わだつみの宮にさよなら 小説版

高木解緒 (たかぎ ときお)

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 2-10

 じっとりと風の無い夜になった。
 広々した川面かわもはさざ波すら珍しいくらいにどこまでもいで、街の灯りをありのままに映している。橋の上に立てば水底みなそこにもう一つ、逆さまの街があると見えるだろう。
 静かな静かな夜の川だった。川沿いの護岸遊歩道にも人の姿はまるで無い。普段であれば夜がけても、ジョギングや夜釣りを楽しむ大人の影を幾つか、すぐに見つけることができるのだが、今夜はそんな足音や釣竿の風切かざきおんはおろか咳払せきばらい一つ聞こえない。昼間の狂乱が嘘のよう、と言うより、川や川沿いの街全体が疲れきって眠りこけているのだとも思われる。一時いっときの熱狂からめ、川は川本来の夢を見ているのだ。
 水上警察も事後処理にかかりっきりらしい。一応はオニアカにデコイを乗せて出してあるが、その必要もなかったかもしれない。警邏けいらの間隔はかなり空き、人数も普段よりずっと少なかった。
 帆織とトヨミで川面に二人きり、邪魔者はいない。
 決戦の舞台は整った。

「これ、明日にはもとに戻してくれよ」
 これで仕事には行かれんぜ、と背後へ声をかけながら、帆織はサドルにまたがったまま自分のバヤックを見下ろした。スマートでパワフル、欧州製高級車の雰囲気を漂わせていたはずの愛艇あいていは今、どうにも不恰好ぶかっこうとしか言いようのない「釣りイカダ」と化している。
「わかってるって」
 鼻歌混じりの返事があったが、声に本気の度合いはあまり感じられなかった。
 昼の騒動で沈没し、見捨てられたらしい釣り用の中空ちゅうくう式リジットカヤックを二艇にてい、どうにか水抜きして引き上げたというトヨミの得意顔を見た時は、これからのパトロールにはカヤックも使おうとでも言いだすのだろうか、くらいに思っていた帆織だった。
 だがまさか、自分のバヤックの双胴そうどうフロートがてきぱきはずされて、代わりに補修された二艇の「船」がかせられるとは思ってもみなかった。二メートルのフロートを二つ履いている時も普通の単胴バヤックより充分ごつい印象の愛艇だったが、一四フィートと言うから四メートル少しの小舟を二艇、無理矢理に履かせられた姿はもう、アンバランスと言うより表現のしようが無い。しかもガンメタルの本体にはまるで不釣り合いな、ビビッドな青と黄色のカヤックなのだ。これではジャンク品を寄せ集めたマルタのバヤックの方がよほど統一感がある。
「しかたないでしょ。使えるものはなんでも使わなきゃ」
 スクリューや舵まで新たに追加され、変わり果てた愛艇に不安げな眼差しを向けてやまない帆織へ、改造作業を終えたトヨミはにこやかに言ってのけたものだ。
「とにかく、浮力を高めることが第一。それに、私のみたいな普通の単胴バヤックだと、こんな改造したってギアがいかれるだけだもん。最初から外洋航行がいようこうこうも想定して作られてる帆織さんのバヤックだからこそ、こういう改造をしてもメカに負担がかかりすぎないし、人の力で普通にぐこともできるの。心配しないで。後でちゃんと戻すから」
 あいつを退治した後でね、と彼女は付け足した。
「全部、そのための準備なんだから」
 そして確かに、大川へ漕ぎ出してみて帆織は驚いた。もちろん標準より漕ぎ抵抗は重く、取り回しが難しくなってはいる。だが航行で問題になるほどではない。身の大きさのわりにターンもきれいに決まる。高浮力ながら安定性も向上し、大物仕様おおものしように仕上がっている。 
 こういう技能まで持ち合わせているのかと、帆織はタンデムシートの後ろで彼と背中合わせに仕掛けを流している少女へ改めて感心させられた。猟犬代わりのエイはいるにしても、メカニックも出撃も独りでこなす、大川の夜の守護者、孤高の水上警察――、
「ようやる……」
