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1巻
1-3
今のところ、霄琳が知っている離原の情報は少ない。飛刃を操り、仙術を少し使う仙師。大金をなんの躊躇いもせずに使う男。他にあるだろうかと考えて、霄琳はそういえばと夢で見た彼の姿を思い出した。
(夢の中の離原……立派な格好してた)
今でもよく見れば質の良いものを身に着けているが、夢で見た離原はもっと豪奢な格好をしていた。その姿を見て起きた霄琳は、混乱や羞恥と一緒に、なぜか懐かしさも感じていた。
(あれは本当に夢? それとも、俺が忘れている記憶?)
夢というには鮮やかで、脳裏から消えることがない。それどころかなくしていたものが手元に戻ったような感覚さえある。
だが、もし今朝見た夢が過去の記憶なら、本当に霄琳は離原と恋仲だったのか。
(だとしたら、離原と恋仲、で……鈴祗で、夏子静の生まれ変わりで……?)
昨夜聞いた話と、夢で見た風景。それらを合わせてみた霄琳は、さらに頭を抱えたくなった。
離原のこともよくわからないが、霄琳自身のことが一番わからない。
昨夜の話はまだ続くようだったし、そこにまた新たな真実があるのは確かだ。
(……俺、どれだけ忘れてるんだろう……)
自分の記憶を絵に描き出せたら、まだどれほどの空白があるのだろう。そして、そこにもともとあった記憶はどんな色をしているのか。それを知りたくもあるし、怖くもある。
思わず深いため息をついた霄琳は、ピィと聞こえた鳴き声にはっと我に返った。
すっかり干し肉を食べ終えたらしい鳥は、いつの間にか離原の傍に移動している。その足には新しい紙が括りつけられていた。
「行け」
離原が鳥を留まらせた腕を軽く上に振る。高く鳴いて、鳥は大きく羽ばたいていった。その姿は、すぐに小さな影になり、青空に吸い込まれて見えなくなった。
「あの子、なんて鳥?」
「隼だ。方々との連絡手段に使っている」
「じゃあ誰かから手紙が届いたの?」
(よし、ちゃんと話せてる)
妙に意識してしまうせいで話の糸口さえ見失っていたが、違和感なく切り出せた。上手くいったと内心で安堵しながら、霄琳は荷馬車の前の方、馬を操る離原の傍に近寄った。
「ああ。気になる情報をもらった。少し遠回りになるが、北東に進もう。成杜に寄る。今日はもう少し行ったら野宿にする」
「わかった」
頷いた数刻後、山の中腹で馬は止まった。日没が迫る中、離原の言う通り今日は小さな湖の傍での野宿となった。
離原は野宿する場所を決めると飛刃に飛び乗り、禁衛条の符を張り巡らせ始めた。それを見た霄琳も荷馬車から降りようとしたが、そのとたん、すごい勢いで上空から降りてきた離原に立ちふさがられた。
「なに?」
「捻挫がまだ治っていないだろう。俺が全部準備する。座っていてくれ」
「大丈夫だよ、もう痛くないし」
昨夜手当てをしてもらった足首は、だいぶ調子がいい。試しに荷馬車の中で立ってみても、ぐらつきもしなければ痛みもしなかった。
「ほら、全然平気」
「一応、確認させてくれ。赤みや熱をもっていたら安静が必要だ」
「……わかった」
霄琳としては痛みもないし、何よりようやく普通通りに離原に接することができるようになったのだ。触れられてまたどぎまぎしたが、心配を無碍にすることもできない。
荷台のへりに腰かけてしぶしぶ長靴と靴下を脱いでいると、すぐ傍の湖で手拭いを絞ってきた離原が手を差し出してきた。
「ついでに花鈿も見たい。手を」
「う……うん……」
手の甲が見えるように両手を揃えて、離原の手に置く。
それだけで今朝から昼過ぎまで脳内を占めていた懊悩が蘇ってきて、霄琳は逃げ出しそうになる自分をどうにか抑え込んだ。
幸い、花鈿に異常はなかった。変化がないとわかると、離原は今度は霄琳の足に手をかけた。
(足までしなくてもいいのに)
離原はいつも、花鈿を見る時には必ず霄琳の足まで洗い清めた。足裏や甲をじっと眺めることもあったので、まさかそこにも花鈿があるのかと思って自分でも見てみたが、白い足には傷もほくろもない。
おかげで彼の考えがまったくわからない霄琳の中で、離原は他人の手足を好む人間なのだという認識が生まれつつあった。
妙な気持ちにはなるし、恥ずかしさとくすぐったさもある。けれどなぜだか拒否できない。おかげで今日もしっかりと足先まで拭われてから、ようやく霄琳は解放された。
「終わりだ。準備は俺がするから、少し待っていてくれ」
「あー……うん、ありがとう……」
仕事は終えたとばかりに、体を起こした離原はさっさと野宿の準備を始めた。
野宿の準備を免除されたのをいいことに、霄琳は荷台のへりに座ったまま、水気がうっすらと残っている手足を夕暮れの風にさらした。
触れられていた箇所がほんのりと熱を帯びているようで、どうにもこそばゆくて仕方なかった。
やがて日も落ち、離原が準備してくれた夕餉を食べ終えた霄琳は、近くにあった樹木に背を預けていた。焚き火の向こうに、地図を広げている離原が見える。
(次行くのは……成杜ってとこだっけ……)
これから向かうという成杜という街に、霄琳は心当たりがない。どんな街かを聞いてみたかったが、朝が早かった霄琳はすっかり眠気に負けそうになっていた。
眠るなら荷馬車に戻った方がいいのはわかっているが、焚き火の傍なので暖かく、背もたれにしている樹も太くどっしりとしていて座り心地がいい。この心地よさを簡単に手放すことができず、少しだけ、と瞼を薄く閉じた。
「霄琳?」
低い声に、霄琳は浅く目覚めた。とは言っても瞼は開かないし、体もすっかり力が抜けている。
起きなきゃなあとのんびり思うが、意識は端からほろほろと溶けていってまとまらない。そのまままた眠りに落ちて行こうとした矢先、霄琳は自分の膝裏と背中に通された腕に気付いた。
離原だ、と思う間もなく横抱きにされる。不思議と恥ずかしさは感じない。むしろ慣れ親しんだ感覚がした。
前にもこうやって、抱き上げてもらったことがある。けれど、それがいつだったかは思い出せない。上掛けと男の腕に包まれて、霄琳はもどかしさを感じながらも深い夢の中に落ちて行った。
夢の中で、霄琳は豪奢な寝台に横たわっていた。寝台には天蓋があり、軒からは薄絹が幾重にも垂れている。外からは中が見えないようになっている。その中にいるのは、霄琳ともう一人、顔の横に手をついてこちらを見下ろしてくる男――離原だった。
いつもは黒地の袍に外套を羽織って目立たない風貌をしているが、今目の前にいる離原は黒地ではあるものの金の刺繍が施された袍をまとっている。広い寝台の端には、龍が描かれた華やかな羽織りが引っかけられていた。
「お疲れさま、離原」
頭は混乱しているのに、口から勝手に零れる声はどこか甘えを含んでいる。
もう一つの天蓋のように霄琳に覆いかぶさる離原の口からも、普段より幾分も穏やかな声が返った。
「湯を使ったようだな。いい香りがする」
「うん」
頷く霄琳の首に、離原が顔を埋める。いつもは髪冠で束ねられている黒髪が落ちてきて肌にあたり、そのくすぐったさに笑った。
(これって……)
肩に当てられる口の感覚にぞくぞくと肌が震える。思わず立てた右の膝で、すでに入り込んでいる男の腰を軽く挟んだとたん、霄琳は頭の中で悲鳴をあげた。
(なっ、……たっ、た……ってる!)
夢だとわかっている。それほど意識はあるのに体は言うことを聞いてくれず、むしろ押し付けられた昂ぶりを煽るように腰が揺れた。
この二人は――どう考えても自分自身と離原だが――何をしようとしているのか。
わかるが、わかりたくない。
それなのに、ことはどんどん進んでいく。
着ていた深衣が乱れ、中に来ていた内衣も暴かれていく。そのたびに現れる肌に唇が落ち、霄琳は意識の中で悶えた。
しかし体はその羞恥を裏切る。もうここで意識を失いたいのに、自分を剥いていく男の首に腕など回してより密着しようとする。それでも当然夢は覚めず、意識も失われてくれない。
ただ、失神せずにいるおかげで気付いたこともあった。
離原の首に回された手の甲に、花鈿を見つけたのだ。だがその手は今の霄琳のほっそりとした白魚のような手よりも少し日に焼けた色をしていて、腕にはいくつかの傷痕もあった。
(見覚えがある。これ……)
今の自分の手を見るたびに、拭いきれない違和感があった。けれど、夢の中の霄琳の手には慣れ親しんだ感覚がある。
動かしているのは自分の意識ではないのに、霄琳はこの手こそ自分のものだと思った。
今の自分とどう違うのか、もっとちゃんと見ようと思った霄琳だが、それは叶わなかった。
ついに帯まで抜き取られ、ころりと寝台の上でうつぶせに転がされたからだ。
何が起きたのか疑問に思う間もなく、下腹のあたりに枕をいれられて腰が浮く。突き出した形になった尻を大きな手が緩く揉み、そこで霄琳は気付いた。
(穿いてない!)
下袴を穿いているものと思っていたが、肌にあたるのは寝台の敷布と枕だけだ。ならば自分は剥き出しの尻を向けているのかとあわてた矢先、尻にとぷりとぬるいものが滴った。
水より粘度の高いそれは、尻の谷間を伝って足の間に垂れていく。
呆然とする意識とは別に、体はくすぐったがって足を擦り合わせる。その合間に手のひらが差し込まれた。
ぬちゅ、と濡れた音と、自分の口から洩れる小さな笑い声。背中にくちづけが落ちてきて、それに震えた瞬間、霄琳の意識はぱっと弾けた。
五
目覚めたとたん、手のひら一枚分ほどの近さで眠っていた離原に驚いた霄琳が声をあげるまで、一拍ほどの間しかなかった。
「わっ……わー!!」
やたら通りのいい絶叫に、深く閉じていた瞼をぱっと開いた離原は、霄琳を片腕で抱えたまま跳ね起きた。そして一瞬で抜剣すると飛刃に飛び乗り、中空に飛び上がった。
「ぅわっ、わっ、わああっ」
瞬時に景色が変わり、ぬくぬくと温まっていた体が強風にさらされる。驚きは恐怖に変わり、じたばたともがいて離原から離れようとしていた手は必死になって広い背に縋りついた。
「急襲か!? 黒衣はどこだ」
「穿いてる!? 俺、穿いて……あっ、ごめ、ちがっ、離原ごめん、違う!」
しがみついた離原の胸からはドッドッと激しい鼓動が響き、背に回された腕は痛いほどに霄琳をきつく抱きかかえている。彼の焦りと緊迫感に申し訳なさが膨らんで、霄琳は声をあげた。
「ごめん、本当にごめんなさい。夢見てびっくりしちゃって……」
「本当か? 誰にも襲われていないか?」
離原の警戒心は頂点に達している。
見れば、いつの間に取り出したのか、普段は腰に下げているだけの小剣まで抜いている。柄を握る手には符まで握られていた。
「本当にびっくりしただけ。大丈夫だから降りよう」
「……ああ」
霄琳の鼓動もまだ早いが、これは夢の内容に加えて、一気に上空に上がったせいでもある。このままでは、また失神してしまいかねない。
離原にしがみつきながら降下を頼む。まだどこか張りつめた雰囲気をまとう男は、朝焼けの空をぐるりと一瞥してから、ようやくゆっくりと飛刃を降ろした。
「横になれ。顔色が悪い、体も冷えただろう」
安眠を阻害されたことに怒っていいはずなのに、離原は地面に下りるなりへたりこんでしまった霄琳を抱えると、荷車の奥に横たえて上掛けで包んだ。
「ごめん、離原。本当にごめん。その……なんかすごい夢見て、びっくりしちゃって……」
「気にするな、どうせもう陽も出てきた。少し早いが、出発しよう。朝餉は麓で取る。お前はそのまま寝ていてくれ。夢見が悪かったなら、寝た心地がしないだろう」
すっかり目が覚めた様子の離原は溌剌としている。霄琳も起きて手伝わなければと思ったが、伸びてきた手に頭をひと撫でされると、甘えてしまおうという気持ちになった。
「うん。……ごめん、ちょっと寝るね」
移動するなら、霄琳ができることはない。むしろ昼間に眠気に襲われないように、今は休んだ方がいい気がした。
しかし、結局霄琳は麓の村につくまで眠れなかった。夢を思い出したからだ。
(あんなこと……本当に? これが記憶だったら……俺、離原とあ、あ……あんなことしてたってこと?)
思い出すだけで顔が熱くなる。つられて体の奥までじわっと熱を帯びるものだから、頭の中から淫らな映像を消そうと悶えているうちに、荷馬車は山の麓の小さな村に到着した。
「ここまで来れば、成杜には昼過ぎには着く」
酒楼で朝餉の粥を食べながら、離原は地図を卓子に置いた。畳まれて幾分か小さくなっている地図の一端が現在地らしく、そこから緩やかに蛇行する道を辿った先に成杜はあった。
「どんな街?」
「水路と陸路が交わる貿易都市だ。華やかさは周苑が一番だと言われるが、喧騒は成杜の大通りの方が勝る。あそこはいつでも商人たちの喧嘩と交渉で騒がしい」
「そうなんだ。見るとこもいっぱいありそう」
今まで霄琳と離原が辿ってきた村や町は小さなものばかりだ。それなりに店は軒を連ねているが、のんびりとした雰囲気で、喧騒などとは程遠い。
にわかに楽しみになって、霄琳は急いで腹を粥で満たした。
食後の休憩もそこそこに出発すると、二刻もする頃には左右に広がった巨大な城壁が霄琳の視界に入った。
城壁には四ヶ所の関所が設けられていた。うち二ヶ所からは成杜から出て行く人々が見え、その隣の二ヶ所には成杜に入るための列ができている。離原の操る荷馬車は成杜入りをするための列の後方に並んだ。
「離原、あれ全部成杜に入る人たち?」
まだ城門をくぐってもいないが、周囲は隊商や旅人たちの声が飛び交っている。活気に満ちた様子に、わくわくと胸が躍った。
窓の格子越しではなく、もっとちゃんと見たい。四つん這いで馬の方へ移動しようとした霄琳だったが、それは叶わなかった。
「そうだ。荒っぽいのもいるから、できるだけ目立たないようにしてくれ」
「えー……」
奥に行けと押し戻されてふくれっ面になったが、関所が近づくにつれて、霄琳の体は緊張に強張り始めた。
関所では厳しい検査が行われているようで、中には番兵たちと押し問答の末に引きずられていくような者までいる。自身の身分を証明するものなど持ち合わせていないし、離原の身分もよくわからない。捕まったらどうしようと不安が募り、荷物のふりをしようとした霄琳が布団と荷物の間に挟まったところで荷馬車が動いた。
「止まれ。通行証の提示を。それから荷物の確認を……」
番兵たちにとっては毎日の仕事の一環だ。一人が慣れた様子で確認事項を述べ、数人が荷馬車を取り囲んだ。
霄琳は緊張で口の中がからからに渇いて仕方なかったが、離原は落ち着いた様子で銀色の薄く細長い板を懐から出すと、それを番兵に差し出した。
「確認す…………失礼いたしました。ご提示、ありがとうございました。おい、検分はいい、お通しするぞ」
離原が差し出した通行証を確認するなり、番兵は態度を急変させた。荷馬車の後ろに回って荷車を確認しようとしていた番兵にも声がかかり、霄琳はほっと息を吐いた。
関門の前に立ちふさがっていた数名も道を開けてくれる。そうして大きな石造りの門をくぐると、幅にして三丈ほどもある大通りが広がっていた。
道の左右には店が立ち並んでいて、その店先では商人同士が交渉をしていたり、並ぶ商品を客があれこれと見比べている。華やかに飾り付けられた露店ではカラカラと涼やかな音を立てて風車が回り、藁を束ねた柱にいくつも刺された山査子飴は、陽光を弾いてきらきらと輝いていた。
「離原、俺、歩きたい」
華やかな街だ。自分でも散策したいと身を乗り出すとおもむろに荷馬車が止まり、離原が荷車に乗り込んできた。
「花鈿が見えないように、斗蓬で隠しておいてくれ」
いつの間に買ったのか、離原は荷物の中から薄手の斗蓬を取り出すと霄琳に着せた。外套のように袖があるわけではないが、頭を覆う頭巾がついている。そして裾が広く丈も長く、霄琳が着ると指先どころか膝まですっぽり隠れた。
「ちゃんと隠してたら、歩いていいってこと?」
「それはだめだ。馬で我慢してくれ」
「わ、わかった……」
馬は一頭しかなく、一緒に乗れば体が密着する。頬が一瞬にして熱くなったのは、またもや夢を思い出したからだ。けれど離原がさっさと荷車を下りたので、あわててその背中を追った霄琳は馬上に押し上げてもらった。
「すごい、人がいっぱいいる」
馬上から見る大通りは、遠く向こうまでまっすぐに伸びている。道行く人々は多く、その中を山ほどの荷を乗せた荷車が何台も霄琳たちを追い越して行った。
「そういえば、さっき見せてたのって通行証?」
「そうだ。成杜は交通と貿易の要所。街に入って来るものがいいものばかりとは限らないからな。これがなければ、入ることはできない。俺のものは、国内の関所ならすべて通ることができる」
そう言って渡されたのは、さっき番兵に見せていた銀板だった。表には永玉国通行証とあり、ひっくり返してみると、地名らしき単語がずらりと刻まれていた。
「すごい、こんなにたくさん通れるんだ。全部行ったことある?」
「すべて訪れたことがある。それより霄琳、前を向いてくれ。俺が後ろに乗る」
「あ、ごめん。通行証、ありがとう」
あわてて通行証を返して前を向くと、通行証を懐に戻した離原が騎乗した。そうすると霄琳は手綱を操る離原の腕の中に入る形になったが、馬上ではどうしようもない。背中にあたる硬い体を感じながら、つとめて平静に周囲を見渡した。
ゆっくりと歩き出した馬の背に揺られながら、一見して活気を見せている通りの光景を楽しむ。そこかしこから人々の声があがり、子どもたちはけらけらと笑いながら楽しげに走り回っている。露店の軒先では日陰に入った猫が寝ていた。
けれど、それだけではないと霄琳は気付いた。
穏やかで明るい市場の面も確かにあるのだが、どこか殺伐とした雰囲気もあるのだ。
人より高い位置から見渡す光景には、店の路地で何やら顔を寄せ合って話をしている若者や、言い争いをしている声、果ては往来だというのに殴り合いをしている姿までもがある。
今まで通ってきた集落はどこも小さくてのんびりとした土地ばかりだったため、霄琳は乱闘の中で暴れる男の一人と目が合いそうになって、あわてて前に視線を戻した。
「すごく賑わってるけど……なんか怖いね、ここ」
こそこそと離原に囁いている間にも、やはりどこか人目を避けて会話しているような集団が視界に入る。けれどどの集団も、目が合いそうになるとふっと視線をそらした。
「以前はこうじゃなかった」
ぽつりと呟いた離原の声は、体を密着させている霄琳にさえぎりぎり聞き取れるほどの小さなものだった。
「今以上に活気があり、人の往来ももっとあった。それこそ、身動きが取れないこともあったくらいだ。だが……妙な噂が出回っているせいで、街の様子がおかしい」
「噂?」
あちらこちらでかたまってひそひそと話している内容がそれなのだろうか。霄琳が視線をあげた先でも、壮年の男たちが数人身を寄せ合って、何かを話し込んでいた。
ため息を吐いて、離原は手綱を引いた。馬がゆったりと方向を変えて角を曲がる。
「眉唾ものだがな。未来を見る男がいるらしい。それを聞くために、成杜に寄った。まずはここで、生の噂とやらを聞いてみよう」
そう言って離原が荷車を停めたのは、中から大勢のざわめきと美味しそうな匂いが漂ってくる、見事な朱塗りの門を構えた酒楼の前だった。
◇
昼を迎えた広い酒楼は、人でごった返していた。
等間隔に置かれた卓子と椅子には一つとして空きがなく、その合間を店員が忙しそうに行き来する。奥の厨房からは嗅ぐだけで腹の虫が鳴くような香ばしい匂いと皿が重なるカチャカチャという音、ジャッジャッと何かが炒められている音が聞こえた。
「すまない、二人席は空いているか。隅の方に席がほしい」
「あいにくと今は席が……」
走り回る店員を離原がようやく捕まえるかたわら、霄琳はふらふらと数歩先に歩き出した。
(すごい、宮殿みたい)
喧騒もさることながら、店内はどこもかしこもきらびやかだ。高い天井からは赤い提灯がいくつもぶら下がっていて、そこから垂れる大きな組紐には金糸が編みこまれているのか、開け放たれた窓から風が入るたびにきらきらと輝きながら揺れているのが美しい。店員がせわしなく行き来する階段の手すりにさえ飾り彫りが施されているのを見て惚けていた霄琳だったが、不意に裾を引かれて振り返った。
「なあ、別嬪さん。どこから来たんだ? 飯なら奢ってやるから、ここに座りな」
声をかけてきたのは、見知らぬ男だった。片手に酒杯を持ち、同じ卓につく男たちとともに、わざとらしく上物だと騒いでいた。
「え、いや、俺は」
「俺? 男なのか、あんた。まあいいや、その顔なら薄い白酒でも五杯は飲める」
裾を掴んだまま、男たちは座れ座れと裾を引いてくる。あわてて後ろに一歩退いたところで、ぶわりと視界が一瞬黒く染まった。
「用なら俺が聞こう」
「おお……いやあ、席を譲るつもりだっただけだ。二人なら椅子がねえ、悪いな」
一瞬黒衣でも現れたかと思ったが、どうやら離原の外套の中に抱き込まれたようだった。低い声に酔漢たちは酔いが醒めたような白い顔をしてへらへらと笑い、「白酒追加で頼む」と店員に話を向けた。
男たちはあっさりと引き下がったが、離原はじろりと男たちを睨みつけている。いざこざを起こしたりはしないだろうが、不穏すぎる空気に耐えられなくなったのは霄琳の方だった。
「離れてごめん。もういいから行こう、お腹すいたよ。店員さん、席空いてますか?」
「はいはい、ちょうど空いたみたいです。こちらにどうぞ」
離原の外套に入ったまま、端を掴んでぐいぐいと引っ張る。そうすると外套を着ている離原自身も動かなければならず、奇妙な二人羽織りのまま、霄琳は店員のあとをついて男たちの卓子から離れた。
案内された席についても離原はまだどこか不機嫌なようで、霄琳を外套から出したものの、卓子を挟んで二脚あった椅子を引き寄せて隣に座った。
「向かいでいいのに……」
「どこから手を出されるか油断ならない」
確かに、二人が案内された卓子は壁際などではない。軽く見渡すと視線が合い、手を振ってくるような輩もいた。
(男かってさっきの人言ってたけど……俺、手と体だけじゃなくて、顔も変わってるんだ)
元の顔を思い出すことはできないが、少なくとも性別を間違われるようなことはなかった気がする。それさえ忘れているのかもしれないが、離原なら知っているかもしれない。
あとで元の顔だちを聞いてみようかと思っていると、離原は案内してくれた店員にいくつか注文をして下がらせた。
「適当に頼んだが……食べたいものがあれば追加で注文してくれ」
「なんでもいいよ、ありがとう」
先に運ばれてきた茶を飲みながら待っていると、やがて大きな盆を持った店員がやってきて、卓子の上に次々と皿を並べていった。
「こんなに頼んだの」
「あと二皿来る。それより、俺が先に手をつけたものを食べてくれ」
そう言うと、離原は湯気を立てる皿から少量ずつを小皿に取った。
つややかな餡にまみれた蒸し鶏や、ほかほかと湯気を立てる粥、焼き目が付いた焼餅が次々と離原の口に運ばれていく。それを見ているだけで腹がくうと切ない音を立て、早く食べたいと箸だけを握り締めていると、ふと隣の席の会話が流れ込んできた。
「……だから、本当なんだよ。まず興楚川に人が落ちただろ。それも人数を当てた。二つ目は嵐で、成杜の南で家の屋根が飛んで、北では雷が落ちて焼ける家が出るって話だ。それに、三つ目は本当に不思議なんだよ。最近、市長の子どもが生まれただろう」
「ああ、双子の男だろ」
「それだよ。上は娘が四人だ。五人目も女だろうって噂になってただろ。でも、あの占い師だけは男、それも双子だって言ったんだ」
「股間を確認してからか?」
「馬鹿言うな、生まれる前に決まってる。それに、この三つは成杜での予言だったが、他の地域のことも当ててるんだよ。すごくないか?」
「すごいとは思うが……」
語感荒く言う男の声はそこそこ大きく、酒でも飲んでいるのかと思ったが、卓子には料理と茶器しかない。酔っているわけではないのかと思っていると、茶杯を一気に呷った男は向かいに座った友人に更に詰め寄った。
「そして、この予言をした占い師……宗主様が仰ってるんだ。次の大災は近いと」
思わずぎゅっと箸を握りこんだ。気付けば離原も食べるのをやめ、茶杯を片手にしている。しかし聞き耳を立てているのは確かだった。
男たちは、すぐ傍で会話を盗み聞きされていることなど気付いていない。熱弁する男の向かいに座った男は、炒めた菜ものを箸でつつきながら、まさかと笑った。
「大災は八年前に起きたばっかりだろ。あと十年後に起こったってまだ早いぞ」
「でも、宗主様が仰ってるんだ。本当になるに決まってる」
熱気溢れる男の口調は揺るがない。半分に割られた饅頭に手を伸ばしながら、霄琳はそっと囁いた。
「大災って大災洞が開くことだよね。周期とかあるの?」
「決まってはいない。だが、ほとんどは一度起これば数十年は安泰のはずだ」
こそこそと話をしている間にも、男たちの話は進んでいく。聞き逃すまいとしながら、ふかふかの饅頭を口に運んだ。
「……それに、最近妖魔だってよく出る。八年前だって、大災の前は妖魔がよく出たじゃないか」
「それはそうだが……でもまあ、大災が起きるなら鈴祗様が現れるだろ」
「ぅ、ン……ッ」
思わず体が震えた。饅頭が喉に詰まったのだ。あわてて茶で流していると、話をしていた男たちと目が合った。
聞き耳を立てていたことがばれたかとひやりとしたが、男たちは胸を叩いてどうにか饅頭を飲み込んだ霄琳に軽く笑って、また前を向いた。
「だから、その鈴祗様のことをお前たちは勘違いしてるんだよ」
「勘違い?」
「確かに大災で妖魔が山ほど出る時は、鈴祗様が守ってくださったって俺たちは教えられてきた。八年前の大災でだって、そうだった。でもな、そもそもの考え方が違うんだよ」
けほけほと咳をしながら、霄琳は男たちの会話がどう進んでいくのか気になって仕方なかった。
離原から教えられているのは、鈴祗は大災洞が開いた時に溢れかえる妖魔から人々を守る存在ということだ。だが、熱弁する男はそれ自体が間違った認識だと言っている。ならば鈴祗とはなんだと思いながら、ひりつく喉でもう一度茶を呷った時だった。
「逆なんだよ。大災が起きるから鈴祗が現れるんじゃない。鈴祗が現れるから大災が起こるんだ」
喉を流れ落ちたお茶は熱いものだったが、霄琳の背はサッと水をかけられたように冷えた。
今聞こえた鈴祗についての言葉が頭の中で回る――鈴祗が現れるから大災が起こる。
「……っ」
思わず離原を見上げると、口をまっすぐに引き結んだ男は卓子を睨みつけていた。
卓子の上に置かれた手はかすかに震え、握りこまれたままの箸はミシミシと音を立てている。折れたら怪我をする、とあわててその手に触れようとした矢先だった。
さっきまで歓談していた男たちの方からガタンと椅子が倒れる音がした。見ると、話を聞いていた男の方が立ち上がっていた。
「さっきから聞いてりゃお前、変な話に踊らされやがって。覚えてねえのか、お前の妹だって俺の親父だって、八年前の大災で鈴祗様に救っていただいたんだぞ。それを言うに事欠いて、鈴祗様が原因だ? 今すぐ鈴祗廟に行ってその馬鹿な考えを反省してこい!」
「お前こそいつまでも鈴祗様鈴祗様って、騙されて馬鹿を見たいのか! 古い考えに操られるな、糺道は新しくも真実の道だ。宗主様のお話を聞けばわかる」
「いんちき流言野郎の与太話なんぞ聞いてなんになる」
「なんだとっ」
ただでさえ賑わっている酒楼だが、喧嘩となれば空気は変わる。男たちは喚き合っていたかと思うと、周囲も顧みずに乱闘を始めた。
すぐ近くで始まった衝突にあわてたのは霄琳だ。けれど巻き込まれることはなかった。立ち上がった離原が霄琳の手を掴むなり、そのまま店から出てしまったからだ。
「離原!?」
「……」
お代をと叫ぶ店員に金貨を押し付けた離原は、霄琳の手を引っ張ったままずんずんと進んでいく。周囲の人間も顔に傷の走る長躯の男が歩いて行くものだから、自然と道をあけてくれた。
しかし前を見ているようで見えていなかったのか、立ち話をしていた男にぶつかってしまった。
「そうなんだよ、だからお前も宗主様の教えを……いってえっ」
「……」
ぶつかった男が怒るのはもっともなのに、離原は謝ろうともしない。むしろその双眸が更に険しくなったものだから、霄琳はあわてて頭を下げた。
「ごっ、ごめんなさい、急いでて……本当にごめんなさい!」
今度は霄琳の方が離原を引っ張る番だった。男が何か言う前に走り出した霄琳は路地に駆けこんだ。けれど追いかけてきたのか、待てと言う声が響く。その声が聞こえなくなるまで何度も角を曲がって逃げるはめになった霄琳は、やがて路地の一角で壁にもたれて薄い胸を喘がせることになった。
「はあっ、はあっ……」
「……すまない」
霄琳としては全力で駆けたつもりだったが、離原はそれほど息も乱していない。静かな声が落ちてきて、見上げると悄然とした様子の男がいた。
離原の怒りの理由には、目星がついていた。
十中八九、酒楼で話していた男の言葉だろう。「鈴祗が現れるから大災が起こる」という発言が、彼の逆鱗に触れたのだ。
鈴祗は罪人ではなく、人々を守り尊ばれるべきものと言った離原にしてみれば、あの男の言い分は許しがたいものだろう。霄琳だって、鈴祗であると言われている以上、大災洞が開く原因とまで言われるのは嫌だ。
(夢の中の離原……立派な格好してた)
今でもよく見れば質の良いものを身に着けているが、夢で見た離原はもっと豪奢な格好をしていた。その姿を見て起きた霄琳は、混乱や羞恥と一緒に、なぜか懐かしさも感じていた。
(あれは本当に夢? それとも、俺が忘れている記憶?)
夢というには鮮やかで、脳裏から消えることがない。それどころかなくしていたものが手元に戻ったような感覚さえある。
だが、もし今朝見た夢が過去の記憶なら、本当に霄琳は離原と恋仲だったのか。
(だとしたら、離原と恋仲、で……鈴祗で、夏子静の生まれ変わりで……?)
昨夜聞いた話と、夢で見た風景。それらを合わせてみた霄琳は、さらに頭を抱えたくなった。
離原のこともよくわからないが、霄琳自身のことが一番わからない。
昨夜の話はまだ続くようだったし、そこにまた新たな真実があるのは確かだ。
(……俺、どれだけ忘れてるんだろう……)
自分の記憶を絵に描き出せたら、まだどれほどの空白があるのだろう。そして、そこにもともとあった記憶はどんな色をしているのか。それを知りたくもあるし、怖くもある。
思わず深いため息をついた霄琳は、ピィと聞こえた鳴き声にはっと我に返った。
すっかり干し肉を食べ終えたらしい鳥は、いつの間にか離原の傍に移動している。その足には新しい紙が括りつけられていた。
「行け」
離原が鳥を留まらせた腕を軽く上に振る。高く鳴いて、鳥は大きく羽ばたいていった。その姿は、すぐに小さな影になり、青空に吸い込まれて見えなくなった。
「あの子、なんて鳥?」
「隼だ。方々との連絡手段に使っている」
「じゃあ誰かから手紙が届いたの?」
(よし、ちゃんと話せてる)
妙に意識してしまうせいで話の糸口さえ見失っていたが、違和感なく切り出せた。上手くいったと内心で安堵しながら、霄琳は荷馬車の前の方、馬を操る離原の傍に近寄った。
「ああ。気になる情報をもらった。少し遠回りになるが、北東に進もう。成杜に寄る。今日はもう少し行ったら野宿にする」
「わかった」
頷いた数刻後、山の中腹で馬は止まった。日没が迫る中、離原の言う通り今日は小さな湖の傍での野宿となった。
離原は野宿する場所を決めると飛刃に飛び乗り、禁衛条の符を張り巡らせ始めた。それを見た霄琳も荷馬車から降りようとしたが、そのとたん、すごい勢いで上空から降りてきた離原に立ちふさがられた。
「なに?」
「捻挫がまだ治っていないだろう。俺が全部準備する。座っていてくれ」
「大丈夫だよ、もう痛くないし」
昨夜手当てをしてもらった足首は、だいぶ調子がいい。試しに荷馬車の中で立ってみても、ぐらつきもしなければ痛みもしなかった。
「ほら、全然平気」
「一応、確認させてくれ。赤みや熱をもっていたら安静が必要だ」
「……わかった」
霄琳としては痛みもないし、何よりようやく普通通りに離原に接することができるようになったのだ。触れられてまたどぎまぎしたが、心配を無碍にすることもできない。
荷台のへりに腰かけてしぶしぶ長靴と靴下を脱いでいると、すぐ傍の湖で手拭いを絞ってきた離原が手を差し出してきた。
「ついでに花鈿も見たい。手を」
「う……うん……」
手の甲が見えるように両手を揃えて、離原の手に置く。
それだけで今朝から昼過ぎまで脳内を占めていた懊悩が蘇ってきて、霄琳は逃げ出しそうになる自分をどうにか抑え込んだ。
幸い、花鈿に異常はなかった。変化がないとわかると、離原は今度は霄琳の足に手をかけた。
(足までしなくてもいいのに)
離原はいつも、花鈿を見る時には必ず霄琳の足まで洗い清めた。足裏や甲をじっと眺めることもあったので、まさかそこにも花鈿があるのかと思って自分でも見てみたが、白い足には傷もほくろもない。
おかげで彼の考えがまったくわからない霄琳の中で、離原は他人の手足を好む人間なのだという認識が生まれつつあった。
妙な気持ちにはなるし、恥ずかしさとくすぐったさもある。けれどなぜだか拒否できない。おかげで今日もしっかりと足先まで拭われてから、ようやく霄琳は解放された。
「終わりだ。準備は俺がするから、少し待っていてくれ」
「あー……うん、ありがとう……」
仕事は終えたとばかりに、体を起こした離原はさっさと野宿の準備を始めた。
野宿の準備を免除されたのをいいことに、霄琳は荷台のへりに座ったまま、水気がうっすらと残っている手足を夕暮れの風にさらした。
触れられていた箇所がほんのりと熱を帯びているようで、どうにもこそばゆくて仕方なかった。
やがて日も落ち、離原が準備してくれた夕餉を食べ終えた霄琳は、近くにあった樹木に背を預けていた。焚き火の向こうに、地図を広げている離原が見える。
(次行くのは……成杜ってとこだっけ……)
これから向かうという成杜という街に、霄琳は心当たりがない。どんな街かを聞いてみたかったが、朝が早かった霄琳はすっかり眠気に負けそうになっていた。
眠るなら荷馬車に戻った方がいいのはわかっているが、焚き火の傍なので暖かく、背もたれにしている樹も太くどっしりとしていて座り心地がいい。この心地よさを簡単に手放すことができず、少しだけ、と瞼を薄く閉じた。
「霄琳?」
低い声に、霄琳は浅く目覚めた。とは言っても瞼は開かないし、体もすっかり力が抜けている。
起きなきゃなあとのんびり思うが、意識は端からほろほろと溶けていってまとまらない。そのまままた眠りに落ちて行こうとした矢先、霄琳は自分の膝裏と背中に通された腕に気付いた。
離原だ、と思う間もなく横抱きにされる。不思議と恥ずかしさは感じない。むしろ慣れ親しんだ感覚がした。
前にもこうやって、抱き上げてもらったことがある。けれど、それがいつだったかは思い出せない。上掛けと男の腕に包まれて、霄琳はもどかしさを感じながらも深い夢の中に落ちて行った。
夢の中で、霄琳は豪奢な寝台に横たわっていた。寝台には天蓋があり、軒からは薄絹が幾重にも垂れている。外からは中が見えないようになっている。その中にいるのは、霄琳ともう一人、顔の横に手をついてこちらを見下ろしてくる男――離原だった。
いつもは黒地の袍に外套を羽織って目立たない風貌をしているが、今目の前にいる離原は黒地ではあるものの金の刺繍が施された袍をまとっている。広い寝台の端には、龍が描かれた華やかな羽織りが引っかけられていた。
「お疲れさま、離原」
頭は混乱しているのに、口から勝手に零れる声はどこか甘えを含んでいる。
もう一つの天蓋のように霄琳に覆いかぶさる離原の口からも、普段より幾分も穏やかな声が返った。
「湯を使ったようだな。いい香りがする」
「うん」
頷く霄琳の首に、離原が顔を埋める。いつもは髪冠で束ねられている黒髪が落ちてきて肌にあたり、そのくすぐったさに笑った。
(これって……)
肩に当てられる口の感覚にぞくぞくと肌が震える。思わず立てた右の膝で、すでに入り込んでいる男の腰を軽く挟んだとたん、霄琳は頭の中で悲鳴をあげた。
(なっ、……たっ、た……ってる!)
夢だとわかっている。それほど意識はあるのに体は言うことを聞いてくれず、むしろ押し付けられた昂ぶりを煽るように腰が揺れた。
この二人は――どう考えても自分自身と離原だが――何をしようとしているのか。
わかるが、わかりたくない。
それなのに、ことはどんどん進んでいく。
着ていた深衣が乱れ、中に来ていた内衣も暴かれていく。そのたびに現れる肌に唇が落ち、霄琳は意識の中で悶えた。
しかし体はその羞恥を裏切る。もうここで意識を失いたいのに、自分を剥いていく男の首に腕など回してより密着しようとする。それでも当然夢は覚めず、意識も失われてくれない。
ただ、失神せずにいるおかげで気付いたこともあった。
離原の首に回された手の甲に、花鈿を見つけたのだ。だがその手は今の霄琳のほっそりとした白魚のような手よりも少し日に焼けた色をしていて、腕にはいくつかの傷痕もあった。
(見覚えがある。これ……)
今の自分の手を見るたびに、拭いきれない違和感があった。けれど、夢の中の霄琳の手には慣れ親しんだ感覚がある。
動かしているのは自分の意識ではないのに、霄琳はこの手こそ自分のものだと思った。
今の自分とどう違うのか、もっとちゃんと見ようと思った霄琳だが、それは叶わなかった。
ついに帯まで抜き取られ、ころりと寝台の上でうつぶせに転がされたからだ。
何が起きたのか疑問に思う間もなく、下腹のあたりに枕をいれられて腰が浮く。突き出した形になった尻を大きな手が緩く揉み、そこで霄琳は気付いた。
(穿いてない!)
下袴を穿いているものと思っていたが、肌にあたるのは寝台の敷布と枕だけだ。ならば自分は剥き出しの尻を向けているのかとあわてた矢先、尻にとぷりとぬるいものが滴った。
水より粘度の高いそれは、尻の谷間を伝って足の間に垂れていく。
呆然とする意識とは別に、体はくすぐったがって足を擦り合わせる。その合間に手のひらが差し込まれた。
ぬちゅ、と濡れた音と、自分の口から洩れる小さな笑い声。背中にくちづけが落ちてきて、それに震えた瞬間、霄琳の意識はぱっと弾けた。
五
目覚めたとたん、手のひら一枚分ほどの近さで眠っていた離原に驚いた霄琳が声をあげるまで、一拍ほどの間しかなかった。
「わっ……わー!!」
やたら通りのいい絶叫に、深く閉じていた瞼をぱっと開いた離原は、霄琳を片腕で抱えたまま跳ね起きた。そして一瞬で抜剣すると飛刃に飛び乗り、中空に飛び上がった。
「ぅわっ、わっ、わああっ」
瞬時に景色が変わり、ぬくぬくと温まっていた体が強風にさらされる。驚きは恐怖に変わり、じたばたともがいて離原から離れようとしていた手は必死になって広い背に縋りついた。
「急襲か!? 黒衣はどこだ」
「穿いてる!? 俺、穿いて……あっ、ごめ、ちがっ、離原ごめん、違う!」
しがみついた離原の胸からはドッドッと激しい鼓動が響き、背に回された腕は痛いほどに霄琳をきつく抱きかかえている。彼の焦りと緊迫感に申し訳なさが膨らんで、霄琳は声をあげた。
「ごめん、本当にごめんなさい。夢見てびっくりしちゃって……」
「本当か? 誰にも襲われていないか?」
離原の警戒心は頂点に達している。
見れば、いつの間に取り出したのか、普段は腰に下げているだけの小剣まで抜いている。柄を握る手には符まで握られていた。
「本当にびっくりしただけ。大丈夫だから降りよう」
「……ああ」
霄琳の鼓動もまだ早いが、これは夢の内容に加えて、一気に上空に上がったせいでもある。このままでは、また失神してしまいかねない。
離原にしがみつきながら降下を頼む。まだどこか張りつめた雰囲気をまとう男は、朝焼けの空をぐるりと一瞥してから、ようやくゆっくりと飛刃を降ろした。
「横になれ。顔色が悪い、体も冷えただろう」
安眠を阻害されたことに怒っていいはずなのに、離原は地面に下りるなりへたりこんでしまった霄琳を抱えると、荷車の奥に横たえて上掛けで包んだ。
「ごめん、離原。本当にごめん。その……なんかすごい夢見て、びっくりしちゃって……」
「気にするな、どうせもう陽も出てきた。少し早いが、出発しよう。朝餉は麓で取る。お前はそのまま寝ていてくれ。夢見が悪かったなら、寝た心地がしないだろう」
すっかり目が覚めた様子の離原は溌剌としている。霄琳も起きて手伝わなければと思ったが、伸びてきた手に頭をひと撫でされると、甘えてしまおうという気持ちになった。
「うん。……ごめん、ちょっと寝るね」
移動するなら、霄琳ができることはない。むしろ昼間に眠気に襲われないように、今は休んだ方がいい気がした。
しかし、結局霄琳は麓の村につくまで眠れなかった。夢を思い出したからだ。
(あんなこと……本当に? これが記憶だったら……俺、離原とあ、あ……あんなことしてたってこと?)
思い出すだけで顔が熱くなる。つられて体の奥までじわっと熱を帯びるものだから、頭の中から淫らな映像を消そうと悶えているうちに、荷馬車は山の麓の小さな村に到着した。
「ここまで来れば、成杜には昼過ぎには着く」
酒楼で朝餉の粥を食べながら、離原は地図を卓子に置いた。畳まれて幾分か小さくなっている地図の一端が現在地らしく、そこから緩やかに蛇行する道を辿った先に成杜はあった。
「どんな街?」
「水路と陸路が交わる貿易都市だ。華やかさは周苑が一番だと言われるが、喧騒は成杜の大通りの方が勝る。あそこはいつでも商人たちの喧嘩と交渉で騒がしい」
「そうなんだ。見るとこもいっぱいありそう」
今まで霄琳と離原が辿ってきた村や町は小さなものばかりだ。それなりに店は軒を連ねているが、のんびりとした雰囲気で、喧騒などとは程遠い。
にわかに楽しみになって、霄琳は急いで腹を粥で満たした。
食後の休憩もそこそこに出発すると、二刻もする頃には左右に広がった巨大な城壁が霄琳の視界に入った。
城壁には四ヶ所の関所が設けられていた。うち二ヶ所からは成杜から出て行く人々が見え、その隣の二ヶ所には成杜に入るための列ができている。離原の操る荷馬車は成杜入りをするための列の後方に並んだ。
「離原、あれ全部成杜に入る人たち?」
まだ城門をくぐってもいないが、周囲は隊商や旅人たちの声が飛び交っている。活気に満ちた様子に、わくわくと胸が躍った。
窓の格子越しではなく、もっとちゃんと見たい。四つん這いで馬の方へ移動しようとした霄琳だったが、それは叶わなかった。
「そうだ。荒っぽいのもいるから、できるだけ目立たないようにしてくれ」
「えー……」
奥に行けと押し戻されてふくれっ面になったが、関所が近づくにつれて、霄琳の体は緊張に強張り始めた。
関所では厳しい検査が行われているようで、中には番兵たちと押し問答の末に引きずられていくような者までいる。自身の身分を証明するものなど持ち合わせていないし、離原の身分もよくわからない。捕まったらどうしようと不安が募り、荷物のふりをしようとした霄琳が布団と荷物の間に挟まったところで荷馬車が動いた。
「止まれ。通行証の提示を。それから荷物の確認を……」
番兵たちにとっては毎日の仕事の一環だ。一人が慣れた様子で確認事項を述べ、数人が荷馬車を取り囲んだ。
霄琳は緊張で口の中がからからに渇いて仕方なかったが、離原は落ち着いた様子で銀色の薄く細長い板を懐から出すと、それを番兵に差し出した。
「確認す…………失礼いたしました。ご提示、ありがとうございました。おい、検分はいい、お通しするぞ」
離原が差し出した通行証を確認するなり、番兵は態度を急変させた。荷馬車の後ろに回って荷車を確認しようとしていた番兵にも声がかかり、霄琳はほっと息を吐いた。
関門の前に立ちふさがっていた数名も道を開けてくれる。そうして大きな石造りの門をくぐると、幅にして三丈ほどもある大通りが広がっていた。
道の左右には店が立ち並んでいて、その店先では商人同士が交渉をしていたり、並ぶ商品を客があれこれと見比べている。華やかに飾り付けられた露店ではカラカラと涼やかな音を立てて風車が回り、藁を束ねた柱にいくつも刺された山査子飴は、陽光を弾いてきらきらと輝いていた。
「離原、俺、歩きたい」
華やかな街だ。自分でも散策したいと身を乗り出すとおもむろに荷馬車が止まり、離原が荷車に乗り込んできた。
「花鈿が見えないように、斗蓬で隠しておいてくれ」
いつの間に買ったのか、離原は荷物の中から薄手の斗蓬を取り出すと霄琳に着せた。外套のように袖があるわけではないが、頭を覆う頭巾がついている。そして裾が広く丈も長く、霄琳が着ると指先どころか膝まですっぽり隠れた。
「ちゃんと隠してたら、歩いていいってこと?」
「それはだめだ。馬で我慢してくれ」
「わ、わかった……」
馬は一頭しかなく、一緒に乗れば体が密着する。頬が一瞬にして熱くなったのは、またもや夢を思い出したからだ。けれど離原がさっさと荷車を下りたので、あわててその背中を追った霄琳は馬上に押し上げてもらった。
「すごい、人がいっぱいいる」
馬上から見る大通りは、遠く向こうまでまっすぐに伸びている。道行く人々は多く、その中を山ほどの荷を乗せた荷車が何台も霄琳たちを追い越して行った。
「そういえば、さっき見せてたのって通行証?」
「そうだ。成杜は交通と貿易の要所。街に入って来るものがいいものばかりとは限らないからな。これがなければ、入ることはできない。俺のものは、国内の関所ならすべて通ることができる」
そう言って渡されたのは、さっき番兵に見せていた銀板だった。表には永玉国通行証とあり、ひっくり返してみると、地名らしき単語がずらりと刻まれていた。
「すごい、こんなにたくさん通れるんだ。全部行ったことある?」
「すべて訪れたことがある。それより霄琳、前を向いてくれ。俺が後ろに乗る」
「あ、ごめん。通行証、ありがとう」
あわてて通行証を返して前を向くと、通行証を懐に戻した離原が騎乗した。そうすると霄琳は手綱を操る離原の腕の中に入る形になったが、馬上ではどうしようもない。背中にあたる硬い体を感じながら、つとめて平静に周囲を見渡した。
ゆっくりと歩き出した馬の背に揺られながら、一見して活気を見せている通りの光景を楽しむ。そこかしこから人々の声があがり、子どもたちはけらけらと笑いながら楽しげに走り回っている。露店の軒先では日陰に入った猫が寝ていた。
けれど、それだけではないと霄琳は気付いた。
穏やかで明るい市場の面も確かにあるのだが、どこか殺伐とした雰囲気もあるのだ。
人より高い位置から見渡す光景には、店の路地で何やら顔を寄せ合って話をしている若者や、言い争いをしている声、果ては往来だというのに殴り合いをしている姿までもがある。
今まで通ってきた集落はどこも小さくてのんびりとした土地ばかりだったため、霄琳は乱闘の中で暴れる男の一人と目が合いそうになって、あわてて前に視線を戻した。
「すごく賑わってるけど……なんか怖いね、ここ」
こそこそと離原に囁いている間にも、やはりどこか人目を避けて会話しているような集団が視界に入る。けれどどの集団も、目が合いそうになるとふっと視線をそらした。
「以前はこうじゃなかった」
ぽつりと呟いた離原の声は、体を密着させている霄琳にさえぎりぎり聞き取れるほどの小さなものだった。
「今以上に活気があり、人の往来ももっとあった。それこそ、身動きが取れないこともあったくらいだ。だが……妙な噂が出回っているせいで、街の様子がおかしい」
「噂?」
あちらこちらでかたまってひそひそと話している内容がそれなのだろうか。霄琳が視線をあげた先でも、壮年の男たちが数人身を寄せ合って、何かを話し込んでいた。
ため息を吐いて、離原は手綱を引いた。馬がゆったりと方向を変えて角を曲がる。
「眉唾ものだがな。未来を見る男がいるらしい。それを聞くために、成杜に寄った。まずはここで、生の噂とやらを聞いてみよう」
そう言って離原が荷車を停めたのは、中から大勢のざわめきと美味しそうな匂いが漂ってくる、見事な朱塗りの門を構えた酒楼の前だった。
◇
昼を迎えた広い酒楼は、人でごった返していた。
等間隔に置かれた卓子と椅子には一つとして空きがなく、その合間を店員が忙しそうに行き来する。奥の厨房からは嗅ぐだけで腹の虫が鳴くような香ばしい匂いと皿が重なるカチャカチャという音、ジャッジャッと何かが炒められている音が聞こえた。
「すまない、二人席は空いているか。隅の方に席がほしい」
「あいにくと今は席が……」
走り回る店員を離原がようやく捕まえるかたわら、霄琳はふらふらと数歩先に歩き出した。
(すごい、宮殿みたい)
喧騒もさることながら、店内はどこもかしこもきらびやかだ。高い天井からは赤い提灯がいくつもぶら下がっていて、そこから垂れる大きな組紐には金糸が編みこまれているのか、開け放たれた窓から風が入るたびにきらきらと輝きながら揺れているのが美しい。店員がせわしなく行き来する階段の手すりにさえ飾り彫りが施されているのを見て惚けていた霄琳だったが、不意に裾を引かれて振り返った。
「なあ、別嬪さん。どこから来たんだ? 飯なら奢ってやるから、ここに座りな」
声をかけてきたのは、見知らぬ男だった。片手に酒杯を持ち、同じ卓につく男たちとともに、わざとらしく上物だと騒いでいた。
「え、いや、俺は」
「俺? 男なのか、あんた。まあいいや、その顔なら薄い白酒でも五杯は飲める」
裾を掴んだまま、男たちは座れ座れと裾を引いてくる。あわてて後ろに一歩退いたところで、ぶわりと視界が一瞬黒く染まった。
「用なら俺が聞こう」
「おお……いやあ、席を譲るつもりだっただけだ。二人なら椅子がねえ、悪いな」
一瞬黒衣でも現れたかと思ったが、どうやら離原の外套の中に抱き込まれたようだった。低い声に酔漢たちは酔いが醒めたような白い顔をしてへらへらと笑い、「白酒追加で頼む」と店員に話を向けた。
男たちはあっさりと引き下がったが、離原はじろりと男たちを睨みつけている。いざこざを起こしたりはしないだろうが、不穏すぎる空気に耐えられなくなったのは霄琳の方だった。
「離れてごめん。もういいから行こう、お腹すいたよ。店員さん、席空いてますか?」
「はいはい、ちょうど空いたみたいです。こちらにどうぞ」
離原の外套に入ったまま、端を掴んでぐいぐいと引っ張る。そうすると外套を着ている離原自身も動かなければならず、奇妙な二人羽織りのまま、霄琳は店員のあとをついて男たちの卓子から離れた。
案内された席についても離原はまだどこか不機嫌なようで、霄琳を外套から出したものの、卓子を挟んで二脚あった椅子を引き寄せて隣に座った。
「向かいでいいのに……」
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「適当に頼んだが……食べたいものがあれば追加で注文してくれ」
「なんでもいいよ、ありがとう」
先に運ばれてきた茶を飲みながら待っていると、やがて大きな盆を持った店員がやってきて、卓子の上に次々と皿を並べていった。
「こんなに頼んだの」
「あと二皿来る。それより、俺が先に手をつけたものを食べてくれ」
そう言うと、離原は湯気を立てる皿から少量ずつを小皿に取った。
つややかな餡にまみれた蒸し鶏や、ほかほかと湯気を立てる粥、焼き目が付いた焼餅が次々と離原の口に運ばれていく。それを見ているだけで腹がくうと切ない音を立て、早く食べたいと箸だけを握り締めていると、ふと隣の席の会話が流れ込んできた。
「……だから、本当なんだよ。まず興楚川に人が落ちただろ。それも人数を当てた。二つ目は嵐で、成杜の南で家の屋根が飛んで、北では雷が落ちて焼ける家が出るって話だ。それに、三つ目は本当に不思議なんだよ。最近、市長の子どもが生まれただろう」
「ああ、双子の男だろ」
「それだよ。上は娘が四人だ。五人目も女だろうって噂になってただろ。でも、あの占い師だけは男、それも双子だって言ったんだ」
「股間を確認してからか?」
「馬鹿言うな、生まれる前に決まってる。それに、この三つは成杜での予言だったが、他の地域のことも当ててるんだよ。すごくないか?」
「すごいとは思うが……」
語感荒く言う男の声はそこそこ大きく、酒でも飲んでいるのかと思ったが、卓子には料理と茶器しかない。酔っているわけではないのかと思っていると、茶杯を一気に呷った男は向かいに座った友人に更に詰め寄った。
「そして、この予言をした占い師……宗主様が仰ってるんだ。次の大災は近いと」
思わずぎゅっと箸を握りこんだ。気付けば離原も食べるのをやめ、茶杯を片手にしている。しかし聞き耳を立てているのは確かだった。
男たちは、すぐ傍で会話を盗み聞きされていることなど気付いていない。熱弁する男の向かいに座った男は、炒めた菜ものを箸でつつきながら、まさかと笑った。
「大災は八年前に起きたばっかりだろ。あと十年後に起こったってまだ早いぞ」
「でも、宗主様が仰ってるんだ。本当になるに決まってる」
熱気溢れる男の口調は揺るがない。半分に割られた饅頭に手を伸ばしながら、霄琳はそっと囁いた。
「大災って大災洞が開くことだよね。周期とかあるの?」
「決まってはいない。だが、ほとんどは一度起これば数十年は安泰のはずだ」
こそこそと話をしている間にも、男たちの話は進んでいく。聞き逃すまいとしながら、ふかふかの饅頭を口に運んだ。
「……それに、最近妖魔だってよく出る。八年前だって、大災の前は妖魔がよく出たじゃないか」
「それはそうだが……でもまあ、大災が起きるなら鈴祗様が現れるだろ」
「ぅ、ン……ッ」
思わず体が震えた。饅頭が喉に詰まったのだ。あわてて茶で流していると、話をしていた男たちと目が合った。
聞き耳を立てていたことがばれたかとひやりとしたが、男たちは胸を叩いてどうにか饅頭を飲み込んだ霄琳に軽く笑って、また前を向いた。
「だから、その鈴祗様のことをお前たちは勘違いしてるんだよ」
「勘違い?」
「確かに大災で妖魔が山ほど出る時は、鈴祗様が守ってくださったって俺たちは教えられてきた。八年前の大災でだって、そうだった。でもな、そもそもの考え方が違うんだよ」
けほけほと咳をしながら、霄琳は男たちの会話がどう進んでいくのか気になって仕方なかった。
離原から教えられているのは、鈴祗は大災洞が開いた時に溢れかえる妖魔から人々を守る存在ということだ。だが、熱弁する男はそれ自体が間違った認識だと言っている。ならば鈴祗とはなんだと思いながら、ひりつく喉でもう一度茶を呷った時だった。
「逆なんだよ。大災が起きるから鈴祗が現れるんじゃない。鈴祗が現れるから大災が起こるんだ」
喉を流れ落ちたお茶は熱いものだったが、霄琳の背はサッと水をかけられたように冷えた。
今聞こえた鈴祗についての言葉が頭の中で回る――鈴祗が現れるから大災が起こる。
「……っ」
思わず離原を見上げると、口をまっすぐに引き結んだ男は卓子を睨みつけていた。
卓子の上に置かれた手はかすかに震え、握りこまれたままの箸はミシミシと音を立てている。折れたら怪我をする、とあわててその手に触れようとした矢先だった。
さっきまで歓談していた男たちの方からガタンと椅子が倒れる音がした。見ると、話を聞いていた男の方が立ち上がっていた。
「さっきから聞いてりゃお前、変な話に踊らされやがって。覚えてねえのか、お前の妹だって俺の親父だって、八年前の大災で鈴祗様に救っていただいたんだぞ。それを言うに事欠いて、鈴祗様が原因だ? 今すぐ鈴祗廟に行ってその馬鹿な考えを反省してこい!」
「お前こそいつまでも鈴祗様鈴祗様って、騙されて馬鹿を見たいのか! 古い考えに操られるな、糺道は新しくも真実の道だ。宗主様のお話を聞けばわかる」
「いんちき流言野郎の与太話なんぞ聞いてなんになる」
「なんだとっ」
ただでさえ賑わっている酒楼だが、喧嘩となれば空気は変わる。男たちは喚き合っていたかと思うと、周囲も顧みずに乱闘を始めた。
すぐ近くで始まった衝突にあわてたのは霄琳だ。けれど巻き込まれることはなかった。立ち上がった離原が霄琳の手を掴むなり、そのまま店から出てしまったからだ。
「離原!?」
「……」
お代をと叫ぶ店員に金貨を押し付けた離原は、霄琳の手を引っ張ったままずんずんと進んでいく。周囲の人間も顔に傷の走る長躯の男が歩いて行くものだから、自然と道をあけてくれた。
しかし前を見ているようで見えていなかったのか、立ち話をしていた男にぶつかってしまった。
「そうなんだよ、だからお前も宗主様の教えを……いってえっ」
「……」
ぶつかった男が怒るのはもっともなのに、離原は謝ろうともしない。むしろその双眸が更に険しくなったものだから、霄琳はあわてて頭を下げた。
「ごっ、ごめんなさい、急いでて……本当にごめんなさい!」
今度は霄琳の方が離原を引っ張る番だった。男が何か言う前に走り出した霄琳は路地に駆けこんだ。けれど追いかけてきたのか、待てと言う声が響く。その声が聞こえなくなるまで何度も角を曲がって逃げるはめになった霄琳は、やがて路地の一角で壁にもたれて薄い胸を喘がせることになった。
「はあっ、はあっ……」
「……すまない」
霄琳としては全力で駆けたつもりだったが、離原はそれほど息も乱していない。静かな声が落ちてきて、見上げると悄然とした様子の男がいた。
離原の怒りの理由には、目星がついていた。
十中八九、酒楼で話していた男の言葉だろう。「鈴祗が現れるから大災が起こる」という発言が、彼の逆鱗に触れたのだ。
鈴祗は罪人ではなく、人々を守り尊ばれるべきものと言った離原にしてみれば、あの男の言い分は許しがたいものだろう。霄琳だって、鈴祗であると言われている以上、大災洞が開く原因とまで言われるのは嫌だ。
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琥珀の瞳に嗜虐を宿した彼は言う――
「この才を捨てるは惜しい。ゆえに、我が手で飼い馴らそう」
知略と支配欲を秘めた騎士と、没落した宰相家の天才青年。
耽美と背徳の物語が、冷たい鎖と熱い口づけの中で幕を開ける。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
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戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
悪役令息(Ω)に転生した俺、破滅回避のためΩ隠してαを装ってたら、冷徹α第一王子に婚約者にされて溺愛されてます!?
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前世の記憶を持つ俺、リオネルは、BL小説の悪役令息に転生していた。
断罪される運命を回避するため、本来希少なΩである性を隠し、出来損ないのαとして目立たず生きてきた。
しかし、突然、原作のヒーローである冷徹な第一王子アシュレイの婚約者にされてしまう。
これは破滅フラグに違いないと絶望する俺だが、アシュレイの態度は原作とどこか違っていて……?
【本編完結】処刑台の元婚約者は無実でした~聖女に騙された元王太子が幸せになるまで~
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【本編完結・後日譚更新中】
公開処刑のその日、王太子メルドは元婚約者で“稀代の悪女”とされたレイチェルの最期を見届けようとしていた。
しかし「最後のお別れの挨拶」で現婚約者候補の“聖女”アリアの裏の顔を、偶然にも暴いてしまい……!?
王位継承権、婚約、信頼、すべてを失った王子のもとに残ったのは、幼馴染であり護衛騎士のケイ。
これは、聖女に騙され全てを失った王子と、その護衛騎士のちょっとズレた恋の物語。
※別で投稿している作品、
『物語によくいる「ざまぁされる王子」に転生したら』の全年齢版です。
設定と後半の展開が少し変わっています。
※後日譚を追加しました。
後日譚① レイチェル視点→メルド視点
後日譚② 王弟→王→ケイ視点
後日譚③ メルド視点
冤罪で堕とされた最強騎士、狂信的な男たちに包囲される
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王国最強の聖騎士団長から一転、冤罪で生存率0%の懲罰部隊へと叩き落とされたレオン。
泥にまみれてもなお気高く、圧倒的な強さを振るう彼に、狂った執着を抱く男たちが集結する。