わだつみの宮にさよなら 小説版

高木解緒 (たかぎ ときお)

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 川面かわもに立ち込める気化したけがれが晴れ上がり、トヨミがようやく一息つくのを聞いて、帆織ほおりも肺呼吸を再開した。とりあえず今晩五つ目のヨドミははらい終えだ。
 まだまだ濃くぬる残暑ざんしょ夜気やきでむせそうになりながら、
「今日はこれくらいにしとくか。俺、明日は早番なんだ。君も学校があるだろう?」
「もう少し。朝汐運河あさしおうんがの水路に一本、怪しい感じがあるの」
 お願いッ、とわざとらしくねだる大川の巫女みこ
 荷台から背中へすがられ、やれやれ、と肩を進めつつも帆織がかじをその方角へ切ってやると、
「さッすが帆織さん、みんなの頼れる保安官!」
 その声がいかにも現金で、彼は苦笑せざるを得なかった。シラブカ退治の後すぐに標準フロートへき直させた双胴そうどうバヤックへ二人でまたがり、一路いちろ、次なるヨドミの気配を目指す。
 ふと、トヨミが深呼吸する。
 一心いっしんに漕いでいた帆織が耳聡みみざとく振り返ったのを見て、少女は慌てて微笑んで見せた。だが、声も眼差しもいつもながら溌剌はつらつとしているものの、やはり疲れは隠せない。
「あんまり無理するなよ?」
「大丈夫。次やったらホント、今夜は終わりにするから」
「……一点豪華主義いってんごうかしゅぎから物量作戦ぶつりょうさくせんに切り替え、ってところかな、奴ら」
 再び穢れを寄せ集めたノガレが二匹目のシラブカを生み出すことは、理論的には可能なのだという。トヨミいわく、
「だって奴らのんでる深海じゃ、依代用よりしろよう鯨骨げいこつなんか珍しくもないだろうしね。この間よりもっと大きな、本当に怪獣みたいな禍式まがしきを打つことだってできなくはないと思うんだ。新鮮な穢れを大量に集められさえすれば」
 とのこと。それでこのところ、二人は毎晩のように出ずっぱりで夜のパトロールと祓いを行っている。
 だが、ノガレたちはあれからこの半月ほど、大規模な復讐の兆しを見せていない。むしろ小さなヨドミを川の至る所に生じさせ、川守かわもりをチクチク痛めつける消耗戦しょうもうせんを展開している。
 人を引き込む力も無いほど小さいヨドミばかりだが、しかしそれが芯となって大きく成長する可能性を考えれば、放っておくわけにもいかない。二人が毎晩川面を駆けずり回る様子を見て、連中は軽薄けいはく溜飲りゅういんを下げているらしかった。
「ま、でかい奴に来られるよりは、数こなす方がましだけどね」
 とトヨミ。
「君がバテてしまわなければな」
「私はバテないよ。だって――、」
 その後に言葉は続かない。そのかわり、しばらく間を置いてから「わかるでしょ」とばかり、どかりと一つ背中をどやされ、帆織は肩をすくめた。
 バディとしての関係が大分だいぶ醸成じょうせいされてきたと感じさせるこの頃だ。クスクス笑う少女の声も、以前とはくらべものにならないほどかろやかで、楽しげだった。
 どれが本物の彼女なのか。
 この問いは愚問ぐもんだろう。全て彼女なのだ。帆織との間に高くそびえる壁をもうけていた頃の彼女、あるいは親水しんすいまつりの夜の彼女、そして今の彼女――。

大川端親水おおかわばたしんすいまつり〟は、近隣地域の町内会、区の観光部門、教育委員会の地域文化研究振興会などが共催して八月の最終週に行われる。佃島北端部つくだじまほくたんぶ大川分流おおかわぶんりゅうを目の前にして、水際みずぎわに沿う護岸遊歩道ごがんゆうほどうから一段、陸へ上がる形でもうけられた親水公園がその舞台だ。 
