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しおりを挟む「…お忙しい中、お集まりいただきありがとうございました。来月の定例会議については、追って連絡します。それでは、定例会議を終わります」
須藤の声に、会議用の長テーブルについていた各々が軽く頭を下げ、会議室を出ていく。
毎月行われる定例会議は、予定していた時間から遅れることなく始まり、各店の経営状況、起こった問題、その後の対応や改善策などの報告から、昇進や昇給についての議論を交わして滞りなく終了した。
それなのに、パイプ椅子に腰かけたままの阿賀野は難しい顔をしたまま、会議に使われた紙面を睨みつけていた。
会議自体は、いつも通り進んだ。
各店とも熾烈な経営競争のなかを上手く渡り歩き、好調な成績を残している。目立った問題も特になく、実に安定している。店長同士もバイト上がりで知り合い同士という者が多いために仲が良く、懸念などない。連れ立って出ていきながら、今日は視察がてらお前の店で飲むよ、などと言っている者もいた。
和やかに会議は終わった。
既に会議の参加者たちは各自の店に戻るべく会議室を去っていて、後に残っているのは、使用したプロジェクターを片付けている須藤だけだった。
「社長、もう会議室閉めるけど」
「……ああ」
「どうしたのよ、ほらしゃきっとしてよ」
いつになくのそのそと書類とビジネスバッグを手にして会議室を出た阿賀野はとりあえず社長室に戻り、ずしりと重い気がする体を応接用のソファに預けた。視線の先には、時計があり、五時になろうとしていて、真柴は、話を聞いてからもう二時間ほども経ったのかと素直に驚いた。。
「……事件のすぐ後、弟も…俺、二つ離れた弟がいるんです。その弟もアルファじゃないかって言われてたんで、弟も、大分早かったけど、性徴検査をしたんです」
つい二時間と少し前、十五分だけと自分に制限を設けたうえで自分の身の上話を始めた真柴は、裁判の話のあたりで一時取り乱しかけはしたものの、すぐに落ち着きを取り戻して、努めて冷静に話を続けた。
「弟はアルファでした。それで、親子間なら匂いは効かないけど、兄弟間でもし何かあったらっていうのもあって……俺ももう街が怖かったから、祖父母の家に移り住んだんです」
「それが中二の頃か」
「はい。でも多馬村には中学がなくて、俺もその頃にはもう通信制の中学校に編入してたんで、そのまま通信制で高校まで卒業しました」
「じゃあ、ずっとあの家に?」
「一年は、引きこもってました。今は配達員さんくらいしか来ないですけど、祖父母が生きていた頃は、知り合いが訪ねてくることも少なくなかったんです。でも、それも俺は怖くて」
「仕方ない、君はそうなってしまうだけの体験をした」
体は大きかったとしても、心は年相応の少年だった真柴が成人から押し付けられた性的対象という勝手すぎるレッテルは、もろい心を傷つけるに十分だ。
無垢な少年への憐憫と、顔も知らない犯人への怒りに思わず声を荒げると、真柴はいいえと首を振った。
「確かに怖かったです。なにをされるのかわからなかったし、知らない人だった。怖かった。でも、もっと怖かったのは、俺自身です」
ぎゅっと肌が強く擦れ合う音がする。組んだ手のひらを強く握り合う真柴の指先は白くなっていた。
「俺がそこにいるだけで、アルファを狂わせてしまうんです。自分で引き寄せる匂いを出してるのに、近寄られたら怖い。どうしようもなくなって手が出たら、俺は力が強いから、相手が怪我をする。それも嫌だったし、もう人が怖くて……だから、祖父の家に行ったんです」
そこからは、阿賀野の知る真柴の話だった。
人と会うことを極端に避け、山奥でひっそりと過ごしているうちに十年以上が経ち、その間に祖父が亡くなり、やがて祖母も鬼籍に入った。ひとりになってしまったものの引き継いだ畑を耕すことで生計を立てることも出来ていた。
このまま、あの家でひとりで生きていくつもりでいたと真柴は言った。
「…寂しくはありました。でも、それ以上に人が怖かった。だから、あの家にずっといようと思ったんです。そうすれば怖いものはないし、誰にも迷惑をかけない。一番の選択だと思ったんです」
