10 / 33
2-1
しおりを挟む
2-1
「贖いの機会は与えられました!」
指導者の男が強く言い切るそのたびに、色とりどりのカヌーやカヤック、バヤックで構成される群衆から大きな拍手と声援が沸き起こった。川面いっぱいに広がったデモ隊はいかにも勇ましく、騒々しいセミたちの大合唱ですら荘厳なBGMとなるようだ。
「我々は過去の過ちを決して、決して、繰り返してはなりません。この川を再び汚泥と油膜のどぶ川に戻してはならないし、酸素の乏しい、生態系の墓穴としてはならない。大川が全ての人々、我々以前、我々以降、世代を超え、全人類にとってかけがえない共有財産であることを理解し、その認識を行動によって示さなければならないのです」
数台のカヌーが牽引するいかだ上に組まれた簡易やぐらから、拡声器を片手に男は声高らかに呼びかけた。堂々と、極めて正論を語り続けていた。たとえ原稿の丸暗記でも、冷静に見れば理想家と言うより狂信者めいた外見をしていても、大衆に語り掛ける自らへの陶酔が明朗な自信とカリスマを演出する。とにかく拠り所を求める人々には後光すらも錯覚させる。
「そう、この川はまさしく我々共有の財産なのです! 特に最近、改めてこの川が世界に二つとない貴重な場所となったことは皆さん、周囲を御覧になれば一目瞭然のはず。我々は蘇ったこの川を、この川に棲む生きとし生ける全てを、皆で大切に守り育てていかなければなりません。今こそ、再びのチャンスが与えられているのです」
それなのに、と彼は一呼吸置き、
「この川を私物化している者たちがいる!」
波の上で彼らに対峙する水軍の子供たちへ向かい、大袈裟な身振りで決めつけた。
「そうだぁッ」
焼け付く日差しへ拳を突き上げ、わざとらしい抑揚で団体の大人たちが追従する。
「幼稚な残虐性に身を委ねる者、生命の囁きから耳を背ける者、魔女を使役する者――」
ひげ面の指導者は水軍、中でもコハダをまっすぐに見据えて唱え続けた。対する漁労長は唇を強く噛み、それでもどこかに逆転の隙を伺う。油断なく男とその周囲を観察している。
「帆織君!」
呼ばれて振り返ると、潤地が息を切らせて立っていた。帆織は百の援軍を得た思いで、
「どうです? 警察、どれくらいで来てくれますかね。もうすぐ危なそうなんですが……」
指導員を鼻で笑う大人たちでも、水上警察なら抑えることができるはずだ。
だが、
「来ないわよ」
え、と固まる帆織。それは全く予想外の言葉だった。どうして、と思わず声に出た。
「この人出です、交通整理でもなんでも、出動する理由はあるはずでしょう?」
「警察は来ない。ううん、来るかもしれないし、あの中に、もう来てるかもしれない。だけど私たちの望むようには動かない。少なくとも水軍を助けることは絶対無い。あのね……」
潤地の耳打ちに帆織はめまいを覚えた。
(どうする、漁労長)
だが、こちらの状況などもちろん知る由もない、コハダは堪えに堪えた調子で、
「だから、魔女は、うちとは関係ない、って何度も言ってるでしょう。大体――」
「もう結構」
それまで水上やぐらの上、指導者の後ろに仏頂面で控えていた男が、唐突にコハダの反論を遮った。七三に分けた黒髪をぺったりと撫で付け、黒縁眼鏡に紺鼠色の背広上下、きっちり締め上げたネクタイというハイパークールビズをまるで無視した格好の四十男はいかにも懐古調の官吏といった風貌だが、果たして、
「環境省審議官補、兼、特殊生物対策室長の旗立だ」
名乗り、その場の全員を睥睨した。
「希少動物の緊急保護のためにここへ来ている」
「なるほど。……やっと介入する口実を得た、ってわけですね」
コハダは一歩も引かず、周囲にのんびりと浮かぶ大きな背中たちを見回して見せる。
「あまり失礼なことを言うもんじゃない!」
恫喝の途端、水軍の子供たちから盛大な罵声とブーイングが沸き起こり、
「仮にこの一件がなくとも君たちの、その幼稚極まる煩さが彼らに計り知れないストレスを与えるんだッ」
審議官補のこめかみに青筋が立った。
「水軍諸君は今すぐ水から上がりたまえ。五分以内だ。さもないと強制的に君たちのバヤックを接収した上で、君たち自身を陸へ放り上げることになるぞッ」
