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1巻
1-2
ゆらゆらと心もとなかった影の動きが唐突に早く、明確に霄琳を目指し始めた。
「――――ひっ」
たまらず霄琳は駆け出した。大きく体を揺らしながら近づく影の背後から、同じような影がいくつも続いてくるのが見えたからだ。
(なにあれ、なにあれ!?)
駆け出す寸前、霄琳は闇の向こうから近づく者の輪郭をはっきりと捉えた。あれは離原でも黒衣でもない。人でもなかった。
逃げる霄琳の背後を、音は決して離れずに追いかけてくる。時折フォーウとくぐもった鳥の鳴き声のような声がいくつもこだまして、それが気味の悪さを引き立てた。
「う、ぐっ……」
右脚は限界だった。熱を持ってじんじんと痛み、足先を地面につけるだけで響く。樹々を伝うようにしながらも逃げていた霄琳だが、とうとう動けなくなってしまった。
鳴き声がどんどん近くなる。やがて距離が詰められ、まばらな月明かりの中に浮かび上がった姿に、霄琳は絶句した。
猪の頭を細く伸ばしたような顔に人の体。口からは赤黒い長い舌をぶら下げている。その先端から粘度の高い雫をだらりと落としながら、異形は嗤うようにまた鳴いた。
「ひっ……うわっ、わっ」
思わず悲鳴をあげて退こうとした霄琳だったが、その瞬間、限界を訴える右脚の激痛にもんどりうって転がった。あわてて体を起こした時には、目の前に三体の異形がいた。
異形たちの口からはガチガチと音がする。腐った血肉のような臭いが鼻先をかすめて、えづきそうになりながらも霄琳は腰の小剣を引き抜いた。
武術の心得などないが、これで怯んでくれたらいい。しかしそんな願いもむなしく、鞭のようにしなった異形の腕が剣を弾き飛ばし、つられて霄琳も地面に転がった。
「うっ……」
抵抗はあっけなく終わり、もう武器さえない。くじいた足の痛みも強く、立ち上がることさえできない。それでも草の合間に転がった剣を取ろうと這いつくばったまま手を伸ばした霄琳は、異変に気付いて目を丸くした。
「成長してる……?」
霄琳の手の甲には、今も消えずに花鈿がある。それが明らかに成長していた。植物の種のような模様だけだったはずが、それを起点に伸びた蔓が手首に巻き付くような絵柄になっている。
白い手の甲できらきらと輝く花鈿を見つめて一瞬だけ惚けた霄琳は、恐怖も忘れて綺麗だと思った。
しかしそんな感想を抱いたのもつかの間、異形たちが草を踏んだ音で我に返った霄琳がぐっと伸び上がって剣を掴んだとたん、しなる異形の腕が再び繰り出された。
剣を握り締め、とっさに目をつぶる。しかし異形の指が届くより先に、霄琳の喉は引き攣った悲鳴をあげた。
「うああっ! 痛い、痛い痛いぃあぁああ……っ!」
花鈿の浮き上がる両腕に、突如耐えがたいほどの激痛が走った。視界が揺れるほどの痛みはひどく、吐き気さえこみ上げてくる。そんな中、生理的に溢れた涙で揺らぐ視界は、突然現れて縦横無尽にのたうつ銀の蔓でいっぱいになっていた。
うねうねと動き回る蔓は夜闇にも輝くまばゆいもので、それらは霄琳と異形の間に壁を作っていく。まるで籠を編むように交差していく隙間を伸びた舌が掻い潜ろうとしたが、察知したように一瞬で編み目が密集し、その空隙は塞がれた。
「フォオアアア!!」
蔓の壁の向こうで、異形たちは怒りの声をあげている。だが、それに構う余裕もなく痛みに震える霄琳は、ぼろぼろと零れる涙の向こうに信じられないものを見て呆然とした。
霄琳を取り巻き、球状になろうとしている銀の蔓の源流は、霄琳の手の甲にある花鈿だった。
(なに? なんで?)
混乱と痛みに泣き呻く間にも、銀の蔓はするすると動き回る。やがてそれは球体を成し、霄琳はその中に閉じ込められた。
外ではまだ異形が騒いでいる。銀の蔓で作られた球体を攻撃しているのか、ガリガリと引っ掻く音や何かを叩きつける音もする。
「うっ、ああっ……、ぐ……っ」
両腕が痛くてたまらない。それでもこの蔓の壁が破られてしまえば、あの異形の餌食になる。それだけは嫌だと、取り落とした小剣をふたたび握り締めた霄琳の耳に、激しい音が響いた。
ザッと風を切るような音がしたかと思うと、異形たちの悲鳴があがった。固いものを切るような音も聞こえる。
蔓の壁を隔てた向こうで何が起きているのかわからず、霄琳は小剣を握ったまま胸を喘がせた。
ここで気を抜いてはだめだと壁の向こうを睨みつけた霄琳だったが、その向こうから響いた声に、詰めていた息を吐いた。
「霄琳、この中にいるのか? 無事か?」
荒い呼吸の合間に霄琳を呼ぶのは、離原の声だ。気が抜けて思わずぼうっとしてしまった霄琳だが、壁を外から軽く叩かれて、はっと我に返った。
「い、いる、中にいるよ! 怪我はないけど、足を捻ったみたいで……」
とっさに声を張り上げると、壁の向こうの離原がほっと息をつくのが聞こえた。
「出てこれるか? 俺の剣でもこれは切れない」
「待って、中から……」
切ってみるのはどうか、と小剣を振りかざした霄琳は、ふと気付いて腕を下ろした。
花鈿はまだ手の甲にあり、模様も手首まで伸びたままだ。しかし蔓はなくなり、いつの間にかあれほどひどかった痛みも消えている。
どうしてと思った矢先、不意に頭上から降り注いだ輝きに上を向いた。
見ると、球体を形作る銀の蔓がまるで霧雨のようになって崩れていく。さらさらとした銀色の輝きは夜闇に溶け消え、やがて座り込んだ霄琳だけが残された。
「霄琳……今消えたものは……」
静まり返った中に、離原の呟きが落ちる。その手にはどす黒い何かを拭った跡のある剣が握られていた。
「わ……わかんない。でもこれ、俺の手から……この花鈿から出て……」
信じてはもらえないだろうと焦って霄琳は言ったが、離原は否定も疑いもしなかった。
ただどこか苦しげに眉を寄せ、歯を食いしばっているようだった。
座り込んだままの霄琳に歩み寄った離原は傅くように膝をつき、霄琳を抱きしめた。
「……やはり、お前は鈴祗なんだな……」
(また、鈴祗……)
何もかもがわからない。手の甲にある花鈿の正体も、銀の蔓が出たきっかけも、ひどい痛みも、鈴祗と呼ばれることも。ただただ謎が増え、自分がわからなくなっていく。
霄琳の肩口に、離原の顔が埋まる。その体温はなぜか懐かしく思えるものなのに、不安でたまらなかった。
自分で足をかけて乗るのではなく、抱き上げられての移動なら耐えられるかもしれないと思った霄琳だが、やはり飛刃での移動に耐えることはできなかった。
恐怖はもちろんあったし、浮き上がったとわかった時は悲鳴も出た。けれど背中に回された腕は霄琳がしがみつくより強く抱きしめてくれていた。だから大丈夫だと思ったが、恐怖のせいなのか、それとも自分で立てないほど疲弊していたせいなのか、気付けば街中に降り立っていた。
「ごめん、俺また……」
「気にするな。それに、それほど飛んでいない」
「ここは?」
「定英という街だ。ここが一番近かった」
すっかり夜も更けているため、小さな街には至る所に提灯の灯りがともっている。離原はすぐ近くにあった宿の門をくぐった。
「二人だが、部屋は空いてるか。怪我人がいるんだ、休ませたい」
酒場が併設されているその宿は、もう遅い時間ながらそこそこ賑わっている。喧騒の中を縫って出てきた番頭に声をかけると、帳簿をめくった男はううん、と唸った。
