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01.首輪-1
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半球形の丸屋根や尖塔が組み合わさった壮麗な建物が集まる広大な皇宮。その一区画に建つ宮殿は後宮と呼ばれ、この帝国の皇帝に侍るための女たちが住んでいた。
ある晴れた日の日中、その後宮が擁する庭園の噴水の傍で、親子が戯れていた。
「皇女はすっかり重くなったな」
茶色に近い金髪を軽く後ろへ流した体格の良い男が、駆け寄ってきた三歳ほどの幼い娘を抱き上げ、琥珀色の目を細めて笑う。
男は無地の絹の足首丈の服を帯で留め、その上から同じ丈で長袖の濃色の上着を羽織っている。上着の縁と裾の緻密で豪奢な金糸の刺繍や、腰に差した剣の柄と鞘を彩る宝石が、男の身分の高さと帝国の国力を示していた。
体の線が見えづらい衣装でも、彼の広い肩や鍛え上げられた肉体は隠しきれない。勇壮な武将のようにも見えるこの男こそが、大陸の方々へ版図を広げ覇権を握る、帝国の皇帝ファルハードであった。
傍らには抱き上げられた皇女を産んだ妃が、寄り添って微笑んでいる。なお、妃と称されるが厳密には婚姻関係にない。後宮の女官以外の女は等しく皇帝の奴隷であり、彼の寵愛を一時期でも得た奴隷が妃と呼ばれているだけだ。このような女奴隷が、後宮には大勢いる。
どこかから微かに聞こえてくるゆらぐような音の楽器の旋律は、妃たちの無聊を慰めるためのものであるがどこか物悲しく、噴水の水音の方が晴れやかに聞こえた。
ファルハードは娘とひとしきり戯れ終えて、妃の肩を抱き寄せて頬へ軽く口づけると、今度は噴水の縁に腰かける女の方へ向かった。
この女も妃で、腕には赤ん坊を抱えている。
「皇子はよく眠っているか?」
「はい陛下。今はちょうど目覚めておりますが、普段はよく眠る良い子です」
男児を産んだ妃の隣に腰を下ろすと、ファルハードは彼女から赤ん坊を受け取った。それぞれ接する時間は短いとはいえ、彼は既にもう何人もの赤ん坊を抱いてきた。だからその抱き方は意外と手慣れている。
この子は生まれて四か月ほど経っていた。しかしその間ファルハードが顔を見に来た数は片手の指で足りる。全く興味がないわけではない。ただ、多忙なのと、それに対して妻子が多すぎるのだ。
父親へ無邪気に笑いかけてくる赤ん坊に、ファルハードは頬を緩めて妃と顔を見合わせる。だがそんな時間もあっという間に終わってしまう。少し離れて立っていたファルハードの側近が、時間を知らせるために忍び寄って耳打ちする。
するとファルハードは、赤ん坊を妃に返した。
「また皇子の顔を見にいらしてくださいな。まだ赤ん坊ですから、陛下のご尊顔をよく覚えさせとうございます」
妃は寂しさを滲ませながら、赤ん坊を口実に次の面会を催促しようとする。
多くの女の中の一人であろうと、妃を含む女奴隷たちはファルハードの歓心を買おうと必死だった。それはこの後宮で権力を得るためだけではない。選択肢のない唯一の男にしては、ファルハードは美しく、女を懐柔する手腕に長けすぎた。女たちのほとんどが、彼を愛していたのだ。
「ん? 皇子はそなたによく似ているから聡明だろう。少しばかり会わぬうちに私の顔を忘れるようなことなどない。安心しろ」
「もう、陛下ったら……」
そんな妃のいじらしい願いを知ってか知らずか、ファルハードははぐらかすような答えを返し、また会いにくるとは絶対に言わない。
この妃は皇子を産んだからには、この先余程のことがなければ安泰だ。ファルハードも比較的高い頻度で訪ねてきている。
それでも彼女はどこか不安げだった。それは、この表向き優しげな皇帝に、心から愛されているわけではないと悟っているからだ。ファルハードは気まぐれで、戯れに愛しているふりをしたり、突然飽きてしばらく放置してみたり、自分の息子を産んだ妃でさえ本当に愛したことはないであろう男だ。
