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約三億三千万年前、石炭紀に始まった地球規模の寒冷化には、主に二つの原因が考えられてきた。仮説の一つはオルドビス紀に上陸を果たし、続くシルル紀、デボン紀、石炭紀前中期を通じて勢力を拡大し続けていた陸生植物の大繁栄が気候に影響したというものである。
彼らは光合成の過程で二酸化炭素を取り込む。枯死した一部がそれを解放しないままに地中へ埋もれ、多量の石炭層を形成することにより大気の温室効果を減じたというのだ。
もう一つの説はもっと地学的なもので、ゴンドワナ、ユーラメリカの二大陸がプレートの移動により合体して誕生した超大陸パンゲアが、大規模氷床が成長する場所を提供した可能性が指摘されている。
おそらくは、この二つの要素が相関的に寒冷化を招いたのだ。
超大陸の再誕は陸生植物の繁栄に不可欠な「陸」を与え続け、それがもたらす温室効果の抑制は、北半球から南極にまで連なっていた超大陸上の氷床育成を促したに違いない。
だから、今は逆に、パンゲアからゴンドワナ、ユーラメリカの二大陸が産まれつつあると考えられる。世界は緩やかながら確実に遡行している。彼らが多足類アースロプレウラや蜻蛉類メガニウラと言った巨大節足動物の影に怯えながら、やっとの思いで抜け出した高さ数十メートルに達するリンボク類の大森林も、時とともに矮小化し、そのうちクックソニアなど、草体全部で指先程度の大きさしかない最初の陸生植物たちが陽光の全てを独占するだろう。
だが、それはまだ先のことだ。殻つき卵を産む連中が居なくなったのを見計らって低地に降りてきた彼らには、もう少し、生い茂る新緑を楽しむ時間が残されている。
ちょっとしたピクニック気分だった。
森と森の切れ間に覗く山々の緑や、あるいは気持ち良い木漏れ日に気付くと彼は必ず背中の彼女を促した。もう見ることもない陸上の世界を、思い出のうちくらいには留めておいたらどうかと思ったのだ。
しかし彼女は興味が無いらしい。飽き飽きした様子だ。他の同行者たちが茂みの中にゴキブリの祖先や巨大なヤスデを見つけて驚きの声を上げる時にも、うんざりした調子で鼻を鳴らし、彼のうなじへ顔を押し付けて何も聞こえないふりをしている。
過去と言うべきか、未来と言うべきか、まだ、彼女が少し特異な胸鰭と尻鰭を持つ肉鰭魚類の近縁だった頃には、この態度も全く違っていたはずだ。
氾濫後、川から分離して間もない極浅い水辺や沼沢地で、彼女は他の魚にはない分厚い鰭を自分の体をべた底から持ち上げる支えに使い、浮きもせず沈みもせず、浴場の湯船で子供がよくやるような、背中や尻と頭だけを外気にさらして、浅瀬を這い回る姿勢で暮らしながら、先に上陸した者たちを飽かずに眺めていたはずなのだ。
四肢動物の上陸は餌となる無脊椎動物の上陸を追いかけて果たされたのだという説がある。とすれば、その頃の彼女は、水面に顔を突き出し、好奇心だの、焦りだの憧れだの、食欲だの狩猟本能だの、その他、様々な感情の入り混じるきらきら輝く瞳で陸を見つめていたに違いない。上陸の可能性をひしと感じて、体の奥底から興奮にうずいていたに違いないのだ。
だが今はそうでない。
心はもちろん、体まで、早く戻りたがってうずうずしている。
半透明の縁取りを持つ彼女の尻尾は、目的地が近づくにつれて益々充実してくるように思われた。そしてその付け根の両脇に生えている脚はと言えば、形こそ少女のそれだったが、大きさは赤ん坊の腕ほども無いくらいに縮んで、旅の行程の半分も過ぎないうちに小さく、ひくひくと所在無さ気に蠢くばかりとなってしまっていた。
長く、健やかに伸びていたはずの彼女の脚だった。しっとりと滑らかな肌を見せつける生気に満ちた太腿、軽やかな跳躍を感じさせるふくらはぎの肉付き、アキレス腱、足跡にすら活気の残る足。大地を踏みしめるために用意されたはずの諸々は、もう楽しみにして待ちきれないように水辺への適応をいそいそと準備して、随分早いうちから頼り無いものへと変わってしまっていた。
それで彼は、旅の間、ずっと彼女を背負って歩いている。
彼女は時々、もぞもぞと身じろぎをした。
そのたびに彼の背中は二つの温かな膨らみを感じる。最初のうちは対応に困ったものだが長い旅路でもう慣れた――とは中々、言えないものだ。
不思議なことに、彼女の上半身には全く遡行が見られなかった。下腹部こそへそが無く、粘液でぬめぬめとするだけだった皮膚に、鱗を予兆する強く擦れるような質感が出始めていた。だが二本の細腕は相変わらずしっかり彼の首へ巻き付いているし、乳房に至ってはまだまだ成長する可能性すら仄めかしている。
それが彼を困らせる違和感の正体だ。
彼の首筋にかかる呼気にもヒトの、娘々した甘みの増した気がする。彼女は人間の娘として成長している。下半身は確かに時間を遡っているのに、上半身は、僅かづつだが順行している。
なぜか。
彼女は人魚となるべき存在なのか。
ならばなぜ、人魚なのか。
とは言えそれは、彼にとっては良い傾向だった。魚類と人の違いの一つに、自由に可動する首の造りがある。我々は真横を見ようとする時、首を捻るだけでよい。だが魚類にはそれが出来ない。出来ないと言うのがおかしければ、目が横向きについているので、する必要が無い。だから全身が魚類へ遡行することは、首の消失、頭と胴体の連続を意味する。
彼女の首は重要だ。形が原始に遡る代償として、尖った顎をクイとあげ、冷静に、少し生意気な様子で彼を見上げる、あの仕草が無くなってしまうのだとすれば、彼には我慢がならない。ピンと張った下顎、少し大きく見える瞳の印象的なその時の彼女の表情が彼は好きだった。