 月初つきはじめに住吉神社すみよしじんじゃ例祭れいさいがあるから、佃の子供たちは月に二度のお祭りを楽しめる。
 そして例祭が大人主導の祭りであるのに対し、親水まつりはそもそも新しい河川文化の膾炙かいしゃを目的として始められたものだから、どうしたって子供たちが主役になる。もちろん大人も付き添うが、各水軍が的屋てきや連中を堂々どうどう向こうに回して出店、れたてクルマエビの姿焼きやアナゴ飯など心尽こころづくしの出し物で味を競う。
 明るいうちには川べりでバヤック競技会や運転講習会も開かれ、川の子供たち全てが心待ちにする夏休みの総決算、当地域の一大文化祭的様相いちだいぶんかさいてきようそうていするのがこのお祭りなのだ。
 とは言え、警察や教育委員会の依頼を受け、警備協力として駆り出された帆織自身に祭りを楽しむ余裕のあるはずもない。
 明るいうちはもちろん、暗くなってからも、夏物のパークレンジャースタイルに身を固め、吹き出す汗をぬぐいながら会場をひたすら、ぐるぐる歩き続けて彼は消耗甚しょうもうはなはだだしかった。
 だが、嬉しい出来事も二つほどあった。
 一つは真奈まなの来訪だ。
 夕暮れ時に彼女が研究室の学生を複数連れて見物けんぶつへ現れた時、帆織はまず、彼女と学生たちにボラの焼き田楽でんがくをおごった。豊洲水軍自慢とよすすいぐんじまんの一品だ。
 浄化以前じょうかいぜんはドブざかなの代表だったボラも、今では食用魚として充分、人気を取り戻している。水が綺麗きれいな場所のボラはもと肉厚にくあつな魚と言うこともあって食いでがある上、くせが無くてごく美味うまい。へそ(鳥で言う砂肝すなぎも)の串焼きや刺身はこの辺りの飲み屋の人気メニューで、帆織もよく食べる。このボラの身を分厚くそぎ切りにして炭火でレアに焼き、辛子味噌からしみそ酢味噌すみそ、ゆず味噌みそなどを塗ってさらに少しあぶり、むしゃむしゃ食べるのがボラの焼き田楽だ。この界隈かいわいではヘルシージャンクフードとして確立したメニューでもある。
 そう言えば、と帆織は自分が食べるのを忘れていたと気付く。
 財布を出した時にお調子者の男子学生が、
「よ、ダーリン!」
 などとはやし立てるから、何かと思えば、真奈が構内こうないで帆織に言及する時の呼称であるらしい。最初、あきがおで婚約者を見た帆織だったが、悪戯いたずらっぽいのだか堂々としているのだか分からない彼女の微笑みを見ているうち、こちらの相好そうごうも不用意にくずれざるを得なかった。
 それで、さらに囃す男子学生もしらけて顔を見合せる女子学生も一纏ひとまとめに、慌てて次なるアナゴ飯屋台、統合水軍本部とうごうすいぐんほんぶの出展へ引き立てたので、自分の田楽を忘れていたのだ。
「保安官の連れならおまけしまくるぜ!」
 本部屋台では鉢巻はちまきをしたカジメがアナゴを焼き、
「今年は間に合わなかったけど、来年からは夜の川も活用したいんですよ」
 珍しく髪をたばね、半被姿はっぴすがたのイナコが飯を盛りながら学生相手に未来図を語った。
「町会や区のおじさんたちと相談して、電飾でバヤックや台船だいせんを飾ったイルミネーションパレードとか夜神輿よみこしとかしたいんです。楽しそうじゃないですか?」 