「そんなこと、できると思ってるんですか? 法的な根拠は?」
「根拠は、あるっ」
汗まみれの顔を厭らしく邪悪に歪めて、旗立は胸の内ポケットから取り出した一枚の書面を水軍へ向ける。
上意、とばかりぐいと誇示し、
「これはね、緊急の行政代執行なんだよ――」
そうなのだ。帆織はほぞを噛んだ。潤地が掴んだ情報によれば、この騒動は中津瀬会の意向による可能性が高い。会はこの川を環境資源として再編成しようと目論むにあたり、海賊気取りの子供たちを目障りな邪魔者と彼らは判断したのだ。そうなれば経済連合の名をしかるべき筋へ及ぼして、子供たちからの接収などわけはない。やぐらの上で得意げに唇を歪める旗立はその使い走り、高らかにシュプレヒコールを上げて周囲を固める無粋なよそ者連中は今や政府の支持を受ける団体の実働部隊であり、我らが水軍こそ若年犯罪者予備軍、反社会的な子供たちの徒党、未来への禍根とされたのだ。
「そういうのって、事前の通達が必要なはずじゃないんですか?」
コハダはなおも食い下がり、冷静に抗おうとするが、
「できの良い中学生らしい、通り一遍のお勉強だねぇ」
審議官補は勝ち誇った顔になって、行政代執行は通常、対象者へ幾度か通達された後に行われると行政執行法第三条第二項にあるが、非常の場合、急速な実施の必要性が認められる場合は手続きを省略し執行が可能であると第三項に記されている、と一気に説いた。
「心配しなくていい。執行にかかる費用や没収、あるいは沈められた君たちのバヤックの弁償については補償が効く。君たちはただ、陸に上がりさえすればいい」
「保安官――ッ、こんな横暴が許されるのッ?」
突然コハダが叫んだ。バヤックに股がって波間に漂う水軍の全員が振り返り、護岸に立つ帆織を注視した。
もちろん場合が場合だけに、同じ制服を着た自由漁業者指導員が帆織の他にも大勢出張っている。だがなぜか、子供たちにとって「保安官」と言えば帆織なのだった。コハダだけでない、皆が彼の答えを聞こうと固唾を飲んで口を利かない。
今まで見たことのないほど熱く、力強い子供たちの視線に射抜かれ、帆織の頬を大粒の汗が伝い落ちた。正念場だと思った。
「無駄だよ、彼も公務員なんだ」
嘲笑う旗立。
その軽口を押しのけるように、
「上がるんだ」
子供たちがざわめいた。コハダの目の色が変わるのを帆織は見て取った。だがこの場で自分は、自分の立場では、こう言うしかない、と彼は自らに言い聞かせた。この場を明け渡せばなし崩しに追い出されてしまう、とコハダたちが考えているにしても、
「今は上がろう。そして、共生をアピールするための対策を練ったほうがいい」
コハダは口をつぐみ、数秒、彼を見つめた。その目、その表情が、以前のトヨミに似ている、と帆織は感じた。入れ替わったみたいだとも思った。少女はやがて視線を逸らし、再びこちらを向いて、「残念だな」とだけ言った。一呼吸置いてから前を向き、御自慢のライフジャケットをきちんと着なおす。キャップをしっかり目深にかぶる。その横で幼馴染みの少年もまた、身なりを整えだしている。その動きが水軍全体に波及していく。
「コハダッ――」
呼び掛けに返事はない。戦闘準備を終えた水軍連合は改めて敵を向いた。
もとよりそのつもりだったのだろう、保護団体の面々も、分別あるはずの年頃にも似つかわしくない時の声だか威嚇の声だかを上げ、原始的な興奮に酔いしれている。審議官補が号令を下すのと、コハダが自ら大きくペダルを踏みこむのとが同時だ。ついに両軍は進撃を開始した。
「やめろッ、やめろッ」
子供らを追って水へ入ろうとする帆織を潤地や他の指導員が慌てて引き止める。
と、帆織はもがくのをやめた。対岸の、うっそうとした街路樹の影に見慣れた姿を見たからだ。黒々と華奢で、それこそ陰のような立ち姿。外見はいつものトヨミかと思われたが、
(違う)
帆織は感じた。少女の黒い姿は今、陰にすら馴染んでいなかった。くっきりと収束し、ただひたすらに黒かった。顔だけが白々と宙に浮かんで見えた。帆織のポケットで携帯端末が鳴動する。視線はトヨミへ向けたまま取り出してみれば、その彼女からメッセージが届いており、
toyomi:わたしのせいだ
また届く。
