真柴さんちの野菜は美味い

晦リリ@9/10『死に戻りの神子~』発売

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 肉には赤ワインがよく合う。
 ワイン自体はどれでも好きだが、豚や鳥に比べて味の強い牛肉には、その強い肉の味に負けずに舌の上に芳醇な香りを感じさせる赤ワインが特に相応だ。
 大きく胴の膨らんだグラスの中でなめらかに揺蕩うワインを傾け、強い酸味のあるそれをこくりと飲み干したところで、男は一面ガラス張りの向こうに見える、煌々と瞬く街を見下ろした。
 都心の一等地に建つ地上55階建ての商業ビルに入った、ダイニングバー。その一角で、ひとりワイングラスを傾けるのは、このダイニングバー『lopt』のオーナーだ。
「阿賀野様、食後酒はいかがなさいますか」
 声を掛けてくるのはこのバーの店主だが、視線を眼下に向けたまま、阿賀野は短くスパーリングとだけ答えた。
 一礼して去っていく気配を感じながら、黒い天鵞絨の上に色とりどりのビーズを撒き散らしたような夜景を眺める。
 阿賀野徳磨あがのとくまは、この世に生まれ落ちた瞬間から高みにいることを約束された人間だった。
 まず、生まれが良かった。遡れば数代前は華族と呼ばれる家柄であり、父方の祖父は飲食業を展開する実業家でありながら、国の重鎮をも務めた。父もその跡を継ぎ、祖父の興した事業を拡大し、飲食業だけでなく、商業施設の経営にも着手した。その父の妻である徳磨の母も高名な学者の娘であり、名前を知らない人はいないほど有名なフラワーデザイナーだ。その間に徳磨は生まれた。
 家柄や出生だけでなく、徳磨は人を魅せる見目をも天から授かっていた。
 両親ともに身長は高いが、母から継いだ異国の血の影響か、左右に大きく開けた肩幅を更に立派に見せる上背は、他人より飛びぬけている。長身というだけでも衆目を集めるが、整った顔立ちは更に人の目を惹いた。
「……あの、おひとりかしら」
 食後酒を待ち、ゆったりとアームソファに背中を預けていた阿賀野は、控えめに降ってきた艶のある声に、視線を逸らした。
 無数のスワロフスキーが輝く瀟洒なシャンデリアが下がる天井を背景に立っているのは、妙齢の女性だった。会員制ではないもののドレスコードが設定され、一度の食事で最低でも五桁の金が飛ぶ店内にいるということは、それなりの地位にいる人間なのだろう。しかし阿賀野の知り合いではなかった。
「一人ですが、なにか?」
 明らかに異国の血が混じっているとわかる彫りの深い整った顔立ちや、前髪を後ろに無造作に撫でつけた、染めたことなど一度もないダークブロンドを見て彼女は声を掛けたのだろう。少しばかり口角をあげて問いかけると、艶やかな赤い唇が満足げに微笑んだ。
「同席をお願いしたくて」
 細いフレームにはまった眼鏡には、くっきりとした二重に眦がきりりと上がった、彫りの深い顔が淡く映っている。その向こうの女性の眼は、熱を孕んで潤んでいる。同時に、ふわりと甘い香りが漂った。
 性欲を刺激する、独特の匂いだ。
「…それとも、オメガは嫌かしら」
「いいえ、まさか。俺でよろしければ」
「ありがとう」
 席を立って女性のために椅子を引くと、女性は慣れた仕草で髪を耳にかけながら席に着いた。ちらりと垣間見えた傷一つない白い首筋には、なんの首輪ガードもつけていない。
 今夜は淫靡かつ空虚な夜になりそうだと阿賀野が思わずふと漏らした小さなため息を、女性は気付かなかった。





「おはようございます。社長、こちらをどうぞ」
「匂うか」
「ええ、とっても」
 女性の誘いに乗り、特に望んでもいなかった一夜を過ごした翌日、阿賀野は都心の一等地にそびえる自社ビルの社長室にいた。
 目の前に置かれた小さなスプレーのボトルには『瞬間消臭』の言葉がプリントされている。部下の言わんとしていることが分かり、阿賀野は脱いだジャケットと、いま自分が着用しているワイシャツにそれぞれ噴霧し、ついでにと引き出しから取り出した小さめのフレグランスボトルを傾けた。
「念のため言うが、昨日は三時には家に戻ったし、スーツもシャツもクリーニング返りのものだからな」