だから、上半身だけでも人の姿を留めているというこの現象は素直に嬉しい。
よって肌の温もりが心地良く、彼女を背負い続けることもまるで苦にならなかった。
また、もぞもぞと彼女が動く。
ずり落ちる感じがして居心地が悪いのかと、その都度、背負い直してやる。小さくなった両脚は抱え込みづらく、手のひらを合わせた腕全体で尻を支えてやるのだが、こちらの指をどこに置くかと言う難問については一々細かい指示があって、はっきり言って煩い。
「じゃあ、動かないでくれよ」
という彼の言葉には、
「だって……」
不平めいた口ぶりで応じ、それっきり何も言わない。ぎゅっと両腕の締め付けを強くする。上半身の筋肉を全て使ってしがみ付き、密着した肌と肌を媒体に、トクトクという心音だけで何か、彼女にとって大切なことを伝えようとする。
「そっちも大変だな」
彼の左隣を歩いていた少年が言った。少年もまた脚萎えの少女を背負っている。そして少年自身の体もまた、変わり始めているように思われる。体表に鱗が見えている。
と、背中の彼女が、彼の右肩へうずめるように顔を押し当てた。
鼻息がひどく熱い。
※
全員が陸へ上がったことを確認したのち、帆織も上陸した。
川へ向き直り、呆然と眺めた。その場の誰もが突っ立って、同じようにしていた。
洞穴を抜ける風にも似た息継ぎの音が、あちこちから聞こえていた。川面を渡る水の香に混じり、獣の呼気がにおった。海獣、いや「怪獣」と表現してもいいかもしれない。
一頭一頭が相当の迫力の持ち主だ。とは言えそれは嫌な力ではない。草食の海生哺乳類に特有な、あくまで茫洋としたオーラなのだ。のんびりと、ただ、眼前一杯に迫ってくる。平均して全長七から八メートル、ころころ太った巨躯で波間へ気楽に漂い、どこかへ行こうとする気配はない。何をするでもなく定位している。灰褐色の肌に苔を生やした老齢の個体の脇では、幼体らしい個体が数頭、潜りっこをして遊んでいるのが見えた。
「――新種かも」
コハダが言った。
「大きすぎる」
続けて評したのは個体についてか、群れの頭数についてか、おそらくその両方だろう。今や相生橋の上流約五十メートルの範囲に、巨大な海生哺乳類の群れがひしめき合って浮いていた。少なく見積もっても五十頭はいる。対岸からこちらの岸まで背中伝いに渡れるかもしれない。
帆織は去年、これも真奈と旅行した南米で遭遇した、牛の大群を思い出した。延々と道を横切る群れのために三十分は車を停めたものだ。
……牛?
「先輩」
ふと肩を叩かれて振り返ると、その真奈が立っていた。少し前に帆織が電話で呼んだのだ。大学から走ってきたらしく彼女の額には大粒の汗が浮いている。だが、疲れた様子はない。むしろ際限ない興奮に目を輝かせている。手にした端末画面をこちらへ向け、
「普通の画像検索して、スケルトンアプリにかけた骨格画像も照合してみた」
息がはずんでいる。目は見開かれ、声も上ずり、
「たぶん、たぶんなんだけどね、この子たち――。たぶん……たぶんだよ?」
「前置き長いな」
帆織は笑った。
「たぶん、なんだって言うんだ?」
「この子たち……」
「ステラーカイギュウだよ!」
ここぞとばかりに海獣博士が叫んだ。真奈は少し残念そうな顔をしたものの、
「ザッツ、ライト」
おどけて言うと、博士の額を指で小突く。
「それって絶滅動物なんじゃねぇの?」
マルタの問いに二人が頷いた。今度は真奈の番で、
「そう。一七六八年以降に絶滅したとされてるよ。でも、目撃情報がまるでないわけじゃないんだ。いわゆるUMAの類かと思われているみたいだけど」
「こいつら、その生き残りってことかよ!」
「きれいになった大川の水に誘われて、東京湾に入ってきたのかも」
「あの!」
コハダが大声で真奈へ呼びかけた。
「この子たちって、人間を襲いますか?」
「大丈夫だと思うけどな。彼らはとても温和で、大人しい性格のはず。大人しすぎて人間に狩り尽くされたのが絶滅の原因、って言われてるくらいだから……あ、ちょっと!」
「OK!」
コハダが大きく頷くのと、
「ヤッホーィ!」
叫んで大きく駆け出すのとが同時だった。
慌てた帆織の制止も彼女の耳には届かない。
それどころか漁労長がきっかけとなって子供らが次々、タガの外れた様子で動き出す。皆、体の奥から突き上げる衝動を必死で堪えていたのだ。彼ら彼女らがこんな川の有様を見て素通りできるわけが無い。焼け付く岸辺におさらばだ。駆け出し、帆織や真奈の横をすり抜けて川へ飛び込んでいく。盛大な水飛沫が立て続けに起こって、陸に残る大人二人の服を濡らす。光る滴が飛び散って、群れの背中へ小さな虹を幾つもかける。
子供たちの歓声が響き渡る。
中には驚かされたことへの抗議を鼻息で示そうとする個体もいるが、大抵のカイギュウは迷惑げに自分の体をゆっくりと揺すり、それぞれ数十センチほど航路を変え、再び漂うばかりだった。そのすぐ下で、子供たちの魚雷のような潜影が水中を飛び交っている様子が陸上からでもよく見える。
「おい、コハダッ!」
息継ぎに顔を出した少女へ帆織は呼びかけた。
「何してる、上がれ!」
「すごいよ、保安官! 下から見るとね、もう壮観! 水面がきらきら光る白い幕みたいで、その中にこの子たちの影がみっしり浮かんでるの!」
こちらの言葉を聞きもしない。
「無敵艦隊大川に現る、って感じ!」
自分の表現に満足したものか再び息を深く吸い、彼女は鵜よりも早く潜ってしまう。
コハダだけでない、子供たちは皆、縦横無尽に泳ぎ回り、対象を心行くまで自由に観察している。中には早々に接触を試みる者までおり、帆織は胆を冷やし通しだ。
「幼体には絶対触るな! 親を怒らせるかもしれないぞッ!」
「保安官も大変だねぇ」
真奈が言った。
「でも、あの子たちが羨ましい気もするな」
