真柴さんちの野菜は美味い

晦リリ

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 普段暮らしている都心で、際立って空気が悪いだとか悪臭が漂っているだとかはほとんど感じずに過ごしているが、山深い森の中にいると、吸い込んだ空気の質の違いに気付かされる。
 冷えた空気というわけでもないのに、すっと胸の中に広がり、体の力が抜けていく。味こそないものの、美味しい空気というのはこういうもののことを言うのだろうなと思いながら意識して深呼吸をしていた阿賀野は、フロントガラスの向こうに見える民家のすりガラスが嵌った引き戸の向こうで僅かに揺れる人影を見ていた。
 すりガラスの向こうで右往左往している人影は決して小柄とは言い難く、右に左にと移動しては途方に暮れたように立ち止まる様子はまるで熊のようだが、実際そこにいるのは人だ。
 それこそ野生の獣のように警戒心が強く、かと言ってそれほど豪胆でもない彼、真柴要が今まさに、困惑と怯えのために、玄関の中でうろうろとしていた。
 それと言うのも、今まで電話口で言い合っていた相手である阿賀野が、とうとう押しかけたからだった。
 阿賀野は会社が休みになる土曜日の朝から車を飛ばして、真柴宅までやってきていた。けれど、今日の目的は会って話をしてつがいの契約を結ぶことではない。
 ゆっくりと真綿で包むように進めなければいけないと、須藤からさんざん聞いてきたのだ。
「いい? 社長はね、昔からそうなんだけど、一直線すぎるところがあるから。あとあなた、圧が強いのよ。私もアルファだけど、なんていうかこう、大きく見える時があるって言うか。真柴さんなんて普段人里離れた場所で暮らしてるんだし、人嫌いでしょ。あなたの運命のつがいである以前に、オメガなのよ。怖いはずよ。まずはゆっくり、同じ空間にいることを慣れさせて、徐々に徐々に距離を詰めていくの」
 焦りは禁物と念を押され、今日はとりあえず様子を見ようと思った阿賀野は、まず自分がオーナーをしているパティスリー、エクラに寄った。
 関東に四軒ほどしか展開していないが、いつ行っても盛況で、イートインするスペースを設けているために土日ともなれば行列が出来るほどの人気店だ。
 前もって前々日にパティシエに連絡をしておいたため、並ぶこともなければ品切れに眉を潜ませることもなく購入できたのは、店でも人気商品のひとつであるカップケーキだ。生地に練り込んだチョコや、トッピングに添えてあるアーモンドなど、ひとつひとつの素材が良質のもので、普段甘いものを食べない阿賀野も、これならばと口にする甘味のひとつでもある。
 まずは自分が食べて美味しいと思ったものを贈ろうと、朝一番で購入したそれを助手席のお供にして、多馬村を経由して真柴宅にやってきたのだ。
 出てきてはくれないことを予想しながら呼び鈴を押すと、ややあってから応答があった。
『はい』
「おはよう」 
『おはよ……えっ、なっ…あっ』
 ガタガタンと騒がしい音が、インターフォンとすりガラスの玄関戸越しに二重に聞こえる。
 思わず笑ってしまいそうになりながら待っていると、恨めしそうな声がざらついた電子音と一緒にインターフォンから響いた。
『な、なに、どうして、……なんで、来たんですか……』
「なんでって、君に会いに来たんだ。あと、これを届けに」
 こちらからは見えないが、インターフォンには小さなレンズがついている。真柴側からは見えているのだろうと、箱の入った紙袋を掲げて見せた。
「俺がオーナーをしてるパティスリーのカップケーキだ」
『も、もも、持って帰ってください!』
「君のために朝いちで受けとって来た。それに、俺はそれほど甘いものは食べない。ここに置いておくからな」
 農作業で使ったものだろうか。玄関わきの壁に立てかけられた平ざるが作る影にビニールごと箱を置く。竹で作られて使いこまれた素朴な平ざると、金箔で店名が刻まれて花のコサージュ付きのリボンが巻かれたケーキボックスはまったくそぐわないが、日陰がカップケーキを守ってくれるだろう。