 観光客ももっと呼べると思うんですよね、と明るい未来を展望し、不敵に笑うこの少女と意気投合した女子学生、美少女の危うい媚態びたいに心をつかまれた男子学生の数名が屋台の手伝いへ名乗りを上げた。人手ひとでが足りず、作業も販売もカジメとイナコがほとんど二人で切り盛りし、てんてこ舞いのありさまだったのだ。道理どうりで、イナコが〝らしくない〟よそおいで、みずから汗水たらしているわけだ。
「そういや、思ったほど子供がいないな」
 つぶやく帆織へ、
「なんか、この前の騒ぎで疲れちゃった子が結構いるみたいなんです。心の夏バテ?」
 そんなこともありますよ、と総漁長そうりょうちょうはそれほど気にかけていない顔つきをして見せたが、彼女一流の強がりもかなり混ざっているだろう、と帆織は見当けんとうをつけた。
 ここまで人手が足りないのは、子供たちの多くが河川利用のシンポジウムをのぞきに行ってしまったからということもあるからなのだ。屋台を臨時休業して総出そうでで見学の水軍もあると聞く。
 あの暴走の後、帆織とトヨミが現場を離れた後で子供たちの間に一悶着ひともんちゃくあり、コハダがイナコに佃水軍のリーダーの座を追い落とされてしまったことについては、退勤間際たいきんまぎわ潤地うるちやその日の外番そとばんの同僚から聞き、また次の日からの川の気配が異なっていたことからも知った帆織だった。
 そしてその後のコハダの、不死鳥ふしちょうめく大復活については感服かんぷくしてやまない彼でもある。
 コハダとイナコ、どちらの肩を持つわけでもないが、姑息こそく根回ねまわしや奸計かんけい真正面ましょうめんから撃破げきはする機知きち度量どりょうを見せられれば、どうしたって心中しんちゅう拍手喝采はくしゅかっさいしてしまう。
 つまり「カイギュウカムバック運動」の立ち上げをシンポジウムで堂々発表したコハダがきかえる熱気の中、壇上だんじょうのオブザーバーたちからはもちろん、聴衆ちょうしゅう全てからの大歓声と拍手に迎えられ、満場一致の賞賛を得たこと、これが祭りの夜に起こった二つ目の嬉しい出来事だった。
 彼女は海へ帰ったダイカイギュウの再訪さいほうを期待し、周辺の水軍、地域住民が総力を挙げて協力し、彼らの主食として理想的なアマモ類を川底へ大規模に移植しようと提案したのだ。
 餌場えさばととのえたところで、カイギュウがまた帰ってくる、とは帆織には思われない。あれもまた一種の再生不良さいせいふりょうだったのではないか、と彼は考えている。調査事故の晩に見た三葉虫の影のようなものだ。だが、そのこと自体は小さな問題に過ぎない。祭り提灯ぢょうちんに赤々と照らされつつ、浴衣姿ゆかたすがた清々すがすがしく弁舌を振るうコハダを、彼女を支える大勢の若き聴衆を遠目とおめでちらりと見た時、彼は正直言って感動したのだ。警邏けいらの足が自然と止まった。あれこそがこの運動の価値なのだろう、と思った。水遊び規制派の大人たちもたじたじなのがおかしかった。
 コハダの生み出した熱気は祭りが終わっても収まらず、それどころか夏休みが終わっても冷めそうにない。九月に入って二週間ほど経つが、カムバック運動のネットワークは今や水軍関係者のみにとどまらず、付近の小中学校でも公式に、主体的に関与していこうという声が高まっているそうである。協賛、支援を名乗り出る団体、個人もひっきりなしで、それらを統括とうかつするのは勿論もちろん、コハダだ。大人からのサポートも入るには入るだろうが、経営規模は以前の漁労長どころでない。
 子供の成長速度には確かに、すさまじいものがある。祭りの夜、帆織はそれをコハダと、そしてトヨミにひしと実感させられたのだ。