「お前も泳いで来たらいいさ。あのステラーダイカイギュウを間近で見られるチャンスだぜ?」
「そうしたいのは山々なんだけどね」
皮肉の通じない彼女は柔らかく眉根を寄せた。
「この歳になって全国ネットで無様な犬かきを晒す度胸は、ちょっと無いかな」
「――全国ネット?」
問いに答えず、真奈は空を指さす。帆織が見上げれば報道のものらしい静音ヘリが数機、すぐ上空で旋回を始めていた。
「だからね、先輩」
という声に悪戯な調子を感じた時にはもう遅い、
「代わりにお願いッ!」
「おいッ!」
帆織は群れの中へ突き落されている。
立ち泳ぎしながら岸を振り返り、抗議の声を上げようとした彼だったが、思わず息を呑んだ。すぐそば、目の前に、カイギュウのつぶらな瞳が輝いていた。
米国フロリダのマナティもかなり人懐っこく、観光の目玉の一つになっているが、このカイギュウは図体が大きいだけ心にも余裕があるのだろう。物怖じする気配が全くない。
とぼけた顔つきへ埋もれるほど小さい目の中に、イルカやシャチといった連中にはまず見られない魯鈍と優しさが共生している。悲哀すら感じさせるほど優しい眼差しで、帆織は目を逸らすことができない。相手も目を逸らさない。じっと、物言いたげにこちらを見ている。だが、本当に言いたいことがあるわけではないのだろう、素振りはひどく呑気だ。ひょいと|鼻面を出して呼吸し、再び顔を水中へ没する。潜って行きはしない。体に浮力がありすぎて潜りづらいのかもしれない。水面直下から、やはりこちらを見つめ続けている。
「先輩、触ってみて!」
言われるまでも無い。帆織は眼前の鼻へ、そっと手を伸ばした。カイギュウの鼻孔から細かい泡が湧きたった。一瞬驚いて手を停めるが、見れば、相手の目に警戒や悪意はない。彼ら流の挨拶なのだろう。帆織の鼻先で呼気の泡が弾け、汗かきの犬のような匂いがした。昔可愛がっていた飼い犬を思い出す。そう言えば、似ている気がする。いや、犬ではない。誰か知り合いに似ている気がする。懐かしい誰か。近しい誰か。
(あの絶滅動物たちは、影だったが……)
夜の大川で見た光景が帆織の脳裏に蘇る。水に溶ける三葉虫の「影」を思い出す。
彼は相手の鼻面を優しく撫でた。手に触れるヒゲはピンとして、やはり硬い。影、などではなかった。この生き物は確かにここにいる。
「保安官、にやけてんぞ」
いつの間にか隣へ来ていたマルタがからかうように指摘したが、帆織は顔を引き締める気にならなかった。ぶふう、とカイギュウが鼻を鳴らした。
※
旦那。旦那よ。もう一杯、頼んでいいかね? いい? ああ、ありがてぇな――。
それで、だ。先生が恩知らずだのなんだのと偉そうな顔をしてほざきやがる連中がいるが、それはそいつらが何も分かっちゃいねえから、そんなこと言いやがるんだ。いいかね旦那、あれはまさしく俺たちへの、神様からの御恵みだったのさ。俺たちへの御恵み、だぜ。
こんなことは旦那はもう、分かっていなさるだろうがね。
忘れもしねえ、一七四一年の十一月四日のことさ。俺たち、ピョートル大帝様直々の御命令を戴いたロシア帝国第二次カムチャッカ探検隊は骨まで凍える大嵐にもみくちゃにされた揚句、無人島のすぐそばで座礁した。想像してごらんな、十一月のあの辺りなんてのは空も海ももうずっと、眺めているだけで頭を撃ち抜きたくなるような暗い暗い灰色さ。その上、天気は荒れづくでね。
船を降りることはすぐに決まったよ。そうするより他なかったもんな。
元気な奴がまず陸に上がって、と言っても、壊血病になっちまうか、なりかけちまうかで元気な奴なんぞほとんど残っちゃいなかったが、とにもかくにも、陸に上がった奴が全員で、浜辺近くの丘裾に大きな溝を切り、上から屋根代わりの帆布を掛け、なんとか当座の家を造った。
ずくずくの船に置いとくのもなんだし、本当は病人を先に上げたかったんだが、旦那、北極狐さ。白い悪魔どもよ。弱って動けない仲間を陸地に置いて、ちょっと目を離すと、すぐに奴らがどこからともなく現れて病人の腹を裂きやがる。殺されなくっても爪先だの鼻だのを齧られた奴は大勢いたね。あの時ばかりは夜、池の真ん中で寝るカモの気持ちがよっく分かったな。それで小汚ねえ船に病人を置いて、動ける者で上がるしかなかった。
小屋ができあがって、歩哨を立てられるようになって、ようやくみんなを陸へ上げることができた時にゃあ、心からありがてえ、と思ったね。屋根は漏るし、病人の糞や小便の臭いはするしで、ひでえ所にゃ違いなかったが、なんたって揺れねえからな。
落ち着いたところで俺たちは狩りに出かけ、少なくとも食料で困ることはなさそうだと分かってほっとしたさ。島の河口にゃあ、モルスカヤ・カロヴァ、旦那の言い方をすりゃ先生のカイギュウって奴がわんさと集まって来ていたからな。あいつらは本当に、何から何まで神の御恵みでしかねえ。神様はちゃんと、俺たちを哀れんでくだすっていたんだ。俺たちはモルスカヤ・カロヴァに初めて会った最初の文明人だったというわけさ。
奴らはまず、なりがでかいから、一頭殺して引き上げただけでも相当な肉が取れる。その肉がうまいからまたありがてえ。脂もたっぷりついてるからよ、喰って良し、燃料にして良し、革を剥がして鞣せば、新しい屋根だの靴だのベルトだの、ボートの覆いまで作ることができるのよ。
それに、なんてったって、あのミルクだ。
モルスカヤ・カロヴァは浅瀬に群れて、体を浮かせながら底に生えた藻を喰うんだ。それこそ牧場の牛みたいにな。
だが、牛よりよっぽど狩りやすかったね。
元々が大人しい生き物だしよ、人間の怖さてえのをまだ知らねえからボートで近づいても逃げやしねえ。それどころかカエシ付きの銛にロープを付けてぶち込んで、そのロープを陸から引いても、図体があんまりずんぐりむっくりでか過ぎて、浮き過ぎるもんだから、逃げることはもちろん、抵抗らしい抵抗ができねえのよ。