「なに?」
 思わず出た帆織のつぶやきに反応がある。
「なんか言った?」
 今夜のトヨミは普段と少し違っている。あからさまに機嫌が良い。決戦にいどむ興奮か、昼間の熱の名残なごりか、軽く、はずむような声を出す。うきうきとして聞こえる。
「いや、ひとり言だ」
 帆織は振り返って、
「アタリ、あったか?」
「全然。ちょっと停めて。餌、新しくしてみる」
 二人の手製である道糸用の引綱ひきつなは、含浸がんしんさせたにかわを良く乾かし、等間隔に小さな紙垂しでを付けたものを帆織のバヤック前部のウィンチドラムにありったけ巻き込んである。
 そこから水深と少し分、り出した引綱の先端へ仕掛けを結ぶ。トヨミは釣り竿を使わず、引綱を直接持って誘う手釣りを選んだ。餌替えのために素早く引綱を手繰たぐり込み、絡めないように足元へ落としていく彼女のさばきが手慣れている。
 やがて仕掛けの先端が見える。十字架を背負うキリストよろしく、専用の大針を背中に背負った人形ひとがたが引き上げられる。全長五〇センチほど、吸水樹脂を削って作られた特製の人形だ。トヨミが自分で十体じったいほどこしらえた。これに濃縮したオリの水溶液を含ませて餌にする。ようは立てない式神しきがみ疑似餌ぎじえに使うルアートローリングなのだ。エビの汁で匂いを付けたソフトルアーを使うのとそれほど変わりはない。
 骨の釣り針に頭頂部から背面までを貫かれた古い人形を取り去り、トヨミは新しい人形をつける。ボトルに詰めたオリをそそいで充分にふやかし、再び仕掛けを水中へ送り込んだ。骨針の重みで沈む仕掛けが、ちょうど川の中層を漂うようにカウントする。
 再び帆織がバヤックを漕ぎ始めて一〇分も経った頃、
「もう随分ずいぶん流してるだろ。この辺りにいないんじゃないか?」
「そんなことないと思うけどな――。あれだけの騒ぎがあった後だし、流れ込んだオリも多いはずでしょ。みんなで寄せきまくったみたいなもんじゃない?」
「あんまり寄せ餌を撒くと、その寄せ餌を食べすぎたせいで針に付いた餌に興味を示さなくなることがあるらしいぞ。明日か明後日の、腹減はらへどきねらう方が良かったかな」
「まさか」
 トヨミは微笑んだ。
「普通の魚じゃないんだよ、あいつ?」
 お腹一杯になることなんてないと思うけど――と声に若干、不安な調子が混じったその時、
「どうした?」
 ふいにトヨミの気配が変わった気がして、帆織は思わず声をかけた。
「来てる」
 小さく断ち切る声音こわねに船上の空気が張り詰める。
「式を追って来てる」
「どうする? しっかり飲ませなきゃならないんだろ? 速度を落とすか」
「ううん、速度はこのまま。何も気づかない感じで。相手にこっちの変化を伝えないで」
「――了解」
 暑さによらない汗が帆織の額ににじみ出した。
 骨の釣針は人形を固定するためのものだ。シラブカ相手には小さすぎる。だからただ追わせて、疑似餌をくわえさせただけでは足りないのだ。充分に飲み込ませなければならない。
 古代中国において文王に見いだされ、後に斉国の始祖となった「太公望」呂尚ろしょうは文王に初めて出会った時、渭水いすいのほとりで釣りをしていた。この時、呂尚が釣り針を結ばずに糸をらしていたとか、い針のような曲がりの無い針を結んでいたとかいう伝承があるがために、実は呂尚は王に見いだされるために釣りのふりをしていたのだ、と言う説がまことしやかにささやかれることもあるが、それは釣りを知らぬ者の思いつきである。
 針を使わない釣りも、曲がりの無い針を使った釣りもちゃんと実在する。日本のとある釣りエッセイストは、太公望が狙っていたのはウナギだったのではないかと唱えている。
 ウナギ釣りには幾つか、そうした漁法があるからだ。
