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しおりを挟むなぜ離さないのか、離せないのか。
なぜ彼女は戻り切らないのか、戻り切れないのか。
なぜ俺は戻らないのか、それとも、戻れないのか。
幾つもの疑問が混沌とし、帆織の中で渦を巻く。どの疑問を第一に考えていたのかさえ怪しくなる。必死で考える。それだけだ。とにかく必死で考える。
いつの間にか他の子供たちは皆、沖へ出て行ってしまっている。
優しい、デボン紀の浜辺。
二人きりの、浜辺。潮間帯。
脊椎動物上陸の起点――。
彼の胡坐に乗り上げ、上半身を起こしてこちらを見据えるトヨミから帆織は目が離せない。
「何を、考えているの?」
問われた彼は少し言い淀み、
「真奈と――」
「あのねッ、今、そんなこと言ってる場合ッ?」
「違うんだ。……真奈と行った水族館を思い出していたんだ。どでかい水族館だ」
「なるほどね」
トヨミの表情は一瞬緩んだが、すぐに「で」と仕切りなおし、
「言うこと、あるんだよね?」
ぐっと詰め寄る少女。
「気づいてること、あるんだよね?」
「ああ、ある。あるよ」
「言って。早く言ってよ!」
さあ、とトヨミは相変わらず険しい顔で迫る。苦笑いを漏らしかける帆織だったが、少女の目の中に小さな光が見えた気がしてハッとした。これは本当に失敗できない。
「こいつは――」
一瞬躊躇い、だがすぐに、
「こいつは楽園なんかじゃない。水槽だ」
言った瞬間、少女の目にはっきりと光が萌えた。帆織は自分の正解を知った。
「外を侵食してるのもここなんだろ? アクアリウムが漏れ出してる。だから外も結局は水槽だ。原始の楽園と言う題名の、少し規模の大きいアクアリウムなんだ」
「ウンウン、それでそれで?」
「――そうか」
帆織は手を打った。
「だから戻り切れないのか。そうだろう? 君はこれが偽物と知っていたから、これの中へ戻り切れないんだな?」
ハァ、とトヨミは肩をすくめ、大袈裟な溜息をついて見せる。
「なんだ? なんか変なこと言ったか?」
「帆織さんってさ、ほんと期待させるのうまいよね。期待させて、踏み潰すのがすごくうまい。もう天才的。それとも、大人って、みんなそうなの?」
「ヒントもろくにくれないで分かれ、ってのがそもそも無茶なんだ」
「それは大人の目線でしょ。子供ってのはさ、大人が自分を見てくれてる証拠が欲しいの」
「分かった分かった……それで、じゃあ、どうして、君は戻り切れないんだ?」
「ほらまた間違える。本当に問うべきはそこじゃないでしょ?」
戻り切れないとか、戻らないとかじゃなくて、と焦れるトヨミ。
「自分に当てはめて考えてごらんなさいよ。自分がなぜ戻らないのか、戻れないのかなんてことより、ずぅっと最初にすべき問いがあるはず」
「自分に……」
帆織は唸った。むっつりと押し黙った。
「もう知らない! 帆織さんに期待した私がやっぱり馬鹿だった!」
「早まるなよ。本当は気付いてないわけじゃないんだ。言おうと思えば言えるのさ」
「なんですってッ? じゃあなんで……」
「ちょっと迷ったんだ。このままの方が、君にとって幸せなんじゃないかって。君が安らかに生きていけるんじゃないかって」
「私の幸せも安らぎも、それは私が決めることよ。帆織さんにだって、誰にだって心配される筋合い無い。だから……」
「……よし」
帆織は頷いた。トヨミの頬を両手で挟み込み、互いの視線を固定する。静かに、落ち着いて問いかける。
「君は戻りたいのか?」
人魚や有尾人だった少女は心地良さげに目を閉じた。長い睫毛だと帆織は思った。小さく愛らしい口元にくすぐったそうな笑みの浮かぶのが、心の底から嬉しかった。
「トヨミ、君は本当に、戻りたいのか?」
「――信じてよかった」
ありがとう、とトヨミは今度こそはっきり微笑んだ。それからふっと真顔に戻り、しかし期待を込めた目で、
「あのね、あと、もう一回、信じてみるからね」
※
