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1巻
1-2
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――ミシュアル・アブズマール。貴殿を紅玉の宮、ラナ・サーディク姫の従者および衛兵に任命する。所属は近衛軍となる。拝命後は速やかに軍職に就かれたし。なお、辞退する場合は推薦者および国王イズディハール・カリム・ナハルベルカへ直接辞退の申し出を行うように。
下命についての文はそれほど長くはなかった。けれど白い紙面の下にはイズディハールのサインが記されている。ナハルベルカ王家の家章である鷹と獅子と三つの星が描かれた印章もくっきりと押されていた。
「私がいるのはベータの後宮、紅玉の宮でしょ。アルファとベータの衛兵はいるけど、あなたはつがいのいる体だから、相手はわからなくても、影響がないアルファの方が圧倒的に多い。それに、私の護衛兼従者よ。アブズマール家の三男を従者にするなんてファルーク叔父様には怒られてしまうかもしれないけど……でも、色々手伝ってほしいの。話し相手にもなってほしいし」
「陛下には、ラナが頼んだのか」
後宮には十数名の妃候補がいるが、ラナはイズディハールが自ら指名して召し上げた姫だ。幼い頃からの知り合い同士でもある二人は、噂に聞くところでも仲が良く、ベータでありながら正妃にあがるのは彼女ではないかという話も巷では囁かれているほどだ。そんな彼女がお願いをして、いつまで経っても家に引きこもるばかりの従弟を軍属に据えてくれたのだろうか。
そう考えると情けないやら恥ずかしいやらで、書状を持った手が震えてくる。けれど、ラナは慌てて細い首を振った。
「違うの、誤解しないで。私が言い出したことじゃないわ。弟が塞ぎこんでるって、ジュード兄様が言ったらしいの」
「兄上……なんでそんなことを……」
長兄のジュードは軍職に就き、今では王が直接の指揮権を持つ近衛軍の師団長も務めている。何かの席で一緒になった時にでもぽろりと零したのだろうとは思ったが、それでもため息は出てしまった。
「それに、前のレイスの一歳のお祝いでもあなた、すぐに引っ込んだらしいじゃない。陛下がおっしゃってたわ、もっと話がしたかったって」
「……」
脳裏をよぎるのは、あの日もらった手紙だ。ラナを疑ってしまったが、イズディハールがミシュアルを気にかけてくれるのは、実際のところ初めてではないのだ。
「私はいい機会だと思う。あなたが夢見たような、戦いに出るための軍人ではないかもしれないけど……それでも衛兵だって立派な軍人よ」
「それはそうだけど……でも、俺はオメガで」
「ああー! 聞かない聞かない。私は聞いてませんからね。辞退する場合は、陛下に直接言ってちょうだい。それが出来ないんなら、明後日にでもあなたには出向してもらうから」
「明後日⁉」
「ええ、明後日よ。どうしても嫌だって言うんなら、明日にでも陛下に直接辞退の申し出をしに行くことね。手紙なんかじゃ失礼よ、ちゃんとお会いして断るの。はい、話はおしまい。それじゃあね、ミシュアル。また明後日」
嵐のようにやってきた従姉は、そうしてさっさと帰ってしまった。
断る理由はある。けれど、それはすべて自分がオメガだからという、生きている限り変わりはしない事実に基づくものだ。ミシュアルはこれまで、それを理由にすべてを諦めてきた。
――確かにあなたはオメガだけど、それを変えることはできないでしょう。生きていく道を、ちゃんと見つけなきゃ。
ラナの言葉が耳に甦る。
家族や使用人以外がいない、ミシュアルが恐れることなく自由でいられる四阿の中に座り込んだまま、そっと首を護るベルトに手をやった。
ミシュアルは、つがいがいる体だ。本来ならば、ベルトで護る必要はない。それでもつけているのは、姿もわからないつがいが見つかった時、噛み跡のない自分のうなじを見たつがいが独占の証である噛み跡がないことに激昂して噛みついてくるかもしれないと母に言われ、恐ろしくなったためだ。
眠る時も外さないベルトをゆっくりと外すと、涼やかな風がむき出しになった肌を撫でる。少し蒸れたうなじに指を這わせると、そこはすべすべとしていて、指先にかかるものといえば指を押し当ててようやく気付くほどのごくごく僅かな傷痕だ。それは長年つけてきた首輪が擦れたものか、もしくは両親にこの身の潔白を示す時にうっかりつけてしまった傷の痕で、一番身近なオメガである母ラテアスの細いうなじにくっきりと残った明確な噛み跡とは比べ物にならないほど小さなものだ。
それでもミシュアルにはつがいがいる。けれども確かにラナの言う通り、どうしたってミシュアルがオメガであることは変わらないのだ。
(……いつまでも、こんな風にはいられない)
それは心配してくれる両親や兄弟のためでもあり、外界を恐れて引きこもり続ける自分のためでもある。
そうしてラナの来訪から二日後、本来後宮にいるはずのないオメガのミシュアルは、ベータの妃候補が集められた後宮、紅玉の宮のラナの衛兵兼侍従となった。難色を示すだろうかと危ぶんでいた父ファルークも、陛下が気にかけてくださったなら是非にと喜んでくれた。
十三歳で自分がオメガであると知ってから、実に八年が経っていた。
2
昼日中の突き刺すような日差しはまだ訪れず、夜の雰囲気と冷たさをまとった空気がそこかしこにある時間帯に、ミシュアルは目覚めた。
見あげる天井は実家の自室のものだ。発情期中ならばこの景色は離れの一室の天井になるが、まだその時期ではない。
眠気はあるもののいつまでもだらだらと眠っているわけにもいかないし、朝の鍛錬は日課だ。今日は槍にしようと、壁にかけてある数本の中から手になじんだものを取った。
剣から始まり、槍に弓、体術に馬術。すべて修めてきた。ナハルベルカは軍事国家ではないし、争いごともそれほど多くはない。それでもいつか役に立つのではと続けてきた。
しっかりと柔軟をして部屋の中庭におりる。相手はいなくとも、槍をふるい、脚を強く踏み出して突く。ダン、とひときわ強く地面を蹴ると、すぐ近くの樹にとまっていた小鳥たちが慌てたように羽ばたいていった。
そうしているうちに日時計がうっすらと影をなし、時間が読める頃合いになると邸はようやく動きだす。
ミシュアルが朝に鍛錬を行うのは毎日のことなので、浴場へ行くとぬるめの湯が張られている。一度汗を流し、両親に挨拶をしてから朝食をとれば、宮殿へ向かう頃合いだ。
「朝は私だってゆっくりしたい。ミシュアルは日時計の……そうね、十時頃。そのくらいに来て。それまでに来ても、私はお化粧も終わってないし、絶対に入れないから」
門前で日向ぼっこがしたいなら早く来てもいいけど、とまで言われたが、ラナのことだ。それより二時間ほど前に宮殿へやってくる他の軍人たちとまともに時間が被ることを避けてくれたのだろう。
幼なじみの恩情に感謝しながら馬車で宮殿の出入り口である門まで行き、そこからは歩いて宮殿内を移動することになる。いつもは早足でさっさと紅玉の宮へ向かうのだが、今日のミシュアルは回廊の途中で足を止めた。
ナハルベルカ王宮はとにかく広く、政務が行われる本殿を筆頭に、様々な宮がそこかしこに群を成して建っている。後宮は王宮の中でも特に奥の、国王が寝起きするための宮の近くにあるが、王自身は本殿にいることが多く、外へ出ていても敷地の広さゆえに会うことはほとんどない。実際、衛兵としてラナに仕えるようになって二週間が過ぎる今日まで、イズディハールを見ることはなかった。
しかし今日は、真ん中に噴水を有する広い中庭と植え込みを挟んだ向こう、歩いて行く長身を見つけたミシュアルは思わず立ち止まった。
これからどこかへ赴くのか、強い陽光から頭を護るための頭蓋布と真っ白なトーブをはためかせ、国の要人を率いて歩くのはイズディハール・カリム・ナハルベルカ国王その人だ。腰を締める革ベルトの上を飾る金細工や、腰から下げた懐剣の飾りが動きに翻弄されてキラキラと輝いていたが、頭蓋布の隙間から見える金茶の髪の輝きの方が、ミシュアルには眩い。
国王であり、アルファであり、ミシュアルを気にかけてくれた人。彼がいなければ、自分は今でも家にこもっていた。
遠ざかる一団に、見えていないことはわかっていても深々と礼をしたミシュアルは、今度こそ紅玉の宮へ向かった。
「おはようございます、ラナ様」
「おはよう、ミシュアル。今日もよろしくね」
「はい」
今日はいつもとは違う光景を見られたが、仕事自体が変わることはない。与えられた職務をきちんとこなそうと気を引き締めてラナに挨拶をしたミシュアルは、衛兵として部屋の前に陣取った。
イズディハールの推薦により近衛軍の所属になったミシュアルだったが、実際はラナ専属の護衛兼従者だ。厳重な警護の敷かれた王宮のさらに奥、不審者も簡単には入ってこられない場所での護衛は暇だろうと思っていたが、来訪者の出入りのチェックや身体検査、周囲の見回りと、するべきことはたくさんある。くわえてミシュアルはラナの従者でもあるので、掛け持ちは思った以上に忙しない。そのうえ、ラナは気安く話せる相手が増えたとばかりにしょっちゅう部屋の中に呼んでは、休憩に付き合ってほしいとねだった。
「……それでね、ヘンリエッタ先生が……あっ、やだ、すっかり忘れてた。ねえミシュアル、あとででいいから、西の尖塔へ行ってインクをもらってきてくれない? 今日、授業があるのを忘れてたわ。授業中にきれちゃうかも。あ、あと、紙も二巻き」
「わかりました」
ねだられて一緒に飲んでいた紅茶も空になったところだ。早速行ってこようと、ミシュアルはラナのサインが入った物品の請求書を手に、すぐに紅玉の宮を出た。
意外にも、ラナは紅玉の宮にミシュアルを閉じ込めておくようなことはしなかった。何かしら用事があれば、特に気負う様子もなく宮の外に行くように言いつける。ミシュアルもはじめは戸惑ったが、何度か言いつけられてあちらこちらを歩き回るうちに広い宮殿の中でもひと気の少ない場所を覚え、目的地へ行くまでのルートを多少遠回りでも使えるようになった。
「はい、インクを一瓶と紙を二巻きですね」
「ありがとうございます」
雑品の倉庫がある西の尖塔へ行き、在庫の管理をしている文官に書状を渡し、引き換えにインクと紙を二巻きもらう。
たったこれだけのことでも、最初は見知らぬ人間との会話をしなければならないことにおどおどしていたが、今ではすっかり慣れた。渡されたインク瓶と巻紙を抱え、人が多く行きかう最短ルートではなく、ひと気がまばらな少し遠回りのルートを通るべく大回廊を外れたミシュアルは、しばらく歩いているうちに唐突に背後から肩を叩かれて、びくっと背すじを伸ばした。
「うわっ!」
「えっ? あ、ごめんごめん、ミシュアル、僕だよ」
自分でも驚くほど声が出て慌てて振り返ると、最近知り合った青年が立っていた。
「ご、ごめん。ぼうっとしてて……。よく俺だってわかったな」
「こんなひと気がないところ、ふわふわ歩いてるのはお前くらいだろ。今日もラナ様のおつかい?」
人懐っこい笑みを向けてくるのは、宮殿内にある大図書館の司書をしているラムジだ。つい先週、うっかり道に迷ったミシュアルがうろうろしているところを助けてくれたことから知り合いになった。
「ああ、うん。授業で使うからって」
「そっか。今日は道に迷ってない? また中庭の噴水まで連れて行こうか?」
「迷ってない、ちゃんと覚えてる」
「本当に?」
「本当だ」
方向音痴の気はないはずだが、いかんせん王宮は広すぎるのだ。ミシュアルがラナに言われて歩き回る範囲も、広大な敷地の一角に過ぎない。それでも日々学習しているのだとミシュアルが眉を寄せると、ラムジは軽快に笑って隣を歩き出した。
「それならいいけどさ。まだここに来て日が浅いんだろ? またきっと迷うさ」
「もう二週間経った。それに、他の道だって覚えてる。大丈夫だ。……それより、肩を組むな、暑い」
ベータだというラムジは、ミシュアルとは違って全く人見知りをしない性質らしい。すらりと長い腕を回して自分より身長のあるミシュアルと半ば無理やり肩を組み、何を言っても手のひらのあたる褐色の二の腕をぱしぱしと叩くだけで言うことを聞かなかった。
「まだ二週間だろ。困ったら僕を頼ってくれよ、ミシュアル。大図書館にいつもいるし、せっかく友達になっ……」
もともと人見知りで友人も数えるほどしかいないミシュアルだ。こんなふうに強引にされるのは初めてで、やめろと言いつつもされるがままに肩を組まれていると、不意にラムジが足を止めた。
「ラムジ?」
どうした、と視線を左隣に下ろそうとした時だった。
「ミシュアル!」
低いながらも大きな声に呼ばれて、ミシュアルはそれこそ弾かれたように顔をあげた。視線の先にいたのは、背後に国の重鎮たちを従えたイズディハールだった。突然の国王の出現に慌てて頭を下げたミシュアルだったが、すぐ耳に届いた足音に顔をあげ、丸い双眸を更に大きく見開いた。
通りすがりにミシュアルを見つけて声をかけてくれただけかと思いきや、イズディハールは重鎮たちをその場に置いて、ずんずんとこちらへ近寄ってくる。
今朝見かけた時はあちらの視界に自分は入っていないだろうと立ったままでいたが、今では間違いなくイズディハールの視界にミシュアルが入っている。膝をつくべきか迷ったミシュアルだったが、あっと言う間に目前までやって来ると、王はいつの間にかミシュアルから離れて後ろに下がっていたラムジに青い双眸を向けた。一瞥したあと、イズディハールは軽く手のひらを掲げた。
「下がれ」
「はい! 失礼いたします!」
ちらりと見ると、ラムジは一礼するなり転がるように駆けていった。
叱られたわけでもないのに不敬だとミシュアルは思わず眉をひそめたが、ミシュアル、と呼ばれてしまえば意識はそちらへ向いた。
「朝にも会ったが、王宮でしっかり顔をあわせたのは初めてだな」
「き、気付いていらっしゃったんですか……」
「ああ。遠くはあったが、頭を下げてくれたのはお前だろう?」
ぼんやりと見ていたのがばれていたのかと思うと、頬から首までがほんのりと熱を帯びる。思わず語尾が窄まってしまったが、イズディハールは軽快に笑うと、気恥ずかしさから身を竦めたミシュアルの二の腕を軽く叩いた。
さっきラムジに肩を抱かれた時はあまりの近さに違和感を覚えたが、イズディハールに触れられるのは決して嫌ではない。それでも身体が一瞬震えてしまうのは、オメガであると判定されてから身についた、無意識の反射だった。
一瞬とはいえ、震えた体を抑えるようにぐっと竦めたミシュアルは、すぐに力を抜いた。
「はい。陛下、あの……」
イズディハールと王宮で会うなど、次はいつになるかわからない。正式な場ではないが、推薦してくれたことへの礼を言おうとしたミシュアルだったが、待たされている重鎮たちの間から声があがった。
「陛下、トッカの使者殿がお待ちですぞ!」
「わかったわかった、すぐ行く。すまない、ミシュアル。ゆっくり話す時間がない。だが、ラナと茶会を計画しているんだ。ぜひお前も来てほしい。そこでならゆっくり話が出来るはずだから」
「は、はい」
頷くとイズディハールは目を細めて笑い、またミシュアルの肩を軽く叩くとトーブをひるがえして重鎮たちの群れの中に戻っていった。
ラナがお茶会に行くなら、護衛兼従者のミシュアルはついていくことになるかもしれない。けれど、発情期と被れば護衛はもちろん、家から出ることすら出来なくなる。
(行けたらいいな……)
王宮へ通うようになって二週間。忘れたわけではなかったが、発情期は必ずやってくるものだ。それまでに自分が所属する後宮警護の責任者に話をし、ラナに断りをいれ、こもる準備をしなければならない。
まだ発情期までは一ヶ月以上も時間があるが、早々に憂鬱になりながらため息をついたミシュアルは、ふと抱えたままだったインク瓶と巻紙に気が付いた。
イズディハールに会えたことで舞い上がっていたが、ラナに頼まれた用事の途中だった。急ぎではないものの、早く戻ろうと早足で回廊を抜けて紅玉の宮へ辿り着いたミシュアルは、ふとラナの宮へ続く外廊下に何かが落ちているのを見つけた。
きれいに敷き詰められた乳白色のタイルの上に、青っぽいものが落ちていた。
「タッセル……?」
一瞬小鳥でも落ちているのかと思ったが、近寄って手に取ってみると、それは無数の糸で出来た飾りだった。束ねた糸の上はどうやってまとめられたものか球状になっており、そこから千切れた糸が見えている。どうやら何かしらについていたものが、紐が切れたことで落ちてしまったようだった。
(誰のものだ?)
おそらくラナのものではない。彼女の衣装部屋には様々な種類の赤と黄色と橙、それにごく僅かに白と水色の衣装があるが、こういった落ち着いた――彼女いわく、暗い色は趣味ではない。
それならば四人いる侍女の誰かだろうかとも思ったが、後宮の侍女たちはそれぞれの所属の宮ごとに決まった色の衣装を身に着けている。紅玉の宮の侍女たちの衣装は赤で、飾りなどはほとんどつけていなかった。
それならば、一体誰のものなのか。
ここはすでに紅玉の宮の、ラナに与えられている敷地の中だ。普段は主であるラナと四人の侍女とミシュアルがいる。隣の敷地は他の妃候補のものだが、以前そこに住んでいた妃候補は病に臥せって退宮しており、そもそも人がいない。向かいの敷地にも妃候補は二人いるが、その間には広い中庭と池と四阿、そして当番制の衛兵がいる。彼らは衛兵ではあるが、妃候補の敷地を踏むことは許されておらず、ミシュアルが歩いているようにタイルの上にあがることはないはずだった。
あとは出入りするのは呼びたてた行商人や、勉学や習い事のために外部から呼ぶ講師、マッサージや美容のための専門技師に祈祷師、他にもいくらかあげられるが、今日はまだその予定はないはずだった。
ラナの部屋を離れて一時間ほども経っていない。何かあれば中庭の衛兵たちが気付いて騒ぐだろうが、彼らはいつも通り四阿の近くに立っているだけで変わった様子はない。ミシュアルが伸びあがってまで視線を向けたことに気付くと、ぺこりと頭を下げてきて、その様子もいつも通りだった。
それならば、他に誰か来たのだろうか。
そんなことをつらつらと考えたミシュアルは、ふと鼻を掠めた匂いに顔をあげた。
いい香りがする。深みがあるのに、じっとりと重くない、包み込むような香り。どこから、と鼻をくんと嗅がせた途端、大きくくしゃみが出た。
「っくしっ……あ……?」
思わず握った手の甲で抑えたことで気付く。匂いはタッセルからのものだった。
くしゃみでむずつく鼻をこすり、改めて糸の束に鼻を寄せる。すると、さっきよりも明確に匂いがした。
嗅いだことがないほどいい匂いだ。
長姉のシャザが香木や香水などを取り扱う商店を経営しているので、その付き合いでさまざまな匂いを嗅いだことがあったが、そういったものとも違う気がする。
嗅いでいるとほっとする。なのに体の奥がじわっと疼くような感じがするのは、媚薬の成分なども入っているのだろうか。
なんにせよ、とてもいい匂いだと外廊下に立ち尽くしたままタッセルの匂いを嗅いでいたミシュアルだったが、突然かけられた声に、思わずそれを手のひらに握りこんだ。
「ミシュアル? おかえりなさい、何してるの」
「いっ、いや、何も……」
「あ、インクと紙、ありがとう。本当、すっかり忘れてたわ。授業中に切れたりなんかしたら、あの先生すごく怒るのよ」
ぱたぱたと部屋から出てきたラナは、さあ準備しなきゃとインク瓶と巻紙をミシュアルの手から受け取り、先に部屋へ入っていく。ひらひらとひるがえる朱色の紗の衣装は今日も美しく、細い腰には金の飾りが巻かれている。濃紺のような深い色はない。
この敷地に出入りするのは、彼女に用事がある者だけだ。誰のものか、心当たりを聞けばすぐにわかるのかもしれない。
そう思うのに、ミシュアルはそっとそれをふところにしまう自分の手を止めることはできない。
あの匂いがふわりと漂う。発情期以外は触れることもない場所が、確かに疼いた
◇
汗がしたたっていた。
石造りの浴場を背にしたミシュアルは、じっとりと浮いた汗が雫を結んで顎を伝っていくのを感じながら両腕を腰の後ろで組み、背すじを伸ばして立っていた。
浴場からはぱしゃぱしゃと涼し気な水の音と、たまにラナと侍女たちがあげる賑やかな笑い声がする。昼間の座学が終わると、ラナは「体がべたべたして気持ち悪い。水浴びがしたい」と言い出した。そのため浴場での護衛となったが、もちろん屋内には入らない。外に立って職務を全うすべくいたのだが、どうにもさっきから落ち着かなかった。
暑いのはいつものことで、湿度の高い空気が肌にまとわりつくのは確かに不快ではあるが、それとはまた違う感覚が気まぐれに吹くそよ風のように肌をなぶる。
さっきからどうにもおかしい。熱でもあるのだろうかと思いながら汗を拭ったところで、胸元から立ち上がった匂いに、くらりと視界が一瞬揺れた。
「っ、あ……」
思わず脚が震えて膝をつきそうになったが、どうにかこらえて姿勢を起こす。元のように背すじを伸ばして立つが、身のうちはそうもいかない。
胸元からふわふわと漂う匂いが鼻につく。嫌な匂いではない。けれど、体の奥がむずむずしてきて、あらぬ場所が無意識にうごめく。
(なんで……どうして)
発情期はまだ一ヶ月以上も先だ。周期が狂ったことなどないし、多少前後しても二日三日の違いだ。まさかもう始まってしまうのかと、とっさに服の中の隠しを探る。いつもそこにひそませている抑制剤の薬包を確認しようとしたミシュアルは、指先に触れたものに驚いてパッと手を引いた。
(……もしかして、これのせいか?)
思わず手を引いてしまったが、触れたのは昼前に拾ってふところに入れたままだったタッセルだった。
ずっと胸元に入れていたのだが、その匂いが肌に移り、体温があがったことで強まったのだろうか。
結局誰のものか、ラナにも聞けていない。濃紺色のタッセルをつけた人物を見なかったかと、それだけなのに。
(いい匂いだ……)
ふわふわと胸元から漂う匂いが、頭をぼんやりとさせる。そろりと手のひらに握りこむと隠れてしまうような小さなものだが、まるで香水でも振りかけたようにしっかりと香る。
うっかり酒を飲みすぎた時のように、耳のあたりで鼓動がどくどくと鳴り響いていた。
集中しなければいけない。せっかくイズディハールとラナのおかげで軍職に就けているのだ。しっかりと衛兵としての務めを果たし、ラナの従者として恥ずかしくない姿でいなければいけない。――けれど、もう少しだけ、この匂いを嗅いでいたい。
手のひらにタッセルを乗せ、祈るように両手で握りこむ。その小さな空間にこもった空気に鼻を寄せた。
「っあ……」
じゅぐっと、体の奥が漏らしたように濡れたのを感じた。
言葉にはならなかった乾いた声を零した唇が震え、肌が総毛だつ。視界が一瞬明滅して、立っていられずにとうとう壁に寄り掛かった。
「うっ、……う、あ」
それこそ媚薬や錯乱効果のある香木が焚き込められているのではと疑うほど頭がくらくらする。酩酊にも近い。それなのにもっとこの香りに浸っていたいとすら思う。そして、この匂いに包まれながら、濡れそぼりはじめた場所を慰めたいと思ってしまう。
こんな衝動は発情期の時以外感じたことはない。発情期ならば離れにこもり、どれだけ空しくともひたすら自分で自分を慰めていられたが、ここは宮殿の中だ。衝動に身を任せることはできない。
そのうえ、自分のフェロモンは姿も知らないつがいのアルファにしか効かないというのはわかっているが、もし何かしらの偶然でそのつがいが近くにいたりしたら、ここで押し倒されかねない。そんなことになってしまったらミシュアル自身はもちろん、アブズマール家の恥、そしてミシュアルを従者とするラナの恥だ。それだけは避けなければならない。
懐にしまうことが出来ないタッセルを握りこんだまま、唇を噛んで傷つけてでも自制しなければと思っていると、不意に壁越しに声があがった。
「ねえ、ミシュアル」
「は……は、いっ……」
声はラナのものだ。まだぱしゃぱしゃと音がするので水浴びをしているのだろう。
いっそ、自分も水に飛び込んで、わけのわからない熱に浮かされている体を冷やしたい。そんなことを考えていると、あのねえと間延びした声が続いた。
「私、これから出かけるの。交代の時間に食い込んじゃうから、もう休憩に入って。帰ったらまた声をかけるから、控えの部屋で休んでてくれない?」
「わ……わかりました」
ほっと安堵してしまったのは確かだった。ラナの言葉に、さっきまでどうにか理性でとどめていたものがはじけ飛ぶ。
いてもたってもいられなくなって、ミシュアルはラナの宮の一角にある部屋に飛び込んだ。
後宮にいる妃候補たちにはそれぞれ、妃候補自身のいくつかの部屋と、泊まり込みの侍女や衛兵のための部屋、浴場などが備えられた敷地が与えられる。ラナももちろん立派な宮をひとつ、イズディハールから与えられていた。
宮の使い方は妃候補自身の自由で、王を歓待するための応接室と、妃候補が寝食を行う私室さえあればあとは好きに使っていいらしく、ラナも部屋をひとつ改造していた。それが、オメガ専用の控え室だった。
侍女専用、衛兵専用の部屋はあるが、その時の当番制で使用するため、個人の専用部屋ではない。それなのに自分専用の個室をあてがわれるなどと、当初はミシュアルも拒否した。けれど、結局は今までどおり、押しの強い従姉の言葉には逆らえなかった。
「あのね、ミシュアル。あなたは確かに見た目は全然オメガらしくないけど、その体はオメガでしょ。性徴について否定するつもりはないけど、いつ何があるかわからないのは確かよ。だから専用の部屋を作ったの」
ラナの言葉は、オメガであるミシュアルにはありがたいことだ。けれど、ここは後宮だ。幼なじみであり親族という素地があるとはいえ、個人部屋をただの衛兵のために作るということは、別の危惧もあった。
「ラナ、後宮は陛下の私物だ。そこに俺専用の部屋なんか作ったら、ラナと俺の仲を勘ぐられるかもしれない」
二人は従姉弟同士で、誓って恋愛関係にはない。それでも噂はどこから火が付くかわからない。そして、火が付いた先にどこに煙が行くのかも当人たちでは制御しきれない。
ラナの提案は嬉しいが、変な噂を立てられ、万が一にも彼女が不貞を働いたとされて後宮を追い出されるようなことがあったら、それこそ申し訳が立たない。頼むから専用の控え室などつぶしてくれと懇願したが、それはきっぱりと拒否された。
「疑うも何も、陛下が提案してくださったんだから。それに、あなた個人の部屋じゃないわ。これから先、オメガの人を他に雇うかもしれないじゃない。その時のための、オメガ専用の控え室よ。だから、あなたが気に病むことはないの。あなたがオメガ専用の部屋を使おうと、誰も疑ったりしないわ。侍女の部屋を使う侍女を、ひいきしてるなんて思う人はいないでしょ」
だから使いなさい、と初日に厳しく言われてしまってからは使うようになったが、それでも今日ほど急いで駆け込むことなどなかった。
控え室はごく小さな部屋だ。木製の椅子とテーブル、石造りのベッドが置かれているだけだが、その奥に更にもうひとつ扉があった。扉の前に置かれていた椅子を退け、ミシュアルはその中へ入った。
『万が一よ。万が一、発情したらこの部屋を使って。中から閂をかけられるようになっているから』
ラナはもとはひとつだった部屋を半分に分けて、発情したオメガが逃げ込める場所を作っていた。そこは外部からの侵入を防ぐために窓もない、小さな部屋だった。ネズミが通れる程度の小さな換気口が壁の高い位置に二十個ほど空いているのみで、家具は何もない。ただ隅にロール状にされた絨毯がたてかけられているだけの部屋だった。
平時であれば、独房かと思ったかもしれない。けれど、狭くて鍵のかかる場所は、発情状態に入ったオメガにとって安心できる場所だ。
ほっとしながら閂をかけ、ミシュアルはそのままずるずると座り込んだ。窓はないが、換気口のおかげでそれほど暑くはない。けれど身の内から湧き上がる熱はじっとりと内股を湿らせていた。
下命についての文はそれほど長くはなかった。けれど白い紙面の下にはイズディハールのサインが記されている。ナハルベルカ王家の家章である鷹と獅子と三つの星が描かれた印章もくっきりと押されていた。
「私がいるのはベータの後宮、紅玉の宮でしょ。アルファとベータの衛兵はいるけど、あなたはつがいのいる体だから、相手はわからなくても、影響がないアルファの方が圧倒的に多い。それに、私の護衛兼従者よ。アブズマール家の三男を従者にするなんてファルーク叔父様には怒られてしまうかもしれないけど……でも、色々手伝ってほしいの。話し相手にもなってほしいし」
「陛下には、ラナが頼んだのか」
後宮には十数名の妃候補がいるが、ラナはイズディハールが自ら指名して召し上げた姫だ。幼い頃からの知り合い同士でもある二人は、噂に聞くところでも仲が良く、ベータでありながら正妃にあがるのは彼女ではないかという話も巷では囁かれているほどだ。そんな彼女がお願いをして、いつまで経っても家に引きこもるばかりの従弟を軍属に据えてくれたのだろうか。
そう考えると情けないやら恥ずかしいやらで、書状を持った手が震えてくる。けれど、ラナは慌てて細い首を振った。
「違うの、誤解しないで。私が言い出したことじゃないわ。弟が塞ぎこんでるって、ジュード兄様が言ったらしいの」
「兄上……なんでそんなことを……」
長兄のジュードは軍職に就き、今では王が直接の指揮権を持つ近衛軍の師団長も務めている。何かの席で一緒になった時にでもぽろりと零したのだろうとは思ったが、それでもため息は出てしまった。
「それに、前のレイスの一歳のお祝いでもあなた、すぐに引っ込んだらしいじゃない。陛下がおっしゃってたわ、もっと話がしたかったって」
「……」
脳裏をよぎるのは、あの日もらった手紙だ。ラナを疑ってしまったが、イズディハールがミシュアルを気にかけてくれるのは、実際のところ初めてではないのだ。
「私はいい機会だと思う。あなたが夢見たような、戦いに出るための軍人ではないかもしれないけど……それでも衛兵だって立派な軍人よ」
「それはそうだけど……でも、俺はオメガで」
「ああー! 聞かない聞かない。私は聞いてませんからね。辞退する場合は、陛下に直接言ってちょうだい。それが出来ないんなら、明後日にでもあなたには出向してもらうから」
「明後日⁉」
「ええ、明後日よ。どうしても嫌だって言うんなら、明日にでも陛下に直接辞退の申し出をしに行くことね。手紙なんかじゃ失礼よ、ちゃんとお会いして断るの。はい、話はおしまい。それじゃあね、ミシュアル。また明後日」
嵐のようにやってきた従姉は、そうしてさっさと帰ってしまった。
断る理由はある。けれど、それはすべて自分がオメガだからという、生きている限り変わりはしない事実に基づくものだ。ミシュアルはこれまで、それを理由にすべてを諦めてきた。
――確かにあなたはオメガだけど、それを変えることはできないでしょう。生きていく道を、ちゃんと見つけなきゃ。
ラナの言葉が耳に甦る。
家族や使用人以外がいない、ミシュアルが恐れることなく自由でいられる四阿の中に座り込んだまま、そっと首を護るベルトに手をやった。
ミシュアルは、つがいがいる体だ。本来ならば、ベルトで護る必要はない。それでもつけているのは、姿もわからないつがいが見つかった時、噛み跡のない自分のうなじを見たつがいが独占の証である噛み跡がないことに激昂して噛みついてくるかもしれないと母に言われ、恐ろしくなったためだ。
眠る時も外さないベルトをゆっくりと外すと、涼やかな風がむき出しになった肌を撫でる。少し蒸れたうなじに指を這わせると、そこはすべすべとしていて、指先にかかるものといえば指を押し当ててようやく気付くほどのごくごく僅かな傷痕だ。それは長年つけてきた首輪が擦れたものか、もしくは両親にこの身の潔白を示す時にうっかりつけてしまった傷の痕で、一番身近なオメガである母ラテアスの細いうなじにくっきりと残った明確な噛み跡とは比べ物にならないほど小さなものだ。
それでもミシュアルにはつがいがいる。けれども確かにラナの言う通り、どうしたってミシュアルがオメガであることは変わらないのだ。
(……いつまでも、こんな風にはいられない)
それは心配してくれる両親や兄弟のためでもあり、外界を恐れて引きこもり続ける自分のためでもある。
そうしてラナの来訪から二日後、本来後宮にいるはずのないオメガのミシュアルは、ベータの妃候補が集められた後宮、紅玉の宮のラナの衛兵兼侍従となった。難色を示すだろうかと危ぶんでいた父ファルークも、陛下が気にかけてくださったなら是非にと喜んでくれた。
十三歳で自分がオメガであると知ってから、実に八年が経っていた。
2
昼日中の突き刺すような日差しはまだ訪れず、夜の雰囲気と冷たさをまとった空気がそこかしこにある時間帯に、ミシュアルは目覚めた。
見あげる天井は実家の自室のものだ。発情期中ならばこの景色は離れの一室の天井になるが、まだその時期ではない。
眠気はあるもののいつまでもだらだらと眠っているわけにもいかないし、朝の鍛錬は日課だ。今日は槍にしようと、壁にかけてある数本の中から手になじんだものを取った。
剣から始まり、槍に弓、体術に馬術。すべて修めてきた。ナハルベルカは軍事国家ではないし、争いごともそれほど多くはない。それでもいつか役に立つのではと続けてきた。
しっかりと柔軟をして部屋の中庭におりる。相手はいなくとも、槍をふるい、脚を強く踏み出して突く。ダン、とひときわ強く地面を蹴ると、すぐ近くの樹にとまっていた小鳥たちが慌てたように羽ばたいていった。
そうしているうちに日時計がうっすらと影をなし、時間が読める頃合いになると邸はようやく動きだす。
ミシュアルが朝に鍛錬を行うのは毎日のことなので、浴場へ行くとぬるめの湯が張られている。一度汗を流し、両親に挨拶をしてから朝食をとれば、宮殿へ向かう頃合いだ。
「朝は私だってゆっくりしたい。ミシュアルは日時計の……そうね、十時頃。そのくらいに来て。それまでに来ても、私はお化粧も終わってないし、絶対に入れないから」
門前で日向ぼっこがしたいなら早く来てもいいけど、とまで言われたが、ラナのことだ。それより二時間ほど前に宮殿へやってくる他の軍人たちとまともに時間が被ることを避けてくれたのだろう。
幼なじみの恩情に感謝しながら馬車で宮殿の出入り口である門まで行き、そこからは歩いて宮殿内を移動することになる。いつもは早足でさっさと紅玉の宮へ向かうのだが、今日のミシュアルは回廊の途中で足を止めた。
ナハルベルカ王宮はとにかく広く、政務が行われる本殿を筆頭に、様々な宮がそこかしこに群を成して建っている。後宮は王宮の中でも特に奥の、国王が寝起きするための宮の近くにあるが、王自身は本殿にいることが多く、外へ出ていても敷地の広さゆえに会うことはほとんどない。実際、衛兵としてラナに仕えるようになって二週間が過ぎる今日まで、イズディハールを見ることはなかった。
しかし今日は、真ん中に噴水を有する広い中庭と植え込みを挟んだ向こう、歩いて行く長身を見つけたミシュアルは思わず立ち止まった。
これからどこかへ赴くのか、強い陽光から頭を護るための頭蓋布と真っ白なトーブをはためかせ、国の要人を率いて歩くのはイズディハール・カリム・ナハルベルカ国王その人だ。腰を締める革ベルトの上を飾る金細工や、腰から下げた懐剣の飾りが動きに翻弄されてキラキラと輝いていたが、頭蓋布の隙間から見える金茶の髪の輝きの方が、ミシュアルには眩い。
国王であり、アルファであり、ミシュアルを気にかけてくれた人。彼がいなければ、自分は今でも家にこもっていた。
遠ざかる一団に、見えていないことはわかっていても深々と礼をしたミシュアルは、今度こそ紅玉の宮へ向かった。
「おはようございます、ラナ様」
「おはよう、ミシュアル。今日もよろしくね」
「はい」
今日はいつもとは違う光景を見られたが、仕事自体が変わることはない。与えられた職務をきちんとこなそうと気を引き締めてラナに挨拶をしたミシュアルは、衛兵として部屋の前に陣取った。
イズディハールの推薦により近衛軍の所属になったミシュアルだったが、実際はラナ専属の護衛兼従者だ。厳重な警護の敷かれた王宮のさらに奥、不審者も簡単には入ってこられない場所での護衛は暇だろうと思っていたが、来訪者の出入りのチェックや身体検査、周囲の見回りと、するべきことはたくさんある。くわえてミシュアルはラナの従者でもあるので、掛け持ちは思った以上に忙しない。そのうえ、ラナは気安く話せる相手が増えたとばかりにしょっちゅう部屋の中に呼んでは、休憩に付き合ってほしいとねだった。
「……それでね、ヘンリエッタ先生が……あっ、やだ、すっかり忘れてた。ねえミシュアル、あとででいいから、西の尖塔へ行ってインクをもらってきてくれない? 今日、授業があるのを忘れてたわ。授業中にきれちゃうかも。あ、あと、紙も二巻き」
「わかりました」
ねだられて一緒に飲んでいた紅茶も空になったところだ。早速行ってこようと、ミシュアルはラナのサインが入った物品の請求書を手に、すぐに紅玉の宮を出た。
意外にも、ラナは紅玉の宮にミシュアルを閉じ込めておくようなことはしなかった。何かしら用事があれば、特に気負う様子もなく宮の外に行くように言いつける。ミシュアルもはじめは戸惑ったが、何度か言いつけられてあちらこちらを歩き回るうちに広い宮殿の中でもひと気の少ない場所を覚え、目的地へ行くまでのルートを多少遠回りでも使えるようになった。
「はい、インクを一瓶と紙を二巻きですね」
「ありがとうございます」
雑品の倉庫がある西の尖塔へ行き、在庫の管理をしている文官に書状を渡し、引き換えにインクと紙を二巻きもらう。
たったこれだけのことでも、最初は見知らぬ人間との会話をしなければならないことにおどおどしていたが、今ではすっかり慣れた。渡されたインク瓶と巻紙を抱え、人が多く行きかう最短ルートではなく、ひと気がまばらな少し遠回りのルートを通るべく大回廊を外れたミシュアルは、しばらく歩いているうちに唐突に背後から肩を叩かれて、びくっと背すじを伸ばした。
「うわっ!」
「えっ? あ、ごめんごめん、ミシュアル、僕だよ」
自分でも驚くほど声が出て慌てて振り返ると、最近知り合った青年が立っていた。
「ご、ごめん。ぼうっとしてて……。よく俺だってわかったな」
「こんなひと気がないところ、ふわふわ歩いてるのはお前くらいだろ。今日もラナ様のおつかい?」
人懐っこい笑みを向けてくるのは、宮殿内にある大図書館の司書をしているラムジだ。つい先週、うっかり道に迷ったミシュアルがうろうろしているところを助けてくれたことから知り合いになった。
「ああ、うん。授業で使うからって」
「そっか。今日は道に迷ってない? また中庭の噴水まで連れて行こうか?」
「迷ってない、ちゃんと覚えてる」
「本当に?」
「本当だ」
方向音痴の気はないはずだが、いかんせん王宮は広すぎるのだ。ミシュアルがラナに言われて歩き回る範囲も、広大な敷地の一角に過ぎない。それでも日々学習しているのだとミシュアルが眉を寄せると、ラムジは軽快に笑って隣を歩き出した。
「それならいいけどさ。まだここに来て日が浅いんだろ? またきっと迷うさ」
「もう二週間経った。それに、他の道だって覚えてる。大丈夫だ。……それより、肩を組むな、暑い」
ベータだというラムジは、ミシュアルとは違って全く人見知りをしない性質らしい。すらりと長い腕を回して自分より身長のあるミシュアルと半ば無理やり肩を組み、何を言っても手のひらのあたる褐色の二の腕をぱしぱしと叩くだけで言うことを聞かなかった。
「まだ二週間だろ。困ったら僕を頼ってくれよ、ミシュアル。大図書館にいつもいるし、せっかく友達になっ……」
もともと人見知りで友人も数えるほどしかいないミシュアルだ。こんなふうに強引にされるのは初めてで、やめろと言いつつもされるがままに肩を組まれていると、不意にラムジが足を止めた。
「ラムジ?」
どうした、と視線を左隣に下ろそうとした時だった。
「ミシュアル!」
低いながらも大きな声に呼ばれて、ミシュアルはそれこそ弾かれたように顔をあげた。視線の先にいたのは、背後に国の重鎮たちを従えたイズディハールだった。突然の国王の出現に慌てて頭を下げたミシュアルだったが、すぐ耳に届いた足音に顔をあげ、丸い双眸を更に大きく見開いた。
通りすがりにミシュアルを見つけて声をかけてくれただけかと思いきや、イズディハールは重鎮たちをその場に置いて、ずんずんとこちらへ近寄ってくる。
今朝見かけた時はあちらの視界に自分は入っていないだろうと立ったままでいたが、今では間違いなくイズディハールの視界にミシュアルが入っている。膝をつくべきか迷ったミシュアルだったが、あっと言う間に目前までやって来ると、王はいつの間にかミシュアルから離れて後ろに下がっていたラムジに青い双眸を向けた。一瞥したあと、イズディハールは軽く手のひらを掲げた。
「下がれ」
「はい! 失礼いたします!」
ちらりと見ると、ラムジは一礼するなり転がるように駆けていった。
叱られたわけでもないのに不敬だとミシュアルは思わず眉をひそめたが、ミシュアル、と呼ばれてしまえば意識はそちらへ向いた。
「朝にも会ったが、王宮でしっかり顔をあわせたのは初めてだな」
「き、気付いていらっしゃったんですか……」
「ああ。遠くはあったが、頭を下げてくれたのはお前だろう?」
ぼんやりと見ていたのがばれていたのかと思うと、頬から首までがほんのりと熱を帯びる。思わず語尾が窄まってしまったが、イズディハールは軽快に笑うと、気恥ずかしさから身を竦めたミシュアルの二の腕を軽く叩いた。
さっきラムジに肩を抱かれた時はあまりの近さに違和感を覚えたが、イズディハールに触れられるのは決して嫌ではない。それでも身体が一瞬震えてしまうのは、オメガであると判定されてから身についた、無意識の反射だった。
一瞬とはいえ、震えた体を抑えるようにぐっと竦めたミシュアルは、すぐに力を抜いた。
「はい。陛下、あの……」
イズディハールと王宮で会うなど、次はいつになるかわからない。正式な場ではないが、推薦してくれたことへの礼を言おうとしたミシュアルだったが、待たされている重鎮たちの間から声があがった。
「陛下、トッカの使者殿がお待ちですぞ!」
「わかったわかった、すぐ行く。すまない、ミシュアル。ゆっくり話す時間がない。だが、ラナと茶会を計画しているんだ。ぜひお前も来てほしい。そこでならゆっくり話が出来るはずだから」
「は、はい」
頷くとイズディハールは目を細めて笑い、またミシュアルの肩を軽く叩くとトーブをひるがえして重鎮たちの群れの中に戻っていった。
ラナがお茶会に行くなら、護衛兼従者のミシュアルはついていくことになるかもしれない。けれど、発情期と被れば護衛はもちろん、家から出ることすら出来なくなる。
(行けたらいいな……)
王宮へ通うようになって二週間。忘れたわけではなかったが、発情期は必ずやってくるものだ。それまでに自分が所属する後宮警護の責任者に話をし、ラナに断りをいれ、こもる準備をしなければならない。
まだ発情期までは一ヶ月以上も時間があるが、早々に憂鬱になりながらため息をついたミシュアルは、ふと抱えたままだったインク瓶と巻紙に気が付いた。
イズディハールに会えたことで舞い上がっていたが、ラナに頼まれた用事の途中だった。急ぎではないものの、早く戻ろうと早足で回廊を抜けて紅玉の宮へ辿り着いたミシュアルは、ふとラナの宮へ続く外廊下に何かが落ちているのを見つけた。
きれいに敷き詰められた乳白色のタイルの上に、青っぽいものが落ちていた。
「タッセル……?」
一瞬小鳥でも落ちているのかと思ったが、近寄って手に取ってみると、それは無数の糸で出来た飾りだった。束ねた糸の上はどうやってまとめられたものか球状になっており、そこから千切れた糸が見えている。どうやら何かしらについていたものが、紐が切れたことで落ちてしまったようだった。
(誰のものだ?)
おそらくラナのものではない。彼女の衣装部屋には様々な種類の赤と黄色と橙、それにごく僅かに白と水色の衣装があるが、こういった落ち着いた――彼女いわく、暗い色は趣味ではない。
それならば四人いる侍女の誰かだろうかとも思ったが、後宮の侍女たちはそれぞれの所属の宮ごとに決まった色の衣装を身に着けている。紅玉の宮の侍女たちの衣装は赤で、飾りなどはほとんどつけていなかった。
それならば、一体誰のものなのか。
ここはすでに紅玉の宮の、ラナに与えられている敷地の中だ。普段は主であるラナと四人の侍女とミシュアルがいる。隣の敷地は他の妃候補のものだが、以前そこに住んでいた妃候補は病に臥せって退宮しており、そもそも人がいない。向かいの敷地にも妃候補は二人いるが、その間には広い中庭と池と四阿、そして当番制の衛兵がいる。彼らは衛兵ではあるが、妃候補の敷地を踏むことは許されておらず、ミシュアルが歩いているようにタイルの上にあがることはないはずだった。
あとは出入りするのは呼びたてた行商人や、勉学や習い事のために外部から呼ぶ講師、マッサージや美容のための専門技師に祈祷師、他にもいくらかあげられるが、今日はまだその予定はないはずだった。
ラナの部屋を離れて一時間ほども経っていない。何かあれば中庭の衛兵たちが気付いて騒ぐだろうが、彼らはいつも通り四阿の近くに立っているだけで変わった様子はない。ミシュアルが伸びあがってまで視線を向けたことに気付くと、ぺこりと頭を下げてきて、その様子もいつも通りだった。
それならば、他に誰か来たのだろうか。
そんなことをつらつらと考えたミシュアルは、ふと鼻を掠めた匂いに顔をあげた。
いい香りがする。深みがあるのに、じっとりと重くない、包み込むような香り。どこから、と鼻をくんと嗅がせた途端、大きくくしゃみが出た。
「っくしっ……あ……?」
思わず握った手の甲で抑えたことで気付く。匂いはタッセルからのものだった。
くしゃみでむずつく鼻をこすり、改めて糸の束に鼻を寄せる。すると、さっきよりも明確に匂いがした。
嗅いだことがないほどいい匂いだ。
長姉のシャザが香木や香水などを取り扱う商店を経営しているので、その付き合いでさまざまな匂いを嗅いだことがあったが、そういったものとも違う気がする。
嗅いでいるとほっとする。なのに体の奥がじわっと疼くような感じがするのは、媚薬の成分なども入っているのだろうか。
なんにせよ、とてもいい匂いだと外廊下に立ち尽くしたままタッセルの匂いを嗅いでいたミシュアルだったが、突然かけられた声に、思わずそれを手のひらに握りこんだ。
「ミシュアル? おかえりなさい、何してるの」
「いっ、いや、何も……」
「あ、インクと紙、ありがとう。本当、すっかり忘れてたわ。授業中に切れたりなんかしたら、あの先生すごく怒るのよ」
ぱたぱたと部屋から出てきたラナは、さあ準備しなきゃとインク瓶と巻紙をミシュアルの手から受け取り、先に部屋へ入っていく。ひらひらとひるがえる朱色の紗の衣装は今日も美しく、細い腰には金の飾りが巻かれている。濃紺のような深い色はない。
この敷地に出入りするのは、彼女に用事がある者だけだ。誰のものか、心当たりを聞けばすぐにわかるのかもしれない。
そう思うのに、ミシュアルはそっとそれをふところにしまう自分の手を止めることはできない。
あの匂いがふわりと漂う。発情期以外は触れることもない場所が、確かに疼いた
◇
汗がしたたっていた。
石造りの浴場を背にしたミシュアルは、じっとりと浮いた汗が雫を結んで顎を伝っていくのを感じながら両腕を腰の後ろで組み、背すじを伸ばして立っていた。
浴場からはぱしゃぱしゃと涼し気な水の音と、たまにラナと侍女たちがあげる賑やかな笑い声がする。昼間の座学が終わると、ラナは「体がべたべたして気持ち悪い。水浴びがしたい」と言い出した。そのため浴場での護衛となったが、もちろん屋内には入らない。外に立って職務を全うすべくいたのだが、どうにもさっきから落ち着かなかった。
暑いのはいつものことで、湿度の高い空気が肌にまとわりつくのは確かに不快ではあるが、それとはまた違う感覚が気まぐれに吹くそよ風のように肌をなぶる。
さっきからどうにもおかしい。熱でもあるのだろうかと思いながら汗を拭ったところで、胸元から立ち上がった匂いに、くらりと視界が一瞬揺れた。
「っ、あ……」
思わず脚が震えて膝をつきそうになったが、どうにかこらえて姿勢を起こす。元のように背すじを伸ばして立つが、身のうちはそうもいかない。
胸元からふわふわと漂う匂いが鼻につく。嫌な匂いではない。けれど、体の奥がむずむずしてきて、あらぬ場所が無意識にうごめく。
(なんで……どうして)
発情期はまだ一ヶ月以上も先だ。周期が狂ったことなどないし、多少前後しても二日三日の違いだ。まさかもう始まってしまうのかと、とっさに服の中の隠しを探る。いつもそこにひそませている抑制剤の薬包を確認しようとしたミシュアルは、指先に触れたものに驚いてパッと手を引いた。
(……もしかして、これのせいか?)
思わず手を引いてしまったが、触れたのは昼前に拾ってふところに入れたままだったタッセルだった。
ずっと胸元に入れていたのだが、その匂いが肌に移り、体温があがったことで強まったのだろうか。
結局誰のものか、ラナにも聞けていない。濃紺色のタッセルをつけた人物を見なかったかと、それだけなのに。
(いい匂いだ……)
ふわふわと胸元から漂う匂いが、頭をぼんやりとさせる。そろりと手のひらに握りこむと隠れてしまうような小さなものだが、まるで香水でも振りかけたようにしっかりと香る。
うっかり酒を飲みすぎた時のように、耳のあたりで鼓動がどくどくと鳴り響いていた。
集中しなければいけない。せっかくイズディハールとラナのおかげで軍職に就けているのだ。しっかりと衛兵としての務めを果たし、ラナの従者として恥ずかしくない姿でいなければいけない。――けれど、もう少しだけ、この匂いを嗅いでいたい。
手のひらにタッセルを乗せ、祈るように両手で握りこむ。その小さな空間にこもった空気に鼻を寄せた。
「っあ……」
じゅぐっと、体の奥が漏らしたように濡れたのを感じた。
言葉にはならなかった乾いた声を零した唇が震え、肌が総毛だつ。視界が一瞬明滅して、立っていられずにとうとう壁に寄り掛かった。
「うっ、……う、あ」
それこそ媚薬や錯乱効果のある香木が焚き込められているのではと疑うほど頭がくらくらする。酩酊にも近い。それなのにもっとこの香りに浸っていたいとすら思う。そして、この匂いに包まれながら、濡れそぼりはじめた場所を慰めたいと思ってしまう。
こんな衝動は発情期の時以外感じたことはない。発情期ならば離れにこもり、どれだけ空しくともひたすら自分で自分を慰めていられたが、ここは宮殿の中だ。衝動に身を任せることはできない。
そのうえ、自分のフェロモンは姿も知らないつがいのアルファにしか効かないというのはわかっているが、もし何かしらの偶然でそのつがいが近くにいたりしたら、ここで押し倒されかねない。そんなことになってしまったらミシュアル自身はもちろん、アブズマール家の恥、そしてミシュアルを従者とするラナの恥だ。それだけは避けなければならない。
懐にしまうことが出来ないタッセルを握りこんだまま、唇を噛んで傷つけてでも自制しなければと思っていると、不意に壁越しに声があがった。
「ねえ、ミシュアル」
「は……は、いっ……」
声はラナのものだ。まだぱしゃぱしゃと音がするので水浴びをしているのだろう。
いっそ、自分も水に飛び込んで、わけのわからない熱に浮かされている体を冷やしたい。そんなことを考えていると、あのねえと間延びした声が続いた。
「私、これから出かけるの。交代の時間に食い込んじゃうから、もう休憩に入って。帰ったらまた声をかけるから、控えの部屋で休んでてくれない?」
「わ……わかりました」
ほっと安堵してしまったのは確かだった。ラナの言葉に、さっきまでどうにか理性でとどめていたものがはじけ飛ぶ。
いてもたってもいられなくなって、ミシュアルはラナの宮の一角にある部屋に飛び込んだ。
後宮にいる妃候補たちにはそれぞれ、妃候補自身のいくつかの部屋と、泊まり込みの侍女や衛兵のための部屋、浴場などが備えられた敷地が与えられる。ラナももちろん立派な宮をひとつ、イズディハールから与えられていた。
宮の使い方は妃候補自身の自由で、王を歓待するための応接室と、妃候補が寝食を行う私室さえあればあとは好きに使っていいらしく、ラナも部屋をひとつ改造していた。それが、オメガ専用の控え室だった。
侍女専用、衛兵専用の部屋はあるが、その時の当番制で使用するため、個人の専用部屋ではない。それなのに自分専用の個室をあてがわれるなどと、当初はミシュアルも拒否した。けれど、結局は今までどおり、押しの強い従姉の言葉には逆らえなかった。
「あのね、ミシュアル。あなたは確かに見た目は全然オメガらしくないけど、その体はオメガでしょ。性徴について否定するつもりはないけど、いつ何があるかわからないのは確かよ。だから専用の部屋を作ったの」
ラナの言葉は、オメガであるミシュアルにはありがたいことだ。けれど、ここは後宮だ。幼なじみであり親族という素地があるとはいえ、個人部屋をただの衛兵のために作るということは、別の危惧もあった。
「ラナ、後宮は陛下の私物だ。そこに俺専用の部屋なんか作ったら、ラナと俺の仲を勘ぐられるかもしれない」
二人は従姉弟同士で、誓って恋愛関係にはない。それでも噂はどこから火が付くかわからない。そして、火が付いた先にどこに煙が行くのかも当人たちでは制御しきれない。
ラナの提案は嬉しいが、変な噂を立てられ、万が一にも彼女が不貞を働いたとされて後宮を追い出されるようなことがあったら、それこそ申し訳が立たない。頼むから専用の控え室などつぶしてくれと懇願したが、それはきっぱりと拒否された。
「疑うも何も、陛下が提案してくださったんだから。それに、あなた個人の部屋じゃないわ。これから先、オメガの人を他に雇うかもしれないじゃない。その時のための、オメガ専用の控え室よ。だから、あなたが気に病むことはないの。あなたがオメガ専用の部屋を使おうと、誰も疑ったりしないわ。侍女の部屋を使う侍女を、ひいきしてるなんて思う人はいないでしょ」
だから使いなさい、と初日に厳しく言われてしまってからは使うようになったが、それでも今日ほど急いで駆け込むことなどなかった。
控え室はごく小さな部屋だ。木製の椅子とテーブル、石造りのベッドが置かれているだけだが、その奥に更にもうひとつ扉があった。扉の前に置かれていた椅子を退け、ミシュアルはその中へ入った。
『万が一よ。万が一、発情したらこの部屋を使って。中から閂をかけられるようになっているから』
ラナはもとはひとつだった部屋を半分に分けて、発情したオメガが逃げ込める場所を作っていた。そこは外部からの侵入を防ぐために窓もない、小さな部屋だった。ネズミが通れる程度の小さな換気口が壁の高い位置に二十個ほど空いているのみで、家具は何もない。ただ隅にロール状にされた絨毯がたてかけられているだけの部屋だった。
平時であれば、独房かと思ったかもしれない。けれど、狭くて鍵のかかる場所は、発情状態に入ったオメガにとって安心できる場所だ。
ほっとしながら閂をかけ、ミシュアルはそのままずるずると座り込んだ。窓はないが、換気口のおかげでそれほど暑くはない。けれど身の内から湧き上がる熱はじっとりと内股を湿らせていた。
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