わだつみの宮にさよなら 小説版

高木解緒 (たかぎ ときお)

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 なぜ離さないのか、離せないのか。
 なぜ彼女は戻り切らないのか、戻り切れないのか。
 なぜ俺は戻らないのか、それとも、戻れないのか。
 いくつもの疑問が混沌こんとんとし、帆織の中でうずを巻く。どの疑問を第一に考えていたのかさえあやしくなる。必死で考える。それだけだ。とにかく必死で考える。

 いつの間にか他の子供たちは皆、沖へ出て行ってしまっている。
 やさしい、デボンの浜辺。
 二人きりの、浜辺。潮間帯ちょうかんたい
 脊椎動物上陸せきついどうぶつじょうりく起点きてん――。
 彼の胡坐あぐらに乗り上げ、上半身を起こしてこちらを見据みすえるトヨミから帆織は目が離せない。
「何を、考えているの?」
 問われた彼は少し言い淀み、
「真奈と――」
「あのねッ、今、そんなこと言ってる場合ッ?」
「違うんだ。……真奈と行った水族館を思い出していたんだ。どでかい水族館だ」
「なるほどね」
 トヨミの表情は一瞬ゆるんだが、すぐに「で」と仕切りなおし、 
「言うこと、あるんだよね?」
 ぐっと詰め寄る少女。
「気づいてること、あるんだよね?」
「ああ、ある。あるよ」
「言って。早く言ってよ!」
 さあ、とトヨミは相変あいかわらずけわしい顔でせまる。苦笑いをらしかける帆織だったが、少女の目の中に小さな光が見えた気がしてハッとした。これは本当に失敗できない。 
「こいつは――」
 一瞬躊躇ためらい、だがすぐに、
「こいつは楽園なんかじゃない。水槽すいそうだ」
 言った瞬間、少女の目にはっきりと光がえた。帆織は自分の正解を知った。
「外を侵食してるのもここなんだろ? アクアリウムが漏れ出してる。だから外も結局は水槽だ。原始の楽園と言う題名の、少し規模の大きいアクアリウムなんだ」
「ウンウン、それでそれで?」
「――そうか」
 帆織は手を打った。
「だから戻り切れないのか。そうだろう? 君はこれが偽物にせものと知っていたから、これの中へ戻り切れないんだな?」
 ハァ、とトヨミは肩をすくめ、大袈裟おおげさな溜息をついて見せる。
「なんだ? なんか変なこと言ったか?」
「帆織さんってさ、ほんと期待させるのうまいよね。期待させて、つぶすのがすごくうまい。もう天才的。それとも、大人って、みんなそうなの?」
「ヒントもろくにくれないで分かれ、ってのがそもそも無茶なんだ」
「それは大人の目線でしょ。子供ってのはさ、大人が自分を見てくれてる証拠が欲しいの」
「分かった分かった……それで、じゃあ、どうして、君は戻り切れないんだ?」
「ほらまた間違える。本当にうべきはそこじゃないでしょ?」
 戻り切れないとか、戻らないとかじゃなくて、とれるトヨミ。
「自分に当てはめて考えてごらんなさいよ。自分がなぜ戻らないのか、戻れないのかなんてことより、ずぅっと最初にすべき問いがあるはず」
「自分に……」
 帆織はうなった。むっつりとだまった。
「もう知らない! 帆織さんに期待した私がやっぱり馬鹿だった!」
「早まるなよ。本当は気付いてないわけじゃないんだ。言おうと思えば言えるのさ」
「なんですってッ? じゃあなんで……」
「ちょっとまよったんだ。このままのほうが、君にとって幸せなんじゃないかって。君が安らかに生きていけるんじゃないかって」
「私の幸せも安らぎも、それは私が決めることよ。帆織さんにだって、誰にだって心配される筋合すじあい無い。だから……」
「……よし」
 帆織はうなずいた。トヨミのほほを両手ではさみ、互いの視線を固定する。静かに、落ち着いて問いかける。
「君は戻りたいのか?」