「シャワーは浴びた?」
「もちろん」
「じゃあ相手が発情期ヒートだったのね。うっかりの大事故なんてしていないでしょうね?」
 うっかりの大事故。
 性欲に引きずられてだろうが、多少の理性が残っていようが、思わずでやってしまった一噛みでも人生は変わる。
 それは、人類の厄介な体質だ。
 この世界に蔓延る人間は、アルファ、ベータ、オメガの三種のバース性徴に分けられている。更にそれぞれに男女があったが、男女差などより大きく人生を差別するのは、バースの方だった。
 全人口の六割を占めるベータは数は多いものの、その性質は平凡だ。多少の差はあれど、身体的に平均的で、そのバース性も、有って無いようなものだ。しかし、残る人口の七割に割り振られるアルファとオメガは、特徴が顕著なバースだ。
 アルファは能力的に秀でたものが多く、それゆえに大多数の人間の上に立つ者として君臨しているものの、数は全人口の一割強程度と少ない。
 同時にオメガも同数程度いるが、アルファと決定的に違うのが、男女ともに、その胎内には子宮があることだ。そのため妊娠や出産が可能だが、発情期と呼ばれる周期に入ると、性欲に支配されやすい点が難点だった。
 身体や能力についてはベータと差はないものの、十代の半ばから定期的に訪れるようになる発情期が始まると、オメガはつらい発情に体を疼かせる羽目になる。この性欲は非常に強力なもので、精神に異常をきたしてしまうものも稀に出るほど強い性欲を抱き、その欲望を満たすため、個々に独特の強い匂いを放つようになる。それが、頑健な身体、聡明な頭脳、強い精神力を携えたアルファでさえも理性を失いかねない、発情期のオメガが放つフェロモンだった。
 オメガのフェロモンにあてられてしまうと、アルファは理性を失い、種を残さなければという本能がむき出しになる。一時の性欲を満たすために交歓するだけならばいいが、アルファはその本能から、オメガのうなじに噛みついてしまうのだ。これはただの愛咬などではなく、一般的には法的な拘束力よりも強力なつがいと定義される。一度つがいになってしまうと、オメガはつがいとなったアルファにのみ作用するフェロモンしか出さなくなり、アルファもつがい契約を結んだオメガの匂いにのみ反応するようになるため、大体が夫婦や連れ合いになることが多かった。
 だからこそ昨夜、首輪もつけずにフェロモンを振りまいた発情状態で話しかけてきたオメガの女性との一夜は、本能と理性の戦いだった。
 幸いにして今ではフェロモンレイプとさえ言われる、したたかなオメガのフェロモンに無理やり当てられてのつがい契約をしてしまわないための強力な消臭スプレーや、発情抑制剤、うなじを守らせるための首輪なども出回っているため、ついうっかりで人生を左右してしまうようなことはない。ただ、アルファの中でも極上と言われる阿賀野にスプレーを吹き付けられた上に首輪をはめられ、発情抑制剤までしっかりと飲まされた女性は「アルファのくせに無粋なのね」と怒りの滲んだ一言を投げて、朝方には消えてしまっていた。
「うっかりなんてやらかすわけがないだろう。抑制剤は飲ませたし、フェロモン消臭スプレーもかけた。首輪だって準備した」
「随分周到に準備してたのね。そんなにガードするくらいなら、いい加減、つがいを見つけたらいいのに」
 上司と部下の間で交わすにしては緩く言葉を崩しながら、阿賀野が使ったスプレーを社長室に設置してある棚に片づける。先ほどからぽんぽんと会話をくりひろげるのは、阿賀野が二人抱えている秘書の一人、須藤あかねだ。
 ロゴなどどこにも見えはしないが、一目で高価と知れる仕立てのパンツスーツに身を包み、艶やかな長い髪を後ろでバレッタで留めた須藤はもうじき三十路になる阿賀野より二つ年上だが、学生の頃からの知り合いであり、気心が知れている。今も呆れたように肩をすくめた。
「それとも、好みじゃなかった?」
「好みではあったさ」
 阿賀野は鉄壁の避妊と、「あなたとつがうつもりはない」という意思表示の現れである首輪を渡したうえで、昨夜女性とベッドを共にした。彼女は自ら声を掛けてきただけあって美しく、オメガにしては珍しく自信に満ちた様子だった。