「でも、それは君の我慢じゃないか」
もしかしたらもっと拓けた道もあったかもしれないのに、真柴の選択肢は偏見と恐怖で切り捨てられていき、残ったのは人里離れた場所に身を隠してひっそりと生きる道だけだった。
我慢と諦観と寂寞だけが真柴を押し包んで世間から隔離したのだと、阿賀野は苛立ちさえ覚えた。
すると、思わず声をあげた阿賀野を見て、真柴はふっと強張っていた体の力を抜いたようだった。
「そうです」
真柴がどこかほっとしたように呟く。十五分が経とうとしていた。
「だけど、俺はこんな風に…オメガに生まれから仕方ないって思ってたけど、本当は嫌だった。家族と同じ家で暮らしたかったし、学校だって行きたかった。空手も続けて、黒帯とりたかった。農家は…農家は好きだけど、本当は別の夢だってあった。でも全部あきらめました。我慢しました。でも阿賀野さん、俺もう嫌なんです」
これまでになく早口で言い募る真柴は、また少し震えていた。興奮しているのか、首や耳元まで赤く染まっている。声が濡れていないので泣いてはいないようだが、大丈夫だろうかと阿賀野が想っていると、おもむろに真柴が俯けていた顔をあげた。
太陽に晒されて灼けた精悍な頬まで真っ赤に染めた真柴は、泣いてはいなかった。
「も、もう飽きたのかもしれないけど、俺はあきらめたくないんです。俺を、阿賀野さんのつがいに……」
「まっ、待って、待って真柴くん!」
思わず腰が浮いて、阿賀野は咄嗟に真柴の口を手のひらで塞いだ。思いのほかやわらかい唇が手のひらの下で湿った息を吐いて、その熱が彼の興奮を伝えた。
真柴からの唐突な告白は、阿賀野にとって完全に想定外だった。
どういったことが今までの生活から脱却しようという大きな変化へ踏み切らせたのかわからなかったが、これまで諦め続けて自ら遠ざけていたものたちへの執着を取り戻し、抑圧から解放されたいと願うようになったのは良い事だとのんきに思っていたものだから、その願いの行きつく先が告白だとは思いもよらなかったのだ。
「んん、む」
「あ、ああ、ごめん」
手のひらをどけると真柴はなにかを言おうとしたのか、一瞬薄く口を開いたが、浅く息を吸っただけで唇を閉じた。
さっきまでの剣幕が嘘のように静まり返った真柴を前に、阿賀野は混乱していた。
確かに距離は縮まったと感じていた。
最初の頃は姿を見せるだけで逃げ出していた真柴だが、徐々に距離を詰めてはいたし、あの台風の日を境に、互いを知ることで心の距離もぐんと寄った。今までのように気軽に口説くことはやめたが、他愛ない会話をするだけでも、その距離は日ごとに近づいていると感じていた。
けれど、まさかここまで真柴が踏み込んできてくれるとは思っていなかった。
なぜか飽きたかもしれないなどと見当違いの事を考えながらも、今までなら身を引いていたであろう真柴が、それでもつがいにしてほしいと言うほど、阿賀野に自分を許してくれているなど―――
「ま、真柴くん」
「はい」
阿賀野の答えを待っているのだろう。真柴は、瞬きをしきりに繰り返しながらも阿賀野をしっかりと見ている。その視線はまっすぐで、彼がなんのてらいもないことを如実に表していた。
だからこそ、阿賀野は聞き捨てならない言葉を拾わずにはいられなかった。
「飽きられたってどういうことだ。俺が君に飽きるわけないだろう。毎日みたいに電話をしているし、君と話をする時間は俺の一番の楽しみだ。どうして飽きたかもなんて」
「だっ……、かな…ったから…」
「うん?」
真っ赤だった真柴の顔が更に赤くなって、酸素を求める金魚のようにはくはくと動く。唇の動きに反してほとんど音にならず、阿賀野が耳を向けると、まるで蚊の鳴くような声で、口説かなくなったから、と言った。
「だから、もう興味が…なくなったかと思った、から…です…」
ふわっと、阿賀野の鼻先を甘い匂いがかすめた。興奮と緊張と羞恥が一気に押し寄せた真柴の体温があがったのだろう。同時に匂いも強くなり、とっさに阿賀野は近くにあった空調のリモコンを押した。