夜の、大川のほとり。フブチの体表がざわめくのを帆織は見た。余裕のある笑みは崩れ、切れ長の瞼の向こうで憎悪が光った。真っ向からそれをうけとめ、帆織はトヨミを抱き締めて叫ぶ。
「まだだ。まだこの子は、この子たちは完全に未来への希望を捨てたわけじゃない。人として育つこと、大地を踏みしめて立つことを願うから帰り切れないんだ。中途半端な人魚にしかなれないんだ。本当は戻りたくないんだ。母なる海は、もう過去の話なんだ!」
「今頃気づいても、もう遅いさ。目の前に楽園へ至る門が開いているんだ。彼らが出てきた楽園、本当に彼らがいるべき原始の楽園、それはほら、すぐそこにある!」
「楽園だって?」
帆織は笑った。そうだな、と頷き、
「こいつは確かに一見、平和だ。安楽の園だ。だが生物がそれぞれの特性を押し込められた世界が本当に楽園か? それは誰のための楽園だ? いや、誰かのためだけの世界が楽園だなんて言えるのか? 捕食者から逃げないイワシの群れ、カイギュウと仲良く漂うモササウルス、生きていた時代は問題じゃない。だがこれで本当に生きていると言えるのか? あいつらは水槽を賑やかすために造られたお飾りだ。だからこれも楽園なんかじゃない。水槽だ。閉じ込めるために作られた入れ物なんだ」
もちろんこれらは後付けの理屈だ。直観の根拠は、いつか見た水中の囚人――。
帆織の脳内へ切なげな柔肌が白く、幾度も閃く。水中蛍光灯の光に浮かぶ悲痛な懇願が蘇る。結局は閉ざされた金魚鉢の中ならば、いくらエアレーションをしてみても、濾過装置を新しく、強くしてみても、どうしたってオリは溜まり続け、彼女の自家中毒を引き起こし、やがて世界を濃く、閉ざしていくだろう。そして世界に繋がる媒体がオリ、負性感情の残滓である限り、新たな構築はおろか再現すらいびつにしか生じえないのだ。否、
「それがお前の目的だ。オリの蓄積を誘導したのはそれがお前に都合よく海の記憶を再生できるからだ。牙を抜かれた優しい世界、歪んだ郷愁や懐古だけを映すスクリーンとして!」
「こいつが偽物だというわけか。なら、本物の楽園はどうあるべきだと言うのかね?」
「違う。偽物か、本物かなんてこの際大切なことじゃない。楽園なんて本当は無かった。デボン紀にも大量絶滅があった。エディアカラにも捕食動物はいた。俺たち真核生物は食作用で誕生した。生き物はもしかするとただの情報体であった頃から、食ったり食われたりして進化を紡いできたんだ。〝戻るべき楽園〟なんて最初から無かった! それは――」
間違った生態展示の題名に過ぎないんだ、と喝破されたフブチ。だが彼もしつこい、
「それは君の真実だ。その娘の真実はその娘が決める。ほら見たまえ! 彼女はまだ楽園を捨てきれていないぞ。その向こうに、真実にしたいものがあるからだ」
帆織は腕の中を見る。トヨミは抵抗を止めてはいたが、じっと楽園を見つめ、荒い息遣いをしていた。人魚たちが優しく招く度に見開かれた目を潤ませ、玉座の真珠が煌くたびに小さく身悶えした。やがて再び、尾を縁取る鰭が僅かずつ伸長を始めてしまう。
(あの浜から帰ってきたのは、俺だけか――)
帆織は唇を噛みしめた。
本当の気持ちに気付いただけではまだ、足りないのだ。時を進めるにはそれ以上の、向きを持った力が必要だ。
あの浜でトヨミは、帆織がわざと言わなかったことについて気づいていただろうか。幸せの、本当の奥底にまで介入できる知識を、彼が大人の視点からいとも簡単に得てしまっていたことを知っていただろうか。互いを補完し合う二つの世界の往来において、彼がその確信を深めていたことに気がついていただろうか。それは少女の心をこじ開けることはもちろん、壊すことすらできるかもしれないのだ――。
「残念だったな。気付いた時にはもう全てが過ぎ去っている、君たち人間の認知など所詮、そんなものだ。さてさて、その子が失望に失望を重ねた通り、未来には絶望が見えているじゃないか。絶滅はすぐそこじゃないか。そのくせ、君は今、還るべき過去すら彼女から取り上げようと言うのかね。それで一体、次はどこへ導くつもりだ!」