 現代では差別や偏見は罪であるとされているが、社会的にオメガの地位は低い。
 三ヶ月に一度とはいえ、一週間程度も性欲に振り回されるために大体が休みを取らなければならなかったり、フェロモンを発端とする暴行事件が起きたりしてしまうことはよくある事で、十代の半ばで行われる性徴検査でオメガと判明すると、悲嘆にくれる場合も多い。オメガであるというだけで自ら命を絶ってしまうような者も出るほどで、昨夜のようにバーなどに首輪無しで現れるのは非常に珍しかった。
 自らに自信を持ち、身一つで阿賀野というアルファのつがいの座を狙った心意気は、阿賀野自身にとっては好ましい性根だったが、残念なことに、彼女には欠けているものがあった。
「でも、彼女は運命じゃなかった」
 呟いた阿賀野の声に、須藤の溜息は深くなる。
「運命じゃなかったにしても、そろそろ諦めてもいい頃じゃない?」
 十代の後半頃から発情期が始まるオメガは、アルファにうなじを噛まれることでつがいを得る。そうするとつがいであるアルファにのみ作用するフェロモンを出すことになるので、無差別にアルファを誘うことはなくなるのだが、このつがいにはいわゆる『運命のつがい』という特殊なパターンがあった。
 一般的にアルファがオメガのうなじを噛めば、つがい契約は成立する。しかし、このつがいにも、遺伝子レベルでの強い結びつきを示す関係があった。もはや都市伝説かと言われるほどの希少な間柄にはなるが、それが『運命のつがい』だ。
 運命のつがいを見つけられたアルファとオメガは幸せになるだとか、より強いアルファを残せるだとか、はたまたこれ以上ない快楽を得られるだとか、数が希少なために真偽のほどを出ない噂ばかりが街には溢れるが、出会うとすぐにわかるということだけは、研究機関などから発表されている特徴だった。
 運命のつがいを見つけたアルファは、必ずやそのオメガとつがおうと本能が強く反応して好戦的になる。一方オメガはといえばフェロモンを放出する側なので、どのアルファが運命のつがいに該当するかはわからない。契約を結んで初めてわかるというのが定説だった。
 だが、運命のつがいでなければ幸せになれないというわけもない。
「運命を追い求めるのもいいけどね、私をご覧なさいよ。若菜は今朝も可愛かったし、つぼみも可愛かった。運命じゃなくったって、私は幸せよ」
 ほら、と突きだされたスマートフォンの画面には、まるで少年のようなショートカットの若い女性と、彼女に抱かれてすやすやと眠っているおさげの可愛い幼女。若い女性は同性婚をした須藤のつがいである妻の若菜で、おさげの少女は二人の間に授かった娘だ。二人とも阿賀野とは知り合いで、つぼみの寝姿に阿賀野は目尻を下げた。
「前に見た時より大きくなったな。そろそろ四歳か?」
「先月なったの。……じゃなくて。運命のつがいなんて、そうそう見つからないわよ」
「そうそう、だろ。見つかる可能性はゼロじゃない。見つけたやつらもいる。それなら俺だって見つけられる」
 生まれた時から、阿賀野は人のトップに立つことが決められていた。アルファとして備わった人並み外れた能力の高さもあったが、それに見合う努力だってしてきた。だからこそ、多少自分の歳が行ってしまったとしても、都市伝説並みに数の少ない、『運命のつがい』を得られる気がするし、自分ならきっとという自負もある。そのためには、少しでも自分のつがう相手を上質のオメガにしようとすり寄ってくる無数のオメガに恨まれようと、けなされようとかまわない。
「俺は、見つける。絶対にだ」
「………せいぜい早めに、頑張ってくださいな。会うたびに会長にせっつかれるのは私なんだから」
 幼なじみでもある上司の驚くほどの自信にみなぎった言葉に何度目かの溜息を吐いて、須藤は目に入れても痛くない妻子の写真を画面からスワイプしてアプリを閉じ、気持ちを切り替えて仕事をすべく、スケジュールのアプリを起動させた。


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