23 / 33
3-2
しおりを挟む
3-2
川面に立ち込める気化した穢れが晴れ上がり、トヨミがようやく一息つくのを聞いて、帆織も肺呼吸を再開した。とりあえず今晩五つ目のヨドミは祓い終えだ。
まだまだ濃く温い残暑の夜気でむせそうになりながら、
「今日はこれくらいにしとくか。俺、明日は早番なんだ。君も学校があるだろう?」
「もう少し。朝汐運河の水路に一本、怪しい感じがあるの」
お願いッ、とわざとらしくねだる大川の巫女。
荷台から背中へすがられ、やれやれ、と肩を進めつつも帆織が舵をその方角へ切ってやると、
「さッすが帆織さん、みんなの頼れる保安官!」
その声がいかにも現金で、彼は苦笑せざるを得なかった。シラブカ退治の後すぐに標準フロートへ履き直させた双胴バヤックへ二人で跨り、一路、次なるヨドミの気配を目指す。
ふと、トヨミが深呼吸する。
一心に漕いでいた帆織が耳聡く振り返ったのを見て、少女は慌てて微笑んで見せた。だが、声も眼差しもいつもながら溌剌としているものの、やはり疲れは隠せない。
「あんまり無理するなよ?」
「大丈夫。次やったらホント、今夜は終わりにするから」
「……一点豪華主義から物量作戦に切り替え、ってところかな、奴ら」
再び穢れを寄せ集めたノガレが二匹目のシラブカを生み出すことは、理論的には可能なのだという。トヨミ曰く、
「だって奴らの棲んでる深海じゃ、依代用の鯨骨なんか珍しくもないだろうしね。この間よりもっと大きな、本当に怪獣みたいな禍式を打つことだってできなくはないと思うんだ。新鮮な穢れを大量に集められさえすれば」
とのこと。それでこのところ、二人は毎晩のように出ずっぱりで夜のパトロールと祓いを行っている。
だが、ノガレたちはあれからこの半月ほど、大規模な復讐の兆しを見せていない。むしろ小さなヨドミを川の至る所に生じさせ、川守をチクチク痛めつける消耗戦を展開している。
人を引き込む力も無いほど小さいヨドミばかりだが、しかしそれが芯となって大きく成長する可能性を考えれば、放っておくわけにもいかない。二人が毎晩川面を駆けずり回る様子を見て、連中は軽薄な溜飲を下げているらしかった。
「ま、でかい奴に来られるよりは、数こなす方がましだけどね」
とトヨミ。
「君がバテてしまわなければな」
「私はバテないよ。だって――、」
その後に言葉は続かない。その代り、しばらく間を置いてから「わかるでしょ」とばかり、どかりと一つ背中をどやされ、帆織は肩を竦めた。
バディとしての関係が大分、醸成されてきたと感じさせるこの頃だ。クスクス笑う少女の声も、以前とはくらべものにならないほど軽やかで、楽しげだった。
どれが本物の彼女なのか。
この問いは愚問だろう。全て彼女なのだ。帆織との間に高く聳える壁を設けていた頃の彼女、あるいは親水まつりの夜の彼女、そして今の彼女――。
〝大川端親水まつり〟は、近隣地域の町内会、区の観光部門、教育委員会の地域文化研究振興会などが共催して八月の最終週に行われる。佃島北端部の大川分流を目の前にして、水際に沿う護岸遊歩道から一段、陸へ上がる形で設けられた親水公園がその舞台だ。
月初めに住吉神社の例祭があるから、佃の子供たちは月に二度のお祭りを楽しめる。
そして例祭が大人主導の祭りであるのに対し、親水まつりはそもそも新しい河川文化の膾炙を目的として始められたものだから、どうしたって子供たちが主役になる。もちろん大人も付き添うが、各水軍が的屋連中を堂々向こうに回して出店、獲れたてクルマエビの姿焼きやアナゴ飯など心尽くしの出し物で味を競う。
明るいうちには川べりでバヤック競技会や運転講習会も開かれ、川の子供たち全てが心待ちにする夏休みの総決算、当地域の一大文化祭的様相を呈するのがこのお祭りなのだ。
とは言え、警察や教育委員会の依頼を受け、警備協力として駆り出された帆織自身に祭りを楽しむ余裕のあるはずもない。
明るいうちはもちろん、暗くなってからも、夏物のパークレンジャースタイルに身を固め、吹き出す汗を拭いながら会場をひたすら、ぐるぐる歩き続けて彼は消耗甚だしかった。
だが、嬉しい出来事も二つほどあった。
一つは真奈の来訪だ。
夕暮れ時に彼女が研究室の学生を複数連れて見物へ現れた時、帆織はまず、彼女と学生たちにボラの焼き田楽をおごった。豊洲水軍自慢の一品だ。
浄化以前はドブ魚の代表だったボラも、今では食用魚として充分、人気を取り戻している。水が綺麗な場所のボラは元が肉厚な魚と言うこともあって食いでがある上、癖が無くてごく美味い。へそ(鳥で言う砂肝)の串焼きや刺身はこの辺りの飲み屋の人気メニューで、帆織もよく食べる。このボラの身を分厚くそぎ切りにして炭火でレアに焼き、辛子味噌や酢味噌、ゆず味噌などを塗ってさらに少し炙り、むしゃむしゃ食べるのがボラの焼き田楽だ。この界隈ではヘルシージャンクフードとして確立したメニューでもある。
そう言えば、と帆織は自分が食べるのを忘れていたと気付く。
財布を出した時にお調子者の男子学生が、
「よ、ダーリン!」
などと囃し立てるから、何かと思えば、真奈が構内で帆織に言及する時の呼称であるらしい。最初、呆れ顔で婚約者を見た帆織だったが、悪戯っぽいのだか堂々としているのだか分からない彼女の微笑みを見ているうち、こちらの相好も不用意に崩れざるを得なかった。