 団子釣りという釣り方がある。ドバミミズを大量に取って来て、縫い針で縦に糸を通し、長いミミズ紐を造る。ミミズは苦しんで互いに絡み合い、巨大なかたまりになる。これに釣り糸を結び、川へ投げ込む。針はつけない。ウナギはこのミミズ団子を噛まずに飲み込むので、しっかり頃合ころあいを見計らって糸を引く。ウナギは驚くが、内臓ごと引っぱられるので口に針掛けした時ほどの抵抗もままならず、かといって吐き出すこともできない。そのうちに釣り上げられてしまう。ミミズ団子は引き抜いて、また餌に使うことができる。
 シラブカのトローリングも一部はこの釣りをモデルにしている。もっとも、餌の節約が目的なのではない。確実に相手を仕留しとめるためだ。口掛けする釣りはつね針外はりはずれの危険をともなう。この釣りで同じ相手に同じやり方が二度通じるかどうかは不確定だ。銛打もりうちで一度逃しているだけに、釣りでまた失敗することは避けたい。針掛かりした相手をのがせば釣りという手段をも失う可能性がある。逃れた相手は更に警戒心を強め、そうなると退治の機会がそれだけ減る。
 確実に、一度で仕留めなければならない。それで口掛けは選択肢から外されていた。もちろん相手はウナギではないのだから、単に仕掛けを飲み込ませるだけではまだ足りない。さらなる工夫もトヨミ特製の疑似餌にはほどこされている。
「まだかッ!」
 帆織が小声で叫ぶようにして問いかけた。水面で声は反射されるので、余程の大声でもない限り相手にばれる心配はないが、場合が場合だ、どうしてもそうなってしまう。
「……まだ」
「……まだ」
「……まだ」
「……今!」
 トヨミが何かとなえるのと同時、ひじで帆織の背中を突いた。彼が全体重をかけてペダルを踏み込んだ直後、シラブカが怒涛どとうのごとく疾走しっそうを始める。突如とつじょ体内で膨張した式人形への驚愕きょうがく、内臓を内側からつらぬかれた悶絶もんぜつを置き去りにしようとひた走る。またたく内に引きつながトヨミの手をはじく。頭を下げて帆織がけた。ドラムから水中へ一直線に張り詰めた綱はふるえ、風を切って金属質に鳴きわめいた。
 後方こうほうから引かれればいくら外洋向けのバヤックでも転覆てんぷくの可能性がある。購入時に帆織がオプションで前部ウィンチを取り付けたのは、もちろん、こういう場面を予測していたからではない。むしろこんなに役立つ場面が来ようとは思ってすらみなかった。武骨ぶこつさを増すかざり、くらいのつもりだったのだ。だが飾りどころでない。触れれば手も切れそうなほどに引き綱が張り、ドラムへ多めに巻き込んだ綱の余分がぎちぎちと音を立ててまるのを彼は聞いた。トヨミが素早く向きを変えて帆織の肩へつかまった直後、改造バヤックは発泡スチロールの塊か何かのように、水面を軽々と引きずられ出している。
 メルヴィルの「白鯨」が最後に映画化された時、帆織はまだ子供だった。映画そのものは見に行っていない。帆織自身は実用化されて間もない3Dポスターでモヴィ・ディックが大暴れする様子に魅入みいられ、行きたくて仕方が無かったのだが、子供向けアニメ映画がいいと妹が泣きわめいて駄々をこねたから、結局家族でそちらへ行くことになったのだ。
 あの時、もし「白鯨」を見に行っていたとしたら、こんな感じだったのだろうか。
 水中で暴れる白い巨体を思い、ふとそんなことを想ったが、船体がぐっと前のめりになった途端、回想はどこかへ吹き飛んでしまう。カヤック二艇分の浮力をものともせず、相手はまだまだ余裕で突き進んでいる。ヒットポイントは永代橋えいたいばしのわずか上流だったはずだが、最早五〇〇メートルも引きずられて佃島の分流点まで下られた。グン、とへさきが沈む。
「こっちを引き込もうとしてる!」
 帆織が叫び、
「大丈夫ッ。ここはまだ浅いから、あいつ、下へは潜りきれない」
 トヨミが背後から叫び返す。
「綱を繰り出して、まずは疲れさせることだけ考えて!」
 帆織が手元のスイッチを入れると解放されたウィンチのリールが逆転し、するすると引き綱を繰り出した。どこまでもどこまでも綱は延びていくようで、
「逆転速度に気を付けてッ、からまっちゃったら終わりだよ!」