それで、殆ど生きたままで陸に引っ張り上げることができたな。何頭か引き上げた中に雌がいた。その雌がミルクを出せることを見つけて、先生に教えたのは俺だぜ。
先生は小躍りなさって喜んだね。早速何人かに乳搾りを命じておいてから、俺をつれてボートで船へ戻った。船ン中歩き回った挙句に干しブドウのくずだの、葡萄酒の空き壜を何本かだの、大切そうに抱えて来られた時にゃ、さては先生まで頭が――と危うんだが、そいつは発酵の種だったのよ。のっぺり顔の馬賊どものやり方なんだそうだがよ、ミルクを発酵させた酒にゃ、壊血病を防いだり、直したりする力があるんだと。この乳酒は生肉を喰う気力も無い病人たちにゃ、それこそ最高の薬になったね。先生は気性の激しい、ああいう御人だったから、隊の中には馬鹿にしたり嫌いだと言って憚らねえ奴も多かったんだが、この辺りから先生の味方が段々と増えてきた。
ベーリング隊長は十二月に、先生の乳酒を殆ど召し上がることもなくお亡くなりになったが、その後、座礁した船をばらして小舟を造り、島を脱出する計画は、ほとんど先生が指揮なさったんだ。何するでも無く、オットセイだのラッコだのをぶち殺して毛皮集めに精を出していた副長野郎の人望じゃ、とてもとても、計画がうまく行くはずも無かったね。
七〇人ばかりいた仲間が半分近く減っちまったが、それでも、あの島の冬を生き延びて無事に帰ってこられたのは、神様と先生様のおかげよ。
それにモルスカヤ・カロヴァだ。
先生はモルスカヤ・カロヴァを愛してなさった。あの海に素晴らしい生き物がいるのだと、皆に教えてやりたくてしょうが無かったのさ。それで、いつか発表なさろうと原稿を温めていなさった。
――旦那、もう一杯だけ、いいだろう? うーい、すまねえな。
だが、なんだよ。旦那。
先生は連中を愛してなさった。それは、本当だぁね。
だが、だ。
いかんせん、モルスカヤ・カロヴァたちは弱かった。まず、一年に一頭しか子を産まねぇ。そして生まれた子を夫婦や群れでじっくり育てる。こんなこっちゃぁ、群れの中の一頭が死ねば一年無駄になることくらい、すぐに分かりそうなもんじゃねえか、ええ、旦那?
第一、連中は優しすぎた。クジラどもみてぇに銛で突かれたらその船を襲ってひっくり返しちまうくらいの気迫があれば良かったのさ。自分が傷つけられりゃ逃げるでもなく、じっと動かないで痛みを堪えてやがる。傷つけられた仲間がいれば、ろくに泳げもしない癖に、放って逃げることができねえもんだから、近寄ってきて、何か自分にも助けられることがあるような顔して寄り添ってやがる。もちろん、本当は何もねえのだよ。仲間に刺さった銛を抜いてやろうとするにはするんだが、そういう器用なことができるように連中の手だの口だのはできていねえんだ。そのうち今度は自分が、銛をぶち込まれちまうってわけさ。
それが本当に仲間を大切にすることだって言えるのかね、ねぇ旦那。
残酷な見世物が大好物のハンターや船員野郎どもに取っちゃ、カイギュウ狩りはていの良い娯楽だった。俺たちは生き延びるために奴らを狩ったがよ、俺たちが帰った後、先生の話を聞いてあの海域に行った連中、壊れていない船と立派な武器、温かいコートのある奴らに取っちゃ海の牛は生きている玩具だったさ。そう言う連中に殺されたモルスカヤ・カロヴァは引き上げられるでもないままに海面で腐り、最後にはばらけて沈んじまったとよ。
ああ、これは先生の受け売りだがね、モルスカヤ・カロヴァが海藻ばかり食っていたのも良くなかったんだろうな。
どうして海藻ばかり食べていると弱いのかって?
先生の御遺稿が世に出て、あの辺りに毛皮目当てのハンターが集まるようになってよ。で、ハンターの一番の狙いは何だと思うね?
そう、ラッコよ。
連中の毛皮ときたら全く、良い金になるからなァ。
それでハンターが毛皮目当てにラッコばかり取るだろう。すると、ラッコが喰っていたウニは喰われなくなるもんだから、やたら増えるようになる。増えたウニは海岸線の昆布やなんかを片っ端から食い荒らしたり、根元を齧って流しちまったりする。するとモルスカヤ・カロヴァたちは浅瀬に喰うものがなくなって、飢えに飢えちまうってわけさ。
そんなこんなで、元々少なくなる定めを与えられていたような連中だったがよ、先生の亡くなった後、日誌やなんかが発表されて三十年も経たないうち、我も我もと押し寄せたハンターどもに遊ばれ尽くされて、すっかり数を減らしちまったってわけだァな。
俺がやっとこ金を工面して、また行ってみた時にゃ、もう二、三匹が波の合間に漂うばかりだった。それも雄ばっかりだ。呑気に馬鹿でかい図体をさらして、相変わらずこっちが近づいても逃げやしねえ。馬鹿だよ。あいつらは本当に馬鹿だよ。こんな雄三頭ばかり残されていても仕方がねえじゃねえか。俺はむかむかして、反吐の出る思いがした。
だいたいが――だぜ、旦那。
だいたいがこいつらは俺たちへの御恵みのはずだったんだ。そうだろう? なのにどうして俺は、今更こんな場所へのこのこやって来てるんだ?
脱出の時に詰めるだけ詰め込んだ毛皮を売りとばして、副長野郎は随分いい暮らしを送ったってぇ話だ。本当なら俺だって今頃は良いものを着て、こんなへんてこでない良い酒を飲み、女どもに囲まれて楽しくやっているはずなんだ。まじめに先生を手伝っていた俺はこんなありさまで、隊長様の墓穴掘りすらろくに手伝おうともしなかったあの野郎が左うちわってのはどういうわけだい。そう考えると俺は、この世の不平等ってやつにむかむかしてきた。
……それで? それで俺はどうしたかって?