 コハダについては、壇上だんじょう有識者相手ゆうしきしゃあいてに胸を張って弁舌を振るう姿に。
 トヨミについては――、


「なに?」
 運河に入って早速さっそく見つけたヨドミはやはり小さかった。五分も経たぬうちにはらい終え、てきぱき後始末あとしまつをしている彼女の両目へピントが合って、帆織は無意識のうちに相手を見つめていたことへ気付かされる。
「いや――、なんでもないさ」
 慌てて誤魔化ごまかすと、
「変なの」
 少女は肩をすくめ、片づけを再開する。
「――オッケー!」
「よし、帰るかっ」
 前を向き、帆織はペダルに足を乗せた。後は水路を通って、トヨミの家のそばまで送って行くだけだ。両肩に乗る手のひらを感じつつ、彼はゆっくりとぎ始めた。深夜の川面かわもはどこまでも静かで、
「今日はほんと、人の気配がしないね」
 同じことを感じていたらしい、トヨミが何気なにげなく言った。
「あの晩と同じみたい」
 あの晩、というのはシラブカを退治した晩のことだろう。帆織は無言で頷く。
 カイギュウ暴走での帆織とトヨミの活躍は、空撮くうさつにより全国中継されていた。それによりトヨミの地域内での評価が少し上がったタイミングで、今度は夜の大川上空で不気味な巨大怪鳥にぶら下がる二人の写真が、顔も判別せぬほど不鮮明ながら、それでもどうやらトヨミはトヨミらしいと分かる程度のものが一瞬、ほんの一瞬だけダゴンネットにアップされたのだ。
 それは五分も経たないうちに削除されたが「青の秩序ブルー・オーダー」が指摘したトヨミ=魔女説が検証され始めていた電脳世界であらたな噂が誕生するにはそれだけで十分だった。あの騒動の後、小さなほころびがするするけ続けるように、青の秩序の不正が暴かれ始めていたという背景が、相対的に魔女説への新たな解釈かいしゃくを後押ししたのかもしれない。
 あの魔女はしき魔女でなくき魔女、いや、魔女ですらなく――。
「職場での言い訳が大変だったんだぜ、こっちは」
 大海魔だいかいまの気配が消え、幾分気軽いくぶんきがるになった数日後の川行かわゆきで、冗談半分、本音半分、帆織はトヨミに訴えたものだ。
「結局は、不良少女の更生こうせいに心から付き合っている有能な指導員、って感じで潤地うるちさんがかばってくれたけどさ」
「なら良かったじゃない」
「良いもんか。シラブカ関連の写真は君の〝良い噂〟に触発しょくはつされたネット職人の合成ってことで片づけられたが、それでも、俺の職場でのあだ名は〝サイドキック〟帆織になった」
「サイドキック?」
「スーパーヒーローの助手をそう呼ぶらしいぞ」
「は!」
「ばかばかしぃッ」とうんざりした調子で言ったトヨミの口調は、親水まつりの晩、彼女がマルタに相対あいたいしていた時のそれと似ていた。〝善き魔女〟として祭り上げられることが気恥ずかしいというより、自身への第三者評価の激変げきへん戸惑とまどい、あるいは、ある種の潔癖けっぺき動機どうきいきどおっているということもあるのだろう。

「――無理とか、無理じゃない、とかじゃなくてッ――!」
 祭りの晩、会場のすみも隅、夜店よみせからの明かりも届かない植樹しょくじゅの暗がりで、珍しく歯切れ悪く響いていた彼女のいらつき声を帆織は再び思い出す。あれは以前、自分へ向けられていた刺々とげとげしさとはまた別の、しかしやはり鋭い感情だった。
 祭りの外縁がいえん警邏中けいらちゅう、ふと、明らかに人目ひとめけてどこかへ向かおうとする少女を認めたとき、最初、帆織はそれがトヨミであることに気が付かなかった。それもそのはず、浴衣姿は遠目にも見違みちがえて見えた。直接の会場である親水公園から川岸へ一段降りた護岸遊歩道ごがんゆうほどうを、公園の裏口方向へずんずん歩いて人込みから離れている。もう帰るのかとも思ったが、例えあのトヨミでも、この非日常の雰囲気が立ち込める中、艶姿あですがたの少女を一人、人気ひとけの少ない暗がりに歩かせるのはあまりよろしくはないだろう。一言注意ひとことちゅういを、と思って帆織は足早あしばやあとを追ったのだ。
 しかし、遠くから見当けんとうをつけて気配の痕跡を辿たどり、遊歩道から再び石段を上がろうとした彼は、頭上の木陰の鋭い口論に気付いて足を止めた。
 トヨミと、マルタだった。どうやら彼がここへトヨミを呼び出したものらしい。
「だからさ――、あんたも、今のコハダには近づかない方が良いよ」
「お前なぁ」
 と、マルタの声はじりじりしていた。
「他の奴らは助けるくせにコハダだけ助けられねぇとか、どういう理屈だよ」
「――誰もコハダだけ助けないなんて言ってないでしょッ?」
「そういうことじゃねぇか。お前が夜の川を回って人助けしてる、なんてきょうび誰でも知ってるぜ。ネットにはお前が夜な夜な、化け物か侵略者と戦ってるんだなんて話まであるんだ。夜の大川を守るスーパーヒーローか、あるいは魔法少女――」
「くだんないこと言わないで。あんた、いつまでそう幼稚ようちなのよ。コハダコハダってのもそう。コハダはあんたのお母さんやお姉ちゃんじゃないんだよ?」
「違う。逆だ。俺はあいつを守ってやりてえんだ。あいつはな、くそ真面目まじめなんだよ。周りがリーダーぶってくれ、って言うなら〝ぶる〟どころか、自分の弱さを飲み込みまくってリーダーの肩書きへ自分を無理矢理、当てはめる奴なんだ」
「……あの子が真面目なことぐらい、あんたに言われなくても知ってるから」
「だったら俺の気持ちも理解してくれよ。あいつはお前みたいにしんから強いわけじゃねえ。誰かがあいつ自身、あいつそのものをささえてやらなくちゃいけねえんだ。で、これまでのあいつはその役を、明らかに俺に望んでた。そうだろ?」
「……今は?」
「今は……、分からねぇ」
 マルタは正直に言った。
「あいつ、俺をけてやがる」
 面倒臭めんどくせぇのをなにか、かかえ込んでるに違ぇねぇんだ、と彼はうめき、
「あんなにタブーにうるさかった奴が、夜の川にまで出てるっぽいんだぜ? イナコに負けたショックから、本当は立ち直れてないのかもしれねぇ。とにかく、どっか変なんだ。だから、お前が話を聞いてやってよ――」
「あんたが避けられてるのに、私に何かできるわけないでしょ?」
「そうは言うけど、お前ら昔は仲良かったじゃねえか。俺をのけ者にしてよ、二人でばっかり遊んでたよな。そんなお前なら、何かできることだって、まだ――」
「無い。昔は昔、今は今。あんたも、未練みれんがましく女の子にすがり付くのって、みっともないからね」
「そんな話じゃねぇだろ?」
「そう?」
「俺はあいつが最近、うわつらでしか元気ねぇのが我慢がまんできねぇ、その理由が知りてぇ、ってだけだ」
「コハダだって、あんたのために元気だったわけじゃないんじゃない?」
「そりゃそうだけどよ――、わかった……もういい」
 そこで二人の話は唐突とうとつ途切とぎれた。マルタらしい足音がいきおいよく遠ざかって行き、かと思うとこちらへ、つまり、再び川沿いの護岸遊歩道へ下りてくるしなやかな足音が聞こえ、
(まずい!)