「わかってるッ」 
 水深より少し長めに綱を繰り出した所で放出を停める。軽い衝撃の後、再び重い抵抗がバヤックを襲った。だがわずかにゆとりを貰う。次は誘導だ。本流筋で潮にまれながら戦うのは人間側へ圧倒的に不利だ。二人が水面上へ貼り付いていつくばるしかないのに対し、相手は様々な流れを自在に乗り換えながらこちらを翻弄ほんろうできる。潮流のゆるい分流へ誘導し、豊洲とよすまりで決着をつけようというのが作戦会議での一致した結論だった。
「よし、次だ! やるぞッ」
 バヤックのハンドルバーには幾つかの無線スイッチが防水加工をされて取り付けられている。その中の一つへ伸びた帆織の手を、さっとトヨミがおさえた。
「もう少し!」と彼女。
「しっかり寄せてからじゃないと、見破られるッ」
「通り抜けられてからじゃ意味が無いだろ!」
「――今!」
 帆織の指ごとトヨミが無線スイッチを叩きつけるのと同時、船が大きく右へかしいだ。振り落とされそうになるトヨミを咄嗟に右後ろ手で抱えながら、帆織は必死で重心をカーブの内側へ移し、転覆をこらえきる。シラブカが急遽きゅうきょ、左へ進路変更したのだ。
「うまく行ったねッ」
 後ろから覗き込むようにしてトヨミが微笑み、
「もうちょっと余裕見てやろうぜ……」
 帆織は苦笑いするしかない。
 分流点の本流側に一種の無線機雷が仕掛けられていたのだ。水中に係留されたバルーンがスイッチによって破裂し、内部から忌避剤きひざい代わりの源流水げんりゅうすいが拡散して一時的なバリアを形成する。水の出所はもちろん秩父ちちぶの水源だ。帆織が新たにんできた水をトヨミの自作装置に詰め、夕暮れ前に彼女だけこっそり潜って仕掛けておいたのだ。
 誘導は成功、シラブカは分流へ入った。水深が本流に比べて大分だいぶ浅く、船ごと引きこまれる心配はなくなったが、
「橋脚注意!」
 相生橋あいおいばしがたちまちせまる。
「ようそろ!」
 帆織は舵取かじとりに細心の注意を払った。時折ときおりぼそぼそとトヨミの呟きが聞こえるのは、端末に向けてはらいの文言もんごんを吹き込んでいるのだ。シラブカの腹奥はらおく深くでふくれに膨れた人形はただの呪具や漁具でない。防水加工された超小型の有線スピーカーが取り付けられており、引き綱にり込まれたコードを通じてトヨミの澄んだ声音こわねを水面下で走る獲物の内側から直接、叩き込んでいる。
 わきの運河などへ逃げ込まれることが無いように、分流にもバリア用のバルーン型機雷が幾つも設置されている。それだけでない。浚渫しゅんせつされた澪筋みおすじへ沿って川底へ埋め込まれた地雷型無線機雷はトヨミの腕にあるウェアラブル端末の指令を受けて破裂し、濃い塩水に調整された源流の聖水で水底みなそこを覆うのだ。底を這って進み、休憩と体力の回復を試みるシラブカにとって、自分の内側から聞こえるトヨミの歌と霊性と比重を利用した仕掛けはひどい嫌がらせに違いなかった。 
 だから、トラップは充分に功を奏した。シラブカは豊洲とよす目掛けて突き進む。だがまだ速度の落ちが足りない。このままだといずれ豊洲から晴海はるみ、東京湾へと抜けられてしまう。
 トヨミが帆織の肩を叩いた。次なる工夫の合図、本格的に相手を弱らせに掛かるのだ。
「しっかり掴まれ! あと、コードに足を取られないように気を付けろ!」
「そっちこそ舌まないでッ」
 彼女の声は後ろに飛びすぎるので帆織からは聞こえ辛い。
 いくよっ、と声が掛かり、
「1、2、3……」
 二人は大声でタイミングをはかる。
「GO!」
 号令に合わせ帆織がスイッチを入れると、バヤック後部のトランクがはじけて中身が勢いよく後方へ飛び出した。塊が着水し、展開した途端、二人の体まで放り出されそうなほどの衝撃が来る。今まで引きずられるばかりだった船足ふなあしが一気に落ちた。パラシュートタイプのシーアンカーだ。それもボート釣りなどで使う小さなものではなく、本物のパラシュートかと見まがうばかりの一点ものをネットで仕入れた軍用パラコードで繋いである。細いながら数本でトラックさえって飛ぶことができる代物だ。