 人魚や有尾人ゆうびじんだった少女は心地良ここちよさげに目を閉じた。長い睫毛まつげだと帆織は思った。小さく愛らしい口元にくすぐったそうな笑みの浮かぶのが、心の底からうれしかった。
「トヨミ、君は本当に、戻りたいのか?」
「――信じてよかった」
 ありがとう、とトヨミは今度こそはっきり微笑んだ。それからふっと真顔に戻り、しかし期待を込めた目で、
「あのね、あと、もう一回、信じてみるからね」


     ※


 夜の、大川のほとり。フブチの体表たいひょうがざわめくのを帆織は見た。余裕のある笑みはくずれ、ながまぶたの向こうで憎悪が光った。真っ向からそれをうけとめ、帆織はトヨミをめて叫ぶ。
「まだだ。まだこの子は、この子たちは完全に未来への希望を捨てたわけじゃない。人として育つこと、大地をみしめて立つことを願うから帰り切れないんだ。中途半端な人魚にしかなれないんだ。本当は戻りたくないんだ。母なる海は、もう過去の話なんだ!」
「今頃気づいても、もう遅いさ。目の前に楽園へいたる門が開いているんだ。彼らが出てきた楽園、本当に彼らがいるべき原始の楽園、それはほら、すぐそこにある!」
「楽園だって?」
 帆織は笑った。そうだな、とうなずき、 
「こいつは確かに一見、平和だ。安楽のそのだ。だが生物がそれぞれの特性を押し込められた世界が本当に楽園か? それは誰のための楽園だ? いや、誰かのためだけの世界が楽園だなんて言えるのか? 捕食者から逃げないイワシの群れ、カイギュウと仲良くただようモササウルス、生きていた時代は問題じゃない。だがこれで本当に生きていると言えるのか? あいつらは水槽をにぎやかすためにつくられたおかざりだ。だからこれも楽園なんかじゃない。水槽だ。閉じ込めるために作られた入れ物なんだ」
 もちろんこれらは後付あとづけの理屈だ。直観の根拠は、いつか見た水中の囚人しゅうじん――。
 帆織の脳内のうないせつなげな柔肌が白く、幾度いくたびひらめく。水中蛍光灯の光に浮かぶ悲痛な懇願こんがんよみがえる。結局は閉ざされた金魚鉢の中ならば、いくらエアレーションをしてみても、濾過装置ろかそうちを新しく、強くしてみても、どうしたってオリはまり続け、彼女の自家中毒じかちゅうどくを引き起こし、やがて世界を濃く、ざしていくだろう。そして世界に繋がる媒体がオリ、負性感情ふせいかんじょう残滓ざんしである限り、新たな構築はおろか再現すらいびつにしかしょうじえないのだ。いな
「それがお前の目的だ。オリの蓄積を誘導ゆうどうしたのはそれがお前に都合よく海の記憶を再生できるからだ。きばを抜かれた優しい世界、ゆがんだ郷愁や懐古だけを映すスクリーンとして!」
「こいつが偽物にせものだというわけか。なら、本物の楽園はどうあるべきだと言うのかね?」
「違う。偽物か、本物かなんてこのさい大切なことじゃない。楽園なんて本当は無かった。デボン紀にも大量絶滅たいりょうぜつめつがあった。エディアカラにも捕食動物はいた。俺たち真核生物しんかくせいぶつ食作用しょくさようで誕生した。生き物はもしかするとただの情報体であったころから、食ったり食われたりして進化をつむいできたんだ。〝戻るべき楽園〟なんて最初から無かった! それは――」
 間違った生態展示せいたいてんじの題名にぎないんだ、と喝破かっぱされたフブチ。だが彼もしつこい、
「それは君の真実だ。そのの真実はそのが決める。ほら見たまえ! 彼女はまだ楽園を捨てきれていないぞ。その向こうに、真実にしたいものがあるからだ」
 帆織は腕の中を見る。トヨミは抵抗を止めてはいたが、じっと楽園を見つめ、荒い息遣いきづかいをしていた。人魚たちが優しく招くたびに見開かれた目をうるませ、玉座の真珠がきらめくたびに小さく身悶みもだえした。やがて再び、尾を縁取ふちどひれわずかずつ伸長しんちょうを始めてしまう。
