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しおりを挟む『台風5号は先島諸島を通過後、北東に進路を変え、明後日未明には伊豆半島沖より本州に上陸する予想です。通勤ラッシュを直撃する恐れがあります。交通機関の運行状態は…』
ネットニュースが見られるアプリで流れているのは、昼のニュースだ。天気予報が終わったばかりで、既に話題は政治家の献金疑惑の話題などに移っている。けれど、もっと詳しい情報を得ようと、阿賀野の指は天気予報のサイトを検索していた。
数日前から発生していた台風が当初の予測からずれて日本を縦断するコースを取り始めたのは、一昨日の午後からだった。
今日は朝から万が一台風が直撃した時に備えて系列店の店長に連絡を取ったり、近隣の契約農家に現状を確認し、もし人手が必要ならば男性スタッフを手配した。雑多な手続きや連絡をどうにか終えたところで会食の時間になり、ばたばたと忙しなく出かけていった阿賀野だったが、取引先から絶品ですのでと勧められた舌平目の味は、もう完全に忘れてしまっている。
正直なところ、早く帰って真柴に電話をかけたかったのだ。
けれど、実際自宅に帰って電話をかけようとしたものの、真柴の電話番号をスマートフォンの画面に表示したまま、押すべきか否かで迷いあぐねていた。
あれから結局、二週間ほど経っていた。
連絡先は知っているが、電話をかけてもいいのか考え始めると、なぜ電話をかける必要があるのか、会いに行けばいいのではと考えが散らばって、結局は電話の一本もかけられずにいた。
けれど、いつまでもそんな事を言ってはいられない。
真柴の土地は広い。耕運機などはあるようだが、それでもたった一人で一日やそこらでどうなるとも思えない。
人嫌いなのは身に染みて知っているが、もし手助けが必要なら今から向かったって構わなかった。
「……よし」
胸のあたりで滞るものは相も変わらず解消される兆しがないが、真柴は運命のつがいだ。それに、一度知りあった仲なのだ。手助けをするのは悪いことではない。
自分に様々な肯定を言い聞かせて、スマートフォンの画面をタップした。
二十回コールした。
粘ってはみたものの外出でもしているのか、真柴は電話に出ない。九時を回ったばかりなのでさすがに就寝していることはないだろうが、とりあえず一度切ろうかと顔をあげかけた時、おもむろに不自然な静寂が受話口から聞こえた。
『………』
「真柴君? 俺だが」
『……なにか、用ですか…』
返ってきた声は、呼吸の合間から絞り出したように嗄れていた。
「あ、ああ、もしかして寝てたかな」
寝起きのそれとも似ているが、どこか違う。なにかを押し殺すような、我慢しているような、そんな声だ。
『いえ……なにか、ありましたか』
「いや、台風も近いし、畑は大丈夫かと思って。最近会いにも行けてないから、心配になったんだ」
『もうあきらめたと思って…んっ』
「うん?」
不意に声が詰まり、がたんと僅かな物音がした。音は一度きりで、不自然にまた静まり返る。
「真柴君? 誰か来てるのか」
『誰、も…ぅあ……来て、ないです。用は、それだけですか』
真柴は人嫌いだ。買い物をするために村まで降りてくるのは週に一度で、直販所で生鮮食品を買うと、さっといなくなると松前も言っていた。家の入口付近には宅配ボックスが置かれていて、配達員が来てもそこへ置いてもらうのだと言っていた。
極端なほどに他人を避けている真柴の家に誰かが来ているとは思えないが、様子のおかしさは見過ごせるようなものではない。なにかあったのかと思うと、ソファに落ちつけていた尻が無意識に浮いた。
「風邪でも引いたのか?」
『だい、だ、だいじょう、ぶ、です……いいから、俺の、俺の事、いいから、放っておいてください……!』
「えっ、ちょっ、真柴く…」
荒い呼吸を繰り返しながらなかば叫んだ真柴は、そのままブツッと通話を切ってしまった。むなしいほどに無機質なツーツーという耳障りな音が、熱のこもった真柴の声の余韻が残る耳朶に響く。
(まさか発情期か?)
真柴の発情の周期は知らないが、オメガの発情期はだいたいが三ヶ月だ。真柴に初めて会いに行ってからすでに二ヶ月以上経っている。その間、発情期が来ていた様子もなかった。
発情期になると、オメガの体は本人の意思とは関係なく発情してしまう。つがいがいれば匂いを振りまくこともなく、相手のアルファだけに誘引フェロモンが作用するが、つがいがいなければ無差別に作用する匂いを発してしまう。この状態で性交するとかなりの確率で妊娠してしまうため、独り身のオメガは症状が軽い場合は抑制剤や消臭剤を服用したうえでうなじを守る首輪をつければ外出は出来る。しかし、重度の発情期になってしまう場合は、抑制剤を服用しつつ、自宅でひたすら体内を焼きながら理性を食いつぶしていく淫欲に悶えるしかなかった。
独り身でありながら発情期が重度になってしまう体質のオメガは、そのまま精神的に参ってしまったり、最悪は自ら命を断ってしまうものも後を断たない。
匂いの強さが発情期の重症度に関係しているかは不明だが、真柴の発情の度合いについて、阿賀野は全く知らない。
どうすべきかと考えながら、リダイヤルした。
しつこいと怒鳴られても構わなかったが、数分待っても真柴は出ない。
(今日は……さすがに無理か)
明日はおそらく台風への対策や日程の調整などで、一日中騒々しくなるのはわかっている。今多馬村に行けば、帰ってくるのは明け方になる。
どうすべきか迷っていると、不意にスマートフォンが震えた。
「……真柴君?」
画面の通知欄には、真柴が差出人であるメールを受信したとある。
以前やりとりをしていたメールアドレスは阿賀野が社用に使っているものだったので、プライベート用アドレスが記された名刺を無理やり渡していたのだが、真柴からメールが来たことは、今まで一度もなかった。
フリックしてメールを開くと、ごく短い文が送られてきていた。
『大丈夫なので、来ないでください。出来れば、二度と来ないでください。ごめんなさい』
真っ白な画面に並んだ黒い文字が、網膜に焼きつくようだ。
五度瞬きをして、一度メールのアプリを閉じた。それからもう一度開いて、意味もなくセンターに問い合わせをして、もう一度メールを開く。
変わらない文面があった。
(なんだ、これは)
文面の意味は理解している。真柴は、阿賀野に二度と来るなと言ったのだ。理解できている。
けれど、頭に入ってこない。
文字は視界に写っているのに、思考の表面を滑って消えていく。突きつけられた文面の意味だけが、ぽつんと胸にあった。
空虚のような、痛みのような、苦しみのような、そのどれでもあり、そのどれでもないような綯いまぜの感情が、不意にじわじわと広がってくる。
震えた指先が当たってしまったのか、画面がパッと返信画面に切り替わる。慌てて戻るを押した。
『編集中のメールがあります。破棄しますか?』
破棄とキャンセルの選択肢があったが、思わずキャンセルを押すと、文面が記載されていない真っ白なテキスト画面になる。画面の半分はフリック入力用のキーボードになった。
けれどそこから何も文字を入力できないまま、阿賀野はしばらく真っ白な画面を眺めていた。
勢いを増してきた風が、静かな室内にごうごうと響いていた。
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