「うまく開いた!」
 トヨミの嬉々ききとした声が聞こえ、
「成功だ!」
 帆織も振り返って確認し、思わず彼女とハイタッチする。きれいに展開するかどうか、パラアンカーの製作者としてはずっと不安だったのだ。トヨミが陸から偵察に行ったり、機雷を敷設ふせつしたりしている間、彼は彼女の部屋でせこせこミシンをかけていたのである。佐代里さよりに借りた業務用のミシンでも分厚い布地を延々えんえん縫うには骨が折れた。
 二人はにんまり笑い合う。
 あれほど猛然と疾駆しっくしたシラブカの速度はいまや人間が歩く程度にまで落ちている。聖水地雷に苦しんでいたところへアンカーの抵抗を急に掛けられ、ショック状態におちいっているのだ。人間側にとって初めてチャンスが訪れた。
「こっからが勝負どころだからね!」
「わかってるって」
 二人同時に前を向く。
「巻き取り始めるぞ!」
「よろしく!」
 帆織がスイッチを入れると、前部ウィンチがローギアで引き綱を巻き取り始めた。両肩に置かれた手のひらを通じ、トヨミの興奮が流れ込んで来るように帆織は思う。逆に彼の興奮は彼女へひしひし伝わっているのだろう。少女の鼓動がすぐ耳元みみもとで響き、自分の鼓動とそっくりそのまま同期するようで――、
「?」
 ふと、帆織は気付く。水面にただよう引き綱のたるみがゆっくりと、しかし確かに大きくなっている。
「トヨミッ」
 彼は叫んだ。
「こっちに向かって来てる!」


     ※


 クロダイを知らない人は、その名の通り、黒光りするたいを思い浮かべると良い。
 時に大胆だいたん、時に神経質、雑食悪食ざっしょくあくじきくせに餌を選り好みし、一度ひとたび針にかかれば引きは鮮烈という絶好の釣魚なのだが、大川の水が綺麗になってからは食用魚としての価値も随分と上がっている。食性上、生物濃縮せいぶつのうしゅくの上位に来る魚なので水の悪い頃はとても食べられたものではなかったが、今となっては、初夏の洗い、秋の当歳魚とうさいぎょの塩焼き、冬の寄せ鍋やブイヤベース、その他、一年を通して鯛めし、潮汁、煮付け、マァス煮、もちろん普通の刺身にしてもよし、好きな人は「真鯛より美味い」と言うくらいになっているのだ。
 日本各地で見られる魚なので、その釣り方も地域によって独特なものが様々ある。大川の子供たちの間では「スナイプ」と呼ばれる竿釣りと「一本フカセ」と呼ばれる手釣りが主流だ。
「スナイプ」は二メートルほどの釣り竿へ木駒きごまと呼ばれるシンプルなリールをつけ、仕掛けは道糸の先にハリス糸を結び、その先へ専用釣り針と小さなおもりをつけただけという、ウキ釣りなどに比べると非常に単純な道具立てが特徴だ。釣り方はハンティングに似ている。
 護岸ごがんや橋げたにバヤックで忍び寄ると、その影へ寄りうように水深一、二メートルのところを泳いでいるクロダイを見つけることができる。これを狙って竿を振る。針先には護岸壁に棲んでいる指先ほどの貝やカニが餌としてつけてある。アタリは糸の動きを見て取るのが一般的だが、最近の大川はほぼいつでも視界を得られるくらい澄んでいるので、大抵、水面下で魚が餌をくわえたときの動きを直接見てアワセを決めることができる。  
 だが「こちらから見えているということ」は「向こうからも見えているということ」だ。黒鯛が釣り人に気付くより先に魚を見つける鋭い目はもちろん、魚を警戒させない、静かにして素早い竿捌さおさばきが必要とされる。そしてこの繊細せんさいかつ大胆なアプローチをうまくやってのけた者だけが、揺らめきながら水中を落ちていく餌目掛けて黒銀の魚体がふいに突進、針掛かりするところまでの一部始終を見る。竿が弓なりに引きしぼられる手応えを掴む。その時のドキドキは、ちょっと他のものとは引き換えがたい、この釣り独特の興奮だ。