(あの浜から帰ってきたのは、俺だけか――)
 帆織は唇を噛みしめた。
 本当の気持ちに気付いただけではまだ、足りないのだ。時を進めるにはそれ以上の、向きを持った力が必要だ。
 あの浜でトヨミは、帆織がわざと言わなかったことについて気づいていただろうか。幸せの、本当の奥底にまで介入かいにゅうできる知識を、彼が大人の視点からいとも簡単に得てしまっていたことを知っていただろうか。たがいを補完ほかんし合う二つの世界の往来おうらいにおいて、彼がその確信を深めていたことに気がついていただろうか。それは少女の心をこじ開けることはもちろん、こわすことすらできるかもしれないのだ――。
「残念だったな。気付いた時にはもう全てが過ぎ去っている、君たち人間の認知など所詮しょせん、そんなものだ。さてさて、その子が失望に失望をかさねた通り、未来には絶望が見えているじゃないか。絶滅はすぐそこじゃないか。そのくせ、君は今、かえるべき過去すら彼女から取り上げようと言うのかね。それで一体、次はどこへみちびくつもりだ!」
 ぐつぐつと笑い、決めつける停滞ていたい象徴しょうちょう
 今となっては帆織にもこの男の正体が読めている。一種の病原体だ。この川にりついた腐敗へいたやまいだ。抗体としてのトヨミをめとり、取り込むことで川を、世界全体をよどませようとしている。全ての停滞を目指めざしている。
「だから水槽に導くのか? 閉じ込めて飼い殺しにするというわけか?」
「君がいくらえたところでその子が戻らないことに変わりはない。君だって今の今までかえりたい者の一人だったじゃないか。だから、その子に洗礼をさずけることができたんじゃないか。自分の都合つごうで押したり引いたり、それはエゴというものだよ」
「そうだ、エゴだ」
 帆織の中に渦巻うずまく一つの呪文がある。それはフブチに言われるまでもなく、本当にエゴのかたまりとしかようのない呪文だ。これを唱えた瞬間、帆織は無責任で自己中心的な大人の代表として確立するだろう。そのあとに待つのは、あるいは、完全なる断絶――。
 自分にそんな呪文をとなえる資格のないことを帆織はよく知っている。確かに、子供たちは人でありたいがために人魚のかたちとどまっているのだろう。だが子供たちが自らそうありたいと願うことと、大人がそうあってほしいと願うことではまるで話が違う。つなぎたいと願うこととつないで欲しいと願うこととは全く違う。それが大きな痛みをともなうのなら、なおのことそうだ。痛みをこらえてただつなげと言うのでは、ほうげてやるのと何も変わらない。傲慢ごうまんな押し付け以外の何物なにものでもない。子供たちが拒否したところで、それはまずいものをまずいと言っただけのことでしかない。生き物として当然の反応でしかない。
 しかし繋いでほしいのだ。大地に立ち、人を人として繋ぎ続けてほしいのだ。めよやせよ、ちよ――、それは神からでない、人から人への願いなのだ。
 エゴだ。これはエゴだ。だが、あがないの方法がまるでないわけではない。
(ある大人にとって一人の子供が全ての子供たちの代表ならば、ある子供にとって一人の大人が全ての大人を代表することもできるはずだ。トヨミ、俺はなるぞ。君にとって大人の代表に俺はなる。そして君を傷つけるぶん、俺は俺の責任を果たす……)
「なんだって?」
 フブチが怪訝けげんな顔で耳をかたむけけた。うつむいた帆織のつぶやきが聞き取れなかったのだ。
「立ってくれ、と言ったんだ」
 帆織が顔を上げる。トヨミの体を一層強く抱きしめて、その目はフブチを見ていない。川面かわもぐに、力強く見つめている。必死で何かを探している。
 やはり予想通りだと帆織はうなずいた。
 外側にはいない。内側にもいなかった。これはあきらかなヒントだ。
(今の魚たちで海があふれているのに――)
 トヨミのいつか言った言葉が脳裏のうりよみがえる。もう、いないもの。いてはいけないもの。
 覚悟は決まった。そうだ、召喚しょうかんせよ、
「ダンクルオステウス!」
 その瞬間、帆織も魔法使いだった。少女の絶叫ぜっきょうと同時に大川がれた。生命史を通して最強の肉食魚、デボン覇者はしゃ、最大の甲冑魚かっちゅうぎょ板皮類ばんぴるい、そしてなにより、少女と少年をつなぐ思い出のかぎ――、プレートカッターのようなあご大開おおびらきにして夜へえたのは、全長が十メートルに届く古生代こせいだいの魚の王だ。トヨミの心をいて飛び出した。
「貴様!」
 憤怒ふんぬに燃え立つフブチへ、苦しみもがくトヨミをめながら帆織は笑う。
「シラブカが変態へんたいした時点で気が付くべきだった。この川はこの子次第しだいってことなんだろ? 全ての決定権はこの子にある。川底かわぞこのお花畑もカイギュウの大群も、全部トヨミがんだんだ。この子は川そのものだ。そしてこの子は、自分がでっちあげる色々な妄想で必死にあいつを押さえつけてた。にぎやかな郷愁きょうしゅうぶったこの楽園、水槽も、結局はそのための目くらましだ。全てをきらいになりたい衝動しょうどうから目をらすための!」 
 そういう点ではお前だって彼女の小道具に過ぎないんだ、と帆織は言い切る。フブチは立ちすくみ、怒りに身を震わせた。なぜならその指摘が真実だと、彼が一番よく知っているからだ。彼女はやり直したいのではない。本当は、無かったことにしたいのだ。暴走する過去の象徴しょうちょう郷愁きょうしゅうの楽園へいたる門番にしては不都合ふつごうすぎる存在でしかない。だから、どちらの世界でもかくされていた。激昂げきこうの怪人はやっと一声、
「貴様のしたことは許されない!」
「許されようなんて思っちゃいないさ」
 すっかり両脚りょうあしえ、下半身を取り戻したトヨミを帆織はそっと地面によこたえる。まなじりに浮かぶ涙をぬぐってやると、彼女はふいと横を向いて体を丸めた。すでに尾は無い。
「――すまん」
 あやまり、それまでの考えを実行に移す。水底みなそこの楽園は大狂乱だいきょうらんおちいっていた。なにしろ彼らを陸へ追い上げた張本人ちょうほんにんが再びその姿を現したのだ。古生代の魚王ぎょおうは水中で他の王が立つことを許さない。甲冑のように硬い表皮で覆われる巨大な頭部で神殿へ突進、早くも玉座をたたこわした。玉座がくずれた瞬間、天まで届く楽園も崩壊ほうかいを始める。水塊すいかいはのっぺりとはるか遠くへ引いて行き、やがて海抜かいばつの基準がもとへと戻る。
 だがダンクルは満足しない。今度はまどう人魚たちへ目を移した。大顎おおあご幾度いくどみ合わせ、プレートカッターをぎ始める。目覚めたばかりでえているのだ。
 帆織は身着みきのまま川へ飛び込んだ。いでいるひまはなかった。子供たちを絶対、犠牲にしてはいけない。それは結ばれていないが当然の約束だ。
「こっちだ!」
 彼は水面すいめんたたきにたたき、声を限りに叫んだ。
 群れからはずれた個体を第一にねらう、それが捕食魚ほしょくぎょの習性だ。そしてやはり古代の魚王ぎょおうもそうだった。ダンクルはこちらをちらと見たかと思うと方向を変え、一心不乱いっしんふらんに帆織へ向かって来た。あごが開かれ、カッターの断面がてらてらと光った。肉が切り裂かれるのか、心が切り裂かれるのかまでは帆織にも分らない。その両方かもしれない。だが、まよいはない。未来への生贄いけにえが必要であるのならそれが未来の住人であってはならないのだ。今の住人がそれをつとめなければならないのだ。それが前世代にとってのつなぐということなのだ。
 今のうちだ、と帆織は喉奥のどおくの切れるのもかまわず人魚たちへさけんだ。
「みんな上がれ、おかに上がれ!」
 ハッとした顔つきの人魚が数匹いた。コハダやマルタかもしれない。他の人魚を先導せんどうし、全てをひきいて護岸際ごがんぎわへ泳ぎに泳ぐ。帆織は微笑ほほえんだ。すべきことをしたと思った。 
 ついにダンクルが水面すいめんへ飛び出す。巨大な頭突ずつきで水と大気をもろともぶちやぶってがる。禍々まがまがしい口を極限まで大開おおびらきに、暴虐ぼうぎゃく殺戮さつりくの王は帆織めがけて端正たんせいな弾道をえがいた。
 さすがに目を閉じそうになり、だがここで負けるわけにはいかない。ぐにそれを、咽頭いんとうの奥、よみがえる闇を見据みすえなければならない。その姿を、見ていてもらわなければならない。大顎おおあご眼前がんぜん一杯いっぱいせまり、
「オニアカ!」
 呼び声とともに赤褐色せきかっしょくの巨体が真横まよこからダンクルをばした。水面すいめんへ叩きつけられ、体勢を起こそうとする魚王の甲冑かっちゅうへ巨大な毒棘どくとげが突き立つ。あられもない姿をさらした意趣返いしゅがえしか、オニアカの眼は緑に爛々らんらんたけっている。とどろ咆哮ほうこうが夜を切り裂き、大川のど真ん中で巨大魚対巨大魚の息詰いきづまる怪魚大決戦かいぎょだいけっせんが始まる。 
 生きていたのか、とつぶやこうとする帆織。だが、それよりずっと大切なことに気が付いた。
「トヨミ、――元気になったのか?」
 呼ばわると、いつのまに泳いで来たものか、
「そんなに早く元気になれるわけないでしょ」
 すぐ後ろで声がした。振り返ると、いつもの黒いダイブスキン姿に戻ったトヨミが立ち泳ぎで微笑んでいる。水を吸う長いままの髪をあましながら、
「おじさんっていうのはさ、なんでそうすぐにりたがるのかな。最後の最後でどう判断したか、決断までにどういう過程があったのかとかさ、それを聞きたい後進こうしんも結構いると思うんだよね。いさぎよらないことだって、つなぐための勇気なんじゃないの?」
「すまん。……あと、こういう手段しか思いつかなかったことも、本当にすまない」
「もう一回信じてみるって私、言ったよ? その謝罪は逆に帆織さんが私を信じきれてない証拠だよね? フェアじゃないなぁ。それに、すごく失礼だと思う!」
 帆織は呆れた。
「……よくまあ、そこまで好き勝手言えるもんだな」
「相手の大人をしっかり信じちゃってる時の、子供らしい甘え、ってもんよ」
 にんまり微笑むトヨミ。帆織も微笑む。二人はやがて、声出して笑いあった。
「これからどうする?」
 岸まで泳ぎながら問う帆織。トヨミは得意気とくいげに、
「そんなの決まってるじゃない。帆織さんを目印めじるしにするの」
「目印?」
 ほら早く、と後ろからせっついて帆織と護岸へ上がると、彼女はいきおいよく川面かわもを振り返った。最後の最後、護岸際ごがんぎわで上陸ポイントを中々なかなか見つけられずに右往左往うおうさおうする子供たちへ、張りのある、んだ声で大きく呼ばわる。
「ほら、ここだよ! みんなここだよ! ここが浅くなってる。ううん、みんなの保安官がちゃんと浅くしてくれたんだよ! 上がる道筋みちすじを見つけてくれたんだよ!」
 流されるな。流れに身をまかせるな。河口の向こうに広がるのは最早もはや、母なる海でない。上がれ、上がれ、りくに上がれ。骨盤こつばん重心じゅうしんあずけ、二本のあしけ上がれ。
 上陸せよ、上陸せよ――、指令はさざなみのように群れへ広がり、その反応は目覚めざましい。産卵のため浜へ乗り上げるクサフグの群れのように、人魚の大群はすさまじい大波となって護岸間際ごがんまぎわへ押し寄せた。われわれもと二人へ手をばし、
「上がれ、ほら、とにかく上がるんだ!」
 最初は帆織とトヨミがり上げてやっていたが、そのうち両脚りょうあしえた子供たちがみずから気付き、まだ川にいる仲間を引き上げにかる。そうして次々上陸する。
 ものはすでに落ちている。最強の免疫〝希望〟が禍々まがまがしい記憶をはらうのだ。あこがれ無き原始の楽園は乾いた昔話に過ぎない。ゆがめられた記憶の再生をめ、海洋情報のライブ配信を受けたDNAが少年少女の体をまたたくうちにもとかたちへ、我々がついに得た形へ戻していく。逆に、
「帆織さん、あれ!」
 うながされた帆織が見ると相生橋あいおいばし勢揃せいぞろいしてこちらを見下ろしていたはずの偽者にせものたちがもだえ、苦しみ始めていた。苦痛に顔をゆがめ、われが胸をむしり、したたるように川へ落ちる。水へ落ちた途端にもとのノガレの体へ戻り、あとは暗い深みへ消えるしかない。
「ニッチのかさなりに耐えられないんだろう」
 帆織は言った。
「結局、今、そこに適応している者が、今そこに一番適応しているのさ。だからこの子たちが確信をもって陸へ上がると、連中はしをくらってしまうんだ」
「――なるほどね。本来選ばれていたものが最後には勝つというわけか」
 ハッと振り返る二人へフブチが笑いかける。
「まあ、あいつらはもう、どうでもいいのだ。あいつらに遠回とおまわしにやらせていたことを、今はあのダンクルオステウスがあっさりたしてくれるからね」
 彼があごをしゃくって見せるその向こうでは巨大魚同士の死闘しとうが続いていた。最初は優勢だったオニアカだが、さすがに疲れもあるのだろう。一瞬の遅れでひれふちかじられた。ダンクルはしつこくオニアカの後部へ回り込み、毒棘どくとげのある尾の付け根をみ落とそうとねらっている。
「あいつのために、もうこの川は滅茶苦茶めちゃくちゃだ。君を楽園にまねき、ゆるやかに世界を腐敗ふはいいざなうつもりだったがね、この具合じゃあいつが最初から全てをつぶしてくれる。あいつは全てを食らい尽くすぞ。そして最後の最後にはあいつ自身が飢えて死ぬ。そのあとで僕はまたやってくるさ。引きかれた君を丁寧にひろい集めて、今度は瓶詰びんづめにでもしてあげよう」
「それは無理ね」
 トヨミが答えた。りんとした声音こわねだった。怪人の顔が強張こわばり、
「――なんだと?」
「あんまりめないほうがいいと思うな。特に、正しくつながってる時の私たちを」
 一瞬、トヨミは帆織をちらと見た。んだ両目が不敵ふてきに輝いていた。水際みずぎわに立ち、彼女は背筋せすじを伸ばす。歓迎のじょうを示して両腕を大きく広げ、声を限りに呼びかける。
「分かったから。あなたとの付き合い方、私、分かったから」
 直後、戦闘を放棄し、トヨミへ向かって泳ぎせま甲冑かっちゅうの巨大魚。襲うためではない。その目に光る喜びの輝きを帆織は見た。かえるのだ。魚王ぎょおうはもといた時代へ還るのだ。
 ダンクルだけでない。よみがえった全ての古代生物たちが群れなしてそれへ続いた。
 イクチオサウルス、リオプレウロドン、アーケロン、カストロイデス、デスモスチルス、ノトサウルス、アカントーデス、鸚鵡貝おうむがい三葉虫さんようちゅう筆石ふでいし、ピカイア――。
「やめろ!」
 フブチが叫ぶ。だがトヨミには聞こえてすらいない。両足でしっかり大地にり、胸を張って腕を広げ続ける。晴れ晴れした微笑みを向け続ける。
「いいよ、戻って! みんな戻って!」
 飛翔ひしょう。ダンクルオステウスは威風堂々いふうどうどう、夜にった。水と大気の境界を易々やすやすつらぬいて飛び上がった。王がえが航跡こうせき辿たどり、他の古生物もあとへ続く。川の上に生命史の虹をかける。大海たいかいに生きとし生きてきし者の全てが放物線の終点、トヨミめがけて飛び込んでくる。数十トン分の体積をそのままに怒涛どとうごとく落ちてくる。微笑む彼女は海となった。全てを受ける海となった。原始の郷愁きょうしゅうへ至る門を開いた。生き物たちはその海へ、還るべき場所へ呑み込まれ、彼女はしっかり門を閉じた。
 全て一瞬の出来事だった。
 静かだ。夜の大川は今、とても静かだ。
 トヨミはふっと息を抜き、自分の胸へやさしく両手をかさねる。
「あいつが!」
 大きな水音みずおと余韻よいんやぶられて帆織が叫んだ。水面直下を下流へ進む巨大な黒い人影がある。海底にまった人のけがれ、極限まで濃縮され具現化したヨドミ、あれこそフブチの本体だと帆織は直感した。
 トヨミがもりを拾った。ねらいを定めて思い切り振りかぶった。いきおいつけてみ出し、体をひねった彼女が銛を打つ直前、帆織の視界は彼女の視界と同調していた。これだ、と帆織は感じた。遠く未来までつらぬく射程の全てを二人は同時に見据みすえていた。それは完全に二人のものだった。呼吸が合う。気合きあいほとばしる。トヨミの、帆織の手から銛がはなたれた。


     ※


 それからあったのはちょっとした騒ぎだ。町中まちじゅうへ突然、裸の子供たちがあふれだした。
 だが、それらはまもなくおさまっていった。子供たちはみずからの居場所へなんの苦労もなく帰って行った。それがもっとも自然だからだ。彼らこそ、間違いなし、文句なしの最適種さいてきしゅだからだ。  
「――俺たちの歩いてきた道は、気の遠くなるほど膨大ぼうだいな偶然の一つ一つが、これまたどうしようもないほどの偶然によって、偶然、結び付けられたものなんだ」
 帆織は護岸ごがんに立ち、のんびり彼らを見送った。
「だから、俺たちが〝それ〟を必然だと思わない限り、俺たちが歩いてきた道はすぐに多くの偶然でもれてしまう。全ての可能性がごちゃ混ぜになって、どうせ偶然なんだと思えてしまう。全部、無意味に思えてしまう。ただ一つ、意味があったと見えること、原点ばかりが目立ってしまう。そして俺たちがこれらから歩こうとする道もまた、俺たちが必然を求めないなら、偶然から偶然選ばれ、偶然接続されるだけなんだ。それはやっぱり、いつか、無意味な偶然に思えてしまうだろう」
 朝焼あさやけを裸のいっぱいにび、手をつないだコハダとマルタが川べりからって行く。
 声を殺し、静かに泣きじゃくるトヨミの肩をきながら帆織はとなえた。一体全体いったいぜんたいこれでなぐさめているつもりなのかと自分で自分にあきれながら、ただただ、唱え続けた。
「いや、実際、意味なんてないんだ。歩いてきた道を必然にして、のぞましい必然の未来へ繋げるためには、俺たち自身が意味を見出みいだしてやらなければならないんだ。もし、その意味が今は分からなくても、理解できなくても、あるいはまわしいもののように思われても、意味を見出さなくちゃならない。見出すことで意味を与え続けなくちゃならない。そして自分で与え続けたその意味に正対せいたいして、次の意味へ繋げてやらなくちゃならない。意味のある結果や、進化を、ただ待ったり、期待してたりしちゃいけない。引き寄せなくちゃならない。俺たちは、それができる地球ではじめての種族なんだ。自分から前適応ぜんてきおうできる初めての種族なんだ。そのかた、俺たちのこの特性こそもっとつないでいくべきものなんだ。そうやって子供は大人になっていくべきだし、大人は……大人は、もっと大人になるべきなんだ。俺たちは――」
 いい加減かげんうるさい、とでも言いたげなこぶしが彼の横腹をいた。
 鋭く、だが、したしみのある拳だった。
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