 平ざるの傾きを調節して顔をあげるとレンズに映りこんだのか、インターフォンからはひっと短い悲鳴が上がったが、それに食いつきはせずにひらひらと手を振った。
「早めに回収してくれよ。それじゃあ」
 背後ではインターフォンが困惑を吐き出しているが、気にせずに車に戻り、今に至る。
 初夏に差し掛かっているので都心ではそろそろ暑いが、四方を山に囲まれたこの土地は涼しい。真柴宅のある開けた土地に入る前の、道の左右にしっかりと根をおろした木々が作った道の端に車を止めているが、暑さは全く感じず、僅かに明けたウィンドウから吹き込む風が心地よかった。
 すりガラスの向こうでうろうろとする影が現れたのは、車に戻り、どのくらいで出てくるかなと観察をしてから十分ほど経ってからだった。
 阿賀野がそこにいないか伺っているのか、左右に揺れたり上下に伸び縮みしている影は面白い。
 むしろ真柴の方が不審に見えてしまう状態に思わず口元を緩めていると、念入りに外を確認して、ようやく引き戸が動いた。
 カラカラカラと引き戸についた小さな車輪が回る音が、僅かな風の音しかしない中でごくごく僅かに響く。開いた隙間から顔を出したのは、やはり真柴だった。
 顔だけを出して周囲を見渡した真柴が、隙間からそろりと出てくる。やはりどう見ても阿賀野が今までに手を付けてきた男女のどれとも合致しない、いわゆる「タイプではない」青年だった。
 素朴な様子ではあるが、洗練はされていない。少年がそのまま青年に育ったような雰囲気すら感じる。しかし、それでも彼が欲しいと思うのは運命のつがいだからにほかならないのだろう。
 すぐ近くに阿賀野がいないことを確認してようやく出てきた真柴はきょろきょろと視線を泳がせた後、平ざるの下に置かれた箱に気付いたらしく、体を屈めて袋を引き出す。パティスリーでよく見かける女の子たちが持てばそれなりの大きさに見える箱も、上背もあれば体格もアルファかと見まがうほどに立派な真柴が持つと小さく見えた。きっと彼の手のひらで持てば、ただでさえ小ぶりなカップケーキが、更に小さく見えるのだろう。
 なんとなくメルヘンな雰囲気すら漂う予想図を脳裏に描きながら真柴を遠くに眺めていた阿賀野は、ふと風にのって届いた匂いに鼻をすんとすすった。
(匂い……真柴君のか)
 発情を無理やりにでも誘発させるような強烈な匂いではなく、それを幾倍にも薄めたようなそれは、決して不快なものではない。
 確かにオメガの中には匂いが強いタイプもいる。しかしそれもせいぜいが十メートル程度のものだ。つがい同士ともなれば、契約をした互いの匂いがわかりやすくなると聞いたこともあるが、阿賀野と真柴の距離は五十メートルほども離れており、産まれてこの方、眼鏡などかけたこともない阿賀野の裸眼でも真柴の表情はわからないほどだ。けれどこれほどまでに離れていても、嗅いだ覚えのある匂いが風にのって鼻先をかすめて行った。
 性欲を感じる濃厚な匂いではないが、阿賀野の鼓動は僅かに速くなる。けれど、それ以上の異変をきたすことはない。今日は抑制剤を飲んできたのだ。だからこそ、匂いを感じはしても惑わされずに思考はクリアだった。
 薬の効きはよく、理性を本能に浸食されていく、目もくらむような感覚はない。その中で、阿賀野は冷静に自分の感情を整理していた。
 タイプではないし、洗練もされていなければ、御しやすそうな質でもない。
 けれど、彼の傍に行き、直に声を聞き、まだ触れたことのない肌に触れたい。
 間違いなく、彼が運命なのだと認めざるを得ない。
 まるで香水のラストノートが消えかかる頃のようなささやかさで車内に舞い込んだ匂いにまとわりつかれながら、ハンドルにだらりともたれた阿賀野は感嘆とも嘆息ともつかない息を吐いた。



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