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番外編

無執のアルファは牙を疼かせる

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 イズディハール・カリム・ナハルベルカは、自分にそれほど物欲がないことを自覚していた。

 王家に生まれ、なに不自由なく育ったせいもあるかもしれないが、それでも特にあれこれと物を集める蒐集癖もなければ、高価なものを好むわけでもない。気に入ったものが全てで、美しく装飾の施された剣を商人から貰っても、市井で手のひらに馴染んだからという理由で買った安価な剣の方を愛用したり、かと思えばいつも履くサンダルはメスの水牛の革でなければ嫌だというこだわりはあった。

 そんな彼が、唯一執着しているものがあった。
 幼なじみでもある青年、ミシュアル・アブズマールだ。

 彼とはイズディハールが九歳、ミシュアルが六歳の時に出会い、一目惚れをした。熱で寝込んでいた彼との会話は短く、けれどその時のことはしっかり覚えている。そして、その後イズディハールがしでかしたことは忘れるどころか記憶に深々と刻み込まれている。

 まだ未分化で自分がどの性徴であるかもわからなかったイズディハールは、気付けば目の前にあったミシュアルのうなじにやわく牙を立てていたのだ。

 うなじを噛んでしまったが、多くのアルファを輩出する名家アブズマールの末っ子であるミシュアルはきっとアルファになる。そう思ったものの、しでかしたことへの罪悪感と、同時に抱え続ける恋心は成長するにしたがって膨れ上がった。

 ミシュアルの両親はアルファとオメガのつがいだが、兄姉は全員アルファだ。その中でも抜きんでて体格がよく、末は将軍か軍人かと言われていたミシュアルは、本人もいつか軍属になるのだと毎日鍛錬をこなしていた。
 きっとミシュアルはアルファになる。そうなればミシュアルはきっと軍属になり、二人の間には幼なじみ以外の肩書きが増える。たとえそれが叶わない初恋の成れの果てだとしても、跡継ぎを嘱望される身を自覚していたイズディハールは、それでいいと自分に言い聞かせていた。

 しかし、大きな誤算が生じた。ミシュアルはオメガだったのだ。

 あのアブズマール家の末っ子はアルファではなくオメガだったらしいという噂は、すぐにイズディハールの耳に入った。本人に直接聞きに行きたかったが、繊細な話題でもある。どうしようか迷った末、イズディハールはミシュアルの従姉であり、彼と非常に仲のいいラナを呼び出した。

「殿下が私を呼ぶなんて、どうしたの?」

 非常に気さくで物おじしない性格のラナは、王子に呼び出されたからといってびくびくしたりなどしない。侍女が置いていった焼き菓子にすぐ手を伸ばし、「何の用?」と聞いてきた。

「……なぜ聞くかを、聞かないでほしいんだが」
「私がなんで? って思わなかったら聞かないわ」
「…………」

 それは絶対に無理だとイズディハールは思った。なにせ、ラナは従弟のミシュアルを溺愛している。実弟もいるくせに、ミシュアルも欲しいなどと言うくらいなのだ。せめて彼女の逆鱗に触れないように、欲しい情報だけでも引き出そうとイズディハールは目の前のよく回る小さな唇を見つめた。

「ミシュアルの性徴判定の噂を聞いた。オメガだったのか」

 遠回しに言ったところでラナはじれるだけだ。それよりはと単刀直入に聞くと、ラナの細い喉はごくんと大きな音を立てた。

「うっ、あっ、んぐ」

 焼き菓子が喉に引っかかったのか、慌てて茶杯を傾けたラナは二杯ほども飲み干した後、目尻に浮かんだ涙を指先で拭うとうう、と唸った。

「び、びっくりした……もう、食べてる時に言わないで」
「すまない」

 責められるのはそこなのだろうかと思いながらも返事を待っていると、ラナはそうよと頷いた。

「ミシュアル、オメガだったの。アルファになるってみんな思ってたし……ミシュアルも思ってた。私も」

 おそらく誰もが、ミシュアルはアルファになると信じて疑わなかった。それはミシュアル本人もだ。いつかイズディハールが即位した時、力になりたいと彼は言ってくれた。
 けれどそれはもう叶わない。

 まっすぐ自分を慕い、輝かしい未来を思い描いていて日々邁進していた少年の夢は潰えてしまったのだ。

「綺麗だったわ、ミシュアルの石」
「……黄色だったのか」
「ええ、琥珀みたいに綺麗な黄色。五個あったから、五回、刺したんだと思う」
「…………」

 通常、性徴検査で行われる石での判定は一度だ。よほど曖昧な色にならない限り、一個の石で判定が出る。それが五個もあるということは、おそらくミシュアル自身か、付き添いの両親が再判定を望んだのだろう。