それで、更に囃す男子学生も白けて顔を見合せる女子学生も一纏めに、慌てて次なるアナゴ飯屋台、統合水軍本部の出展へ引き立てたので、自分の田楽を忘れていたのだ。
「保安官の連れならおまけしまくるぜ!」
本部屋台では鉢巻きをしたカジメがアナゴを焼き、
「今年は間に合わなかったけど、来年からは夜の川も活用したいんですよ」
珍しく髪を束ね、半被姿のイナコが飯を盛りながら学生相手に未来図を語った。
「町会や区のおじさんたちと相談して、電飾でバヤックや台船を飾ったイルミネーションパレードとか夜神輿とかしたいんです。楽しそうじゃないですか?」
観光客ももっと呼べると思うんですよね、と明るい未来を展望し、不敵に笑うこの少女と意気投合した女子学生、美少女の危うい媚態に心を掴まれた男子学生の数名が屋台の手伝いへ名乗りを上げた。人手が足りず、作業も販売もカジメとイナコがほとんど二人で切り盛りし、てんてこ舞いのありさまだったのだ。道理で、イナコが〝らしくない〟装いで、自ら汗水たらしているわけだ。
「そういや、思ったほど子供がいないな」
呟く帆織へ、
「なんか、この前の騒ぎで疲れちゃった子が結構いるみたいなんです。心の夏バテ?」
そんなこともありますよ、と総漁長はそれほど気にかけていない顔つきをして見せたが、彼女一流の強がりもかなり混ざっているだろう、と帆織は見当をつけた。
ここまで人手が足りないのは、子供たちの多くが河川利用のシンポジウムを覗きに行ってしまったからということもあるからなのだ。屋台を臨時休業して総出で見学の水軍もあると聞く。
あの暴走の後、帆織とトヨミが現場を離れた後で子供たちの間に一悶着あり、コハダがイナコに佃水軍のリーダーの座を追い落とされてしまったことについては、退勤間際に潤地やその日の外番の同僚から聞き、また次の日からの川の気配が異なっていたことからも知った帆織だった。
そしてその後のコハダの、不死鳥めく大復活については感服してやまない彼でもある。
コハダとイナコ、どちらの肩を持つわけでもないが、姑息な根回しや奸計を真正面から撃破する機知と度量を見せられれば、どうしたって心中、拍手喝采してしまう。
つまり「カイギュウカムバック運動」の立ち上げをシンポジウムで堂々発表したコハダが沸きかえる熱気の中、壇上のオブザーバーたちからはもちろん、聴衆全てからの大歓声と拍手に迎えられ、満場一致の賞賛を得たこと、これが祭りの夜に起こった二つ目の嬉しい出来事だった。
彼女は海へ帰ったダイカイギュウの再訪を期待し、周辺の水軍、地域住民が総力を挙げて協力し、彼らの主食として理想的なアマモ類を川底へ大規模に移植しようと提案したのだ。
餌場を整えたところで、カイギュウがまた帰ってくる、とは帆織には思われない。あれもまた一種の再生不良だったのではないか、と彼は考えている。調査事故の晩に見た三葉虫の影のようなものだ。だが、そのこと自体は小さな問題に過ぎない。祭り提灯に赤々と照らされつつ、浴衣姿で清々しく弁舌を振るうコハダを、彼女を支える大勢の若き聴衆を遠目でちらりと見た時、彼は正直言って感動したのだ。警邏の足が自然と止まった。あれこそがこの運動の価値なのだろう、と思った。水遊び規制派の大人たちもたじたじなのがおかしかった。
コハダの生み出した熱気は祭りが終わっても収まらず、それどころか夏休みが終わっても冷めそうにない。九月に入って二週間ほど経つが、カムバック運動のネットワークは今や水軍関係者のみにとどまらず、付近の小中学校でも公式に、主体的に関与していこうという声が高まっているそうである。協賛、支援を名乗り出る団体、個人もひっきりなしで、それらを統括するのは勿論、コハダだ。大人からのサポートも入るには入るだろうが、経営規模は以前の漁労長どころでない。
子供の成長速度には確かに、凄まじいものがある。祭りの夜、帆織はそれをコハダと、そしてトヨミにひしと実感させられたのだ。
コハダについては、壇上で有識者相手に胸を張って弁舌を振るう姿に。
トヨミについては――、
「なに?」
運河に入って早速見つけたヨドミはやはり小さかった。五分も経たぬうちに祓い終え、てきぱき後始末をしている彼女の両目へピントが合って、帆織は無意識のうちに相手を見つめていたことへ気付かされる。
「いや――、なんでもないさ」
慌てて誤魔化すと、
「変なの」
少女は肩を竦め、片づけを再開する。
「――オッケー!」
「よし、帰るかっ」
前を向き、帆織はペダルに足を乗せた。後は水路を通って、トヨミの家の傍まで送って行くだけだ。両肩に乗る手のひらを感じつつ、彼はゆっくりと漕ぎ始めた。深夜の川面はどこまでも静かで、
「今日はほんと、人の気配がしないね」
同じことを感じていたらしい、トヨミが何気なく言った。
「あの晩と同じみたい」
あの晩、というのはシラブカを退治した晩のことだろう。帆織は無言で頷く。
カイギュウ暴走での帆織とトヨミの活躍は、空撮により全国中継されていた。それによりトヨミの地域内での評価が少し上がったタイミングで、今度は夜の大川上空で不気味な巨大怪鳥にぶら下がる二人の写真が、顔も判別せぬほど不鮮明ながら、それでもどうやらトヨミはトヨミらしいと分かる程度のものが一瞬、ほんの一瞬だけダゴンネットにアップされたのだ。