ざわりと肌が粟立つような感覚があるが、薬の効果は切れていない。時計を確認して、まだ大丈夫だと自分に言い聞かせた阿賀野は、あえて深呼吸をした。
「真柴くん。君が俺のつがいにと思ってくれることは嬉しい。本当に嬉しい。俺は今でも君が好きだし、つがいになってほしいと思ってる。だから、飽きたなんてことは絶対ない」
「でも、く、口説かなくなったじゃないですか」
「それは、それより先にすべきことがあると気付いたからだ。俺は、本当は運命のつがいはいるだけでいいと思ってたんだ」
いつの間にか、十五分は過ぎている。会議の時間まで、三十分を切っていた。
一時間ぎりぎりまでと言いはしたものの、会議に遅刻するのは自分の本意ではないし、出来れば会議前に目を通しておくべき資料もある。自分の判断で会社が左右される地位にいるのだから、そういうところを曖昧にしないようにと務めてきた阿賀野だったが、今日だけは、遅刻をしてでも今のうちに言っておきたいことがあった。
「これは昔の俺が思っていたことであって、断じて今もそう考えているとは思ってほしくないんだけど、俺はただ、運命のつがいってやつが欲しかっただけなんだ」
「それは、どういう……」
「誰でもよかったんだ。例えばうちのスタッフでも通りすがりの誰かでも、誰でもよかった」
さあっと、まるで潮が引くように真柴の顔から血の気が失せた。
一瞬前までは湯気でも立ちそうなくらい真っ赤な顔をしていたのに、血圧の心配をするほどの代わりようで青ざめている。
(しくじった)
情熱的に潤んでいた双眸まで焦点を失いかけている。慌てて真柴の両手首をつかむと、目に見えてびくりと震えた。
「でもそれは、昔のことだ。君と出会う前の事だ。頼むから勘違いしないでくれ」
「い、いまは……今は違いますか」
「当たり前だ。君がいい」
「それなら俺をつがいに…っ」
「真柴くん」
声を絞り出した真柴は、どこか不安げだ。
今なら、場所さえ整えてしまえば簡単に阿賀野に体を許すのではないかという仄暗い期待を抱かせるほどに不安定だ。
数か月前の自分なら、喜んで手を出していただろうなと阿賀野は自嘲した。
どういうわけか、欲しいと思っていた対象が自ら手中に飛び込んできたがっている。千載一遇のチャンスだ。これを逃す手はないと、会議の開始時間を少し遅らせてでも適当に体を重ねてうなじを噛み、とりあえずと唾を付けていたかもしれない。
けれど、今となってはそんな軽率に真柴とつがいになる気は毛頭なかった。
「そこから先は、……いや、存分に聞きたくもあるんだけど、俺から君を口説くための言葉を奪わないでくれ」
「……くど」
「俺は君に対して本気だ。本気になった。君が俺を好きになってくれてるのは本当に嬉しい。でも、俺は今から会議がある。それに、こんな会社の控え室で君に大切なことを言うなんてもったいないことはしたくない」
「えっ、あっ、阿賀野さん」
「ちゃんと時間を取って、君に告白したい。……俺は今まで不誠実な付き合い方ばかりしてきた。だから、君にだけは、しっかりと向き合いたいんだ」
握った手首が湿っている。阿賀野も興奮していたし、真柴も体温が上がっていた。
「真柴くん」
自分でも、まるでその先に何を言うのか予想できないほどの高揚感だった。
甘く絡みつく真柴の匂いに引き金を引かれた形でもあったかもしれなかったが、嫌な昂ぶりではなかった。
「俺は君に飽きていない。でも、今はだめだ。仕事が忙しい。君と仕事を天秤にかけるつもりもないけど、俺のけじめとして、我儘をきいてほしい」
「わがまま?」
まるい双眸のふちが湿っている。頬が赤くなって、真柴の匂いにあてられている阿賀野と同様に、彼も運命のつがいである阿賀野の興奮に引きずられているようだった。
「君の次の発情期まで、待ちたい」
「俺の、発情期…?」
「あとどのくらいある? 君の発情期までに俺は全部仕事を片付けて、君の所に行くよ。それから、ちゃんと君に伝えたい」
「あと一ヶ月半くらいあります」
「それなら、発情期が来そうになったら教えてくれ。それまで、待ってほしい」
久しぶりに会って、明確な言葉を交わしたわけではないものの、互いに想いあっていると確信したばかりなのに、また一か月半の時間を置くことに、真柴は考え込んでいるようだった。