toyomi:わたしが、間違えた
違う、と返信しようとしたその時、帆織の耳が川面の異常を捉えた。否、それは少し前からその傾向を見せ始めていたのだが、人だけを見る興奮に溺れ、誰も注意していなかったのだ。帆織にしても、今のトヨミとのやり取りがなければ、気にもとめなかっただろう。
水面で弾ける大きな呼吸音の間隔、回数、勢い、その全てが、急激に増加している――。
※
その、一ヶ月ほど前。
「ガッチャ!」
冷房を程よく効かせ、遮光カーテンを下して照明を絞った薄暗い部屋の中、パソコンのモニターを前にイナコは呟いた。ニュース記事と届いたメールを見比べる眼球が目まぐるしく動く。大きな瞳がレトロなモニターの明かりを鋭く反射している。
大川名物三人娘、最後の一人にして、水上ギャングの女帝――。
もっとも、フィンズは決して水上ギャングなどではない、科学技術の発展を利益によって数値的に証明する先鋭化された実験集団である、とイナコは思っている。合理化の徹底と利益追求の姿勢が、曖昧なフィーリング頼りの連中からは異質かつ暴力的に見えてしまうだけだ。
無法者呼ばわりされるのはまったくもって我慢がならなかった。そもそも水軍の決めた自主規制のほとんどが、彼女の目からすれば科学的な根拠のないものばかりなのだ。科学的に取られたデータさえあれば決まり事なんぞ「いつでも従ってやる」と思う。だが、野生の勘だの感情論だの、迷信だので次々規制をかけられたのでは堪ったものでない。
もちろん大川の漁に地域住民との円滑な関係が必要だとは理解しているし、人と人の付き合いの中にハッキリクッキリできないモノがあることなど、小学六年生となればもう、知りすぎるほどに知っている。だが、それでも理解できないこと、受け入れられないことはある。
「いいね、いいね!」
薄闇の中でニマニマと、自分の肩を抱きすくめてイナコはにやける。少女の眼球運動をディスプレイ側センサーが感知して記事を滑らかにスクロールする、その速度が彼女の興奮の度合いを物語る。
獲物の隙を窺う狼のような表情をしている癖に、両膝をきちんと揃え、背筋を伸ばして椅子へ腰かけた様子はいかにも育ちが良く、「おしゃま」「都会っ子」などの形容を愛らしく具現化したようなイナコだ。整った面立ちときめ細やかな柔肌、夏物パジャマの白い生地が薄暗がりの中でぼんやり光りあっている。意志の強い目元、濃く形の良い眉には蠱惑的なほど大人の雰囲気があり、陸上で優等生中の優等生と郷愁や憧れをもって評されるのも至極当然、どちらかと言えば幼稚で好戦的な大川の喧騒とはひどくアンバランス、無縁な存在とさえ見える。
だが実際は、彼女こそが多くの喧騒を生み出しているのだ。フィンズ大首領兼、科学技術班主任、それがイナコの正体だった。よく見れば、でこ出し分けを左のこめかみで留めるスリーピンにはアオザメの歯が使われている。不意打ちに人を襲う、という意味がある。色白の肌、艶々と長い黒髪は確かに上品だが、それは「泳ぐならやっぱプールでしょ」と公言する彼女が自らは滅多に川へ入らず、室内から情報機器を駆使して部下を手足のように使役するスタイルを好むことの表れだ。
「一滴の川の水にどれくらい微生物が入ってるか御存知ですか?」
「私はコハダ先輩みたいに野蛮人じゃありませんから」
などと言い、水軍の子供たちのような自然乾燥では無く、温水シャワーやドライヤーの完備された高級プールを専らとする、タワーマンション最上層階の子どもである。もっともタワマン高層階の水軍メンバーも少なくないから、イナコが「上流でスマートな自分」というイメージに拘るのはコハダへの対抗意識の表れ、戦略の意味合いが強い。
河川利用の合理化と自由化拡大を目指すイナコとフィンズにとって、川の子供たちに慕われ、謎規則を自らにも周囲にも徹底するコハダはまさしく、目の上のたんこぶだった。そして背丈では勝っているが、天性のリーダーシップの持ち主としてはいつも今一歩、イナコがコハダに及ばないという点で、コハダはイナコの個人的障壁でもあり続けてきた。
(だけど……)
チャンスが近づいているのかも知れなかった。
そして、そうであるとするならば、
(夏休み中に、決着つけてやるんだから!)