それは五分も経たないうちに削除されたが「青の秩序」が指摘したトヨミ=魔女説が検証され始めていた電脳世界で新たな噂が誕生するにはそれだけで十分だった。あの騒動の後、小さな綻びがするする解け続けるように、青の秩序の不正が暴かれ始めていたという背景が、相対的に魔女説への新たな解釈を後押ししたのかもしれない。
あの魔女は悪しき魔女でなく善き魔女、いや、魔女ですらなく――。
「職場での言い訳が大変だったんだぜ、こっちは」
大海魔の気配が消え、幾分気軽になった数日後の川行で、冗談半分、本音半分、帆織はトヨミに訴えたものだ。
「結局は、不良少女の更生に心から付き合っている有能な指導員、って感じで潤地さんが庇ってくれたけどさ」
「なら良かったじゃない」
「良いもんか。シラブカ関連の写真は君の〝良い噂〟に触発されたネット職人の合成ってことで片づけられたが、それでも、俺の職場でのあだ名は〝サイドキック〟帆織になった」
「サイドキック?」
「スーパーヒーローの助手をそう呼ぶらしいぞ」
「は!」
「ばかばかしぃッ」とうんざりした調子で言ったトヨミの口調は、親水まつりの晩、彼女がマルタに相対していた時のそれと似ていた。〝善き魔女〟として祭り上げられることが気恥ずかしいというより、自身への第三者評価の激変に戸惑い、あるいは、ある種の潔癖を動機に憤っているということもあるのだろう。
「――無理とか、無理じゃない、とかじゃなくてッ――!」
祭りの晩、会場の隅も隅、夜店からの明かりも届かない植樹の暗がりで、珍しく歯切れ悪く響いていた彼女の苛つき声を帆織は再び思い出す。あれは以前、自分へ向けられていた刺々しさとはまた別の、しかしやはり鋭い感情だった。
祭りの外縁の警邏中、ふと、明らかに人目を避けてどこかへ向かおうとする少女を認めたとき、最初、帆織はそれがトヨミであることに気が付かなかった。それもそのはず、浴衣姿は遠目にも見違えて見えた。直接の会場である親水公園から川岸へ一段降りた護岸遊歩道を、公園の裏口方向へずんずん歩いて人込みから離れている。もう帰るのかとも思ったが、例えあのトヨミでも、この非日常の雰囲気が立ち込める中、艶姿の少女を一人、人気の少ない暗がりに歩かせるのはあまり宜しくはないだろう。一言注意を、と思って帆織は足早に後を追ったのだ。
しかし、遠くから見当をつけて気配の痕跡を辿り、遊歩道から再び石段を上がろうとした彼は、頭上の木陰の鋭い口論に気付いて足を止めた。
トヨミと、マルタだった。どうやら彼がここへトヨミを呼び出したものらしい。
「だからさ――、あんたも、今のコハダには近づかない方が良いよ」
「お前なぁ」
と、マルタの声はじりじりしていた。
「他の奴らは助ける癖にコハダだけ助けられねぇとか、どういう理屈だよ」
「――誰もコハダだけ助けないなんて言ってないでしょッ?」
「そういうことじゃねぇか。お前が夜の川を回って人助けしてる、なんてきょうび誰でも知ってるぜ。ネットにはお前が夜な夜な、化け物か侵略者と戦ってるんだなんて話まであるんだ。夜の大川を守るスーパーヒーローか、あるいは魔法少女――」
「くだんないこと言わないで。あんた、いつまでそう幼稚なのよ。コハダコハダってのもそう。コハダはあんたのお母さんやお姉ちゃんじゃないんだよ?」
「違う。逆だ。俺はあいつを守ってやりてえんだ。あいつはな、くそ真面目なんだよ。周りがリーダーぶってくれ、って言うなら〝ぶる〟どころか、自分の弱さを飲み込みまくってリーダーの肩書きへ自分を無理矢理、当てはめる奴なんだ」
「……あの子が真面目なことぐらい、あんたに言われなくても知ってるから」
「だったら俺の気持ちも理解してくれよ。あいつはお前みたいに芯から強いわけじゃねえ。誰かがあいつ自身、あいつそのものを支えてやらなくちゃいけねえんだ。で、これまでのあいつはその役を、明らかに俺に望んでた。そうだろ?」
「……今は?」
「今は……、分からねぇ」
マルタは正直に言った。
「あいつ、俺を避けてやがる」
面倒臭ぇのをなにか、抱え込んでるに違ぇねぇんだ、と彼は呻き、
「あんなにタブーに煩かった奴が、夜の川にまで出てるっぽいんだぜ? イナコに負けたショックから、本当は立ち直れてないのかもしれねぇ。とにかく、どっか変なんだ。だから、お前が話を聞いてやってよ――」
「あんたが避けられてるのに、私に何かできるわけないでしょ?」
「そうは言うけど、お前ら昔は仲良かったじゃねえか。俺をのけ者にしてよ、二人でばっかり遊んでたよな。そんなお前なら、何かできることだって、まだ――」
「無い。昔は昔、今は今。あんたも、未練がましく女の子に縋り付くのって、みっともないからね」
「そんな話じゃねぇだろ?」
「そう?」
「俺はあいつが最近、上っ面でしか元気ねぇのが我慢できねぇ、その理由が知りてぇ、ってだけだ」
「コハダだって、あんたのために元気だったわけじゃないんじゃない?」
「そりゃそうだけどよ――、わかった……もういい」
そこで二人の話は唐突に途切れた。マルタらしい足音が勢いよく遠ざかって行き、かと思うとこちらへ、つまり、再び川沿いの護岸遊歩道へ下りてくるしなやかな足音が聞こえ、
(まずい!)