 それほどミシュアルは間違いなくアルファになると思われていたのだ。

 しかし実際、石は琥珀色に染まったという。それはまぎれもないオメガの証で、曲げようのない事実だ。

「ミシュアル、塞ぎこんじゃって……一昨日、やっと部屋に入れてくれたの」
「どうだった」
「ボロボロ。ずっと泣いてたんじゃないかしら。首輪なんかつけたくないって言ってた」
「そうか……」

 七年前、イズディハールが衝動に駆られるまま牙を突き立てた場所は、今は他の誰にも侵されないように首輪に守られている。それが取れる時は、ミシュアルにつがいが出来た時だ。

 緩やかな癖のある黒髪の隙間から覗いていた剥き出しの自由で滑らかな褐色の首筋はもう、オメガという性徴に囚われてしまったのだ。 

(ミシュアルがオメガなら、私は)

 手を取れるだろうかと、イズディハールの胸には仄暗い気持ちが去来した。しかし同時に、幼い頃だったとはいえオメガのうなじを勝手に噛んだという事実を思い出す。

(言えるのか? ミシュアルに、……私はお前の首を、噛んだと)

 イズディハール様、殿下、と笑いかけてくれる笑顔は、自分を信頼してくれている証拠だ。その信頼に甘えて、今の今まで言わずにいた。
 黙秘の対価をどうするのだと、自分自身に責められている気さえした。

 ラナが去り、一人になったイズディハールはぼんやりと窓の外を眺めながら、ふと自分の口に手をやった。
 指先で辿るのは、オメガやベータに比べて鋭いと言われる犬歯だ。鋭利なそれを指でなぞり、尖った先に指先をぐっと押し付ける。小さな痛みが走って、じわりと鉄さびのような味が舌に落ちた。

(こんなものじゃない)

 あの時牙を立てた薄い皮膚と、そこから滲んだ赤い血。どちらも、今もまだ記憶に甘く焼き付いていた。




おわり
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みんなの感想(11件)

姜 月藍
2022.12.29 姜 月藍

好きで何度も読み返してたのがいきなり書籍化され、思うように読めなくて残念。
ストーリー性と濡れのバランスが良くて、下品にならず、とても満足して読ませて頂いておりました。ある意味ストーリーはこうなるんだよねって思うところですが、その安心感がとても良いと思います。
で、つい買ってしました。
イラストの力って凄いですね、ミシュアルがもっとゴリゴリなイメージだったのすが、スッンと馴染みました。私の想像だけで読むとちょっとゴツい絡みも、イラストが着くだけで濡場になるんだと目から鱗でした。
次作も楽しみにしております♡

晦リリ
2022.12.30 晦リリ

嬉しいお言葉、本当にありがとうございます!
きっと皆わかるだろうけど、それまでのもだもだを楽しんでほしいな、あとオメガならではの苦悩を描きたいなと思って書き始めたお話だったので、いただいたコメントのお言葉がとても嬉しいです。
イラストの力、本当にすごいですよね。文だけだとどれほど詳細に書いても人によってイメージが変わってしまいますが、イラストで明確な像が結ばれると、一気に物語の彩度が上がる感じがして…イラストを担当してくださった星名あんじ先生には本当に感謝しております。
次作&現在の連載作でも楽しいと言っていただけるように頑張りたいと思います。
感想ありがとうございました!

解除
にらたま
2021.07.13 にらたま

非常に面白かったです。つい、夜を徹して読破してしまいました。
興奮が冷めないので、作者様に感謝をお伝えしたく感想書き込みしております。素晴らしい作品をありがとうございました。
明日再読しようっと!!繰り返し読ませて頂きます。
続編、番外編など楽しみにしております。

晦リリ
2021.07.13 晦リリ

睡眠時間が心配なところではありますが、読了ありがとうございます°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°
時間はかかるかと思いますが、続編や番外編が出たときは、また楽しんでいただけると幸いです。
感想ありがとうございました!

解除
HANA
2021.02.20 HANA

初めまして。終わってしまって嬉しいのか寂しいのかよくわからないまま何回も読み返してます。この話がとても好きでした。

晦リリ
2021.02.23 晦リリ

最後までお読みくださり、ありがとうございました。
またそんなふうに思っていただけるようなお話がかけたらなと思います。

解除
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