イナコは独り頷き、手早く一通の電子メールを作成した。送信ボタンを押すのと同時にもう片方の手にある携帯端末の電話アプリを起動させ、手下へ招集をかけ始める。
「佃水軍の妨害? そんなのどうだっていいよ。今日は川へ出る暇なんてないから。みんなでうちで調べもの。そういうのできる子、五人くらい集めてちょうだい。あと、アイツとあんた同じマンションよね。私が感謝してたって伝えて。メール見たって」
その時、ポン、と音がして返信アイコンがパソコンモニターへ現れた。
思わず「はやッ」と呟くイナコだったが、電話相手をごまかし、話を続けながらメールを開く。
Re:国海大調査隊事故の件
マレット様
事故調査委員会の発表、こちらでも確認しました。マレットさんの仰る通り、事故の原因とされる河床型乱泥流が記録されずに、実際には乱泥流そのものが無かったとするならば、調査委員会は明らかな嘘をついていることになります。なぜでしょう。
また、これはまだ噂ですが、事故前に予備調査として行われた夜間の水中ドローン調査は全て失敗しており、その原因も不明のままだそうです。
やはりこの川に、何か大きな変化が起こりつつあるのかもしれません。私は背後関係からこの件を追ってみますので、川の方はいつも通り、そちらへお願いしたいと思います。
フック
配下へ指示を出し終え、通話を切ったイナコは満足げにほほ笑んだ。締め切った部屋の中で、ほつれ毛が爽やかな空想の追い風に吹かれ始めるのをはっきりと感じていた。
この風は、やがて嵐になるだろう。
「贖いの機会は与えられました!」
指導者の男が強く言い切るそのたびに、色とりどりのカヌーやカヤック、バヤックで構成される群衆から大きな拍手と声援が沸き起こった。川面いっぱいに広がったデモ隊はいかにも勇ましく、騒々しいセミたちの大合唱ですら荘厳なBGMとなるようだ。
「我々は過去の過ちを決して、決して、繰り返してはなりません。この川を再び汚泥と油膜のどぶ川に戻してはならないし、酸素の乏しい、生態系の墓穴としてはならない。大川が全ての人々、我々以前、我々以降、世代を超え、全人類にとってかけがえない共有財産であることを理解し、その認識を行動によって示さなければならないのです」
数台のカヌーが牽引するいかだ上に組まれた簡易やぐらから、拡声器を片手に男は声高らかに呼びかけた。堂々と、極めて正論を語り続けていた。たとえ原稿の丸暗記でも、冷静に見れば理想家と言うより狂信者めいた外見をしていても、大衆に語り掛ける自らへの陶酔が明朗な自信とカリスマを演出する。とにかく拠り所を求める人々には後光すらも錯覚させる。
「そう、この川はまさしく我々共有の財産なのです! 特に最近、改めてこの川が世界に二つとない貴重な場所となったことは皆さん、周囲を御覧になれば一目瞭然のはず。我々は蘇ったこの川を、この川に棲む生きとし生ける全てを、皆で大切に守り育てていかなければなりません。今こそ、再びのチャンスが与えられているのです」
それなのに、と彼は一呼吸置き、
「この川を私物化している者たちがいる!」
波の上で彼らに対峙する水軍の子供たちへ向かい、大袈裟な身振りで決めつけた。
「そうだぁッ」
焼け付く日差しへ拳を突き上げ、わざとらしい抑揚で団体の大人たちが追従する。
「幼稚な残虐性に身を委ねる者、生命の囁きから耳を背ける者、魔女を使役する者――」
ひげ面の指導者は水軍、中でもコハダをまっすぐに見据えて唱え続けた。対する漁労長は唇を強く噛み、それでもどこかに逆転の隙を伺う。油断なく男とその周囲を観察している。
「帆織君!」
呼ばれて振り返ると、潤地が息を切らせて立っていた。帆織は百の援軍を得た思いで、
「どうです? 警察、どれくらいで来てくれますかね。もうすぐ危なそうなんですが……」
指導員を鼻で笑う大人たちでも、水上警察なら抑えることができるはずだ。
だが、
「来ないわよ」