ぐつぐつと笑い、決めつける停滞の象徴。
今となっては帆織にもこの男の正体が読めている。一種の病原体だ。この川に憑りついた腐敗へ至る病だ。抗体としてのトヨミを娶り、取り込むことで川を、世界全体を淀ませようとしている。全ての停滞を目指している。
「だから水槽に導くのか? 閉じ込めて飼い殺しにするというわけか?」
「君がいくら吠えたところでその子が戻らないことに変わりはない。君だって今の今まで還りたい者の一人だったじゃないか。だから、その子に洗礼を授けることができたんじゃないか。自分の都合で押したり引いたり、それはエゴというものだよ」
「そうだ、エゴだ」
帆織の中に渦巻く一つの呪文がある。それはフブチに言われるまでもなく、本当にエゴの塊としか言い様のない呪文だ。これを唱えた瞬間、帆織は無責任で自己中心的な大人の代表として確立するだろう。そのあとに待つのは、あるいは、完全なる断絶――。
自分にそんな呪文を唱える資格のないことを帆織はよく知っている。確かに、子供たちは人でありたいがために人魚の形に留まっているのだろう。だが子供たちが自らそうありたいと願うことと、大人がそうあってほしいと願うことではまるで話が違う。繋ぎたいと願うことと繋いで欲しいと願うこととは全く違う。それが大きな痛みを伴うのなら、なおのことそうだ。痛みを堪えてただ繋げと言うのでは、放り投げてやるのと何も変わらない。傲慢な押し付け以外の何物でもない。子供たちが拒否したところで、それはまずいものをまずいと言っただけのことでしかない。生き物として当然の反応でしかない。
しかし繋いでほしいのだ。大地に立ち、人を人として繋ぎ続けてほしいのだ。産めよ増やせよ、地に満ちよ――、それは神からでない、人から人への願いなのだ。
エゴだ。これはエゴだ。だが、贖いの方法がまるでないわけではない。
(ある大人にとって一人の子供が全ての子供たちの代表ならば、ある子供にとって一人の大人が全ての大人を代表することもできるはずだ。トヨミ、俺はなるぞ。君にとって大人の代表に俺はなる。そして君を傷つける分、俺は俺の責任を果たす……)
「なんだって?」
フブチが怪訝な顔で耳を傾けた。俯いた帆織の呟きが聞き取れなかったのだ。
「立ってくれ、と言ったんだ」
帆織が顔を上げる。トヨミの体を一層強く抱きしめて、その目はフブチを見ていない。川面を真っ直ぐに、力強く見つめている。必死で何かを探している。
やはり予想通りだと帆織は頷いた。
外側にはいない。内側にもいなかった。これは明らかなヒントだ。
(今の魚たちで海が溢れているのに――)
トヨミのいつか言った言葉が脳裏へ蘇る。もう、いないもの。いてはいけないもの。
覚悟は決まった。そうだ、召喚せよ、
「ダンクルオステウス!」
その瞬間、帆織も魔法使いだった。少女の絶叫と同時に大川が割れた。生命史を通して最強の肉食魚、デボン紀の覇者、最大の甲冑魚、板皮類、そしてなにより、少女と少年を繋ぐ思い出の鍵――、プレートカッターのような顎を大開きにして夜へ吠えたのは、全長が十メートルに届く古生代の魚の王だ。トヨミの心を引き裂いて飛び出した。
「貴様!」
憤怒に燃え立つフブチへ、苦しみもがくトヨミを抱き締めながら帆織は笑う。
「シラブカが変態した時点で気が付くべきだった。この川はこの子次第ってことなんだろ? 全ての決定権はこの子にある。川底のお花畑もカイギュウの大群も、全部トヨミが産んだんだ。この子は川そのものだ。そしてこの子は、自分がでっちあげる色々な妄想で必死にあいつを押さえつけてた。賑やかな郷愁ぶったこの楽園、水槽も、結局はそのための目くらましだ。全てを嫌いになりたい衝動から目を逸らすための!」
そういう点ではお前だって彼女の小道具に過ぎないんだ、と帆織は言い切る。フブチは立ち竦み、怒りに身を震わせた。なぜならその指摘が真実だと、彼が一番よく知っているからだ。彼女はやり直したいのではない。本当は、無かったことにしたいのだ。暴走する過去の象徴は郷愁の楽園へ至る門番にしては不都合すぎる存在でしかない。だから、どちらの世界でも隠されていた。激昂の怪人はやっと一声、