「一人用の部屋しか空いてねえな。そこでも良いってんなら、上掛けくらいはもう一枚出すよ」
「そこでいい。それから、包帯と打ち身か捻挫に効く軟膏がほしい」
「包帯と軟膏? 揃えることはできるが、もう夜だ。明日届けるってのは……」
「今ほしい」
宿賃も含めてこれで、と離原は銭貨を置いた。馬も荷も森に残してきてしまったが、金だけは持ってきていたらしい。台にコトンと置かれた金色の輝きには番頭だけでなく霄琳まで目を見開いた。
「いっ、急いで揃えさせていただきます。他に何かご入用のものは? お部屋も他を移動させればどうにか……」
「部屋はそのままでいい。急いでくれ」
かしこまりましたと声を張り上げた番頭は呼び寄せた店員に離原たちの案内を頼み、あわただしく店を出て行った。
店員の先導で部屋へ向かった離原は、通された一室の寝台に霄琳を下ろすと戸口で立ったままの店員を振り返った。
「足を洗いたい。水と手拭いをもらえるか」
「はい、ただいま」
腰に剣を佩いたまま店員に言付ける離原は、店員が去るとすぐに霄琳の前に膝をついた。
「足を診よう。まだ痛むか?」
「少し」
熱を持ってじんじんと疼くが、挫いた時ほどひどい痛みではない。だが離原は慎重に長靴から霄琳の足を抜くと、靴下も取り去った。
「……腫れてるな。骨は折れていないようだ」
離原は霄琳の裸足を丁寧に観察する。なんだか恥ずかしくて、霄琳は診られていない方の脚を軽くぶらつかせた。
「さっきよりはだいぶ良くなってるよ」
痛みが強かったのは、挫いた直後に走ったりしたせいだろう。思ったよりひどい怪我ではなかったようだと霄琳は楽観的だが、離原は神妙な面持ちで赤らんだ足首を見つめていた。
「……他に、怪我は」
「手のひらをちょっと擦ったくらいかな。すぐ治ると思う」
ほらと開いて見せた両手のひらには擦り傷があるが、うっすらと血がにじむ程度で、大したものではない。大丈夫だと安心してもらえるかと思ったのに、離原の顔はさらに険しくなり、眉間にはうっすらと皺まで寄った。
「お客様、御用命のものをお持ちしました」
なんでそんな顔を、と思った霄琳が手を引っ込めかけた時だった。扉の向こうから声があがり、離原が応じると、さっき店を飛び出していった番頭が顔を出した。手に持った盆には包帯が二巻と薬包がいくつか載っており、後ろには水桶と手拭い、それから薄い上掛けを携えた店員もいた。
「ここに」
卓子を指す離原は堂々としている。人へ命令を下すことに慣れている仕草で、今更ながら霄琳は彼の身分どころか名前しか知らないのだと思った。
(着ているものも上等なものだし、お金もたくさん持ってる。偉い人だったりする?)
さっきだって、離原が番頭に渡したのは金貨だ。番頭が目の色を変えるのも無理はない。
飛刃を使いこなす仙師だし、もしかしたら国の要職にでも就いているのかもしれない。
そんな風に霄琳が考えているうちに番頭と店員は愛想笑いを浮かべながらそそくさと出て行き、袖をまくった離原は水桶を床に置いた。
「まずは手を拭こう。痛ければ言ってくれ」
「えっ、自分でできるよ」
傷はあるが、痛んで仕方ないというほどでもない。それなのに伸びてきた大きな手は霄琳の手を捕まえると、丁寧に拭い始めた。
くすぐったいし、なんだか恥ずかしい気もする。だが離原の顔は真剣で、少しでも茶化してはいけないような気がした。
霄琳が黙っていると、ぽつりと小さな声が部屋に響いた。
「すまない、俺の警戒が甘かったせいだ。痛かっただろう」
「そんなことないよ、むしろ離原は俺を助けてくれたんだから。怪我も、俺が転んだせいだし」
黒衣の急襲も、妖魔と出くわしたのも予期せぬ事態でしかない。何ひとつ離原のせいではないし、命も落とさず、怪我も軽傷で済んだのだ。むしろ幸運だとさえ霄琳は思った。
だが離原はそうは思っていないようで、指の間を拭きながら首を振った。
「いや、俺の気の緩みが招いた失態だ。今度からはもっと強固なものにする。……もう繰り返さない」
「離原……」
霄琳に告げているというよりは、自らに言い聞かせるように呟いた離原は、それからもくもくと霄琳の両手を拭き清めると、足も同じように拭き、手早く処置をしてくれた。
薬包に包まれた粉を水で軽く練り、腫れた患部に塗る。それから最後に包帯を巻きつけ、動かないように固定していく。手慣れた様子に思わず見入っているうちに処置は終わり、ようやく霄琳の足は解放された。
「一応固定したが、痛みがひどくなるようなら言ってくれ。巻き直す」
「うん、ありがとう」
足首の痛みはかなり軽くなっている。これなら明日は歩けそうだと考えていると、離原は部屋に一つしかない椅子を引き寄せて霄琳の前に腰かけた。
もう夜も遅い。月は中天を越えようとしているし、窓から見える街もすっかり灯りを落としている。霄琳も眠くなってきてあくびが出そうになったが、離原が突然口を開いたので、それも引っ込んだ。
「花鈿が成長した時、痛みはあったか」
「なかったよ。だから、いつ成長したのかもわからなくて……」
両手の甲を離原に向けると、下からすくうように取られ、それからくるりとひっくり返された。手の甲から伸びた蔓の絵柄は、手首の内側で交差して美しい紋様を描いている。それは、薄暗い中でもわずかに光っていた。
「でも、もしかしたら黒衣が来た時にはこうだったのかも。花鈿が見えてるぞって言ってたから」
あの時の絶叫は、まだ耳に残っている。ふと不安になって窓の外を見たが、夜闇が広がっているばかりだ。
ぽつんぽつんとわずかな灯りが所々に見えるだけの夜の風景。それを眺めて、霄琳は自分の記憶のようだと思った。
霄琳がわかっていることは、自分に殺意を向けている人間がいるということと、手の甲にある花鈿は刺青などではないということだ。他は何もかもを忘れている。離原のことさえ、霄琳は何もわからない。
「……ねえ、離原。俺、何を忘れてるの?」
離原と出会って、まだたった数日だ。それでも多くのことを忘れていることを知った。だからこそ思い出さなければいけないとは思っていたし、そうでなければこれから先どうするかも決められない。
けれど怖かった。
命を狙われる理由があって、それを自分は忘れてしまっている。それだけじゃない。夢で見た花園も、華やかな街も、霄琳は懐かしいと思った。あれは眠りの淵で見るあやふやな世界ではない。きっと、過去に見た景色だ。その中にいた男も――離原も、霄琳は知っているはずだ。
それらが一気に戻った時、目の前に広がる現実はどう色を変えるのだろう。今はぽっかりと空いている記憶の穴が塞がった時、そこに現れる真実が怖かった。
「教えて、離原」
すべてを知らなくても、きっと霄琳よりは知っているはずだ。斜面を転がる雪玉がどんどん大きくなるように、言葉に出してしまえば途方もなく増大していく不安。それから逃げるすべを問うように、霄琳は自分を守ると言ってくれた男を見上げた。
離原は持ったままだった霄琳の手を下ろすと、一度深く深呼吸をした。
「……長くなる。それでもいいか」
ゆっくりと頷いた霄琳の肩に、冷えるからと離原は上掛けをかけてくれた。
四
「……五百年前の話だ」
そう言った離原に、霄琳は少なからず驚いた。けれど早々に話の腰を折るわけにもいかない。開きかけた口をあわてて閉じた。
「この国に、長命を願う皇帝がいた。この皇帝は貪欲で、仙師になれば百を超えても生きると言われているのに、それでも足りないと思っていた」
「仙師って百年も生きるの?」
「仙師ならば大体二百までは生きる。だが、皇帝はその上、神仙になりたかった。神仙になれば、寿命は千年以上とも言われている」
「千年……」
人間など、生きてもせいぜい七十歳で長老だ。百歳でも十分に驚きなのに、千年と言われて、その膨大な時間に霄琳は絶句した。
「皇帝は永久の生命をほしていた。だが、修行の身である研仙にはなれても、仙師、ひいては神仙になるには素養も長い修行も必要。もっと手っ取り早い方法はないかと文献を調べた皇帝は、特別な桃の存在を知った」
「桃?」
桃は確かに吉祥の果実と言われるが、どこにでも売っている。思わずぽかんと口を開けた霄琳に、離原は少し笑った。
「ただの桃じゃない。天仙界にある天帝の庭に生える、特別な仙桃だ。天帝をはじめとする神仙たちはこれを食して高い仙力を得ていると文献にはあった。だが、禍告嘆鈴が鳴り響いた時と、十年に一度の訪礼祭しかこちらから庭に入るすべはない」
「ちょっと待って、禍告嘆鈴ってなに?」
離原は滔々と語ってくれるが、霄琳は話に追いつくのが精一杯だ。
すかさず飛んできた問いに、離原はすまないと頭を掻いた。
「禍告嘆鈴は、大災洞が開いた時に鳴り響くとされている大鈴だ。禍告嘆鈴が鳴れば、天仙界が人界を救う手助けをしてくれる」
「大災洞?」
わからないことばかりだ。本当に以前の自分はこれらの言葉を理解していたのだろうかとさえ思いながら、霄琳は新しく増えた単語に眉を寄せた。
「大災洞は……そうだな、わかりやすく言えば穴だ。妖魔が出てくる穴。この世には、色んな所に綻びがあって、妖魔はそこから出てくる。これを災洞という」
「俺が会った、あの……なんか頭が細い猪みたいなやつもそこから?」
「そうだ。あれは野狗子で、戦の跡地に出たりするやつだ。人間の脳をすする」
「脳……っ」
思わず自分で自分を抱きしめた。あの時、わけもわからないながら銀の蔓で守られたが、あれがなかったらと考えると今更耳の辺りがぞわりとした。
「あいつらも災洞から出てきたんだろう。そういった穴はどこかで勝手に開いて、またすぐ閉じる。だが数十年に一度、大穴が開く。これが大災洞だ。大災洞は勝手に閉じないうえ、大物が出てくる」
野狗子ですら怖ろしかったのに、それを越えるようなものが現れるなど、聞いただけで鳥肌が立った。
「わ、わかった。続き、教えて」
これ以上聞いていては話がそれるし、更に恐ろしいことを言われそうだ。霄琳が続きを促すと、離原は五百年前の皇帝の話を再開した。
「大災洞が開いた時は禍告嘆鈴が鳴り、仙界から大災洞を閉じる助力を得られる。そのことに対する礼を尽くし、忘れないために行われるのが訪礼祭だ。皇帝はそれを待つことにした」
「大災洞はいつ開くかわからないけど、訪礼祭はいつやるか決まってるからか」
「そうだ。同時に、訪礼祭に参加する夏子静という研仙に目をつけた。彼が飛刃の名手だったからだ。皇帝は夏子静に、天帝の庭が開いたら仙桃を採ってくるように命じ、夏子静は訪礼祭の日に仙桃を盗んだ。だが、その時に誤って禍告嘆鈴を壊してしまった」
「……っ」
不意にどくんと、鼓動が大きく跳ねた。ほんの一瞬めまいもしたが、瞬きの間にそれはなくなっていた。
(なに?)
思わず胸にそっと手をやるが、鼓動は落ち着いている。息苦しさや違和感もなかった。
「そのまま夏子静は皇帝のもとへ……霄琳?」
「ううん、なんでもない」
疲れのせいだと片付けて首を振ると、離原は怪訝な顔をしたが、特に何も言うことなく、話を続けた。
「夏子静は皇帝の元へ急ぎ、受け取った皇帝は仙桃を食べた。そこへ天帝の率いる神仙たちがやってきて、皇帝と夏子静は捕らわれた。二人は裁かれ、それぞれに罰を与えられた。皇帝は禍告嘆鈴が再び戻るまで老いず死なない不老不死となり、胸には呪紋が刻まれた。もし国が乱れれば、呪紋は体中へ広がっていく。この呪紋に覆われるか、もしくは玉座を捨てた時、天仙界に封じられている千獣万妖が放たれる。この国は愚かな皇帝を生み出したとしてその罪を負うことになり、ありとあらゆる植物は枯れ、神仙の加護は失せ、綻びや大災洞から溢れた妖魔が跋扈する地となる。皇帝の肉体は千々に引き裂かれ、魂は天仙界の牢獄に繋がれ、肉体に負った苦しみを千年繰り返すことになることが、奴に与えられた罰だった」
離原の口調は淡々としている。けれどわずかに眉の間が寄り、視線が下がった。
「……夏子静へ下された罰は、壊れて砕けた禍告嘆鈴のかけらの回収だった。七つに砕けたうちの一つはそのまま夏子静に宿ったが、残りはすべて人界に散らばった。そして夏子静には、何度も生まれ変わり、大災洞が開くたびに現れる禍告嘆鈴のかけらを身に宿すことが命じられた。大災洞が閉じた時かけらは回収され、もともとあった天仙界の庭に返されて修復される」
「じゃあ、皇帝は生き続ける呪いで、夏子静さんは何度も死ぬ呪い?」
「そうとも言えるな。皇帝は今も生き続けているが、何度も生まれ変わってくる夏子静の名前はそれぞれ違う。だから総称して鈴祗と呼ぶようになったんだ」
「――……でも、俺も鈴祗なら夏子静さんの生まれ変わりで、……それなら俺は、罪人?」
話を聞いた限り、夏子静は命令とはいえ、国にまで災禍が及ぶ呪いがかけられる発端を担った人物だ。その生まれ変わりなら、自分も罪人だったのかと呟いた霄琳に、離原はすかさず違うと言った。
「夏子静や鈴祗たちは巻き込まれたに過ぎない。もしなじる声があるとすれば、その非難はすべて皇帝に向けられるべきだ。それに、鈴祗は人々を守る力がある。現にこれまでも、大災が起こるたびに鈴祗は民を守ってきた。尊ばれこそすれ、罪人と謗られていい存在ではない」
「守る? でも俺に、そんな力は……」
ない、と言いかけて、霄琳は自分の手の甲を鮮やかに彩る花鈿を見た。
妖魔に襲われた時、この花鈿からは銀の蔓が出て丸い籠を作った。霄琳はその中に閉じ込められ、結果として被害に遭うこともなかった。霄琳が意図してやったことではないが、視線をあげると、離原が頷いた。
「花鈿こそ鈴祗の証だ。大災洞の予兆が現れ始めると、花鈿が鈴祗の体に現れる」
「じゃあ、俺の体に花鈿があるってことは、大災洞が開くってこと?」
「そうだ。大災洞が開いた時、花鈿は成長を終える。鈴祗は花鈿の力で人々を守り、神仙たちは禍告嘆鈴のかけらの音を聞いて人界に下りる。そして大災洞が封印され、大災は終わる。……だが本来は、その力は――あの銀の蔦は、大災洞が開いた時にのみ現れるはずなんだ。霄琳、どうやってあの力を使った?」
「どうやってって……わからない、気付いたら蔓が生えて……」
あの時、霄琳はただただ苦痛に泣いていただけだ。銀の蔓が自分の手から生えたことなど、いまだに信じられないほどなのだ。
(何もわからない……でも、前の俺は全部わかってたのかな)
離原の話にしてもそうだ。花鈿を持ち、銀の蔓を操るのが鈴祗だと言われても、罪を償うために生まれ変わっているのだと教えられても、何ひとつ覚えがない。
黙り込んだ霄琳がしばらく考えこんでいると、ジッと音がして、部屋に置いていた灯りが消えた。
どうやら芯が燃え尽きたようだ。立ち上がった離原が油皿の様子を確認したが、嘆息して元の場所に戻した。
「……一気に詰め込んでも、混乱するだけだ。ちょうど油も尽きた。今日はもう休んで、明日の出立に備えよう」
「うん……そうだね」
確かに、霄琳の頭の中は混乱の一途を辿るばかりだ。明日にはまた旅立つのだし、夜ももう遅い。休むなら寝台を譲ろうと思った霄琳は、離原が部屋の隅に座り込んだことに瞬きをした。
「離原、俺が床で寝るよ」
「いや、ここでいい。上掛けもあるから大丈夫だ」
離原は横になるつもりがないのか、壁に背を預けている。手には剣を握って、むしろ休む気さえないように見えた。
「でも、そこじゃ休まらないよ。いいから寝台で寝て」
「お前こそ足の捻挫がある。床で寝れば体に障る」
頑として聞かない様子の離原だが、霄琳もここで折れたくはない。何もできない分、せめて寝台を譲る程度のことはしたかったし、黒衣の急襲や飛刃での移動もあったのだ。疲れているはずの離原を労わりたかった。
だが、離原は霄琳こそ寝台で寝ろと言う。ならばと霄琳は寝台の端に寄った。壁に背中がぴったりくっつくほどだ。そうすれば、狭いながらも人が一人横たわれるぎりぎりの空間ができた。
「じゃあ俺、寝台で寝る。だから離原もここ来て」
「……」
野宿をする時は荷馬車で雑魚寝をしていたのだ。それよりも少し狭いが、寝れないことはない。少なくとも、硬い床の上に座ったまま眠るよりはいいはずだ。
「早く」
離原が来てくれなければ上掛けもかけられない。そうこうしている間に寝落ちてしまいそうだ。
ここ、と寝台を叩くと、離原はため息をついてようやく寝台に上がってきた。
上掛けに丸まると、その上から更に一枚、離原がかぶったものの半分をかけられる。そうすると一気に温かくなって、霄琳の意識はあっという間にほどけ始めた。
「……霄琳」
「う、ん……」
離原が呼んでいることはわかった。目を開けなければと思うのに、回ってきた腕の温もりに懐かしさを覚え、その心地よさがさらに眠気を誘う。
――そうだ。前もよく、こうやって眠った。
きっと今日はいい夢が見られる。何も怖いことなどないのだ。この腕の中にいる限り、恐ろしいことは起きない。霄琳はそう信じていた。
◇
美しい田園風景がどこまでも広がっていた。
田んぼでは裾をからげて田植えをしている人々がいて、その脛の辺りはたっぷりと張られた水が陽光を反射してきらきらと輝いていた。
あぜ道を子どもたちが走っていくが、そのうち彼らは美しい衣装をまとった女官たちになった。さらさらと裾をなびかせて歩く彼女らは霄琳の傍に来ると、後ろを歩き出した。
――ええ、ええ、もうじきお越しになられますよ。
――今日は蓮池を散策なさるのですよね。お召し物も、それに合わせましょう。
そぞろ歩きながら、彼女たちは鈴のような声で笑い合う。霄琳も楽しくなって笑うと、空を飛んでいた鳥が呼応するようにピイと鳴き、大きく羽ばたいた。すると大風が起こって、すべてを吹き飛ばした。
けれど怖くない。すぐに強い腕が霄琳を抱き留めてくれる。
――ありがとう。
微笑んだ霄琳に、抱き留めた男も笑みを返す。
普段はまっすぐに閉ざされているが、少し口角が上がると人好きのする笑顔になる口。それから高い鼻梁。顔を大きく横断する傷痕には荒々しさを感じるが、その上にある双眸は雄々しくも優しい光をたたえている。そして、黒い筆で一閃したようにまっすぐな眉。
何度も傍で眺めた容貌が近づいて、霄琳はそっと目を閉じた。ここから先、与えられるものを知っているからだ。
降りてきた唇が合わさる瞬間、霄琳は伏せた瞼を薄く震わせて呟いた。
「……離原」
◇
新しく買いなおした荷馬車に揺られながらうとうとと頭を揺らしていた霄琳は、ピーイと澄んだ鋭い鳴き声にはっとして顔をあげた。
見ると、馬の背に乗ったままの離原の腕に大きめの鳥が留まったところだった。
伝書用の鳥なのか、細い脚には筒が付いている。そこから丸まった紙を取り出しながら離原が振り返った。
「霄琳、荷物の中に黒い包みがある。干し肉が入っているから、餌をやってくれ」
「うん」
なんとなく視線を合わせづらい。それとなく視線をそらして荷物に向くと、爪の音を立てながら歩いてきた鳥が、ピーイとまた鳴いた。
「待って……あったあった。はい、お疲れさま」
一つだけ取って目の前にぶら下げてやると、鋭い嘴がずいっと寄った。
「怖がらないんだな」
鋭いくちばしが器用に干し肉をくわえるのを見ていると、離原が言った。
離原は、読んでいた紙面から顔をあげてじっと見つめてくる。霄琳は見られていると思うとなおさら顔をあげづらくて、ぎこちなく頷いた。
「え、えっと……ちゃんとしつけられてるから噛まないし」
「そうか」
「うん……」
妙な空気だが、この雰囲気の理由はわかっていた。
(あんな夢見たんじゃ、まともに顔見れない……)
今朝、霄琳は早く起きた。しかし心地よく爽やかな目覚めと言うにはほど遠く、衝撃と驚愕で起きたようなものだった。
起きたら忘れているような夢だったら、幾分かよかったかもしれない。しかしあまりに生々しく現実味のある夢だった。
霄琳が見たのは、まぎれもなく離原とくちづけを交わす夢だった。
抱きかかえてくれた腕の強さや布越しの温かさ、触れた唇のやわらかさも、目覚める直前までそうしていたと錯覚するほど鮮やかだった。
そのうえ、目覚めても離原に抱えられるような形で、深く瞼を閉ざした顔が間近にあったものだから、悲鳴を飲み込むのに一苦労した。
それからはもう眠れるはずがない。
頬どころか首や耳まで熱く感じるほど赤面してしまった霄琳は、一刻も早く寝台から降りたかった。けれど壁と離原に挟まれているし、離原の手は緩く腰を抱いている。少しでも音を立てたり、不自然な動きをすればすぐに起きてしまうのではと思うと身動きも取れず、霄琳は外がすっかり明るくなるまで悶絶するはめになった。
おかげで今日一日、霄琳はまともに離原を見ることができない。離原が荷馬車を新しく買い直したのをいいことに、移動中は話しかけもせずに奥に引っ込んでいた。
(なんでこんな夢ばっかり見るんだろ。まさか、夢じゃなくて記憶だったりする?)
霄琳の記憶は相変わらず空白だらけだ。離原は霄琳のことを知っているようだったが、二人の関係がどういったものかもいまだに思い出せていない。
だからこそ、くちづけし合う仲だった可能性もあるわけだが、それを聞くのはあまりに勇気のいることだ。
違うと言われたらどうにか愛想笑いでごまかすことはできるかもしれないが、そうだと言われたらどうしたらいいのだろう。
(でも、嫌じゃないんだよなあ……)
夢の中の抱擁もくちづけも、驚きはしたものの嫌悪感は一切なかった。むしろほっと体の力が抜けるような安心感と、どこから湧いてきたのか懐かしさまで感じている。そのせいでこれは夢ではなく、記憶だと考える方がしっくりくるほどだった。
ならばやはり自分と離原はそういうことをする仲だったのか。だけどやっぱり聞くのは恥ずかしいし怖い。
それに、自分の気持ちもよくわからなかった。
離原に惹かれている可能性はある。けれどもともと関係があって、その気持ちに引っ張られているのではという疑念もある。
(そもそも俺と離原、どんな関係だったんだろう。俺が鈴祗なら、離原は?)
「――――ひっ」
たまらず霄琳は駆け出した。大きく体を揺らしながら近づく影の背後から、同じような影がいくつも続いてくるのが見えたからだ。
(なにあれ、なにあれ!?)
駆け出す寸前、霄琳は闇の向こうから近づく者の輪郭をはっきりと捉えた。あれは離原でも黒衣でもない。人でもなかった。
逃げる霄琳の背後を、音は決して離れずに追いかけてくる。時折フォーウとくぐもった鳥の鳴き声のような声がいくつもこだまして、それが気味の悪さを引き立てた。
「う、ぐっ……」
右脚は限界だった。熱を持ってじんじんと痛み、足先を地面につけるだけで響く。樹々を伝うようにしながらも逃げていた霄琳だが、とうとう動けなくなってしまった。
鳴き声がどんどん近くなる。やがて距離が詰められ、まばらな月明かりの中に浮かび上がった姿に、霄琳は絶句した。
猪の頭を細く伸ばしたような顔に人の体。口からは赤黒い長い舌をぶら下げている。その先端から粘度の高い雫をだらりと落としながら、異形は嗤うようにまた鳴いた。
「ひっ……うわっ、わっ」
思わず悲鳴をあげて退こうとした霄琳だったが、その瞬間、限界を訴える右脚の激痛にもんどりうって転がった。あわてて体を起こした時には、目の前に三体の異形がいた。
異形たちの口からはガチガチと音がする。腐った血肉のような臭いが鼻先をかすめて、えづきそうになりながらも霄琳は腰の小剣を引き抜いた。
武術の心得などないが、これで怯んでくれたらいい。しかしそんな願いもむなしく、鞭のようにしなった異形の腕が剣を弾き飛ばし、つられて霄琳も地面に転がった。
「うっ……」
抵抗はあっけなく終わり、もう武器さえない。くじいた足の痛みも強く、立ち上がることさえできない。それでも草の合間に転がった剣を取ろうと這いつくばったまま手を伸ばした霄琳は、異変に気付いて目を丸くした。
「成長してる……?」
霄琳の手の甲には、今も消えずに花鈿がある。それが明らかに成長していた。植物の種のような模様だけだったはずが、それを起点に伸びた蔓が手首に巻き付くような絵柄になっている。
白い手の甲できらきらと輝く花鈿を見つめて一瞬だけ惚けた霄琳は、恐怖も忘れて綺麗だと思った。
しかしそんな感想を抱いたのもつかの間、異形たちが草を踏んだ音で我に返った霄琳がぐっと伸び上がって剣を掴んだとたん、しなる異形の腕が再び繰り出された。
剣を握り締め、とっさに目をつぶる。しかし異形の指が届くより先に、霄琳の喉は引き攣った悲鳴をあげた。
「うああっ! 痛い、痛い痛いぃあぁああ……っ!」
花鈿の浮き上がる両腕に、突如耐えがたいほどの激痛が走った。視界が揺れるほどの痛みはひどく、吐き気さえこみ上げてくる。そんな中、生理的に溢れた涙で揺らぐ視界は、突然現れて縦横無尽にのたうつ銀の蔓でいっぱいになっていた。
うねうねと動き回る蔓は夜闇にも輝くまばゆいもので、それらは霄琳と異形の間に壁を作っていく。まるで籠を編むように交差していく隙間を伸びた舌が掻い潜ろうとしたが、察知したように一瞬で編み目が密集し、その空隙は塞がれた。
「フォオアアア!!」
蔓の壁の向こうで、異形たちは怒りの声をあげている。だが、それに構う余裕もなく痛みに震える霄琳は、ぼろぼろと零れる涙の向こうに信じられないものを見て呆然とした。
霄琳を取り巻き、球状になろうとしている銀の蔓の源流は、霄琳の手の甲にある花鈿だった。
(なに? なんで?)
混乱と痛みに泣き呻く間にも、銀の蔓はするすると動き回る。やがてそれは球体を成し、霄琳はその中に閉じ込められた。
外ではまだ異形が騒いでいる。銀の蔓で作られた球体を攻撃しているのか、ガリガリと引っ掻く音や何かを叩きつける音もする。
「うっ、ああっ……、ぐ……っ」
両腕が痛くてたまらない。それでもこの蔓の壁が破られてしまえば、あの異形の餌食になる。それだけは嫌だと、取り落とした小剣をふたたび握り締めた霄琳の耳に、激しい音が響いた。
ザッと風を切るような音がしたかと思うと、異形たちの悲鳴があがった。固いものを切るような音も聞こえる。
蔓の壁を隔てた向こうで何が起きているのかわからず、霄琳は小剣を握ったまま胸を喘がせた。
ここで気を抜いてはだめだと壁の向こうを睨みつけた霄琳だったが、その向こうから響いた声に、詰めていた息を吐いた。
「霄琳、この中にいるのか? 無事か?」
荒い呼吸の合間に霄琳を呼ぶのは、離原の声だ。気が抜けて思わずぼうっとしてしまった霄琳だが、壁を外から軽く叩かれて、はっと我に返った。
「い、いる、中にいるよ! 怪我はないけど、足を捻ったみたいで……」
とっさに声を張り上げると、壁の向こうの離原がほっと息をつくのが聞こえた。
「出てこれるか? 俺の剣でもこれは切れない」
「待って、中から……」
切ってみるのはどうか、と小剣を振りかざした霄琳は、ふと気付いて腕を下ろした。
花鈿はまだ手の甲にあり、模様も手首まで伸びたままだ。しかし蔓はなくなり、いつの間にかあれほどひどかった痛みも消えている。
どうしてと思った矢先、不意に頭上から降り注いだ輝きに上を向いた。
見ると、球体を形作る銀の蔓がまるで霧雨のようになって崩れていく。さらさらとした銀色の輝きは夜闇に溶け消え、やがて座り込んだ霄琳だけが残された。
「霄琳……今消えたものは……」
静まり返った中に、離原の呟きが落ちる。その手にはどす黒い何かを拭った跡のある剣が握られていた。
「わ……わかんない。でもこれ、俺の手から……この花鈿から出て……」
信じてはもらえないだろうと焦って霄琳は言ったが、離原は否定も疑いもしなかった。
ただどこか苦しげに眉を寄せ、歯を食いしばっているようだった。
座り込んだままの霄琳に歩み寄った離原は傅くように膝をつき、霄琳を抱きしめた。
「……やはり、お前は鈴祗なんだな……」
(また、鈴祗……)
何もかもがわからない。手の甲にある花鈿の正体も、銀の蔓が出たきっかけも、ひどい痛みも、鈴祗と呼ばれることも。ただただ謎が増え、自分がわからなくなっていく。
霄琳の肩口に、離原の顔が埋まる。その体温はなぜか懐かしく思えるものなのに、不安でたまらなかった。
自分で足をかけて乗るのではなく、抱き上げられての移動なら耐えられるかもしれないと思った霄琳だが、やはり飛刃での移動に耐えることはできなかった。
恐怖はもちろんあったし、浮き上がったとわかった時は悲鳴も出た。けれど背中に回された腕は霄琳がしがみつくより強く抱きしめてくれていた。だから大丈夫だと思ったが、恐怖のせいなのか、それとも自分で立てないほど疲弊していたせいなのか、気付けば街中に降り立っていた。
「ごめん、俺また……」
「気にするな。それに、それほど飛んでいない」
「ここは?」
「定英という街だ。ここが一番近かった」
すっかり夜も更けているため、小さな街には至る所に提灯の灯りがともっている。離原はすぐ近くにあった宿の門をくぐった。
「二人だが、部屋は空いてるか。怪我人がいるんだ、休ませたい」
酒場が併設されているその宿は、もう遅い時間ながらそこそこ賑わっている。喧騒の中を縫って出てきた番頭に声をかけると、帳簿をめくった男はううん、と唸った。
「一人用の部屋しか空いてねえな。そこでも良いってんなら、上掛けくらいはもう一枚出すよ」
「そこでいい。それから、包帯と打ち身か捻挫に効く軟膏がほしい」
「包帯と軟膏? 揃えることはできるが、もう夜だ。明日届けるってのは……」
「今ほしい」
宿賃も含めてこれで、と離原は銭貨を置いた。馬も荷も森に残してきてしまったが、金だけは持ってきていたらしい。台にコトンと置かれた金色の輝きには番頭だけでなく霄琳まで目を見開いた。
「いっ、急いで揃えさせていただきます。他に何かご入用のものは? お部屋も他を移動させればどうにか……」
「部屋はそのままでいい。急いでくれ」
かしこまりましたと声を張り上げた番頭は呼び寄せた店員に離原たちの案内を頼み、あわただしく店を出て行った。
店員の先導で部屋へ向かった離原は、通された一室の寝台に霄琳を下ろすと戸口で立ったままの店員を振り返った。
「足を洗いたい。水と手拭いをもらえるか」
「はい、ただいま」
腰に剣を佩いたまま店員に言付ける離原は、店員が去るとすぐに霄琳の前に膝をついた。
「足を診よう。まだ痛むか?」
「少し」
熱を持ってじんじんと疼くが、挫いた時ほどひどい痛みではない。だが離原は慎重に長靴から霄琳の足を抜くと、靴下も取り去った。
「……腫れてるな。骨は折れていないようだ」
離原は霄琳の裸足を丁寧に観察する。なんだか恥ずかしくて、霄琳は診られていない方の脚を軽くぶらつかせた。
「さっきよりはだいぶ良くなってるよ」
痛みが強かったのは、挫いた直後に走ったりしたせいだろう。思ったよりひどい怪我ではなかったようだと霄琳は楽観的だが、離原は神妙な面持ちで赤らんだ足首を見つめていた。
「……他に、怪我は」
「手のひらをちょっと擦ったくらいかな。すぐ治ると思う」
ほらと開いて見せた両手のひらには擦り傷があるが、うっすらと血がにじむ程度で、大したものではない。大丈夫だと安心してもらえるかと思ったのに、離原の顔はさらに険しくなり、眉間にはうっすらと皺まで寄った。
「お客様、御用命のものをお持ちしました」
なんでそんな顔を、と思った霄琳が手を引っ込めかけた時だった。扉の向こうから声があがり、離原が応じると、さっき店を飛び出していった番頭が顔を出した。手に持った盆には包帯が二巻と薬包がいくつか載っており、後ろには水桶と手拭い、それから薄い上掛けを携えた店員もいた。
「ここに」
卓子を指す離原は堂々としている。人へ命令を下すことに慣れている仕草で、今更ながら霄琳は彼の身分どころか名前しか知らないのだと思った。
(着ているものも上等なものだし、お金もたくさん持ってる。偉い人だったりする?)
さっきだって、離原が番頭に渡したのは金貨だ。番頭が目の色を変えるのも無理はない。
飛刃を使いこなす仙師だし、もしかしたら国の要職にでも就いているのかもしれない。
そんな風に霄琳が考えているうちに番頭と店員は愛想笑いを浮かべながらそそくさと出て行き、袖をまくった離原は水桶を床に置いた。
「まずは手を拭こう。痛ければ言ってくれ」
「えっ、自分でできるよ」
傷はあるが、痛んで仕方ないというほどでもない。それなのに伸びてきた大きな手は霄琳の手を捕まえると、丁寧に拭い始めた。
くすぐったいし、なんだか恥ずかしい気もする。だが離原の顔は真剣で、少しでも茶化してはいけないような気がした。
霄琳が黙っていると、ぽつりと小さな声が部屋に響いた。
「すまない、俺の警戒が甘かったせいだ。痛かっただろう」
「そんなことないよ、むしろ離原は俺を助けてくれたんだから。怪我も、俺が転んだせいだし」
黒衣の急襲も、妖魔と出くわしたのも予期せぬ事態でしかない。何ひとつ離原のせいではないし、命も落とさず、怪我も軽傷で済んだのだ。むしろ幸運だとさえ霄琳は思った。
だが離原はそうは思っていないようで、指の間を拭きながら首を振った。
「いや、俺の気の緩みが招いた失態だ。今度からはもっと強固なものにする。……もう繰り返さない」
「離原……」
霄琳に告げているというよりは、自らに言い聞かせるように呟いた離原は、それからもくもくと霄琳の両手を拭き清めると、足も同じように拭き、手早く処置をしてくれた。
薬包に包まれた粉を水で軽く練り、腫れた患部に塗る。それから最後に包帯を巻きつけ、動かないように固定していく。手慣れた様子に思わず見入っているうちに処置は終わり、ようやく霄琳の足は解放された。
「一応固定したが、痛みがひどくなるようなら言ってくれ。巻き直す」
「うん、ありがとう」
足首の痛みはかなり軽くなっている。これなら明日は歩けそうだと考えていると、離原は部屋に一つしかない椅子を引き寄せて霄琳の前に腰かけた。
もう夜も遅い。月は中天を越えようとしているし、窓から見える街もすっかり灯りを落としている。霄琳も眠くなってきてあくびが出そうになったが、離原が突然口を開いたので、それも引っ込んだ。
「花鈿が成長した時、痛みはあったか」
「なかったよ。だから、いつ成長したのかもわからなくて……」
両手の甲を離原に向けると、下からすくうように取られ、それからくるりとひっくり返された。手の甲から伸びた蔓の絵柄は、手首の内側で交差して美しい紋様を描いている。それは、薄暗い中でもわずかに光っていた。
「でも、もしかしたら黒衣が来た時にはこうだったのかも。花鈿が見えてるぞって言ってたから」
あの時の絶叫は、まだ耳に残っている。ふと不安になって窓の外を見たが、夜闇が広がっているばかりだ。
ぽつんぽつんとわずかな灯りが所々に見えるだけの夜の風景。それを眺めて、霄琳は自分の記憶のようだと思った。
霄琳がわかっていることは、自分に殺意を向けている人間がいるということと、手の甲にある花鈿は刺青などではないということだ。他は何もかもを忘れている。離原のことさえ、霄琳は何もわからない。
「……ねえ、離原。俺、何を忘れてるの?」
離原と出会って、まだたった数日だ。それでも多くのことを忘れていることを知った。だからこそ思い出さなければいけないとは思っていたし、そうでなければこれから先どうするかも決められない。
けれど怖かった。
命を狙われる理由があって、それを自分は忘れてしまっている。それだけじゃない。夢で見た花園も、華やかな街も、霄琳は懐かしいと思った。あれは眠りの淵で見るあやふやな世界ではない。きっと、過去に見た景色だ。その中にいた男も――離原も、霄琳は知っているはずだ。
それらが一気に戻った時、目の前に広がる現実はどう色を変えるのだろう。今はぽっかりと空いている記憶の穴が塞がった時、そこに現れる真実が怖かった。
「教えて、離原」
すべてを知らなくても、きっと霄琳よりは知っているはずだ。斜面を転がる雪玉がどんどん大きくなるように、言葉に出してしまえば途方もなく増大していく不安。それから逃げるすべを問うように、霄琳は自分を守ると言ってくれた男を見上げた。
離原は持ったままだった霄琳の手を下ろすと、一度深く深呼吸をした。
「……長くなる。それでもいいか」
ゆっくりと頷いた霄琳の肩に、冷えるからと離原は上掛けをかけてくれた。
四
「……五百年前の話だ」
そう言った離原に、霄琳は少なからず驚いた。けれど早々に話の腰を折るわけにもいかない。開きかけた口をあわてて閉じた。
「この国に、長命を願う皇帝がいた。この皇帝は貪欲で、仙師になれば百を超えても生きると言われているのに、それでも足りないと思っていた」
「仙師って百年も生きるの?」
「仙師ならば大体二百までは生きる。だが、皇帝はその上、神仙になりたかった。神仙になれば、寿命は千年以上とも言われている」
「千年……」
人間など、生きてもせいぜい七十歳で長老だ。百歳でも十分に驚きなのに、千年と言われて、その膨大な時間に霄琳は絶句した。
「皇帝は永久の生命をほしていた。だが、修行の身である研仙にはなれても、仙師、ひいては神仙になるには素養も長い修行も必要。もっと手っ取り早い方法はないかと文献を調べた皇帝は、特別な桃の存在を知った」
「桃?」
桃は確かに吉祥の果実と言われるが、どこにでも売っている。思わずぽかんと口を開けた霄琳に、離原は少し笑った。
「ただの桃じゃない。天仙界にある天帝の庭に生える、特別な仙桃だ。天帝をはじめとする神仙たちはこれを食して高い仙力を得ていると文献にはあった。だが、禍告嘆鈴が鳴り響いた時と、十年に一度の訪礼祭しかこちらから庭に入るすべはない」
「ちょっと待って、禍告嘆鈴ってなに?」
離原は滔々と語ってくれるが、霄琳は話に追いつくのが精一杯だ。
すかさず飛んできた問いに、離原はすまないと頭を掻いた。
「禍告嘆鈴は、大災洞が開いた時に鳴り響くとされている大鈴だ。禍告嘆鈴が鳴れば、天仙界が人界を救う手助けをしてくれる」
「大災洞?」
わからないことばかりだ。本当に以前の自分はこれらの言葉を理解していたのだろうかとさえ思いながら、霄琳は新しく増えた単語に眉を寄せた。
「大災洞は……そうだな、わかりやすく言えば穴だ。妖魔が出てくる穴。この世には、色んな所に綻びがあって、妖魔はそこから出てくる。これを災洞という」
「俺が会った、あの……なんか頭が細い猪みたいなやつもそこから?」
「そうだ。あれは野狗子で、戦の跡地に出たりするやつだ。人間の脳をすする」
「脳……っ」
思わず自分で自分を抱きしめた。あの時、わけもわからないながら銀の蔓で守られたが、あれがなかったらと考えると今更耳の辺りがぞわりとした。
「あいつらも災洞から出てきたんだろう。そういった穴はどこかで勝手に開いて、またすぐ閉じる。だが数十年に一度、大穴が開く。これが大災洞だ。大災洞は勝手に閉じないうえ、大物が出てくる」
野狗子ですら怖ろしかったのに、それを越えるようなものが現れるなど、聞いただけで鳥肌が立った。
「わ、わかった。続き、教えて」
これ以上聞いていては話がそれるし、更に恐ろしいことを言われそうだ。霄琳が続きを促すと、離原は五百年前の皇帝の話を再開した。
「大災洞が開いた時は禍告嘆鈴が鳴り、仙界から大災洞を閉じる助力を得られる。そのことに対する礼を尽くし、忘れないために行われるのが訪礼祭だ。皇帝はそれを待つことにした」
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「そうだ。同時に、訪礼祭に参加する夏子静という研仙に目をつけた。彼が飛刃の名手だったからだ。皇帝は夏子静に、天帝の庭が開いたら仙桃を採ってくるように命じ、夏子静は訪礼祭の日に仙桃を盗んだ。だが、その時に誤って禍告嘆鈴を壊してしまった」
「……っ」
不意にどくんと、鼓動が大きく跳ねた。ほんの一瞬めまいもしたが、瞬きの間にそれはなくなっていた。
(なに?)
思わず胸にそっと手をやるが、鼓動は落ち着いている。息苦しさや違和感もなかった。
「そのまま夏子静は皇帝のもとへ……霄琳?」
「ううん、なんでもない」
疲れのせいだと片付けて首を振ると、離原は怪訝な顔をしたが、特に何も言うことなく、話を続けた。
「夏子静は皇帝の元へ急ぎ、受け取った皇帝は仙桃を食べた。そこへ天帝の率いる神仙たちがやってきて、皇帝と夏子静は捕らわれた。二人は裁かれ、それぞれに罰を与えられた。皇帝は禍告嘆鈴が再び戻るまで老いず死なない不老不死となり、胸には呪紋が刻まれた。もし国が乱れれば、呪紋は体中へ広がっていく。この呪紋に覆われるか、もしくは玉座を捨てた時、天仙界に封じられている千獣万妖が放たれる。この国は愚かな皇帝を生み出したとしてその罪を負うことになり、ありとあらゆる植物は枯れ、神仙の加護は失せ、綻びや大災洞から溢れた妖魔が跋扈する地となる。皇帝の肉体は千々に引き裂かれ、魂は天仙界の牢獄に繋がれ、肉体に負った苦しみを千年繰り返すことになることが、奴に与えられた罰だった」
離原の口調は淡々としている。けれどわずかに眉の間が寄り、視線が下がった。
「……夏子静へ下された罰は、壊れて砕けた禍告嘆鈴のかけらの回収だった。七つに砕けたうちの一つはそのまま夏子静に宿ったが、残りはすべて人界に散らばった。そして夏子静には、何度も生まれ変わり、大災洞が開くたびに現れる禍告嘆鈴のかけらを身に宿すことが命じられた。大災洞が閉じた時かけらは回収され、もともとあった天仙界の庭に返されて修復される」
「じゃあ、皇帝は生き続ける呪いで、夏子静さんは何度も死ぬ呪い?」
「そうとも言えるな。皇帝は今も生き続けているが、何度も生まれ変わってくる夏子静の名前はそれぞれ違う。だから総称して鈴祗と呼ぶようになったんだ」
「――……でも、俺も鈴祗なら夏子静さんの生まれ変わりで、……それなら俺は、罪人?」
話を聞いた限り、夏子静は命令とはいえ、国にまで災禍が及ぶ呪いがかけられる発端を担った人物だ。その生まれ変わりなら、自分も罪人だったのかと呟いた霄琳に、離原はすかさず違うと言った。
「夏子静や鈴祗たちは巻き込まれたに過ぎない。もしなじる声があるとすれば、その非難はすべて皇帝に向けられるべきだ。それに、鈴祗は人々を守る力がある。現にこれまでも、大災が起こるたびに鈴祗は民を守ってきた。尊ばれこそすれ、罪人と謗られていい存在ではない」
「守る? でも俺に、そんな力は……」
ない、と言いかけて、霄琳は自分の手の甲を鮮やかに彩る花鈿を見た。
妖魔に襲われた時、この花鈿からは銀の蔓が出て丸い籠を作った。霄琳はその中に閉じ込められ、結果として被害に遭うこともなかった。霄琳が意図してやったことではないが、視線をあげると、離原が頷いた。
「花鈿こそ鈴祗の証だ。大災洞の予兆が現れ始めると、花鈿が鈴祗の体に現れる」
「じゃあ、俺の体に花鈿があるってことは、大災洞が開くってこと?」
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あの時、霄琳はただただ苦痛に泣いていただけだ。銀の蔓が自分の手から生えたことなど、いまだに信じられないほどなのだ。
(何もわからない……でも、前の俺は全部わかってたのかな)
離原の話にしてもそうだ。花鈿を持ち、銀の蔓を操るのが鈴祗だと言われても、罪を償うために生まれ変わっているのだと教えられても、何ひとつ覚えがない。
黙り込んだ霄琳がしばらく考えこんでいると、ジッと音がして、部屋に置いていた灯りが消えた。
どうやら芯が燃え尽きたようだ。立ち上がった離原が油皿の様子を確認したが、嘆息して元の場所に戻した。
「……一気に詰め込んでも、混乱するだけだ。ちょうど油も尽きた。今日はもう休んで、明日の出立に備えよう」
「うん……そうだね」
確かに、霄琳の頭の中は混乱の一途を辿るばかりだ。明日にはまた旅立つのだし、夜ももう遅い。休むなら寝台を譲ろうと思った霄琳は、離原が部屋の隅に座り込んだことに瞬きをした。
「離原、俺が床で寝るよ」
「いや、ここでいい。上掛けもあるから大丈夫だ」
離原は横になるつもりがないのか、壁に背を預けている。手には剣を握って、むしろ休む気さえないように見えた。
「でも、そこじゃ休まらないよ。いいから寝台で寝て」
「お前こそ足の捻挫がある。床で寝れば体に障る」
頑として聞かない様子の離原だが、霄琳もここで折れたくはない。何もできない分、せめて寝台を譲る程度のことはしたかったし、黒衣の急襲や飛刃での移動もあったのだ。疲れているはずの離原を労わりたかった。
だが、離原は霄琳こそ寝台で寝ろと言う。ならばと霄琳は寝台の端に寄った。壁に背中がぴったりくっつくほどだ。そうすれば、狭いながらも人が一人横たわれるぎりぎりの空間ができた。
「じゃあ俺、寝台で寝る。だから離原もここ来て」
「……」
野宿をする時は荷馬車で雑魚寝をしていたのだ。それよりも少し狭いが、寝れないことはない。少なくとも、硬い床の上に座ったまま眠るよりはいいはずだ。
「早く」
離原が来てくれなければ上掛けもかけられない。そうこうしている間に寝落ちてしまいそうだ。
ここ、と寝台を叩くと、離原はため息をついてようやく寝台に上がってきた。
上掛けに丸まると、その上から更に一枚、離原がかぶったものの半分をかけられる。そうすると一気に温かくなって、霄琳の意識はあっという間にほどけ始めた。
「……霄琳」
「う、ん……」
離原が呼んでいることはわかった。目を開けなければと思うのに、回ってきた腕の温もりに懐かしさを覚え、その心地よさがさらに眠気を誘う。
――そうだ。前もよく、こうやって眠った。
きっと今日はいい夢が見られる。何も怖いことなどないのだ。この腕の中にいる限り、恐ろしいことは起きない。霄琳はそう信じていた。
◇
美しい田園風景がどこまでも広がっていた。
田んぼでは裾をからげて田植えをしている人々がいて、その脛の辺りはたっぷりと張られた水が陽光を反射してきらきらと輝いていた。
あぜ道を子どもたちが走っていくが、そのうち彼らは美しい衣装をまとった女官たちになった。さらさらと裾をなびかせて歩く彼女らは霄琳の傍に来ると、後ろを歩き出した。
――ええ、ええ、もうじきお越しになられますよ。
――今日は蓮池を散策なさるのですよね。お召し物も、それに合わせましょう。
そぞろ歩きながら、彼女たちは鈴のような声で笑い合う。霄琳も楽しくなって笑うと、空を飛んでいた鳥が呼応するようにピイと鳴き、大きく羽ばたいた。すると大風が起こって、すべてを吹き飛ばした。
けれど怖くない。すぐに強い腕が霄琳を抱き留めてくれる。
――ありがとう。
微笑んだ霄琳に、抱き留めた男も笑みを返す。
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「……離原」
◇
新しく買いなおした荷馬車に揺られながらうとうとと頭を揺らしていた霄琳は、ピーイと澄んだ鋭い鳴き声にはっとして顔をあげた。
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一つだけ取って目の前にぶら下げてやると、鋭い嘴がずいっと寄った。
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鋭いくちばしが器用に干し肉をくわえるのを見ていると、離原が言った。
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「そうか」
「うん……」
妙な空気だが、この雰囲気の理由はわかっていた。
(あんな夢見たんじゃ、まともに顔見れない……)
今朝、霄琳は早く起きた。しかし心地よく爽やかな目覚めと言うにはほど遠く、衝撃と驚愕で起きたようなものだった。
起きたら忘れているような夢だったら、幾分かよかったかもしれない。しかしあまりに生々しく現実味のある夢だった。
霄琳が見たのは、まぎれもなく離原とくちづけを交わす夢だった。
抱きかかえてくれた腕の強さや布越しの温かさ、触れた唇のやわらかさも、目覚める直前までそうしていたと錯覚するほど鮮やかだった。
そのうえ、目覚めても離原に抱えられるような形で、深く瞼を閉ざした顔が間近にあったものだから、悲鳴を飲み込むのに一苦労した。
それからはもう眠れるはずがない。
頬どころか首や耳まで熱く感じるほど赤面してしまった霄琳は、一刻も早く寝台から降りたかった。けれど壁と離原に挟まれているし、離原の手は緩く腰を抱いている。少しでも音を立てたり、不自然な動きをすればすぐに起きてしまうのではと思うと身動きも取れず、霄琳は外がすっかり明るくなるまで悶絶するはめになった。
おかげで今日一日、霄琳はまともに離原を見ることができない。離原が荷馬車を新しく買い直したのをいいことに、移動中は話しかけもせずに奥に引っ込んでいた。
(なんでこんな夢ばっかり見るんだろ。まさか、夢じゃなくて記憶だったりする?)
霄琳の記憶は相変わらず空白だらけだ。離原は霄琳のことを知っているようだったが、二人の関係がどういったものかもいまだに思い出せていない。
だからこそ、くちづけし合う仲だった可能性もあるわけだが、それを聞くのはあまりに勇気のいることだ。
違うと言われたらどうにか愛想笑いでごまかすことはできるかもしれないが、そうだと言われたらどうしたらいいのだろう。
(でも、嫌じゃないんだよなあ……)
夢の中の抱擁もくちづけも、驚きはしたものの嫌悪感は一切なかった。むしろほっと体の力が抜けるような安心感と、どこから湧いてきたのか懐かしさまで感じている。そのせいでこれは夢ではなく、記憶だと考える方がしっくりくるほどだった。
ならばやはり自分と離原はそういうことをする仲だったのか。だけどやっぱり聞くのは恥ずかしいし怖い。
それに、自分の気持ちもよくわからなかった。
離原に惹かれている可能性はある。けれどもともと関係があって、その気持ちに引っ張られているのではという疑念もある。
(そもそも俺と離原、どんな関係だったんだろう。俺が鈴祗なら、離原は?)
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そんな俺に反して、子供の頃に拾って育てた執事は超優秀で、なぜか「悪役執事スキル」を着実に磨いている。
……いや、違う!
そうじゃない!!
悪役にならなきゃいけないのは俺なんだってば!!!
悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第1巻 - 婚約破棄と一族追放
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王国にその名を轟かせる名門・ブラックウッド公爵家。
嫡男レイモンドは比類なき才知と冷徹な眼差しを持つ若き天才であった。
だが妹リディアナが王太子の許嫁でありながら、王太子が心奪われたのは庶民の少女リーシャ・グレイヴェル。
嫉妬と憎悪が社交界を揺るがす愚行へと繋がり、王宮での婚約破棄、王の御前での一族追放へと至る。
混乱の只中、妹を庇おうとするレイモンドの前に立ちはだかったのは、王国騎士団副団長にしてリーシャの異母兄、ヴィンセント・グレイヴェル。
琥珀の瞳に嗜虐を宿した彼は言う――
「この才を捨てるは惜しい。ゆえに、我が手で飼い馴らそう」
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鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
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戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
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悪役令息に転生した俺は推しの為に舞台から退場する
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前世の記憶を思い出したアレクシスは悪役令息に転生したことに気づく。このままでは推しである義弟ノアが世界を救った後も幸せになれない未来を迎えてしまう。それを回避する為に、俺は舞台から退場することを選んだ。全てを燃やし尽くす事で。
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悪役令息(Ω)に転生した俺、破滅回避のためΩ隠してαを装ってたら、冷徹α第一王子に婚約者にされて溺愛されてます!?
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前世の記憶を持つ俺、リオネルは、BL小説の悪役令息に転生していた。
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これは破滅フラグに違いないと絶望する俺だが、アシュレイの態度は原作とどこか違っていて……?
【本編完結】処刑台の元婚約者は無実でした~聖女に騙された元王太子が幸せになるまで~
TOY
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【本編完結・後日譚更新中】
公開処刑のその日、王太子メルドは元婚約者で“稀代の悪女”とされたレイチェルの最期を見届けようとしていた。
しかし「最後のお別れの挨拶」で現婚約者候補の“聖女”アリアの裏の顔を、偶然にも暴いてしまい……!?
王位継承権、婚約、信頼、すべてを失った王子のもとに残ったのは、幼馴染であり護衛騎士のケイ。
これは、聖女に騙され全てを失った王子と、その護衛騎士のちょっとズレた恋の物語。
※別で投稿している作品、
『物語によくいる「ざまぁされる王子」に転生したら』の全年齢版です。
設定と後半の展開が少し変わっています。
※後日譚を追加しました。
後日譚① レイチェル視点→メルド視点
後日譚② 王弟→王→ケイ視点
後日譚③ メルド視点