え、と固まる帆織。それは全く予想外の言葉だった。どうして、と思わず声に出た。
「この人出です、交通整理でもなんでも、出動する理由はあるはずでしょう?」
「警察は来ない。ううん、来るかもしれないし、あの中に、もう来てるかもしれない。だけど私たちの望むようには動かない。少なくとも水軍を助けることは絶対無い。あのね……」
潤地の耳打ちに帆織はめまいを覚えた。
(どうする、漁労長)
だが、こちらの状況などもちろん知る由もない、コハダは堪えに堪えた調子で、
「だから、魔女は、うちとは関係ない、って何度も言ってるでしょう。大体――」
「もう結構」
それまで水上やぐらの上、指導者の後ろに仏頂面で控えていた男が、唐突にコハダの反論を遮った。七三に分けた黒髪をぺったりと撫で付け、黒縁眼鏡に紺鼠色の背広上下、きっちり締め上げたネクタイというハイパークールビズをまるで無視した格好の四十男はいかにも懐古調の官吏といった風貌だが、果たして、
「環境省審議官補、兼、特殊生物対策室長の旗立だ」
名乗り、その場の全員を睥睨した。
「希少動物の緊急保護のためにここへ来ている」
「なるほど。……やっと介入する口実を得た、ってわけですね」
コハダは一歩も引かず、周囲にのんびりと浮かぶ大きな背中たちを見回して見せる。
「あまり失礼なことを言うもんじゃない!」
恫喝の途端、水軍の子供たちから盛大な罵声とブーイングが沸き起こり、
「仮にこの一件がなくとも君たちの、その幼稚極まる煩さが彼らに計り知れないストレスを与えるんだッ」
審議官補のこめかみに青筋が立った。
「水軍諸君は今すぐ水から上がりたまえ。五分以内だ。さもないと強制的に君たちのバヤックを接収した上で、君たち自身を陸へ放り上げることになるぞッ」
「そんなこと、できると思ってるんですか? 法的な根拠は?」
「根拠は、あるっ」
汗まみれの顔を厭らしく邪悪に歪めて、旗立は胸の内ポケットから取り出した一枚の書面を水軍へ向ける。
上意、とばかりぐいと誇示し、
「これはね、緊急の行政代執行なんだよ――」
そうなのだ。帆織はほぞを噛んだ。潤地が掴んだ情報によれば、この騒動は中津瀬会の意向による可能性が高い。会はこの川を環境資源として再編成しようと目論むにあたり、海賊気取りの子供たちを目障りな邪魔者と彼らは判断したのだ。そうなれば経済連合の名をしかるべき筋へ及ぼして、子供たちからの接収などわけはない。やぐらの上で得意げに唇を歪める旗立はその使い走り、高らかにシュプレヒコールを上げて周囲を固める無粋なよそ者連中は今や政府の支持を受ける団体の実働部隊であり、我らが水軍こそ若年犯罪者予備軍、反社会的な子供たちの徒党、未来への禍根とされたのだ。
「そういうのって、事前の通達が必要なはずじゃないんですか?」
コハダはなおも食い下がり、冷静に抗おうとするが、
「できの良い中学生らしい、通り一遍のお勉強だねぇ」
審議官補は勝ち誇った顔になって、行政代執行は通常、対象者へ幾度か通達された後に行われると行政執行法第三条第二項にあるが、非常の場合、急速な実施の必要性が認められる場合は手続きを省略し執行が可能であると第三項に記されている、と一気に説いた。
「心配しなくていい。執行にかかる費用や没収、あるいは沈められた君たちのバヤックの弁償については補償が効く。君たちはただ、陸に上がりさえすればいい」
「保安官――ッ、こんな横暴が許されるのッ?」
突然コハダが叫んだ。バヤックに股がって波間に漂う水軍の全員が振り返り、護岸に立つ帆織を注視した。
もちろん場合が場合だけに、同じ制服を着た自由漁業者指導員が帆織の他にも大勢出張っている。だがなぜか、子供たちにとって「保安官」と言えば帆織なのだった。コハダだけでない、皆が彼の答えを聞こうと固唾を飲んで口を利かない。
今まで見たことのないほど熱く、力強い子供たちの視線に射抜かれ、帆織の頬を大粒の汗が伝い落ちた。正念場だと思った。
「無駄だよ、彼も公務員なんだ」