「――川に飛び込むのが一番だよ。盗み聞きがばれそうな時はね」
 思わず狼狽うろたえていた帆織へ背後はいごから声がかかった。
 彼が溜息ためいきをついて振り返ると、疲れた目元をしてはいるが、かすかにふくみ笑いのトヨミが立っていた。帆織は肩をすくめて、
「盗み聞きしてたわけじゃない。パトロールしてたら、偶然、聞き覚えのある声に出くわしたんだ」
「――なるほどね」
 そのまま彼女は彼のかたわらまで歩み寄り、通り過ぎて、遊歩道際ゆうほどうぎわ安全柵あんぜんさくに体をあずける。
 街のきらめ川面かわもを無言でながめるその後姿を、帆織はしばらく、黙って見ていた。
「浴衣、似合にあう?」
 突然かれたから、
「ああ。よく似合ってる」
 答えるとトヨミは全身でこちらへ振り返り、今度は背中で柵にもたれた。祭りかられ出すあかりの中、両手を広げて手すりをつかんだのは、そで意匠いしょうまでしっかり見せるつもりであるらしい。
「いつもよりずっと、大人っぽく見えるな」
 実際そうだった。
 白地の綿絽めんろ朝顔柄あさがおがらを青系統で上品にあしらった浴衣はよくえて、整った面立おもだちを余計すっきりして見せた。
「……私はしんから強いらしいからね。そりゃ、大人っぽくも見えるよ」
「前に何があったのか知らんが――」
「知らなくていい」
「知る気はない。無理に仲良くしろとか、解決した方が良いとかも言わない。君らの問題だからな。だけど状況の悪化を食い止めることはできるかもしれないんだぞ」
 何気ない仕草でトヨミは顔をそむけた。夜の川風に髪をなびかせて目をつむった。
「君の場合、たまには自分の、君自身のことに君の力を使ったって良い、と俺は思うがな」
 聞こえないふりをしているような横顔へ帆織は語った。しばらくしてこちらを向き直った少女の両眼りょうめには少し、いつもの力が戻っているようだった。
 ありがとう、と彼女はつぶやき、
「例え、食い止めるべきものがもう、なんにも無いとしてもね」
「無いかどうかなんて分からないだろう?」
「ううん。無いというより、あってはいけないっていうべきかな。もうそのニッチは次の存在でまっているからね。大型哺乳類おおがたほにゅうるいがいるのに恐竜きょうりゅうがいちゃいけない。現生人類げんせいじんるいがいるのに原始人がいちゃいけない。今の魚で海があふれてるのに……、ね、この例え話の仕方、帆織さんっぽいよね? 私、結構どくされてるみたい!」
 悪戯いたずらっぽく微笑むトヨミ。帆織も微笑み返した。二人の心が触れ合うその時、帆織の脳裏のうりに浮かぶ幻想げんそうの海へ一瞬、巨大な気配がひらめいた。デボン紀の海中の王。地球史上最強の魚。陽光ようこう燦々さんさんと波をつらぬくサンゴしょうの切り立った外縁がいえん、その外側の暗がりを泳ぐ、甲冑かっちゅうめく骨に覆われて頑丈な頭部。全てを切り裂き、噛み砕く強靭きょうじんあごの見える気がする。
 だが、巨影きょえいはすぐに身をひるがえし、祭り提灯に照らされた笑顔の向こう側へと帰って行った。それはもういない、いな、いてはいけない存在なのだ。
 二人はまた、微笑みあった。
 確かに、トヨミのその時の笑顔はひどく大人っぽく見えた。大人の、気持ちの片付けかたを知っている顔だった。しかし瞳の奥には、やはり、まだ――、


「帆織さん! 今の――」
「ああ、見えた!」
 言われるまでもない。一瞬、遠くで起こった閃光せんこうが帆織の意識を現在へ引き戻した。
 今はもう、どんな光も見えない。だが、普通の光でなかったことだけは確かだ。
「行ってみよう!」
 うながされる前に帆織はペダルを強く踏み込んでいる。遠目とおめかそうというのだろう。トヨミが後部ステッパーを使って立ち上がった。肩にかかる彼女の重みを、帆織は余計に意識する。
 ふと、今この瞬間、後ろにいるこの娘はどんな表情をしているのだろう、という疑問が浮かび――、
「あそこ!」
 彼女の指がある一点を鋭く指し示す。
 帆織は確認のタイミングをまた、のがしたと思った。
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