 コハダは「スナイプ」が大の得意で、道糸を巻き込んだ木駒を自分で作った三本ぎの竹竿へ装着し、バヤックの竿立てにいつも立てている。仕掛けもライフジャケットのポケットに入れっぱなしにして、気が向けばいつでも、岸壁を這いずり回るカニを捕まえては餌にしてクロダイ釣りを楽しめるという寸法だ。
 釣りとしてスリリングで面白く、食べて美味く、馴染みの魚屋や寿司屋に持ち込めばちょっとした小遣いが簡単に稼げる。この気軽さと道具立ての単純さはもとより、魚の居るところを探しては二、三度仕掛けを振り込み、魚のやる気が無い、アタリが無いと見るやすぐ次のポイントへ移動、また竿を振る、というリズミカルに攻撃的な釣り方そのものが彼女のお気に入りで、この時も「クロダイ勝負」と聞いて、
「こいつ、私が〟スナイプ〝得意なの知らないの?」
 と思ったくらいだった。
 すぐに竿立てから竿を外し、コハダは仕掛けを結び始めた。
 対するイナコはエビえさで「一本フカセ」をやるらしかった。
 この釣りは竿を使わない。等間隔にごく小さなおもりを噛ませた釣り糸を仕掛け巻き用の木枠きわくに長く巻き込み、その先へ結んだ釣り針へ季節に合う餌を付けるだけ、と仕掛けのつくりで言えば「スナイプ」より単純、手元に直接アタリが来るのも面白いし、底の深みを探るから魚の警戒もより薄い。
 そして仕掛けの他には餌さえあれば良いから「スナイプ」以上に子供たちの人気が高い。と言うよりバヤックの改造費、遊興費、交際費などで稼いでも稼いでも儲けの少ない大川漁民にとっては、経済性ゆえに支持されているところも大きい釣り方であると言える。仕掛け巻きごとポケットに放りこんでおけば、餌が手に入り次第いつでも釣りを始められる。そして魚の居場所さえ探りあててしまえば、竿先への糸絡いとがらみなどを気にすることも無く釣りに集中出来る。こちらは多分に職業漁的な釣りだった。
 しかし竿やリールを使わない分、延ばした糸を取扱うのは慣れないと手返しが悪くなりがちだし、どちらかと言えば、魚の居そうな深めのポイントへ仕掛けをじっくりゆっくり沈めて待つ釣り方でもあるので、短時間でのきそい釣りに向いているとは言いがたい。
 また「スナイプ」が、この辺りではクロダイ以外にはほとんど食べる魚のいない貝殻つきの「カラス貝」を餌にし、かつ目に見える魚群の中から大型のクロダイだけを相手に選んで狙うことができる釣り方であるのに対して、「一本フカセ」は同じクロダイでも個体を選別して狙うことはできないし、この釣りで主に使われるサイマキやモエビなどのエビ類は、クロダイの他、スズキやコチなど様々な魚がとても好む餌だ。対象魚以外の掛かる確率が高くなる分、やはりクロダイ限定の勝負には向いていないだろう。「一本フカセ」でもカラス貝を餌に出来ないわけではないが、「スナイプ」には護岸の壁面へきめんにびっしりとついているカラス貝やその間に潜む甲殻類を狙ってやってきた食い気のある個体を効率良く狙えること、水中をゆらゆら落ちるものに反応しやすいというクロダイの反射的習性を利用した釣り方であることなどの優位性が明らかにある。
 だから、
「いいですか、先輩。数の勝負ですよ」
 イナコが言ったときも、
「すぐにへこましてやる」
 コハダは内心思いつつ微笑んだ。彼女の竿を振る手つき、その素早さ、正確さと言ったらなかった。ひょうと竿を振り、仕掛けを繰り出すそのたびに、餌をつけた針はおもしろいように魚の鼻先へ沈んでいった。ゆらゆらっ、パクッ!
 アワセが決まって竿が曲がる。ぎゅんと糸が鳴る。やりとりを楽しむ間もない、見物が、
「あ、また掛けた!」
 気づいた時にはもう、コハダの手網たもの中へ誘導されたクロダイが見事に収まって、くやしげにバタバタと尾ビレを振るっている。
「次っ!」
 魚をめるとぐに移動だ。十メートルほど離れたところからもう、獲物の気配を感じ取り、そろそろとバヤックを進めて行く。
 射程距離! 
 コハダの竿が風を切る。

 カジメが裏切ったという気持ちには不思議とならなかった。彼が本当に望んでいたことを今更ながら理解した。そのために色々と用意してたんだろうなぁ、とも思った。
「悪ぃな、コハダ」
 と、彼が自分の前へ進み出た時に、彼女は一瞬で全てをさとったのだ。殴りかかろうとするマルタを冷静に引き止め、聞きわけがないのでむしろそちらの尻を蹴りもした。
「今回は暴走っていう偶然に助けられたけどよ、次も上手くいくとは限らねぇ」
 溺れた三人の大人たちを協力して助け上げ、水上警察や救急隊員に引き渡すまでは、水軍の誰もが一致協力してことにあたっていた。
 騒乱の余韻よいんは中々冷めそうになかったが、保護対象であるステラーカイギュウが全て海へ帰り、その上、指揮官不在とあっては青の秩序や代執行の下請け業者も続きをどうしてよいかわからず、てんやわんや、好き勝手めに揉めて、それが一人減り、二人減り、そろそろ皆の体も乾き、以前からの顔ぶればかりになってきたなという時になって「統合水軍の新設」と「総漁長そうりょうちょうの選出」が誰からともなく提案されたのだ。「この川の全ての子供たちが団結して、管理能力を地域の大人たちへ強く示していく必要がある」というのが発案の理由だった。
 日々変化する情勢に今の体制では心もとない、
「古臭い迷信とか、決まり事とか、そういうのに縛られるんじゃなくて、もっと合理的に、科学的に進めていった方がいいと思う。あと、子供たちがバラバラなのも良くねぇ」
 そこでカジメが、「俺はイナコを総漁長にすぜ」と言ったのにはコハダも少し驚いたが、しかしすぐに思い当たった。彼女自身デモ隊と対峙たいじしつつ、「今日はほんとに総出そうでだな」と感激する中で「でも、誰かいない気がする」と感じてもいたのだ。
 それはイナコのことだった。大川の小悪魔があの混乱にかれないはずがないのだ。姿が見えなかったのは、彼女が大騒ぎを尻目しりめに、その解決の後を見越して黙々と、裏で準備をしていたからに違いない。
 護岸テラスから遊歩道を固める土手にまで各水軍の子供たちが一斉一堂に集う中、コハダは吊し上げを食らった。
 カジメの推薦表明が合図と示し合わせていたのだろう、つかつかと歩み出てきたイナコに、今回のカイギュウ騒動でいかにコハダが大人たちへつけ入る隙を与えてしまったのか、延々と弾劾だんがいされ続けた。反論のチャンスも無かった。
「とにかく、今の大川を任せるのには、先輩は迂闊うかつすぎるんですよ」
 イナコが以前から手を回していたらしく、他の水軍やその漁労長にも彼女を支持する者が予想外に多くいた。ただ、マルタを始め、それまでのコハダのリーダーシップを信じて疑わない者も大勢いた。特に低学年の子供たちはほとんどがコハダ派だった。今、そこにあった危機を教訓に統合水軍の設立はあっさりと賛成多数で可決されたが、コハダとイナコのどちらがそれをおさめるかについては、いつまで経っても議論めかした誹謗中傷が収まりそうになかった。
 それでここはこの川の子供らしく、りょう勝負で決着をつけることになったのだ。そういう声が集団の中から一声上がると、たちまちその方法が最良だと、皆が考え始めた。コハダも一時いっときは、そんなことでこの問題を解決するなんてナンセンスだと思ったが、よくよく考えてみれば、この川で本当に力を示すには、それしかないとも思われた。

 そして負けた。
 一時間経ち、トロ箱に入った双方の魚を見れば、コハダの方は大体が三十センチ以上、大きくて五十センチ近いクロダイが十匹ごろっと横たわっているのに対し、イナコの方は大抵が二十センチ凸凹と小型のものだったが、数は二十匹を軽く上回っていたのだ。
「私の勝ちです」
 勝者は宣言した。
 突き刺さる西日、豆腐屋の喇叭らっぱがコハダの心にちりちり沁みた。
 思い出すと何をする気にもなれない。塾も結局サボってしまった。照明を点けない自分の部屋で、椅子に三角座りをしたままずっと唸っているばかりで、あげく、
(もっと、もっと、うまくならなきゃ)
 カッカしている頭で思いついた打開策はこれだけだ。
 自分の揺らぎを打ち消すために。これまでの自分を超えるために。
 結局、自分は自分の感じる恐怖への言い訳に、決まりを使っていただけなのかもしれないと思う。ふいに、それまで自分へ重くのしかかっていた白く、もやもやした巨大な塊から水分が抜け始めた気がした。弱々しく乾き、砕け散る光景が見えた。
(私ってば……どうして、なにを、こんなに怖がってたんだっけ?)