「――川に飛び込むのが一番だよ。盗み聞きがばれそうな時はね」
思わず狼狽えていた帆織へ背後から声がかかった。
彼が溜息をついて振り返ると、疲れた目元をしてはいるが、微かに含み笑いのトヨミが立っていた。帆織は肩を竦めて、
「盗み聞きしてたわけじゃない。パトロールしてたら、偶然、聞き覚えのある声に出くわしたんだ」
「――なるほどね」
そのまま彼女は彼の傍まで歩み寄り、通り過ぎて、遊歩道際の安全柵に体を預ける。
街の灯に煌く川面を無言で眺めるその後姿を、帆織はしばらく、黙って見ていた。
「浴衣、似合う?」
突然訊かれたから、
「ああ。よく似合ってる」
答えるとトヨミは全身でこちらへ振り返り、今度は背中で柵にもたれた。祭りから漏れ出す灯りの中、両手を広げて手すりを掴んだのは、袖の意匠までしっかり見せるつもりであるらしい。
「いつもよりずっと、大人っぽく見えるな」
実際そうだった。
白地の綿絽へ朝顔柄を青系統で上品にあしらった浴衣はよく映えて、整った面立ちを余計すっきりして見せた。
「……私は芯から強いらしいからね。そりゃ、大人っぽくも見えるよ」
「前に何があったのか知らんが――」
「知らなくていい」
「知る気はない。無理に仲良くしろとか、解決した方が良いとかも言わない。君らの問題だからな。だけど状況の悪化を食い止めることはできるかもしれないんだぞ」
何気ない仕草でトヨミは顔を背けた。夜の川風に髪をなびかせて目を瞑った。
「君の場合、たまには自分の、君自身のことに君の力を使ったって良い、と俺は思うがな」
聞こえないふりをしているような横顔へ帆織は語った。しばらくしてこちらを向き直った少女の両眼には少し、いつもの力が戻っているようだった。
ありがとう、と彼女は呟き、
「例え、食い止めるべきものがもう、なんにも無いとしてもね」
「無いかどうかなんて分からないだろう?」
「ううん。無いというより、あってはいけないっていうべきかな。もうそのニッチは次の存在で埋まっているからね。大型哺乳類がいるのに恐竜がいちゃいけない。現生人類がいるのに原始人がいちゃいけない。今の魚で海が溢れてるのに……、ね、この例え話の仕方、帆織さんっぽいよね? 私、結構毒されてるみたい!」
悪戯っぽく微笑むトヨミ。帆織も微笑み返した。二人の心が触れ合うその時、帆織の脳裏に浮かぶ幻想の海へ一瞬、巨大な気配が閃いた。デボン紀の海中の王。地球史上最強の魚。陽光が燦々と波を貫くサンゴ礁の切り立った外縁、その外側の暗がりを泳ぐ、甲冑めく骨に覆われて頑丈な頭部。全てを切り裂き、噛み砕く強靭な顎の見える気がする。
だが、巨影はすぐに身を翻し、祭り提灯に照らされた笑顔の向こう側へと帰って行った。それはもういない、否、いてはいけない存在なのだ。
二人はまた、微笑みあった。
確かに、トヨミのその時の笑顔はひどく大人っぽく見えた。大人の、気持ちの片付けかたを知っている顔だった。しかし瞳の奥には、やはり、まだ――、
「帆織さん! 今の――」
「ああ、見えた!」
言われるまでもない。一瞬、遠くで起こった閃光が帆織の意識を現在へ引き戻した。
今はもう、どんな光も見えない。だが、普通の光でなかったことだけは確かだ。
「行ってみよう!」
促される前に帆織はペダルを強く踏み込んでいる。遠目を利かそうというのだろう。トヨミが後部ステッパーを使って立ち上がった。肩にかかる彼女の重みを、帆織は余計に意識する。
ふと、今この瞬間、後ろにいるこの娘はどんな表情をしているのだろう、という疑問が浮かび――、
「あそこ!」
彼女の指がある一点を鋭く指し示す。
帆織は確認のタイミングをまた、逃したと思った。
川面に立ち込める気化した穢れが晴れ上がり、トヨミがようやく一息つくのを聞いて、帆織も肺呼吸を再開した。とりあえず今晩五つ目のヨドミは祓い終えだ。
まだまだ濃く温い残暑の夜気でむせそうになりながら、
「今日はこれくらいにしとくか。俺、明日は早番なんだ。君も学校があるだろう?」
「もう少し。朝汐運河の水路に一本、怪しい感じがあるの」
お願いッ、とわざとらしくねだる大川の巫女。
荷台から背中へすがられ、やれやれ、と肩を進めつつも帆織が舵をその方角へ切ってやると、
「さッすが帆織さん、みんなの頼れる保安官!」
その声がいかにも現金で、彼は苦笑せざるを得なかった。シラブカ退治の後すぐに標準フロートへ履き直させた双胴バヤックへ二人で跨り、一路、次なるヨドミの気配を目指す。
ふと、トヨミが深呼吸する。
一心に漕いでいた帆織が耳聡く振り返ったのを見て、少女は慌てて微笑んで見せた。だが、声も眼差しもいつもながら溌剌としているものの、やはり疲れは隠せない。
「あんまり無理するなよ?」
「大丈夫。次やったらホント、今夜は終わりにするから」
「……一点豪華主義から物量作戦に切り替え、ってところかな、奴ら」
再び穢れを寄せ集めたノガレが二匹目のシラブカを生み出すことは、理論的には可能なのだという。トヨミ曰く、
「だって奴らの棲んでる深海じゃ、依代用の鯨骨なんか珍しくもないだろうしね。この間よりもっと大きな、本当に怪獣みたいな禍式を打つことだってできなくはないと思うんだ。新鮮な穢れを大量に集められさえすれば」
とのこと。それでこのところ、二人は毎晩のように出ずっぱりで夜のパトロールと祓いを行っている。
だが、ノガレたちはあれからこの半月ほど、大規模な復讐の兆しを見せていない。むしろ小さなヨドミを川の至る所に生じさせ、川守をチクチク痛めつける消耗戦を展開している。
人を引き込む力も無いほど小さいヨドミばかりだが、しかしそれが芯となって大きく成長する可能性を考えれば、放っておくわけにもいかない。二人が毎晩川面を駆けずり回る様子を見て、連中は軽薄な溜飲を下げているらしかった。
「ま、でかい奴に来られるよりは、数こなす方がましだけどね」
とトヨミ。
「君がバテてしまわなければな」
「私はバテないよ。だって――、」
その後に言葉は続かない。その代り、しばらく間を置いてから「わかるでしょ」とばかり、どかりと一つ背中をどやされ、帆織は肩を竦めた。
バディとしての関係が大分、醸成されてきたと感じさせるこの頃だ。クスクス笑う少女の声も、以前とはくらべものにならないほど軽やかで、楽しげだった。
どれが本物の彼女なのか。
この問いは愚問だろう。全て彼女なのだ。帆織との間に高く聳える壁を設けていた頃の彼女、あるいは親水まつりの夜の彼女、そして今の彼女――。
〝大川端親水まつり〟は、近隣地域の町内会、区の観光部門、教育委員会の地域文化研究振興会などが共催して八月の最終週に行われる。佃島北端部の大川分流を目の前にして、水際に沿う護岸遊歩道から一段、陸へ上がる形で設けられた親水公園がその舞台だ。
月初めに住吉神社の例祭があるから、佃の子供たちは月に二度のお祭りを楽しめる。
そして例祭が大人主導の祭りであるのに対し、親水まつりはそもそも新しい河川文化の膾炙を目的として始められたものだから、どうしたって子供たちが主役になる。もちろん大人も付き添うが、各水軍が的屋連中を堂々向こうに回して出店、獲れたてクルマエビの姿焼きやアナゴ飯など心尽くしの出し物で味を競う。
明るいうちには川べりでバヤック競技会や運転講習会も開かれ、川の子供たち全てが心待ちにする夏休みの総決算、当地域の一大文化祭的様相を呈するのがこのお祭りなのだ。
とは言え、警察や教育委員会の依頼を受け、警備協力として駆り出された帆織自身に祭りを楽しむ余裕のあるはずもない。
明るいうちはもちろん、暗くなってからも、夏物のパークレンジャースタイルに身を固め、吹き出す汗を拭いながら会場をひたすら、ぐるぐる歩き続けて彼は消耗甚だしかった。
だが、嬉しい出来事も二つほどあった。
一つは真奈の来訪だ。
夕暮れ時に彼女が研究室の学生を複数連れて見物へ現れた時、帆織はまず、彼女と学生たちにボラの焼き田楽をおごった。豊洲水軍自慢の一品だ。
浄化以前はドブ魚の代表だったボラも、今では食用魚として充分、人気を取り戻している。水が綺麗な場所のボラは元が肉厚な魚と言うこともあって食いでがある上、癖が無くてごく美味い。へそ(鳥で言う砂肝)の串焼きや刺身はこの辺りの飲み屋の人気メニューで、帆織もよく食べる。このボラの身を分厚くそぎ切りにして炭火でレアに焼き、辛子味噌や酢味噌、ゆず味噌などを塗ってさらに少し炙り、むしゃむしゃ食べるのがボラの焼き田楽だ。この界隈ではヘルシージャンクフードとして確立したメニューでもある。
そう言えば、と帆織は自分が食べるのを忘れていたと気付く。
財布を出した時にお調子者の男子学生が、
「よ、ダーリン!」
などと囃し立てるから、何かと思えば、真奈が構内で帆織に言及する時の呼称であるらしい。最初、呆れ顔で婚約者を見た帆織だったが、悪戯っぽいのだか堂々としているのだか分からない彼女の微笑みを見ているうち、こちらの相好も不用意に崩れざるを得なかった。
それで、更に囃す男子学生も白けて顔を見合せる女子学生も一纏めに、慌てて次なるアナゴ飯屋台、統合水軍本部の出展へ引き立てたので、自分の田楽を忘れていたのだ。
「保安官の連れならおまけしまくるぜ!」
本部屋台では鉢巻きをしたカジメがアナゴを焼き、
「今年は間に合わなかったけど、来年からは夜の川も活用したいんですよ」
珍しく髪を束ね、半被姿のイナコが飯を盛りながら学生相手に未来図を語った。
「町会や区のおじさんたちと相談して、電飾でバヤックや台船を飾ったイルミネーションパレードとか夜神輿とかしたいんです。楽しそうじゃないですか?」