「貴様のしたことは許されない!」
「許されようなんて思っちゃいないさ」
すっかり両脚が生え、下半身を取り戻したトヨミを帆織はそっと地面に横たえる。眦に浮かぶ涙を拭ってやると、彼女はふいと横を向いて体を丸めた。既に尾は無い。
「――すまん」
謝り、それまでの考えを実行に移す。水底の楽園は大狂乱に陥っていた。なにしろ彼らを陸へ追い上げた張本人が再びその姿を現したのだ。古生代の魚王は水中で他の王が立つことを許さない。甲冑のように硬い表皮で覆われる巨大な頭部で神殿へ突進、早くも玉座を叩き壊した。玉座が崩れた瞬間、天まで届く楽園も崩壊を始める。水塊はのっぺりとはるか遠くへ引いて行き、やがて海抜の基準が元へと戻る。
だがダンクルは満足しない。今度は逃げ惑う人魚たちへ目を移した。大顎を幾度も噛み合わせ、プレートカッターを研ぎ始める。目覚めたばかりで飢えているのだ。
帆織は着の身着のまま川へ飛び込んだ。脱いでいる暇はなかった。子供たちを絶対、犠牲にしてはいけない。それは結ばれていないが当然の約束だ。
「こっちだ!」
彼は水面を叩きに叩き、声を限りに叫んだ。
群れから外れた個体を第一に狙う、それが捕食魚の習性だ。そしてやはり古代の魚王もそうだった。ダンクルはこちらをちらと見たかと思うと方向を変え、一心不乱に帆織へ向かって来た。顎が開かれ、カッターの断面がてらてらと光った。肉が切り裂かれるのか、心が切り裂かれるのかまでは帆織にも分らない。その両方かもしれない。だが、迷いはない。未来への生贄が必要であるのならそれが未来の住人であってはならないのだ。今の住人がそれを努めなければならないのだ。それが前世代にとっての繋ぐということなのだ。
今のうちだ、と帆織は喉奥の切れるのもかまわず人魚たちへ叫んだ。
「みんな上がれ、陸に上がれ!」
ハッとした顔つきの人魚が数匹いた。コハダやマルタかもしれない。他の人魚を先導し、全てを率いて護岸際へ泳ぎに泳ぐ。帆織は微笑んだ。為すべきことを為したと思った。
ついにダンクルが水面へ飛び出す。巨大な頭突きで水と大気をもろともぶち破って舞い上がる。禍々しい口を極限まで大開きに、暴虐と殺戮の王は帆織めがけて端正な弾道を描いた。
さすがに目を閉じそうになり、だがここで負けるわけにはいかない。真っ直ぐにそれを、咽頭の奥、蘇る闇を見据えなければならない。その姿を、見ていて貰わなければならない。大顎が眼前一杯に迫り、
「オニアカ!」
呼び声とともに赤褐色の巨体が真横からダンクルを衝き飛ばした。水面へ叩きつけられ、体勢を起こそうとする魚王の甲冑の継ぎ目へ巨大な毒棘が突き立つ。あられもない姿をさらした意趣返しか、オニアカの眼は緑に爛々と猛り立っている。轟く咆哮が夜を切り裂き、大川のど真ん中で巨大魚対巨大魚の息詰まる怪魚大決戦が始まる。
生きていたのか、と呟こうとする帆織。だが、それよりずっと大切なことに気が付いた。
「トヨミ、――元気になったのか?」
呼ばわると、いつのまに泳いで来たものか、
「そんなに早く元気になれるわけないでしょ」
すぐ後ろで声がした。振り返ると、いつもの黒いダイブスキン姿に戻ったトヨミが立ち泳ぎで微笑んでいる。水を吸う長いままの髪を持て余しながら、
「おじさんっていうのはさ、なんでそうすぐに散りたがるのかな。最後の最後でどう判断したか、決断までにどういう過程があったのかとかさ、それを聞きたい後進も結構いると思うんだよね。潔く散らないことだって、繋ぐための勇気なんじゃないの?」
「すまん。……あと、こういう手段しか思いつかなかったことも、本当にすまない」
「もう一回信じてみるって私、言ったよ? その謝罪は逆に帆織さんが私を信じきれてない証拠だよね? フェアじゃないなぁ。それに、すごく失礼だと思う!」
帆織は呆れた。
「……よくまあ、そこまで好き勝手言えるもんだな」
「相手の大人をしっかり信じちゃってる時の、子供らしい甘え、ってもんよ」