嘲笑う旗立。
その軽口を押しのけるように、
「上がるんだ」
子供たちがざわめいた。コハダの目の色が変わるのを帆織は見て取った。だがこの場で自分は、自分の立場では、こう言うしかない、と彼は自らに言い聞かせた。この場を明け渡せばなし崩しに追い出されてしまう、とコハダたちが考えているにしても、
「今は上がろう。そして、共生をアピールするための対策を練ったほうがいい」
コハダは口をつぐみ、数秒、彼を見つめた。その目、その表情が、以前のトヨミに似ている、と帆織は感じた。入れ替わったみたいだとも思った。少女はやがて視線を逸らし、再びこちらを向いて、「残念だな」とだけ言った。一呼吸置いてから前を向き、御自慢のライフジャケットをきちんと着なおす。キャップをしっかり目深にかぶる。その横で幼馴染みの少年もまた、身なりを整えだしている。その動きが水軍全体に波及していく。
「コハダッ――」
呼び掛けに返事はない。戦闘準備を終えた水軍連合は改めて敵を向いた。
もとよりそのつもりだったのだろう、保護団体の面々も、分別あるはずの年頃にも似つかわしくない時の声だか威嚇の声だかを上げ、原始的な興奮に酔いしれている。審議官補が号令を下すのと、コハダが自ら大きくペダルを踏みこむのとが同時だ。ついに両軍は進撃を開始した。
「やめろッ、やめろッ」
子供らを追って水へ入ろうとする帆織を潤地や他の指導員が慌てて引き止める。
と、帆織はもがくのをやめた。対岸の、うっそうとした街路樹の影に見慣れた姿を見たからだ。黒々と華奢で、それこそ陰のような立ち姿。外見はいつものトヨミかと思われたが、
(違う)
帆織は感じた。少女の黒い姿は今、陰にすら馴染んでいなかった。くっきりと収束し、ただひたすらに黒かった。顔だけが白々と宙に浮かんで見えた。帆織のポケットで携帯端末が鳴動する。視線はトヨミへ向けたまま取り出してみれば、その彼女からメッセージが届いており、
toyomi:わたしのせいだ
また届く。
toyomi:わたしが、間違えた
違う、と返信しようとしたその時、帆織の耳が川面の異常を捉えた。否、それは少し前からその傾向を見せ始めていたのだが、人だけを見る興奮に溺れ、誰も注意していなかったのだ。帆織にしても、今のトヨミとのやり取りがなければ、気にもとめなかっただろう。
水面で弾ける大きな呼吸音の間隔、回数、勢い、その全てが、急激に増加している――。
※
その、一ヶ月ほど前。
「ガッチャ!」
冷房を程よく効かせ、遮光カーテンを下して照明を絞った薄暗い部屋の中、パソコンのモニターを前にイナコは呟いた。ニュース記事と届いたメールを見比べる眼球が目まぐるしく動く。大きな瞳がレトロなモニターの明かりを鋭く反射している。
大川名物三人娘、最後の一人にして、水上ギャングの女帝――。
もっとも、フィンズは決して水上ギャングなどではない、科学技術の発展を利益によって数値的に証明する先鋭化された実験集団である、とイナコは思っている。合理化の徹底と利益追求の姿勢が、曖昧なフィーリング頼りの連中からは異質かつ暴力的に見えてしまうだけだ。
無法者呼ばわりされるのはまったくもって我慢がならなかった。そもそも水軍の決めた自主規制のほとんどが、彼女の目からすれば科学的な根拠のないものばかりなのだ。科学的に取られたデータさえあれば決まり事なんぞ「いつでも従ってやる」と思う。だが、野生の勘だの感情論だの、迷信だので次々規制をかけられたのでは堪ったものでない。
もちろん大川の漁に地域住民との円滑な関係が必要だとは理解しているし、人と人の付き合いの中にハッキリクッキリできないモノがあることなど、小学六年生となればもう、知りすぎるほどに知っている。だが、それでも理解できないこと、受け入れられないことはある。
「いいね、いいね!」
薄闇の中でニマニマと、自分の肩を抱きすくめてイナコはにやける。少女の眼球運動をディスプレイ側センサーが感知して記事を滑らかにスクロールする、その速度が彼女の興奮の度合いを物語る。