 思い立ったらただ一途、居ても立っても居られなくなるのが彼女の好いところであり、悪いところでもある。そしてこうなってみれば都合の良いことに、今夜、技術者である両親は遠方のバヤックコンペティションへ宿泊つきで招待され、帰ってこないのだった。
「――ちょっとやるか!」
 引き出しから愛艇あいていの鍵を取り出して立ち上がる。
 潜らないから水着はいらない。ラッシュガードの上下にライフジャケットを羽織ると家を飛び出した。
 とにかく、今、釣って釣って釣りまくらないことには気が済まない。
 とにかく、自信を、自分を全面喪失したままでは明日から仲間に合わす顔が無い。
 皆、
(私のこと、情けないと思ってるんだろうな)
 コハダは少し泣きそうになる。
(だから、今夜のうちにエネルギーを充填じゅうてんしておくんだッ!)
 周囲へ気を配りながら車輪を出したバヤックを押して、スロープまでの道をこっそりけながら彼女は思う。
(そうだよ。夜なんて怖くない。迷信迷信。ホント、ばかばかしいんだから!)
 それで、
「お嬢ちゃん、釣りかい?」
 暗がりからふいに声をかけられたコハダはビクン、と立ちすくんだ。
 見れば、穏やかな顔立ちをした老人がこちらへ微笑みかけている。
(マズイ!)
 コハダの心臓がキュッとなる。騒がれれば面倒だ。
「ええっと、その……そう。お父さんと、夜釣りなの」
 咄嗟とっさに嘘が出た。
「そうかい、そうかい」
 細い目をさらに細め、老人は彼女を見ているばかり、
「お父さん、先にスロープで待ってるの」
「そうかい、そうかい」
 好々爺然こうこうやぜんとして、こちらう疑う様子は微塵みじんも無い。
「そいつは良かったねぇ。今日は水が良いから、きっとスズキが沢山釣れるよ」
「そう思うわ」
「餌は、お父さんが持っているのかな?」
 言われてコハダはハッとした。しまった、餌を持っていない。暗いから「スナイプ」は出来ないし、もともとイナコに対抗しようという目的もあるから「一本フカセ」をやるつもりで出てきたのだが、それにしては餌のエビを手網てあみを持って来ていない。
(急に釣りに行こうと思うとコレなんだから!)
 内心、コハダは自分の粗忽そこつを呪った。
「おじさんは、釣具屋だよ。餌も、売っているよ」
 彼女の胸中きょうちゅう見透みすかしたように老人が言う。チリン、と涼し気な風鈴の音が一つして、コハダは彼が、ひさしにウキだの出来合いの仕掛けだのを一杯ぶら下げた、小さなおんぼろ屋台を引いていることに気が付いた。趣味としての釣りも盛んなこの辺りには、こうした釣具や釣り餌の行商人ぎょうしょうにんが少なくない。店あきないで買うよりも少し割高にはなるが、それでも釣り場へ直接やってくる行商は釣り客の間で重宝ちょうほうがられている。
 コハダを含めた大川漁民は経費節減のため餌は自分で調達するのがならわしだが、今のように餌を探す時間も惜しい時や、釣り場で仕掛けの予備が無くなった時には時折、利用することがあった。
「わかった。ええと……袋イソメ……ううん、ボサエビ、ある?」
「ハイハイ。一匹、二十円だよ」
 ひさしに下がる風鈴がチリン、とまた鳴った。
「……高いなぁ」
「十匹以上でおまけも付けるよ。ほゥら」
 老人がゴソゴソやって取り出したのは一本の釣り針だ。機械生産が主流の近頃にしては珍しい手打ちの針らしく、独特の光沢が特徴的な、太く平らな針軸はりじくが街灯の明かりに反射してピカピカ光っていた。良くがれた鋭い針先が怖いくらいだった。
「おじさん、これ手打ち針じゃない。おまけにしては立派過ぎるよ。大丈夫?」
「なぁに、年頃になってもお父さんに付き合ってあげる、優しい娘さんへのサービスさ」
 老人はにまにまっと笑い、コハダは、
「えっと……」
 ちょっと言葉に詰まって強張こわばった笑顔を返す。老人は優しく微笑み、
「持ってお行き。今時いまどきの機械研ぎ針と違って、何度だって研いで使える。それにこの針は魔法の針だよ。この反射そのものがひどく魚を寄せるんだ。こいつにおじさんのところの生きのいいエビをちょんと掛けて放り込めば、スズキなんて馬鹿釣れ間違いなしさ」
 少しためらい、だが結局コハダは餌と一緒にその針を受け取った。針の大きさや色を変えただけでも魚の喰い方が変わる、なんてのはよくあることだ。
「ありがとう!」
「いいってことさ。お父さんといつまでも仲良くな」
 その声を背にコハダは、再び夜の大川へ向かう。
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