観光客ももっと呼べると思うんですよね、と明るい未来を展望し、不敵に笑うこの少女と意気投合した女子学生、美少女の危うい媚態に心を掴まれた男子学生の数名が屋台の手伝いへ名乗りを上げた。人手が足りず、作業も販売もカジメとイナコがほとんど二人で切り盛りし、てんてこ舞いのありさまだったのだ。道理で、イナコが〝らしくない〟装いで、自ら汗水たらしているわけだ。
「そういや、思ったほど子供がいないな」
呟く帆織へ、
「なんか、この前の騒ぎで疲れちゃった子が結構いるみたいなんです。心の夏バテ?」
そんなこともありますよ、と総漁長はそれほど気にかけていない顔つきをして見せたが、彼女一流の強がりもかなり混ざっているだろう、と帆織は見当をつけた。
ここまで人手が足りないのは、子供たちの多くが河川利用のシンポジウムを覗きに行ってしまったからということもあるからなのだ。屋台を臨時休業して総出で見学の水軍もあると聞く。
あの暴走の後、帆織とトヨミが現場を離れた後で子供たちの間に一悶着あり、コハダがイナコに佃水軍のリーダーの座を追い落とされてしまったことについては、退勤間際に潤地やその日の外番の同僚から聞き、また次の日からの川の気配が異なっていたことからも知った帆織だった。
そしてその後のコハダの、不死鳥めく大復活については感服してやまない彼でもある。
コハダとイナコ、どちらの肩を持つわけでもないが、姑息な根回しや奸計を真正面から撃破する機知と度量を見せられれば、どうしたって心中、拍手喝采してしまう。
つまり「カイギュウカムバック運動」の立ち上げをシンポジウムで堂々発表したコハダが沸きかえる熱気の中、壇上のオブザーバーたちからはもちろん、聴衆全てからの大歓声と拍手に迎えられ、満場一致の賞賛を得たこと、これが祭りの夜に起こった二つ目の嬉しい出来事だった。
彼女は海へ帰ったダイカイギュウの再訪を期待し、周辺の水軍、地域住民が総力を挙げて協力し、彼らの主食として理想的なアマモ類を川底へ大規模に移植しようと提案したのだ。
餌場を整えたところで、カイギュウがまた帰ってくる、とは帆織には思われない。あれもまた一種の再生不良だったのではないか、と彼は考えている。調査事故の晩に見た三葉虫の影のようなものだ。だが、そのこと自体は小さな問題に過ぎない。祭り提灯に赤々と照らされつつ、浴衣姿で清々しく弁舌を振るうコハダを、彼女を支える大勢の若き聴衆を遠目でちらりと見た時、彼は正直言って感動したのだ。警邏の足が自然と止まった。あれこそがこの運動の価値なのだろう、と思った。水遊び規制派の大人たちもたじたじなのがおかしかった。
コハダの生み出した熱気は祭りが終わっても収まらず、それどころか夏休みが終わっても冷めそうにない。九月に入って二週間ほど経つが、カムバック運動のネットワークは今や水軍関係者のみにとどまらず、付近の小中学校でも公式に、主体的に関与していこうという声が高まっているそうである。協賛、支援を名乗り出る団体、個人もひっきりなしで、それらを統括するのは勿論、コハダだ。大人からのサポートも入るには入るだろうが、経営規模は以前の漁労長どころでない。
子供の成長速度には確かに、凄まじいものがある。祭りの夜、帆織はそれをコハダと、そしてトヨミにひしと実感させられたのだ。
コハダについては、壇上で有識者相手に胸を張って弁舌を振るう姿に。
トヨミについては――、
「なに?」
運河に入って早速見つけたヨドミはやはり小さかった。五分も経たぬうちに祓い終え、てきぱき後始末をしている彼女の両目へピントが合って、帆織は無意識のうちに相手を見つめていたことへ気付かされる。
「いや――、なんでもないさ」
慌てて誤魔化すと、
「変なの」
少女は肩を竦め、片づけを再開する。
「――オッケー!」
「よし、帰るかっ」
前を向き、帆織はペダルに足を乗せた。後は水路を通って、トヨミの家の傍まで送って行くだけだ。両肩に乗る手のひらを感じつつ、彼はゆっくりと漕ぎ始めた。深夜の川面はどこまでも静かで、
「今日はほんと、人の気配がしないね」
同じことを感じていたらしい、トヨミが何気なく言った。
「あの晩と同じみたい」
あの晩、というのはシラブカを退治した晩のことだろう。帆織は無言で頷く。
カイギュウ暴走での帆織とトヨミの活躍は、空撮により全国中継されていた。それによりトヨミの地域内での評価が少し上がったタイミングで、今度は夜の大川上空で不気味な巨大怪鳥にぶら下がる二人の写真が、顔も判別せぬほど不鮮明ながら、それでもどうやらトヨミはトヨミらしいと分かる程度のものが一瞬、ほんの一瞬だけダゴンネットにアップされたのだ。
それは五分も経たないうちに削除されたが「青の秩序」が指摘したトヨミ=魔女説が検証され始めていた電脳世界で新たな噂が誕生するにはそれだけで十分だった。あの騒動の後、小さな綻びがするする解け続けるように、青の秩序の不正が暴かれ始めていたという背景が、相対的に魔女説への新たな解釈を後押ししたのかもしれない。
あの魔女は悪しき魔女でなく善き魔女、いや、魔女ですらなく――。
「職場での言い訳が大変だったんだぜ、こっちは」
大海魔の気配が消え、幾分気軽になった数日後の川行で、冗談半分、本音半分、帆織はトヨミに訴えたものだ。
「結局は、不良少女の更生に心から付き合っている有能な指導員、って感じで潤地さんが庇ってくれたけどさ」
「なら良かったじゃない」
「良いもんか。シラブカ関連の写真は君の〝良い噂〟に触発されたネット職人の合成ってことで片づけられたが、それでも、俺の職場でのあだ名は〝サイドキック〟帆織になった」
「サイドキック?」
「スーパーヒーローの助手をそう呼ぶらしいぞ」
「は!」
「ばかばかしぃッ」とうんざりした調子で言ったトヨミの口調は、親水まつりの晩、彼女がマルタに相対していた時のそれと似ていた。〝善き魔女〟として祭り上げられることが気恥ずかしいというより、自身への第三者評価の激変に戸惑い、あるいは、ある種の潔癖を動機に憤っているということもあるのだろう。
「――無理とか、無理じゃない、とかじゃなくてッ――!」
祭りの晩、会場の隅も隅、夜店からの明かりも届かない植樹の暗がりで、珍しく歯切れ悪く響いていた彼女の苛つき声を帆織は再び思い出す。あれは以前、自分へ向けられていた刺々しさとはまた別の、しかしやはり鋭い感情だった。
祭りの外縁の警邏中、ふと、明らかに人目を避けてどこかへ向かおうとする少女を認めたとき、最初、帆織はそれがトヨミであることに気が付かなかった。それもそのはず、浴衣姿は遠目にも見違えて見えた。直接の会場である親水公園から川岸へ一段降りた護岸遊歩道を、公園の裏口方向へずんずん歩いて人込みから離れている。もう帰るのかとも思ったが、例えあのトヨミでも、この非日常の雰囲気が立ち込める中、艶姿の少女を一人、人気の少ない暗がりに歩かせるのはあまり宜しくはないだろう。一言注意を、と思って帆織は足早に後を追ったのだ。
しかし、遠くから見当をつけて気配の痕跡を辿り、遊歩道から再び石段を上がろうとした彼は、頭上の木陰の鋭い口論に気付いて足を止めた。
トヨミと、マルタだった。どうやら彼がここへトヨミを呼び出したものらしい。
「だからさ――、あんたも、今のコハダには近づかない方が良いよ」
「お前なぁ」
と、マルタの声はじりじりしていた。
「他の奴らは助ける癖にコハダだけ助けられねぇとか、どういう理屈だよ」
「――誰もコハダだけ助けないなんて言ってないでしょッ?」
「そういうことじゃねぇか。お前が夜の川を回って人助けしてる、なんてきょうび誰でも知ってるぜ。ネットにはお前が夜な夜な、化け物か侵略者と戦ってるんだなんて話まであるんだ。夜の大川を守るスーパーヒーローか、あるいは魔法少女――」
「くだんないこと言わないで。あんた、いつまでそう幼稚なのよ。コハダコハダってのもそう。コハダはあんたのお母さんやお姉ちゃんじゃないんだよ?」
「違う。逆だ。俺はあいつを守ってやりてえんだ。あいつはな、くそ真面目なんだよ。周りがリーダーぶってくれ、って言うなら〝ぶる〟どころか、自分の弱さを飲み込みまくってリーダーの肩書きへ自分を無理矢理、当てはめる奴なんだ」
「……あの子が真面目なことぐらい、あんたに言われなくても知ってるから」
「だったら俺の気持ちも理解してくれよ。あいつはお前みたいに芯から強いわけじゃねえ。誰かがあいつ自身、あいつそのものを支えてやらなくちゃいけねえんだ。で、これまでのあいつはその役を、明らかに俺に望んでた。そうだろ?」
「……今は?」
「今は……、分からねぇ」
マルタは正直に言った。
「あいつ、俺を避けてやがる」
面倒臭ぇのをなにか、抱え込んでるに違ぇねぇんだ、と彼は呻き、
「あんなにタブーに煩かった奴が、夜の川にまで出てるっぽいんだぜ? イナコに負けたショックから、本当は立ち直れてないのかもしれねぇ。とにかく、どっか変なんだ。だから、お前が話を聞いてやってよ――」
「あんたが避けられてるのに、私に何かできるわけないでしょ?」
「そうは言うけど、お前ら昔は仲良かったじゃねえか。俺をのけ者にしてよ、二人でばっかり遊んでたよな。そんなお前なら、何かできることだって、まだ――」
「無い。昔は昔、今は今。あんたも、未練がましく女の子に縋り付くのって、みっともないからね」
「そんな話じゃねぇだろ?」
「そう?」
「俺はあいつが最近、上っ面でしか元気ねぇのが我慢できねぇ、その理由が知りてぇ、ってだけだ」
「コハダだって、あんたのために元気だったわけじゃないんじゃない?」
「そりゃそうだけどよ――、わかった……もういい」
そこで二人の話は唐突に途切れた。マルタらしい足音が勢いよく遠ざかって行き、かと思うとこちらへ、つまり、再び川沿いの護岸遊歩道へ下りてくるしなやかな足音が聞こえ、
(まずい!)