それで俺は銃を取り、そこらへんに浮いているモルスカヤ・カロヴァを全部、撃ち殺しちまったのさ。あいつらさえいなければ、俺も副長野郎もおんなじように色々齧られた挙句、あの島の土くれになっていたはずなんだからな。神よ、御恵みをこの手で御返し申し上げます――、ってなぁ。
約三億三千万年前、石炭紀に始まった地球規模の寒冷化には、主に二つの原因が考えられてきた。仮説の一つはオルドビス紀に上陸を果たし、続くシルル紀、デボン紀、石炭紀前中期を通じて勢力を拡大し続けていた陸生植物の大繁栄が気候に影響したというものである。
彼らは光合成の過程で二酸化炭素を取り込む。枯死した一部がそれを解放しないままに地中へ埋もれ、多量の石炭層を形成することにより大気の温室効果を減じたというのだ。
もう一つの説はもっと地学的なもので、ゴンドワナ、ユーラメリカの二大陸がプレートの移動により合体して誕生した超大陸パンゲアが、大規模氷床が成長する場所を提供した可能性が指摘されている。
おそらくは、この二つの要素が相関的に寒冷化を招いたのだ。
超大陸の再誕は陸生植物の繁栄に不可欠な「陸」を与え続け、それがもたらす温室効果の抑制は、北半球から南極にまで連なっていた超大陸上の氷床育成を促したに違いない。
だから、今は逆に、パンゲアからゴンドワナ、ユーラメリカの二大陸が産まれつつあると考えられる。世界は緩やかながら確実に遡行している。彼らが多足類アースロプレウラや蜻蛉類メガニウラと言った巨大節足動物の影に怯えながら、やっとの思いで抜け出した高さ数十メートルに達するリンボク類の大森林も、時とともに矮小化し、そのうちクックソニアなど、草体全部で指先程度の大きさしかない最初の陸生植物たちが陽光の全てを独占するだろう。
だが、それはまだ先のことだ。殻つき卵を産む連中が居なくなったのを見計らって低地に降りてきた彼らには、もう少し、生い茂る新緑を楽しむ時間が残されている。
ちょっとしたピクニック気分だった。
森と森の切れ間に覗く山々の緑や、あるいは気持ち良い木漏れ日に気付くと彼は必ず背中の彼女を促した。もう見ることもない陸上の世界を、思い出のうちくらいには留めておいたらどうかと思ったのだ。
しかし彼女は興味が無いらしい。飽き飽きした様子だ。他の同行者たちが茂みの中にゴキブリの祖先や巨大なヤスデを見つけて驚きの声を上げる時にも、うんざりした調子で鼻を鳴らし、彼のうなじへ顔を押し付けて何も聞こえないふりをしている。
過去と言うべきか、未来と言うべきか、まだ、彼女が少し特異な胸鰭と尻鰭を持つ肉鰭魚類の近縁だった頃には、この態度も全く違っていたはずだ。
氾濫後、川から分離して間もない極浅い水辺や沼沢地で、彼女は他の魚にはない分厚い鰭を自分の体をべた底から持ち上げる支えに使い、浮きもせず沈みもせず、浴場の湯船で子供がよくやるような、背中や尻と頭だけを外気にさらして、浅瀬を這い回る姿勢で暮らしながら、先に上陸した者たちを飽かずに眺めていたはずなのだ。
四肢動物の上陸は餌となる無脊椎動物の上陸を追いかけて果たされたのだという説がある。とすれば、その頃の彼女は、水面に顔を突き出し、好奇心だの、焦りだの憧れだの、食欲だの狩猟本能だの、その他、様々な感情の入り混じるきらきら輝く瞳で陸を見つめていたに違いない。上陸の可能性をひしと感じて、体の奥底から興奮にうずいていたに違いないのだ。
だが今はそうでない。
心はもちろん、体まで、早く戻りたがってうずうずしている。
半透明の縁取りを持つ彼女の尻尾は、目的地が近づくにつれて益々充実してくるように思われた。そしてその付け根の両脇に生えている脚はと言えば、形こそ少女のそれだったが、大きさは赤ん坊の腕ほども無いくらいに縮んで、旅の行程の半分も過ぎないうちに小さく、ひくひくと所在無さ気に蠢くばかりとなってしまっていた。
長く、健やかに伸びていたはずの彼女の脚だった。しっとりと滑らかな肌を見せつける生気に満ちた太腿、軽やかな跳躍を感じさせるふくらはぎの肉付き、アキレス腱、足跡にすら活気の残る足。大地を踏みしめるために用意されたはずの諸々は、もう楽しみにして待ちきれないように水辺への適応をいそいそと準備して、随分早いうちから頼り無いものへと変わってしまっていた。
それで彼は、旅の間、ずっと彼女を背負って歩いている。
彼女は時々、もぞもぞと身じろぎをした。
そのたびに彼の背中は二つの温かな膨らみを感じる。最初のうちは対応に困ったものだが長い旅路でもう慣れた――とは中々、言えないものだ。
不思議なことに、彼女の上半身には全く遡行が見られなかった。下腹部こそへそが無く、粘液でぬめぬめとするだけだった皮膚に、鱗を予兆する強く擦れるような質感が出始めていた。だが二本の細腕は相変わらずしっかり彼の首へ巻き付いているし、乳房に至ってはまだまだ成長する可能性すら仄めかしている。
それが彼を困らせる違和感の正体だ。
彼の首筋にかかる呼気にもヒトの、娘々した甘みの増した気がする。彼女は人間の娘として成長している。下半身は確かに時間を遡っているのに、上半身は、僅かづつだが順行している。
なぜか。
彼女は人魚となるべき存在なのか。
ならばなぜ、人魚なのか。
とは言えそれは、彼にとっては良い傾向だった。魚類と人の違いの一つに、自由に可動する首の造りがある。我々は真横を見ようとする時、首を捻るだけでよい。だが魚類にはそれが出来ない。出来ないと言うのがおかしければ、目が横向きについているので、する必要が無い。だから全身が魚類へ遡行することは、首の消失、頭と胴体の連続を意味する。
彼女の首は重要だ。形が原始に遡る代償として、尖った顎をクイとあげ、冷静に、少し生意気な様子で彼を見上げる、あの仕草が無くなってしまうのだとすれば、彼には我慢がならない。ピンと張った下顎、少し大きく見える瞳の印象的なその時の彼女の表情が彼は好きだった。
だから、上半身だけでも人の姿を留めているというこの現象は素直に嬉しい。
よって肌の温もりが心地良く、彼女を背負い続けることもまるで苦にならなかった。
また、もぞもぞと彼女が動く。
ずり落ちる感じがして居心地が悪いのかと、その都度、背負い直してやる。小さくなった両脚は抱え込みづらく、手のひらを合わせた腕全体で尻を支えてやるのだが、こちらの指をどこに置くかと言う難問については一々細かい指示があって、はっきり言って煩い。
「じゃあ、動かないでくれよ」
という彼の言葉には、
「だって……」
不平めいた口ぶりで応じ、それっきり何も言わない。ぎゅっと両腕の締め付けを強くする。上半身の筋肉を全て使ってしがみ付き、密着した肌と肌を媒体に、トクトクという心音だけで何か、彼女にとって大切なことを伝えようとする。
「そっちも大変だな」
彼の左隣を歩いていた少年が言った。少年もまた脚萎えの少女を背負っている。そして少年自身の体もまた、変わり始めているように思われる。体表に鱗が見えている。
と、背中の彼女が、彼の右肩へうずめるように顔を押し当てた。
鼻息がひどく熱い。
※
全員が陸へ上がったことを確認したのち、帆織も上陸した。
川へ向き直り、呆然と眺めた。その場の誰もが突っ立って、同じようにしていた。
洞穴を抜ける風にも似た息継ぎの音が、あちこちから聞こえていた。川面を渡る水の香に混じり、獣の呼気がにおった。海獣、いや「怪獣」と表現してもいいかもしれない。
一頭一頭が相当の迫力の持ち主だ。とは言えそれは嫌な力ではない。草食の海生哺乳類に特有な、あくまで茫洋としたオーラなのだ。のんびりと、ただ、眼前一杯に迫ってくる。平均して全長七から八メートル、ころころ太った巨躯で波間へ気楽に漂い、どこかへ行こうとする気配はない。何をするでもなく定位している。灰褐色の肌に苔を生やした老齢の個体の脇では、幼体らしい個体が数頭、潜りっこをして遊んでいるのが見えた。
「――新種かも」
コハダが言った。
「大きすぎる」
続けて評したのは個体についてか、群れの頭数についてか、おそらくその両方だろう。今や相生橋の上流約五十メートルの範囲に、巨大な海生哺乳類の群れがひしめき合って浮いていた。少なく見積もっても五十頭はいる。対岸からこちらの岸まで背中伝いに渡れるかもしれない。
帆織は去年、これも真奈と旅行した南米で遭遇した、牛の大群を思い出した。延々と道を横切る群れのために三十分は車を停めたものだ。
……牛?
「先輩」
ふと肩を叩かれて振り返ると、その真奈が立っていた。少し前に帆織が電話で呼んだのだ。大学から走ってきたらしく彼女の額には大粒の汗が浮いている。だが、疲れた様子はない。むしろ際限ない興奮に目を輝かせている。手にした端末画面をこちらへ向け、
「普通の画像検索して、スケルトンアプリにかけた骨格画像も照合してみた」
息がはずんでいる。目は見開かれ、声も上ずり、
「たぶん、たぶんなんだけどね、この子たち――。たぶん……たぶんだよ?」
「前置き長いな」
帆織は笑った。
「たぶん、なんだって言うんだ?」
「この子たち……」
「ステラーカイギュウだよ!」
ここぞとばかりに海獣博士が叫んだ。真奈は少し残念そうな顔をしたものの、
「ザッツ、ライト」
おどけて言うと、博士の額を指で小突く。
「それって絶滅動物なんじゃねぇの?」
マルタの問いに二人が頷いた。今度は真奈の番で、
「そう。一七六八年以降に絶滅したとされてるよ。でも、目撃情報がまるでないわけじゃないんだ。いわゆるUMAの類かと思われているみたいだけど」
「こいつら、その生き残りってことかよ!」
「きれいになった大川の水に誘われて、東京湾に入ってきたのかも」
「あの!」
コハダが大声で真奈へ呼びかけた。
「この子たちって、人間を襲いますか?」
「大丈夫だと思うけどな。彼らはとても温和で、大人しい性格のはず。大人しすぎて人間に狩り尽くされたのが絶滅の原因、って言われてるくらいだから……あ、ちょっと!」
「OK!」
コハダが大きく頷くのと、
「ヤッホーィ!」
叫んで大きく駆け出すのとが同時だった。
慌てた帆織の制止も彼女の耳には届かない。
それどころか漁労長がきっかけとなって子供らが次々、タガの外れた様子で動き出す。皆、体の奥から突き上げる衝動を必死で堪えていたのだ。彼ら彼女らがこんな川の有様を見て素通りできるわけが無い。焼け付く岸辺におさらばだ。駆け出し、帆織や真奈の横をすり抜けて川へ飛び込んでいく。盛大な水飛沫が立て続けに起こって、陸に残る大人二人の服を濡らす。光る滴が飛び散って、群れの背中へ小さな虹を幾つもかける。
子供たちの歓声が響き渡る。
中には驚かされたことへの抗議を鼻息で示そうとする個体もいるが、大抵のカイギュウは迷惑げに自分の体をゆっくりと揺すり、それぞれ数十センチほど航路を変え、再び漂うばかりだった。そのすぐ下で、子供たちの魚雷のような潜影が水中を飛び交っている様子が陸上からでもよく見える。
「おい、コハダッ!」
息継ぎに顔を出した少女へ帆織は呼びかけた。
「何してる、上がれ!」
「すごいよ、保安官! 下から見るとね、もう壮観! 水面がきらきら光る白い幕みたいで、その中にこの子たちの影がみっしり浮かんでるの!」
こちらの言葉を聞きもしない。
「無敵艦隊大川に現る、って感じ!」
自分の表現に満足したものか再び息を深く吸い、彼女は鵜よりも早く潜ってしまう。
コハダだけでない、子供たちは皆、縦横無尽に泳ぎ回り、対象を心行くまで自由に観察している。中には早々に接触を試みる者までおり、帆織は胆を冷やし通しだ。
「幼体には絶対触るな! 親を怒らせるかもしれないぞッ!」
「保安官も大変だねぇ」
真奈が言った。
「でも、あの子たちが羨ましい気もするな」
「お前も泳いで来たらいいさ。あのステラーダイカイギュウを間近で見られるチャンスだぜ?」
「そうしたいのは山々なんだけどね」
皮肉の通じない彼女は柔らかく眉根を寄せた。
「この歳になって全国ネットで無様な犬かきを晒す度胸は、ちょっと無いかな」
「――全国ネット?」
問いに答えず、真奈は空を指さす。帆織が見上げれば報道のものらしい静音ヘリが数機、すぐ上空で旋回を始めていた。
「だからね、先輩」
という声に悪戯な調子を感じた時にはもう遅い、
「代わりにお願いッ!」
「おいッ!」
帆織は群れの中へ突き落されている。
立ち泳ぎしながら岸を振り返り、抗議の声を上げようとした彼だったが、思わず息を呑んだ。すぐそば、目の前に、カイギュウのつぶらな瞳が輝いていた。
米国フロリダのマナティもかなり人懐っこく、観光の目玉の一つになっているが、このカイギュウは図体が大きいだけ心にも余裕があるのだろう。物怖じする気配が全くない。
とぼけた顔つきへ埋もれるほど小さい目の中に、イルカやシャチといった連中にはまず見られない魯鈍と優しさが共生している。悲哀すら感じさせるほど優しい眼差しで、帆織は目を逸らすことができない。相手も目を逸らさない。じっと、物言いたげにこちらを見ている。だが、本当に言いたいことがあるわけではないのだろう、素振りはひどく呑気だ。ひょいと|鼻面を出して呼吸し、再び顔を水中へ没する。潜って行きはしない。体に浮力がありすぎて潜りづらいのかもしれない。水面直下から、やはりこちらを見つめ続けている。
「先輩、触ってみて!」
言われるまでも無い。帆織は眼前の鼻へ、そっと手を伸ばした。カイギュウの鼻孔から細かい泡が湧きたった。一瞬驚いて手を停めるが、見れば、相手の目に警戒や悪意はない。彼ら流の挨拶なのだろう。帆織の鼻先で呼気の泡が弾け、汗かきの犬のような匂いがした。昔可愛がっていた飼い犬を思い出す。そう言えば、似ている気がする。いや、犬ではない。誰か知り合いに似ている気がする。懐かしい誰か。近しい誰か。
(あの絶滅動物たちは、影だったが……)
夜の大川で見た光景が帆織の脳裏に蘇る。水に溶ける三葉虫の「影」を思い出す。
彼は相手の鼻面を優しく撫でた。手に触れるヒゲはピンとして、やはり硬い。影、などではなかった。この生き物は確かにここにいる。
「保安官、にやけてんぞ」
いつの間にか隣へ来ていたマルタがからかうように指摘したが、帆織は顔を引き締める気にならなかった。ぶふう、とカイギュウが鼻を鳴らした。
※
旦那。旦那よ。もう一杯、頼んでいいかね? いい? ああ、ありがてぇな――。
それで、だ。先生が恩知らずだのなんだのと偉そうな顔をしてほざきやがる連中がいるが、それはそいつらが何も分かっちゃいねえから、そんなこと言いやがるんだ。いいかね旦那、あれはまさしく俺たちへの、神様からの御恵みだったのさ。俺たちへの御恵み、だぜ。
こんなことは旦那はもう、分かっていなさるだろうがね。
忘れもしねえ、一七四一年の十一月四日のことさ。俺たち、ピョートル大帝様直々の御命令を戴いたロシア帝国第二次カムチャッカ探検隊は骨まで凍える大嵐にもみくちゃにされた揚句、無人島のすぐそばで座礁した。想像してごらんな、十一月のあの辺りなんてのは空も海ももうずっと、眺めているだけで頭を撃ち抜きたくなるような暗い暗い灰色さ。その上、天気は荒れづくでね。
船を降りることはすぐに決まったよ。そうするより他なかったもんな。
元気な奴がまず陸に上がって、と言っても、壊血病になっちまうか、なりかけちまうかで元気な奴なんぞほとんど残っちゃいなかったが、とにもかくにも、陸に上がった奴が全員で、浜辺近くの丘裾に大きな溝を切り、上から屋根代わりの帆布を掛け、なんとか当座の家を造った。
ずくずくの船に置いとくのもなんだし、本当は病人を先に上げたかったんだが、旦那、北極狐さ。白い悪魔どもよ。弱って動けない仲間を陸地に置いて、ちょっと目を離すと、すぐに奴らがどこからともなく現れて病人の腹を裂きやがる。殺されなくっても爪先だの鼻だのを齧られた奴は大勢いたね。あの時ばかりは夜、池の真ん中で寝るカモの気持ちがよっく分かったな。それで小汚ねえ船に病人を置いて、動ける者で上がるしかなかった。
小屋ができあがって、歩哨を立てられるようになって、ようやくみんなを陸へ上げることができた時にゃあ、心からありがてえ、と思ったね。屋根は漏るし、病人の糞や小便の臭いはするしで、ひでえ所にゃ違いなかったが、なんたって揺れねえからな。
落ち着いたところで俺たちは狩りに出かけ、少なくとも食料で困ることはなさそうだと分かってほっとしたさ。島の河口にゃあ、モルスカヤ・カロヴァ、旦那の言い方をすりゃ先生のカイギュウって奴がわんさと集まって来ていたからな。あいつらは本当に、何から何まで神の御恵みでしかねえ。神様はちゃんと、俺たちを哀れんでくだすっていたんだ。俺たちはモルスカヤ・カロヴァに初めて会った最初の文明人だったというわけさ。
奴らはまず、なりがでかいから、一頭殺して引き上げただけでも相当な肉が取れる。その肉がうまいからまたありがてえ。脂もたっぷりついてるからよ、喰って良し、燃料にして良し、革を剥がして鞣せば、新しい屋根だの靴だのベルトだの、ボートの覆いまで作ることができるのよ。
それに、なんてったって、あのミルクだ。
モルスカヤ・カロヴァは浅瀬に群れて、体を浮かせながら底に生えた藻を喰うんだ。それこそ牧場の牛みたいにな。
だが、牛よりよっぽど狩りやすかったね。
元々が大人しい生き物だしよ、人間の怖さてえのをまだ知らねえからボートで近づいても逃げやしねえ。それどころかカエシ付きの銛にロープを付けてぶち込んで、そのロープを陸から引いても、図体があんまりずんぐりむっくりでか過ぎて、浮き過ぎるもんだから、逃げることはもちろん、抵抗らしい抵抗ができねえのよ。
それで、殆ど生きたままで陸に引っ張り上げることができたな。何頭か引き上げた中に雌がいた。その雌がミルクを出せることを見つけて、先生に教えたのは俺だぜ。
先生は小躍りなさって喜んだね。早速何人かに乳搾りを命じておいてから、俺をつれてボートで船へ戻った。船ン中歩き回った挙句に干しブドウのくずだの、葡萄酒の空き壜を何本かだの、大切そうに抱えて来られた時にゃ、さては先生まで頭が――と危うんだが、そいつは発酵の種だったのよ。のっぺり顔の馬賊どものやり方なんだそうだがよ、ミルクを発酵させた酒にゃ、壊血病を防いだり、直したりする力があるんだと。この乳酒は生肉を喰う気力も無い病人たちにゃ、それこそ最高の薬になったね。先生は気性の激しい、ああいう御人だったから、隊の中には馬鹿にしたり嫌いだと言って憚らねえ奴も多かったんだが、この辺りから先生の味方が段々と増えてきた。
ベーリング隊長は十二月に、先生の乳酒を殆ど召し上がることもなくお亡くなりになったが、その後、座礁した船をばらして小舟を造り、島を脱出する計画は、ほとんど先生が指揮なさったんだ。何するでも無く、オットセイだのラッコだのをぶち殺して毛皮集めに精を出していた副長野郎の人望じゃ、とてもとても、計画がうまく行くはずも無かったね。
七〇人ばかりいた仲間が半分近く減っちまったが、それでも、あの島の冬を生き延びて無事に帰ってこられたのは、神様と先生様のおかげよ。
それにモルスカヤ・カロヴァだ。
先生はモルスカヤ・カロヴァを愛してなさった。あの海に素晴らしい生き物がいるのだと、皆に教えてやりたくてしょうが無かったのさ。それで、いつか発表なさろうと原稿を温めていなさった。
――旦那、もう一杯だけ、いいだろう? うーい、すまねえな。
だが、なんだよ。旦那。
先生は連中を愛してなさった。それは、本当だぁね。
だが、だ。
いかんせん、モルスカヤ・カロヴァたちは弱かった。まず、一年に一頭しか子を産まねぇ。そして生まれた子を夫婦や群れでじっくり育てる。こんなこっちゃぁ、群れの中の一頭が死ねば一年無駄になることくらい、すぐに分かりそうなもんじゃねえか、ええ、旦那?
第一、連中は優しすぎた。クジラどもみてぇに銛で突かれたらその船を襲ってひっくり返しちまうくらいの気迫があれば良かったのさ。自分が傷つけられりゃ逃げるでもなく、じっと動かないで痛みを堪えてやがる。傷つけられた仲間がいれば、ろくに泳げもしない癖に、放って逃げることができねえもんだから、近寄ってきて、何か自分にも助けられることがあるような顔して寄り添ってやがる。もちろん、本当は何もねえのだよ。仲間に刺さった銛を抜いてやろうとするにはするんだが、そういう器用なことができるように連中の手だの口だのはできていねえんだ。そのうち今度は自分が、銛をぶち込まれちまうってわけさ。
それが本当に仲間を大切にすることだって言えるのかね、ねぇ旦那。
残酷な見世物が大好物のハンターや船員野郎どもに取っちゃ、カイギュウ狩りはていの良い娯楽だった。俺たちは生き延びるために奴らを狩ったがよ、俺たちが帰った後、先生の話を聞いてあの海域に行った連中、壊れていない船と立派な武器、温かいコートのある奴らに取っちゃ海の牛は生きている玩具だったさ。そう言う連中に殺されたモルスカヤ・カロヴァは引き上げられるでもないままに海面で腐り、最後にはばらけて沈んじまったとよ。
ああ、これは先生の受け売りだがね、モルスカヤ・カロヴァが海藻ばかり食っていたのも良くなかったんだろうな。
どうして海藻ばかり食べていると弱いのかって?
先生の御遺稿が世に出て、あの辺りに毛皮目当てのハンターが集まるようになってよ。で、ハンターの一番の狙いは何だと思うね?
そう、ラッコよ。
連中の毛皮ときたら全く、良い金になるからなァ。
それでハンターが毛皮目当てにラッコばかり取るだろう。すると、ラッコが喰っていたウニは喰われなくなるもんだから、やたら増えるようになる。増えたウニは海岸線の昆布やなんかを片っ端から食い荒らしたり、根元を齧って流しちまったりする。するとモルスカヤ・カロヴァたちは浅瀬に喰うものがなくなって、飢えに飢えちまうってわけさ。
そんなこんなで、元々少なくなる定めを与えられていたような連中だったがよ、先生の亡くなった後、日誌やなんかが発表されて三十年も経たないうち、我も我もと押し寄せたハンターどもに遊ばれ尽くされて、すっかり数を減らしちまったってわけだァな。
俺がやっとこ金を工面して、また行ってみた時にゃ、もう二、三匹が波の合間に漂うばかりだった。それも雄ばっかりだ。呑気に馬鹿でかい図体をさらして、相変わらずこっちが近づいても逃げやしねえ。馬鹿だよ。あいつらは本当に馬鹿だよ。こんな雄三頭ばかり残されていても仕方がねえじゃねえか。俺はむかむかして、反吐の出る思いがした。
だいたいが――だぜ、旦那。
だいたいがこいつらは俺たちへの御恵みのはずだったんだ。そうだろう? なのにどうして俺は、今更こんな場所へのこのこやって来てるんだ?
脱出の時に詰めるだけ詰め込んだ毛皮を売りとばして、副長野郎は随分いい暮らしを送ったってぇ話だ。本当なら俺だって今頃は良いものを着て、こんなへんてこでない良い酒を飲み、女どもに囲まれて楽しくやっているはずなんだ。まじめに先生を手伝っていた俺はこんなありさまで、隊長様の墓穴掘りすらろくに手伝おうともしなかったあの野郎が左うちわってのはどういうわけだい。そう考えると俺は、この世の不平等ってやつにむかむかしてきた。
……それで? それで俺はどうしたかって?
それで俺は銃を取り、そこらへんに浮いているモルスカヤ・カロヴァを全部、撃ち殺しちまったのさ。あいつらさえいなければ、俺も副長野郎もおんなじように色々齧られた挙句、あの島の土くれになっていたはずなんだからな。神よ、御恵みをこの手で御返し申し上げます――、ってなぁ。
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