんも、もちろん君も、結局は僕につながっていた。大人はみんな僕と繋がっていた。しかし君だって、全く気付いていなかったわけではないだろう? わざと〝焦点しょうてん〟をぼやかしていたんだろう?」
 挑発ちょうはつする問いかけに帆織は相手をにらけるしかできない。その指摘してきを認めることは、彼がトヨミをずっとだまし続けていたと認めてしまうことになるからだ。
 もちろん、全く、騙したつもりなど彼自身には更々さらさら無い。
 だが……。
 だが本当に正対せいたいしていただろうか。
 彼女に。
 彼女との、この世界に。
 歯噛はがみする帆織へ、フブチはあざけりの眼差まなざしをこれ見よがしに投げつけてくる。
「おいおい、まさか、本当に気が付いていなかったというのか? 色々な醜態しゅうたいを見せつけられるうちに増大ぞうだいするその子の不安、それに対してその子の求める世界のかた、その子のほっする君の在り方、自己評価と他者からの評価の差にその子がさいなまれていること、全く気が付いてすらいなかったのか? それなら君は真性しんせいのアホだが、それはそれで最上級の裏切りだが、まさかそんなことはあるまい? 君はたんに、〝大人の事情〟という奴で知らんふりせざるをえなかったのだよな? 頼むからそうだと言ってくれ。そんなにも見えない〝大人〟がいるわけがないよな?」
 まあ、いずれにせよ裏切りには違いないが――、と怪人の顔がますますゆがむ。
「大人が大人を裏切る、子供が子供を裏切る、これには気持ちのつけようがある。だけど大人が子供を裏切るのはただの裏切りだ。そして子供が本当に大人から裏切られたと感じるには、実際のところ、ただ一度の裏切り、代表者の一瞬の油断で十分なんだ」
 それで子供はあきらめる、取り返しがつかなくなる、と笑った口が耳までけた。僕はその時を待っていたのだ、と、ぎらつく瞳がかたっていた。
「だから子供たち、最初から失望していいんだ。絶望していいんだ。どうせ君たちを裏切る大人に期待することなんかないんだ。今は信じているかもしれないが、そのうち、その気持ちは必ず裏切られる。大人は簡単に君たちを裏切るぞ。そしてこいつが一番肝心かんじんなことだが、君たちは失望して、絶望しなきゃいけない。君たちもそのうち、大人になるってことに。君たちを裏切った大人たち、君たちが大嫌だいきらいになる大人たちそのものに、君たちもなるってことに。結局、君たちが失望するんじゃない。絶望するんでもない。君たちはやがて失望になる。絶望になる。君のことを大好きな誰かの、失望になり、絶望になる」
 いやだろう、とてもいやだろう――? 
 問いかけるフブチの声がこだまする。
いやだ!」
 大勢の声が聞こえた。
 帆織が振り向くと、〝子供のようなもの〟たちが笑顔で相生橋あいおいばし欄干上らんかんじょうに集結していた。並び座り、陸と深海ほども差のあるはるたかみからこちらを見物していた。
いやだ!」
 人魚たちも楽園から精一杯せいいっぱいうったえた。
「だろう? だからこそ水中で、瑞々みずみずしいまま止めるんだ。けがらしい、ほこりっぽくて塵芥ちりあくたにまみれかわった陸へ上がる必要なんてないんだ。わだつみの羊水ようすいが君たちにうるおいを与え続ける。水底みなそこの楽園、古き思い出のそのこそ、君たちのるべき場所なんだ」
「……それでも、それでも俺はこのを……」
 さらうめく帆織を見下ろし、
自業自得じごうじとくというものだ」
 フブチが冷酷に断言する。
「君は彼女にメシアを求めた。きたるべき未来へいたる希望を無責任に求め続けた。しかし、彼女が君に求めていたものは何だったと思うね? 大人さ、ただの大人さ。ぐ前を見て進もうとする、ただの大人さ。だが、君たちはそんな可愛かわいらしい、些細ささいな要求にすらこたえられないんだ。彼女は自分の回帰願望をはらう根拠を君たちにほっしていた。なのにどうだろう? 君たちはそれを捨てさせるどころか、強めることしかできやしない。今や未来のみすぼらしさを叩き込み、過去のほう余程よほど美しいのだという価値観をこれでもかと見せつけることしかできゃしない。腐敗ふはい熟成じゅくせいと言いえて、何でも分かった気になって、したり顔でのお説教だの愛の押し付けだの陰謀いんぼうごっこだの、散々さんざん大人ぶってみせるくせに、君たちが本当にできることと言えば、全くもってそれだけなんだ!」
 彼は笑ってたたみかけ、
「君たちが自虐じぎゃくの呪いをかけるのだ。未来は無いとせるのだ。それで彼女が未来へ向ける目をおおってしまったからといって、どこかにあったと君たちがしきりに話す安楽の海へかえることを望んだからといって、誰がそれをめられる?」
 楽園はすぐそばまでせまっていた。
 天を奔流ほんりゅうの城壁が目の前をおおくし、手を伸ばしさえすれば、すぐにその向こうへ分け入ることができると思われた。異世界への入り口、否、異世界そのものがそこにあった。きらびやかな水中世界がそこにあった。生き物たちがおどっている。陽気なリズムをきざんでいる。王の帰還を待ち切れず、ウミユリたちが水底でトットコトットコ踊っている。パレードしながら近づいてくる。人魚たちがトヨミをまねく。コハダはあの頃と同様にしたで、マルタは親愛しんあいあらわにしている。カタクチイワシの大群たいぐんが月光に輝き、空まで届いて旋回せんかいする。エビがね、二枚貝がカチカチたがいにからを打ち合って歓待かんたいする。カイギュウがうたい、筆石ふでいしまわり、モササウルスやアノマロカリスが調子を取る。全ての海の記憶が今、あざやかに、にぎやかに、平和に、よみがえっている。
「彼女は世界の共感を得た。こうなるともう、誰にも止められんぜ」
 満足げなフブチの声がした。
 それは確かに預言よげんであり、彼はまさしく預言者よげんしゃだった。
 おおかみ子羊こひつじと、ひょう子山羊こやぎ住処すみかともにし、若いライオンと子牛は人の幼子おさなごみちびかれる。牛も熊もライオンもくさを食べ、巣穴の上で遊ぶ乳飲ちの毒蛇どくへびおそうことがない。何者なにものがいすることなく、ほろぼすことのない世界――。当然と言えば当然、預言の再生は母なる海にこそあったのだ。苦しみも痛みもあろうはずがない。原始の楽園は復活した。
 いた玉座がぬしを呼ぶ。帆織でさえその場所を埋めるべき誰かが必要なことを認めざる得ない。しかし彼の両腕は、それでも懸命けんめいにトヨミを止めるのだ。尾鰭おびれで何度、ほおを打たれたかしれない。爪に腕をむしられ、毒性粘液どくせいねんえき皮膚ひふただれ、しかし帆織ははなさない。なぜ離さないのか。なぜ、離せないのか――。
 フブチがいかにもうんざりした口調で、
「ほらほら、君は全ての生き物たちの期待までをも踏みにじるつもりかね。いや、それどころか、生命の母、太母たいぼへの反逆はんぎゃくだよ、これは」

 だが、帆織は離せない。

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