「――川に飛び込むのが一番だよ。盗み聞きがばれそうな時はね」
思わず狼狽えていた帆織へ背後から声がかかった。
彼が溜息をついて振り返ると、疲れた目元をしてはいるが、微かに含み笑いのトヨミが立っていた。帆織は肩を竦めて、
「盗み聞きしてたわけじゃない。パトロールしてたら、偶然、聞き覚えのある声に出くわしたんだ」
「――なるほどね」
そのまま彼女は彼の傍まで歩み寄り、通り過ぎて、遊歩道際の安全柵に体を預ける。
街の灯に煌く川面を無言で眺めるその後姿を、帆織はしばらく、黙って見ていた。
「浴衣、似合う?」
突然訊かれたから、
「ああ。よく似合ってる」
答えるとトヨミは全身でこちらへ振り返り、今度は背中で柵にもたれた。祭りから漏れ出す灯りの中、両手を広げて手すりを掴んだのは、袖の意匠までしっかり見せるつもりであるらしい。
「いつもよりずっと、大人っぽく見えるな」
実際そうだった。
白地の綿絽へ朝顔柄を青系統で上品にあしらった浴衣はよく映えて、整った面立ちを余計すっきりして見せた。
「……私は芯から強いらしいからね。そりゃ、大人っぽくも見えるよ」
「前に何があったのか知らんが――」
「知らなくていい」
「知る気はない。無理に仲良くしろとか、解決した方が良いとかも言わない。君らの問題だからな。だけど状況の悪化を食い止めることはできるかもしれないんだぞ」
何気ない仕草でトヨミは顔を背けた。夜の川風に髪をなびかせて目を瞑った。
「君の場合、たまには自分の、君自身のことに君の力を使ったって良い、と俺は思うがな」
聞こえないふりをしているような横顔へ帆織は語った。しばらくしてこちらを向き直った少女の両眼には少し、いつもの力が戻っているようだった。
ありがとう、と彼女は呟き、
「例え、食い止めるべきものがもう、なんにも無いとしてもね」
「無いかどうかなんて分からないだろう?」
「ううん。無いというより、あってはいけないっていうべきかな。もうそのニッチは次の存在で埋まっているからね。大型哺乳類がいるのに恐竜がいちゃいけない。現生人類がいるのに原始人がいちゃいけない。今の魚で海が溢れてるのに……、ね、この例え話の仕方、帆織さんっぽいよね? 私、結構毒されてるみたい!」
悪戯っぽく微笑むトヨミ。帆織も微笑み返した。二人の心が触れ合うその時、帆織の脳裏に浮かぶ幻想の海へ一瞬、巨大な気配が閃いた。デボン紀の海中の王。地球史上最強の魚。陽光が燦々と波を貫くサンゴ礁の切り立った外縁、その外側の暗がりを泳ぐ、甲冑めく骨に覆われて頑丈な頭部。全てを切り裂き、噛み砕く強靭な顎の見える気がする。
だが、巨影はすぐに身を翻し、祭り提灯に照らされた笑顔の向こう側へと帰って行った。それはもういない、否、いてはいけない存在なのだ。
二人はまた、微笑みあった。
確かに、トヨミのその時の笑顔はひどく大人っぽく見えた。大人の、気持ちの片付けかたを知っている顔だった。しかし瞳の奥には、やはり、まだ――、
「帆織さん! 今の――」
「ああ、見えた!」
言われるまでもない。一瞬、遠くで起こった閃光が帆織の意識を現在へ引き戻した。
今はもう、どんな光も見えない。だが、普通の光でなかったことだけは確かだ。
「行ってみよう!」
促される前に帆織はペダルを強く踏み込んでいる。遠目を利かそうというのだろう。トヨミが後部ステッパーを使って立ち上がった。肩にかかる彼女の重みを、帆織は余計に意識する。
ふと、今この瞬間、後ろにいるこの娘はどんな表情をしているのだろう、という疑問が浮かび――、
「あそこ!」
彼女の指がある一点を鋭く指し示す。
帆織は確認のタイミングをまた、逃したと思った。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる