わだつみの宮にさよなら 小説版

高木解緒 (たかぎ ときお)

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 2-11

 針掛かりした魚がこちらへ向けて走り、糸のゆるみを利用されて逃げられるのは大物釣りでよくある話だ。しかしシラブカは明らかに「逃げ」を狙っていなかった。白い流線形の魚体が自分たちへ向かって水面直下に姿を現した時、帆織はふいに、果てしない恐怖に襲われた。
 もちろん、巨大な魚雷めく体が闘争心をむき出しに、こちらめがけて突き進んで来るのだからその迫力は尋常でない。体当たりをもろに受ければただでは済まない。大の大人が怖がっても無理はない。
 だが、帆織が感じたのはそういう恐怖ではなかった。もっと根源的な恐怖、夜の密林でただ独り、必死で息を潜める恐怖だった。
 一瞬、違和感を覚えたが、二人の数メートル前方でついに水面を割った鼻面はなづらがそれをうやむやにしてしまう。
「ジャンプだ!」
「まだ逃げないで!」
 トヨミの指示が彼の転舵てんだおさえつけ、
「危ないだろッ」
 帆織が戸惑ううちにも巨体は完全に水を抜ける。空高く舞い、頂点まで達した体が仄青ほのあおく白々と燃える。巨大な鬼火が二人めがけて落ちてくる。
「今!」
 言われるまでもなく帆織がかじを切り、バヤックがそれまでの位置からはずれた直後、巨大なセーマンが忽然こつぜんと夜の川面かわもへ立ち上がった。シラブカの行く手をはばんで天へそびえた。
 輝く五芒星壁ごぼうせいへき、白い巨躯きょくが空中で明らかにひるむ。だがもう遅い、シラブカはそのままの勢いで退魔紋たいまもんの中心へ飛び込んだ。抱き留めたセーマンが二枚貝を襲うマヒトデのように五つの腕で白い体をからめとる。水面へ落ちたシラブカはもがきにもがいた。しかし最早、潜ることもかなわない。暴れるたびに五芒星の腕がその体をしつこく絡め、動きを封じる。
 投網とあみだ。この退魔法の大技おおわざはよくよく目をらせば投網なのだ。ナイロン製のテグスでまれた浅い円錐形をした大型投網の、セーマン模様だけが別素材で編まれている。
 シラブカとの決戦がこうなることを見越しての、トヨミの最終兵器がこれだった。
 盛大に水飛沫みずしぶきをあげていたはずののたうちが、やがて弱まり始める。投網の引き綱を握りしめ、遠巻きに見ていた二人だったが、
「見ろ!」
 帆織が声を上げた。トヨミは黙って息を飲んだ。二人とも、眼前の光景にただ見とれた。
 シラブカの体表が鮮やかに輝いている。それはそれまで二人が戦っていた白い化け物の色でなく、命の輝き、蝋燭ろうそくの炎が燃え尽きようとする直前に一瞬だけ大きく輝く、その輝きだった。もう、白、とすら言えない。水中で感情を表すイカのように、様々な色が信号となって巨大な体表を大きく大きく滑るのだ。
 だが、と言うべきか、だから、と言うべきか、
「とどめを」
 トヨミがつぶやき、右のカヤックフロートへ降り立った。そこにはいつもの竹柄たけえよりずっと太い白木しらきの柄へ、大型の穂先を直接わえつけたもりが寝かせて積んである。これもこの時のために用意したのだ。穂先の具合を確認する彼女がバランスを崩さぬよう注意しながら、帆織は流れていこうとするシラブカへ斜め右舷うげんから近づいた。こちらが潮上しおかみなので、頭を上流へ向けてゆっくり漂う白い体へ、衝突しないよう慎重に船を進める。
 こちらの接近を感知したのか、巨大な体表の輝きが一層鮮やかになった。
 その時だ。シラブカが盛大におくびを漏らした。バカでかいげっぷが二人を襲った。
「気をつけてッ!」
 トヨミが鋭い声を上げたが間に合わない。水面の光景に魅了され、帆織は油断していたのだ。あっと思った拍子ひょうし、少しガスを吸ってしまった。無臭だが効果は確かなのですぐに分かる。気化したオリはマイナスの幻覚を見せる麻薬だ。忘れたはずの思い出、見て見ぬふりの気まずさ、普段は押し殺している将来への不安、そうした諸々もろもろが頭の中を駆け巡る。
 肯定せよ、肯定せよ、何事もまったく肯定せよ。
 しかし、焦燥にひどい胸焼けがする。
「ちょっと吸っちまった!」
「だから言ったのになぁ」
 呆れ顔で真奈が言う。
 このバヤックのリアシートには、本当は彼女を一番に乗せるつもりだったはずだ。仕事なんだから仕方がないだろ、と帆織は自分に言い聞かせる。
「でも実際、先輩は正しいことをしたんだよ。今まで通り、胸を張ってりゃいいの」
 自ら胸を張って笑い、覗き込むようにして念を押す彼女の唇はぷっくりとつややかだ。
「お父さんにも相談してみるね」
「それはいい」
 帆織ははっきりと首を振った。
「これ以上、迷惑かけたくない」
 しかし、
「いいんだよ、遠慮しないで。だって、ほら……さ」
 ほほをうっすら染めつつ下手なウィンクをされれば黙るしかない。
 早くも柔らかく尻に敷かれた感覚は不快どころか、むしろ心地良すぎるくらいだった。
「すまん」
 帆織が頭を下げれば彼女は眉を跳ね上げ、しかし茶目っ気たっぷりに、
「私に遠慮はもっとダメ!」
 決めつける、その眼差し……。
 彼女の面影おもかげを胸に抱いて倉庫へ踏み込む。うちっぱなしのコンクリート壁が寒々とした薄暗い倉庫だ。周囲に積み上げられた大量の木箱からは悪臭と苦しげなうめき声が漏れている。輸入された、あるいはこれから輸出されるはずだった密猟の犠牲者がみっちりと閉じ込められているのだ。
 環境省の陸上動物担当官が顔をしかめながらリストへ記入を始めた。帆織の協力担当は水生生物だ。悪くなった水の臭いを頼りに、倉庫を奥へ奥へと進んで行く。
 やがて、発泡スチロールのトロ箱が幾つも重なっている場所へ出た。こうした荷箱には個別にビニル袋へ詰め込まれた希少種の魚や両生類が詰まっているはずだった。
 まだ、先へ進む。
 倉庫の一番奥の暗がりに、黒い覆いを前面にかけられた大型の水槽らしきものがあると気付いた。ゆっくり歩み寄る。水の臭いが強くなるので、水槽が機能していると分かる。
 よほど大型の魚類を隠しているのか。だが中のものが動く気配はまるで無い。濾過装置ろかそうちのモーターだけが低く、接触不良のスピーカーめいて耳障りな音を立てている。
 覆いを一気に取り去ったが、暗くて中はよく見えない。ガラスに映るのは自分の顔だ。
 水槽の照明を手探りで探し出し、点ける。途端に彼は息を飲んだ。
 水中用の白色蛍光灯が、四肢ししかせに固定されて水底みなそこへ力無くひざまづいた少女の裸身らしんを、白く、さらに白く照らし出した。
 有尾人ゆうびじんの少女――。
 柔肌に浮かぶ微小な気泡は皮膚呼吸の証拠だ。やがて彼女は、伏せていたその顔をゆっくり、ゆっくり、こちらへ向けて上げ始める。
 誰かと気付いて帆織は息ができない。水槽へ張り付くようにして彼はあえぐ。長い黒髪が水流に柔らかくうねっている。漆黒の瞳が照明にきらきら反射する。凛とした、細眉。
 小さく形の良い唇が、弱々しくうごめく。
(ねぇ)
(お願いだから……)

 タスケテ。

「馬鹿な!」
 帆織はうめいた。
「帆織さんッ!」
 トヨミの叫びで我に返る。だがもう遅い。次の瞬間、投網でがんじがらめとなり、川面かわもに横たわっていたシラブカの体が大きく裂けた。グギャア、と耳障みみざわりな鳥の声が響いた。
 まさしく鳥だった。ヤゴがそれまでの体を脱ぎ捨ててトンボとなるように、シラブカの中から、巨大な鳥めく生き物が出てきた。
 いや、鳥の形に近いというだけで実際には鳥でない。羽毛がなく、牙がある。プテラノドンやケツアルコアトルスのような翼竜よくりゅう、飛行型爬虫類とも似ているが、結局はそれでもない。今から数億年後、この形は収斂進化しゅうれんしんかの結果なのだ。漂う抜け殻の上で羽を休めているのは、古代の猛禽もうきんともそれ以前の翼竜とも見える、しかしずっとずっと未来の地球に現れる、定常飛行が可能な、翼を持つ、巨大な魚なのだ。
 グギャァ、とバカでかいアホウドリめいた魚は不満気ふまんげわめくと、翼を大きく一払いして投網をかなぐり捨てる。二人を死んだ魚の目で睨み、さっぱりしたとでも言いたげにもう一声、両翼りょうよくを大きく広げて盛大に誇示した。シラブカの抜け殻の全長より翼長が大きい。
 銀粉を混ぜ込んだような細かいうろこを散らす体が夜にぬめぬめ輝いて、
「危ないッ!」
 咄嗟とっさに帆織が突き飛ばしていなかったら、飛翔した魚鳥うおどりにトヨミは空高く連れ去られていたことだろう。
 その代わり、鉤爪へ変形した腹鰭はらびれに肩をとらえられたのは彼自身だ。大柄な体が軽々と、たちまち宙へ引き上げられる。一度は川へ落ちかけるもあわや態勢を立て直したトヨミが、
「帆織さん!」
 とどめの銛を投げ捨てて帆織の腰へ飛びついた。
「危ない、離せ!」
「もう遅いって!」
 彼女の言葉通りだ。衝撃で一度沈み込んだ魚鳥はしかしこらえきり、力強く羽ばたいて大空へ舞い上がった。空気が急に冷える。風が鼓膜をむしって声も出せない。晴海はるみ豊洲とよすニューシティの夜景から三度目の改修を終えたばかりのレインボーブリッジまでが二人の足元でぐるぐる回り、羽ばたきの風圧が二人を揉みくちゃにした。
 魚鳥が雄叫びを上げ、
「離せ!」
「嫌だよ!」
「君じゃない、鳥に言ったんだ!」
 叫んではみたものの今はなされてはこちらが困る。下はまだ大川だが、この高さから落ちればただでは済まない。しがみついているトヨミを引き上げて抱き寄せ、
「どうするッ?」
「わかんないよ! ……そうだッ、脚、支えててッ!」
 トヨミが素早く帆織の体をよじ登る。自分の腰ベルトに吊るした銛打ち用のリールから細綱を引き出すと、帆織を鷲掴わしづかみにしている魚鳥の、足首のようになったひれの付け根へ何重にもわえつける。今度は慎重に、彼の胸まで戻り下りてきて、
「ぶさらがって降りよう! 帆織さんは私を離さないで。落ちちゃうから!」
「バカ言うな!」
 帆織は怒鳴ったが、彼女の目は真剣だ。漁師マキリをさやから抜き、
「このリールには百メートル巻きこんである。繰り出しながらゆっくり下りれば、今ならぎりぎり間に合う。二人分の体重は多分、加重限界を超えてるけど、急激に力をかけない限り、いきなり切れたりしないはず! でも、摩擦熱がちょっと怖いかな……」
「……よし」
 帆織は頷いた。
「ただし、綱を持つのは俺だ。君は俺の重さを支えきれない。それに、ブレーキ効かせるのにも握力がいる。君はしっかり、俺に掴まってろ」
「言うと思った!」
 にやり、と微笑んだトヨミが彼へ綱を渡した。グローブをはめ直した右手で帆織がそれを握る。左腕でしっかりトヨミの腰を抱き、「いいぞ!」
 帆織が叫んだ直後、トヨミの放ったマキリが魚鳥の下半身へ深々突き立った。グギャア、と驚き喚いた魚鳥が帆織を離す。二人は虚空こくうへ放り出された。態勢を立て直そうとホバリングする魚鳥を尻目しりめにロープはするする伸びていく。厚めの合皮グローブをしていても手のひらが熱い。
 火傷をこらえつつ帆織は必死でブレーキを試みる。そのかいあって降下は順調、水面まであと四、五メートルでリールが空になった。ガクン、という衝撃とともに二人は一瞬宙吊ちゅうづりになる。リールの脱着装置に手をかけたトヨミが、
「離して!」
 叫び、直後、綱から手を放した帆織の頬をかすめてリールは夜空へ飛び去った。
 いな、二人が落ちた。
 降下速度は緩まっていたが、二人はかなり深くまで没入した。
 閉ざされた水中で互いの無事を確かめ合う。大きく水を掻き、急いで水面へ向かう足元から突如、水底が盛り上がって二人を押し上げた。緑色の目玉が大きく爛々らんらんと光り、
「さすがオニアカ!」
 赤褐色の体表を二度ほど叩いて感謝の意を示したトヨミは、くらそなわっていたいつもの銛の柄を外して取ると、水面へ立ち上がった。ベールのようなしずくを払い、ベルトの鞘から穂先を出して柄へねじ込む。その間にも彼女の両眼は前方から迫る魚鳥へ固定されている。
 未来を見据える眼差し、凛と結ばれた口元――。帆織は数秒、思わず見とれた。
 一度大きく間合いを取り、グギャア、とから一際ひときわ大きく鳴いた魚鳥が、最後の勝負とばかり突っ込んでくる。牙の生えるくちばしを胃袋まで見通せそうなほど大きく開いて殺到する。
 みそぎことば。魚鳥がちょうど真正面、数メートルの距離まで近づいた転瞬、トヨミが大きく体をひねって銛を撃った。銛は魚鳥の口へ飛び込み、一瞬で肛門まで貫き通した。鱗の並ぶ巨体が空中へ固定された。それでもまだ魚鳥はトヨミへ食らいつこうとして嘴を鳴らし、よだれを散らす。しかしそれもほんのつかの、銀白の怪物は瞬くうちにからび、細かい塵となって夜風の中に溶け去った。銛が水面へ落ち、軽い音を立てた。
 はらいは成功した。振り返ろうとしたが、気が抜け、へたり込んでしまうトヨミを帆織は背後から慌てて抱きとめた。やがて顔を見合わせる二人。今度は小さくハイタッチした。


     ※


 風の無い夜の大川は、のっぺりしていた。鏡のような水面が街のをくっきり映している。普段、波を蹴散らして遊びまわっている場所と同じに思えないほど雰囲気が違って、   
(ダゴンネットの動画みたい)
 思いかけたコハダは慌てて頭を振り、それを打ち消した。
 しかし、不思議と恐怖は全く感じない。(――私、よっぽど頭に来てるんだな)
 客観的に自分を分析してみたのがなんとなくおかしい。スロープからバヤックで水上へ滑り出す時の波音がやけに大きい気がして、ドキリ、とさせられる。
 辺りに警官や夜釣りの大人が居ないかを何度も確認してから、コハダはぐっとペダルを漕ぎ出した。時折ときおり通る屋形船やかたぶねにも要注意だ。
 遠くで誰かの大声が聞こえた気がして、さっとコハダは身をかがめた。釣り人だろうか。夜の川では疑似餌を使ったスズキ釣りが特に盛んだ。これはコハダたち大川漁民と違ってキャッチ&リリース主体の純然たる趣味の釣りだが、日暮れともなれば川沿いの護岸歩道から、またバヤックから、至る所で竿を振る音が聞こえてくる。帰宅の途中にちょっと竿を出すだけで小気味良い引きを味わえるので、仕事帰りのサラリーマンや学生に人気が高い。
 そういう大人たちや夜間警邏に見つからないよう、あるいは不自然に思われないよう、コハダは慎重にも慎重にバヤックを進める。
 一瞬、トヨミの声が川のどこかで聞こえた気がしたが、空耳だと決めつけた。人の気配を避け続けているうち、やがて、遠い光にぼんやり照らされるばかりの暗がりの中、追われているらしいエビの群れがピッ、ピッ、と水面で跳ねまどっている光景に出くわした。
 追っているのはスズキか、クロダイか。時々、バフン、という捕食音が聞こえる。
「いるね!」
 取りあえず、その暗がりを狙ってみることにした。自前の糸巻きを取り出し、もともと結び付けてあった針の先に買ってきたエビを餌籠えさかごから出してつける。腕で仕掛けを振り子のように、一回、二回とスイング、すっと放り込んだ。
 ポトン、と着水音が響く。
 昼と違って見えないので、餌のエビがゆっくり沈んでいくところをイメージする。糸にかませたおもりの重さから大体の沈降速度が分かる。追われたエビが表層まで飛び出してくるということは、それを追っている魚も水面を意識していると見ていい。そんなに仕掛けを沈める必要はない。一メートルも沈めないうちに、今度は道糸を手前に引いた。
 すっ、すっ、とリズミカルに糸を手繰たぐる。コハダの頭の中には魚に追われたエビが水中を跳ねて逃げ回っている様子が浮かぶ。実際、餌はそういう動きになっているはずだ。
 グイ! 
 一投目から引きこまれるようなアタリ。
「いただきッ!」
 アワセがばっちり決まって、魚が頭を振る動きが伝わってくる……、と思いきや、
「あれッ?」
 コハダは思わず声を上げていた。
 戻ってきた仕掛けの先には、まだエビがそのまま付いている。確かに喰われた、と感じたのだが……。針に掛けそこなったにしても、餌がこんなに完全な状態で戻ってくるとは思われないほどの食い込みだったのだ。アワセのタイミングが変にずれたのか。
「だめだなぁ」
 自分のおでこをコツンと叩いて呟く。勝負の余韻からまだ抜け切れていないのか、と彼女は反省した。何を焦っているのか。こんなことでは、いつまでたってもうまくなれるはずが無い。
 落ち着け! 
 深呼吸し、もう一度仕掛けを投入する彼女はすでに無心、釣りに夢中になっている。同じように仕掛けを沈め、すっ、すっ……グイ!
「よしッ!」
 今度こそ! 確かに乗せた! 
 だが、
「あれぇっ?」
 餌はまだ、そのまま付いている。
 それからずっとそんな調子だった。短い時間だからこれくらいで、と十匹買ったエビは一向に減らない。ただただ、何か黒々した流体が這い回っているような、そんな暗がりの中へ仕掛けを投げ込み、アタリがあったとアワせては空振りを繰り返すだけだ。釣り師の性分しょうぶんとして、なまじ魚の気配があるだけにいさぎよく場所を変えることも出来ない。
(なんでだろ……餌を軽くつついてるだけなのかなぁ)
 コハダは自問して、ハッとひらめいた。
(そうだ、あのおまけ!)
 今まで使っていたのは愛用の黒い釣り針だったが、これを先ほど餌屋の老人から貰ったあのピカピカ反射する銀色の平打ち針に換えてみよう、と思いついたのだ。
 銀色の光には大抵の魚が興味を示す。それが吉と出る場合もあれば裏目に出る場合もあって、コハダは普段、蟹や貝を餌に使うことが多いから不自然でないよう光らない黒針を使っているのだが、こういう場合だ。ちょっとした変化が釣果に影響することも珍しくはない。
(ウンっ、使ってみる価値はある!)
 あるいは反射光が魚の気をき、食い込みをより深くするかもしれない。
 彼女は急いで針を結び変えた。エビも新しいのに付け替えた。心機一転、
(よしっ、今度こそっ)
 頷いて仕掛けを投入する。
 ポチャッという水音。途端、辺りの空気が変わった。耳鳴りがするほど静かになって、それまでムンムンと周囲に満ちていた魚の気配や、蟹が護岸を這いずる音や、磯臭さまで何も無くなって、だが、コハダはあまり気にしない。とにかく手元に集中している。   
(アタリがあってすぐにアワせちゃうのも良くないかな。次は一呼吸ひとこきゅう置いてみよう)
 ゆっくり餌が沈んでいくイメージ。一メートルほど沈め、手前に糸を手繰る。
 すっ、すっ、すうっ……、すっ、すっ、すぅっ……グイッ! 
 今度は急がない。
(一、二、三っ)
 心の中で数えてアワセをくれる。
「よし!」
 今度は乗った。ぐん、と糸に重みが伝わってくる。
 何が掛かったのか分からないが随分と大物だ。小柄なコハダの体格ではいくら腰を落として踏ん張っても、ちょっと相手が大きいだけで今にも体ごと持っていかれそうな感じになってしまう。だが、このやりとりがたまらない。獲物が水中を行ったり来たり、走りに走って、
「させるかっ!」
 コハダは全身で引きを受け止め、いなしていく。釣りの醍醐味だ。
 と、引きが弱まった。ここぞとばかりに糸を手繰たぐる。するすると寄ってくる。しかし、浅場で掛けたはずなのにまだ魚が跳ねない。残りの糸ももう随分短くなっているのだが、
(?)
 思わず水中を覗き込むようにしたコハダが、
「あッ」
 短く叫んだ。
 こちらを見上げる顔がぬめぬめと、青白く笑っていた。


     ※


 影と溶け合い始めた夕焼けの下に広がる、白い、白い砂浜。
 水平線を背景に男が一人、たたずんでいる。
 あの男だ。
 にっこりと、微笑む。上品な目元。目じりが優しげに下がる。
 騒がしい大歓迎ではない。
 眼差しが静かに、丁寧に、心からの歓迎を表している。
 波音。
 遠く、近く、遠く、近く――。
 やがて、薄く、形の良い口元がゆっくりと動く。
「おかえり」

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