この後宮の女は彼のもの。だが、彼は誰のものでもない。いつの日か、自分の部屋から足が遠のくのだろうと、女たちは胸を焦がしている。
切なげな二組の母子に見送られながら、皇帝は後宮を後にした。
ある晴れた日の日中、その後宮が擁する庭園の噴水の傍で、親子が戯れていた。
「皇女はすっかり重くなったな」
茶色に近い金髪を軽く後ろへ流した体格の良い男が、駆け寄ってきた三歳ほどの幼い娘を抱き上げ、琥珀色の目を細めて笑う。
男は無地の絹の足首丈の服を帯で留め、その上から同じ丈で長袖の濃色の上着を羽織っている。上着の縁と裾の緻密で豪奢な金糸の刺繍や、腰に差した剣の柄と鞘を彩る宝石が、男の身分の高さと帝国の国力を示していた。
体の線が見えづらい衣装でも、彼の広い肩や鍛え上げられた肉体は隠しきれない。勇壮な武将のようにも見えるこの男こそが、大陸の方々へ版図を広げ覇権を握る、帝国の皇帝ファルハードであった。
傍らには抱き上げられた皇女を産んだ妃が、寄り添って微笑んでいる。なお、妃と称されるが厳密には婚姻関係にない。後宮の女官以外の女は等しく皇帝の奴隷であり、彼の寵愛を一時期でも得た奴隷が妃と呼ばれているだけだ。このような女奴隷が、後宮には大勢いる。
どこかから微かに聞こえてくるゆらぐような音の楽器の旋律は、妃たちの無聊を慰めるためのものであるがどこか物悲しく、噴水の水音の方が晴れやかに聞こえた。
ファルハードは娘とひとしきり戯れ終えて、妃の肩を抱き寄せて頬へ軽く口づけると、今度は噴水の縁に腰かける女の方へ向かった。
この女も妃で、腕には赤ん坊を抱えている。
「皇子はよく眠っているか?」
「はい陛下。今はちょうど目覚めておりますが、普段はよく眠る良い子です」
男児を産んだ妃の隣に腰を下ろすと、ファルハードは彼女から赤ん坊を受け取った。それぞれ接する時間は短いとはいえ、彼は既にもう何人もの赤ん坊を抱いてきた。だからその抱き方は意外と手慣れている。
この子は生まれて四か月ほど経っていた。しかしその間ファルハードが顔を見に来た数は片手の指で足りる。全く興味がないわけではない。ただ、多忙なのと、それに対して妻子が多すぎるのだ。
父親へ無邪気に笑いかけてくる赤ん坊に、ファルハードは頬を緩めて妃と顔を見合わせる。だがそんな時間もあっという間に終わってしまう。少し離れて立っていたファルハードの側近が、時間を知らせるために忍び寄って耳打ちする。
するとファルハードは、赤ん坊を妃に返した。
「また皇子の顔を見にいらしてくださいな。まだ赤ん坊ですから、陛下のご尊顔をよく覚えさせとうございます」
妃は寂しさを滲ませながら、赤ん坊を口実に次の面会を催促しようとする。
多くの女の中の一人であろうと、妃を含む女奴隷たちはファルハードの歓心を買おうと必死だった。それはこの後宮で権力を得るためだけではない。選択肢のない唯一の男にしては、ファルハードは美しく、女を懐柔する手腕に長けすぎた。女たちのほとんどが、彼を愛していたのだ。
「ん? 皇子はそなたによく似ているから聡明だろう。少しばかり会わぬうちに私の顔を忘れるようなことなどない。安心しろ」
「もう、陛下ったら……」
そんな妃のいじらしい願いを知ってか知らずか、ファルハードははぐらかすような答えを返し、また会いにくるとは絶対に言わない。
この妃は皇子を産んだからには、この先余程のことがなければ安泰だ。ファルハードも比較的高い頻度で訪ねてきている。
それでも彼女はどこか不安げだった。それは、この表向き優しげな皇帝に、心から愛されているわけではないと悟っているからだ。ファルハードは気まぐれで、戯れに愛しているふりをしたり、突然飽きてしばらく放置してみたり、自分の息子を産んだ妃でさえ本当に愛したことはないであろう男だ。
この後宮の女は彼のもの。だが、彼は誰のものでもない。いつの日か、自分の部屋から足が遠のくのだろうと、女たちは胸を焦がしている。
切なげな二組の母子に見送られながら、皇帝は後宮を後にした。
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