「なにか思うことがあって頷けないなら、教えてくれ。俺はそれを解消するし、一か月半、君に寂しい思いをさせないように全力で務める。会う暇はないから多馬村まで行けはしないけど、電話する。毎日電話して、話をしたいんだ」
これまで以上に仕事に力を注いで、万全を期して真柴に会いに行きたい。仕事のあれやこれやを持ち込まず、真柴だけを想う時間を作るために。
だからこそ、その隙間は全部埋めてやると阿賀野が意気込むと、手首を取られたままの真柴は、普段は鍬や鎌を使う大きな手を少し広げて自分の顔を隠すようにした。
「あ、あの……本当に…本当に一か月半したら、会いに来てくれますか」
「絶対行くよ。君に発情期が来なくても、会いに行く」
「俺に飽きて、誰かに行きませんか」
「行かない。遊びはもう終わりだ。運命がそこにいるのに、一秒も他にやったりは出来ないよ」
だから待っててくれと囁くと、真柴はようやく頷いた。
「……わかりました。待ちます」
いつの間にか、会議開始まで十五分を切ろうとしていた。
互いに熱のこもった空気の中で離れがたかったが、阿賀野が手を離すと、真柴の両手首にはくっきりと痕が残っていた。
思わずごめんと謝ると、いいえ、と首を振ってそれをなぞり、パーカーの袖の下に隠した真柴は、すっくと立ち上がった。
「一か月半後、待ってます」
「うん」
阿賀野が頷くと、真柴はキャップとフードを被り、ポケットから出した小さなスプレーを体に吹き付ける。甘い匂いがすっと掻き消えて、どこか寂しい気持ちになった。
「それじゃあ、会議、頑張ってください。……電話も、忙しくなければお願いします」
「するよ。絶対。その前に、真柴くん」
しっかりと手順を踏んで、自分なりの誠意を見せようと思っていたのは本当だ。
名前も聞かずに一夜を共にし、コンドームと首輪持参のセックスを繰り返してきただけに、慎重に、ひとつひとつ花を数えるような丁寧さで進もうと思ったのは本心だ。
でも、目の前に運命でなくとも構わないから好きだと思った相手がいるのだ。
思いを確かめ合って愛しさが募った今、これから先の一か月半を思うとたまらなくなって、阿賀野は話したばかりの真柴の手首をつかんだ。
「阿賀野さん?」
他人が怖かった真柴が、阿賀野の手につかまえられても怯えずにいる。最初こそ数十メートル離れていても無理だったのに、今ではこんなに二人の距離が縮まったのだという思いがじんわりと胸を暖かくして、阿賀野に自信を持たせた。
「抑制剤、まだ大丈夫そうかな」
「効果ですか? ここに来る前にも飲んだんで、まだ大丈夫です」
「それなら、今はこれだけ許してくれ」
怖がらせてしまうだろうかと思いながら、つかんだ腕を引き寄せて腰を抱き寄せる。案の定びくりと体が震えたようだったが、厚みのある体は阿賀野の腕の中に収まってくれた。
「今日も連絡する。九時くらいに。いいかな」
「……はい」
まるで子どもの恋愛だ。手首をつかんで抱き合う以上に踏み込むまで、こんなに時間がかかったことなどない。けれど真柴とは、その過程を大切にしようと思えた。
惜しくはあったが、時間は迫っている。手を離すと、真柴はぺこりと頭を下げた。
「じゃ…じゃあ、失礼します」
「副島に下まで送らせよう」
「かっ、顔…冷やして帰りたいんで……大丈夫です…」
じゃあまた夜に、と真柴は足早に控え室を出ていく。
大きな身長差があるわけではないが、真柴の方が僅かに高いおかげで見えた顔は、真っ赤だった。
思い出すだけで、腰のあたりに熱がわだかまる。今までなら、仕事帰りにどこかのバーにでも顔を出してそれなりの相手を見つけていただろうが、今日は九時までに帰って電話をするという、なによりも大切な用事がある。
切り替えて仕事をしなければと思わず眉間を揉むが、どこかふわふわと落ち着かない。
一か月半と自分で言いだしはしたものの、先が思いやられると吐いたため息は深いものになったが、嫌な気分ではなかった。
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