にんまり微笑むトヨミ。帆織も微笑む。二人はやがて、声出して笑いあった。
「これからどうする?」
岸まで泳ぎながら問う帆織。トヨミは得意気に、
「そんなの決まってるじゃない。帆織さんを目印にするの」
「目印?」
ほら早く、と後ろからせっついて帆織と護岸へ上がると、彼女は勢いよく川面を振り返った。最後の最後、護岸際で上陸ポイントを中々見つけられずに右往左往する子供たちへ、張りのある、澄んだ声で大きく呼ばわる。
「ほら、ここだよ! みんなここだよ! ここが浅くなってる。ううん、みんなの保安官がちゃんと浅くしてくれたんだよ! 上がる道筋を見つけてくれたんだよ!」
流されるな。流れに身を任せるな。河口の向こうに広がるのは最早、母なる海でない。上がれ、上がれ、陸に上がれ。骨盤に重心を預け、二本の脚で駆け上がれ。
上陸せよ、上陸せよ――、指令は漣のように群れへ広がり、その反応は目覚ましい。産卵のため浜へ乗り上げるクサフグの群れのように、人魚の大群は凄まじい大波となって護岸間際へ押し寄せた。我も我もと二人へ手を伸ばし、
「上がれ、ほら、とにかく上がるんだ!」
最初は帆織とトヨミが引っ張り上げてやっていたが、そのうち両脚の生えた子供たちが自ら気付き、まだ川にいる仲間を引き上げに掛かる。そうして次々上陸する。
憑き物はすでに落ちている。最強の免疫〝希望〟が禍々しい記憶を祓うのだ。憧れ無き原始の楽園は乾いた昔話に過ぎない。歪められた記憶の再生を止め、海洋情報のライブ配信を受けたDNAが少年少女の体を瞬くうちに元の形へ、我々がついに得た形へ戻していく。逆に、
「帆織さん、あれ!」
促された帆織が見ると相生橋に勢揃いしてこちらを見下ろしていたはずの偽者たちが悶え、苦しみ始めていた。苦痛に顔を歪め、我と我が胸を掻き毟り、滴るように川へ落ちる。水へ落ちた途端に元のノガレの体へ戻り、あとは暗い深みへ消えるしかない。
「ニッチの重なりに耐えられないんだろう」
帆織は言った。
「結局、今、そこに適応している者が、今そこに一番適応しているのさ。だからこの子たちが確信をもって陸へ上がると、連中は締め出しをくらってしまうんだ」
「――なるほどね。本来選ばれていたものが最後には勝つというわけか」
ハッと振り返る二人へフブチが笑いかける。
「まあ、あいつらはもう、どうでもいいのだ。あいつらに遠回しにやらせていたことを、今はあのダンクルオステウスがあっさり果たしてくれるからね」
彼が顎をしゃくって見せるその向こうでは巨大魚同士の死闘が続いていた。最初は優勢だったオニアカだが、さすがに疲れもあるのだろう。一瞬の遅れで鰭の縁を齧られた。ダンクルはしつこくオニアカの後部へ回り込み、毒棘のある尾の付け根を噛み落とそうと狙っている。
「あいつのために、もうこの川は滅茶苦茶だ。君を楽園に招き、緩やかに世界を腐敗へ誘うつもりだったがね、この具合じゃあいつが最初から全てを潰してくれる。あいつは全てを食らい尽くすぞ。そして最後の最後にはあいつ自身が飢えて死ぬ。そのあとで僕はまたやってくるさ。引き裂かれた君を丁寧に拾い集めて、今度は瓶詰めにでもしてあげよう」
「それは無理ね」
トヨミが答えた。凛とした声音だった。怪人の顔が強張り、
「――なんだと?」
「あんまり舐めないほうがいいと思うな。特に、正しく繋がってる時の私たちを」
一瞬、トヨミは帆織をちらと見た。澄んだ両目が不敵に輝いていた。水際に立ち、彼女は背筋を伸ばす。歓迎の情を示して両腕を大きく広げ、声を限りに呼びかける。
「分かったから。あなたとの付き合い方、私、分かったから」
直後、戦闘を放棄し、トヨミへ向かって泳ぎ迫る甲冑の巨大魚。襲うためではない。その目に光る喜びの輝きを帆織は見た。還るのだ。魚王はもといた時代へ還るのだ。
ダンクルだけでない。蘇った全ての古代生物たちが群れなしてそれへ続いた。
イクチオサウルス、リオプレウロドン、アーケロン、カストロイデス、デスモスチルス、ノトサウルス、アカントーデス、鸚鵡貝、三葉虫、筆石、ピカイア――。
「やめろ!」
フブチが叫ぶ。だがトヨミには聞こえてすらいない。両足でしっかり大地に踏ん張り、胸を張って腕を広げ続ける。晴れ晴れした微笑みを向け続ける。
「いいよ、戻って! みんな戻って!」
飛翔。ダンクルオステウスは威風堂々、夜に舞った。水と大気の境界を易々貫いて飛び上がった。王が描く航跡を辿り、他の古生物も後へ続く。川の上に生命史の虹をかける。大海に生きとし生きて往きし者の全てが放物線の終点、トヨミめがけて飛び込んでくる。数十トン分の体積をそのままに怒涛の如く落ちてくる。微笑む彼女は海となった。全てを受ける海となった。原始の郷愁へ至る門を開いた。生き物たちはその海へ、還るべき場所へ呑み込まれ、彼女はしっかり門を閉じた。
全て一瞬の出来事だった。
静かだ。夜の大川は今、とても静かだ。
トヨミはふっと息を抜き、自分の胸へ優しく両手を重ねる。
「あいつが!」
大きな水音に余韻を破られて帆織が叫んだ。水面直下を下流へ進む巨大な黒い人影がある。海底に溜まった人の穢れ、極限まで濃縮され具現化したヨドミ、あれこそフブチの本体だと帆織は直感した。
トヨミが銛を拾った。狙いを定めて思い切り振りかぶった。勢いつけて踏み出し、体を捻った彼女が銛を打つ直前、帆織の視界は彼女の視界と同調していた。これだ、と帆織は感じた。遠く未来まで貫く射程の全てを二人は同時に見据えていた。それは完全に二人のものだった。呼吸が合う。気合が迸る。トヨミの、帆織の手から銛が放たれた。
※
それからあったのはちょっとした騒ぎだ。町中へ突然、裸の子供たちが溢れだした。
だが、それらはまもなく収まっていった。子供たちは自らの居場所へなんの苦労もなく帰って行った。それが最も自然だからだ。彼らこそ、間違いなし、文句なしの最適種だからだ。
「――俺たちの歩いてきた道は、気の遠くなるほど膨大な偶然の一つ一つが、これまたどうしようもないほどの偶然によって、偶然、結び付けられたものなんだ」
帆織は護岸に立ち、のんびり彼らを見送った。
「だから、俺たちが〝それ〟を必然だと思わない限り、俺たちが歩いてきた道はすぐに多くの偶然で埋もれてしまう。全ての可能性がごちゃ混ぜになって、どうせ偶然なんだと思えてしまう。全部、無意味に思えてしまう。ただ一つ、意味があったと見えること、原点ばかりが目立ってしまう。そして俺たちがこれらから歩こうとする道もまた、俺たちが必然を求めないなら、偶然から偶然選ばれ、偶然接続されるだけなんだ。それはやっぱり、いつか、無意味な偶然に思えてしまうだろう」
朝焼けを裸の背いっぱいに浴び、手を繋いだコハダとマルタが川べりから去って行く。
声を殺し、静かに泣きじゃくるトヨミの肩を抱きながら帆織は唱えた。一体全体これで慰めているつもりなのかと自分で自分に呆れながら、ただただ、唱え続けた。
「いや、実際、意味なんてないんだ。歩いてきた道を必然にして、望ましい必然の未来へ繋げるためには、俺たち自身が意味を見出してやらなければならないんだ。もし、その意味が今は分からなくても、理解できなくても、あるいは忌まわしいもののように思われても、意味を見出さなくちゃならない。見出すことで意味を与え続けなくちゃならない。そして自分で与え続けたその意味に正対して、次の意味へ繋げてやらなくちゃならない。意味のある結果や、進化を、ただ待ったり、期待してたりしちゃいけない。引き寄せなくちゃならない。俺たちは、それができる地球で初めての種族なんだ。自分から前適応できる初めての種族なんだ。その在り方、俺たちのこの特性こそ最も繋いでいくべきものなんだ。そうやって子供は大人になっていくべきだし、大人は……大人は、もっと大人になるべきなんだ。俺たちは――」
いい加減うるさい、とでも言いたげな拳が彼の横腹を突いた。
鋭く、だが、親しみのある拳だった。
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