獲物の隙を窺う狼のような表情をしている癖に、両膝をきちんと揃え、背筋を伸ばして椅子へ腰かけた様子はいかにも育ちが良く、「おしゃま」「都会っ子」などの形容を愛らしく具現化したようなイナコだ。整った面立ちときめ細やかな柔肌、夏物パジャマの白い生地が薄暗がりの中でぼんやり光りあっている。意志の強い目元、濃く形の良い眉には蠱惑的なほど大人の雰囲気があり、陸上で優等生中の優等生と郷愁や憧れをもって評されるのも至極当然、どちらかと言えば幼稚で好戦的な大川の喧騒とはひどくアンバランス、無縁な存在とさえ見える。
だが実際は、彼女こそが多くの喧騒を生み出しているのだ。フィンズ大首領兼、科学技術班主任、それがイナコの正体だった。よく見れば、でこ出し分けを左のこめかみで留めるスリーピンにはアオザメの歯が使われている。不意打ちに人を襲う、という意味がある。色白の肌、艶々と長い黒髪は確かに上品だが、それは「泳ぐならやっぱプールでしょ」と公言する彼女が自らは滅多に川へ入らず、室内から情報機器を駆使して部下を手足のように使役するスタイルを好むことの表れだ。
「一滴の川の水にどれくらい微生物が入ってるか御存知ですか?」
「私はコハダ先輩みたいに野蛮人じゃありませんから」
などと言い、水軍の子供たちのような自然乾燥では無く、温水シャワーやドライヤーの完備された高級プールを専らとする、タワーマンション最上層階の子どもである。もっともタワマン高層階の水軍メンバーも少なくないから、イナコが「上流でスマートな自分」というイメージに拘るのはコハダへの対抗意識の表れ、戦略の意味合いが強い。
河川利用の合理化と自由化拡大を目指すイナコとフィンズにとって、川の子供たちに慕われ、謎規則を自らにも周囲にも徹底するコハダはまさしく、目の上のたんこぶだった。そして背丈では勝っているが、天性のリーダーシップの持ち主としてはいつも今一歩、イナコがコハダに及ばないという点で、コハダはイナコの個人的障壁でもあり続けてきた。
(だけど……)
チャンスが近づいているのかも知れなかった。
そして、そうであるとするならば、
(夏休み中に、決着つけてやるんだから!)
イナコは独り頷き、手早く一通の電子メールを作成した。送信ボタンを押すのと同時にもう片方の手にある携帯端末の電話アプリを起動させ、手下へ招集をかけ始める。
「佃水軍の妨害? そんなのどうだっていいよ。今日は川へ出る暇なんてないから。みんなでうちで調べもの。そういうのできる子、五人くらい集めてちょうだい。あと、アイツとあんた同じマンションよね。私が感謝してたって伝えて。メール見たって」
その時、ポン、と音がして返信アイコンがパソコンモニターへ現れた。
思わず「はやッ」と呟くイナコだったが、電話相手をごまかし、話を続けながらメールを開く。
Re:国海大調査隊事故の件
マレット様
事故調査委員会の発表、こちらでも確認しました。マレットさんの仰る通り、事故の原因とされる河床型乱泥流が記録されずに、実際には乱泥流そのものが無かったとするならば、調査委員会は明らかな嘘をついていることになります。なぜでしょう。
また、これはまだ噂ですが、事故前に予備調査として行われた夜間の水中ドローン調査は全て失敗しており、その原因も不明のままだそうです。
やはりこの川に、何か大きな変化が起こりつつあるのかもしれません。私は背後関係からこの件を追ってみますので、川の方はいつも通り、そちらへお願いしたいと思います。
フック
配下へ指示を出し終え、通話を切ったイナコは満足げにほほ笑んだ。締め切った部屋の中で、ほつれ毛が爽やかな空想の追い風に吹かれ始めるのをはっきりと感じていた。
この風は、やがて嵐になるだろう。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる