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10.希望と決意-4
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「気がついたら、お母様のお葬式も終わってしまっていたわ。私それから嫌なことが起きた時は、ぼんやりするようになったみたい。自分では覚えていないけれど、いつの間にか時間が進んでいるから、そうなんでしょうね」
どうやら、ファルハードが人として振る舞うと発症するあの無反応のことを言っているようだ。シュルーク自身もおぼろげながら把握していたらしい。
「私ひとりでは、嫌なことを抱えきれないの。だからきっと、最初から抱えずに済むように、見ないでいるの」
シュルークの母親の言葉は、そのままの効果を発揮した。見るな、忘れろという指示のとおり、ああして虚ろになることで、見ていないのか、見ながらすぐに忘れ去っているのかは分からないが、結果的に彼女の頭に惨劇を残さないようにできた。
しかし母の誤算か娘の幸運か、母親の事件の後も、シュルークは同じ方法で自分に都合の悪いことを拒絶できるようになってしまったのだ。
おかげでシュルークは、ファルハードの人間としての行動を全て見なかったことにして、目の前にいるのが犬だと信じ続けていられる。
「お母様がいなくなって、しばらくはずっとぼんやりしていたけれど、あの子が目を覚まさせてくれたのよ。あの子がずっと一緒にいてくれたから、少しだけ、嫌なことも抱えられるようになったの。なのに、お父様が……」
前の犬の話になり安らいだ声音で上向いていたが、最後は尻すぼみになった。
シュルークと出会った時、彼女は語っていた。父親が飼い犬を殺してしまったと。それで代わりの犬を与えてもらえないから、同じ琥珀色の目をしていたファルハードを自分の犬にすることに決めたと。
ファルハードにその気持ちはわからないが、彼女が犬を余程大事にしていたのは、精神的な支えになっていたからなのだろう。
「あの子の名前は、お墓に置いてきたわ。口にしたら、悲しくてまたぼんやりしてしまうから。ぼんやりしていたら、お父様に怒られて、長い時間戻ってこられなくなるの」
ファルハードを飼い犬扱いしておきながら名前をつけず、前の犬も『あの子』と呼んでいたのでシュルークは名付けない主義なのかと思っていたが、どうやら先代にはれっきとした名前があったようだ。
「でも! あなたが来てくれたから、最近は減ったのよ」
気落ちしたのを無理に明るく振る舞っている。それぐらいはファルハードにもわかる。
だいたい、権謀術数の巡る皇宮で兄弟同士の命の取り合いを勝ち抜いてきたファルハードだ。相手の些細な反応から感情を読み取ることなど出来て当然である。
「大好き……」
不意に、囁くように耳元へ注がれた言葉に、ファルハードはぞくりとした。
横向きに寝ていた首の下から腕を差し込まれ、後ろから抱き締められる。
「大好きよ。私のかわいい、勇ましい犬。あの子がお父様に殺されてしまって、私とても後悔したの。こんなに悲しくなるなら、この身を投げ出してでもあの子をかばえばよかったって。私はあの時、いつものように何も見なかった。だからあの子の最期の瞬間を知らないの。全部片付いてから気がついた。何もしなかった。見なかったから、何もできなかった。いつも私の傍にいてくれたのに」
声が震え、湿っぽくなってきた。抱き締めるシュルークの腕に力がこもる。
「もうあんな思いをするのは嫌なの。だから今度こそは逃げないで、あなたのことを守るからね。だから、ずっと元気でいてね……」
そのままシュルークは、頭の後ろでぐすぐすと泣き始めた。
ファルハードは泣かれるのは面倒で嫌いだ。しかし今回は、苛立ちや煩わしさとは違う何かよく分からない胃の辺りの不快感を覚えながら、シュルークが泣き疲れて眠るまで、好きなようにさせた。
どうやら、ファルハードが人として振る舞うと発症するあの無反応のことを言っているようだ。シュルーク自身もおぼろげながら把握していたらしい。
「私ひとりでは、嫌なことを抱えきれないの。だからきっと、最初から抱えずに済むように、見ないでいるの」
シュルークの母親の言葉は、そのままの効果を発揮した。見るな、忘れろという指示のとおり、ああして虚ろになることで、見ていないのか、見ながらすぐに忘れ去っているのかは分からないが、結果的に彼女の頭に惨劇を残さないようにできた。
しかし母の誤算か娘の幸運か、母親の事件の後も、シュルークは同じ方法で自分に都合の悪いことを拒絶できるようになってしまったのだ。
おかげでシュルークは、ファルハードの人間としての行動を全て見なかったことにして、目の前にいるのが犬だと信じ続けていられる。
「お母様がいなくなって、しばらくはずっとぼんやりしていたけれど、あの子が目を覚まさせてくれたのよ。あの子がずっと一緒にいてくれたから、少しだけ、嫌なことも抱えられるようになったの。なのに、お父様が……」
前の犬の話になり安らいだ声音で上向いていたが、最後は尻すぼみになった。
シュルークと出会った時、彼女は語っていた。父親が飼い犬を殺してしまったと。それで代わりの犬を与えてもらえないから、同じ琥珀色の目をしていたファルハードを自分の犬にすることに決めたと。
ファルハードにその気持ちはわからないが、彼女が犬を余程大事にしていたのは、精神的な支えになっていたからなのだろう。
「あの子の名前は、お墓に置いてきたわ。口にしたら、悲しくてまたぼんやりしてしまうから。ぼんやりしていたら、お父様に怒られて、長い時間戻ってこられなくなるの」
ファルハードを飼い犬扱いしておきながら名前をつけず、前の犬も『あの子』と呼んでいたのでシュルークは名付けない主義なのかと思っていたが、どうやら先代にはれっきとした名前があったようだ。
「でも! あなたが来てくれたから、最近は減ったのよ」
気落ちしたのを無理に明るく振る舞っている。それぐらいはファルハードにもわかる。
だいたい、権謀術数の巡る皇宮で兄弟同士の命の取り合いを勝ち抜いてきたファルハードだ。相手の些細な反応から感情を読み取ることなど出来て当然である。
「大好き……」
不意に、囁くように耳元へ注がれた言葉に、ファルハードはぞくりとした。
横向きに寝ていた首の下から腕を差し込まれ、後ろから抱き締められる。
「大好きよ。私のかわいい、勇ましい犬。あの子がお父様に殺されてしまって、私とても後悔したの。こんなに悲しくなるなら、この身を投げ出してでもあの子をかばえばよかったって。私はあの時、いつものように何も見なかった。だからあの子の最期の瞬間を知らないの。全部片付いてから気がついた。何もしなかった。見なかったから、何もできなかった。いつも私の傍にいてくれたのに」
声が震え、湿っぽくなってきた。抱き締めるシュルークの腕に力がこもる。
「もうあんな思いをするのは嫌なの。だから今度こそは逃げないで、あなたのことを守るからね。だから、ずっと元気でいてね……」
そのままシュルークは、頭の後ろでぐすぐすと泣き始めた。
ファルハードは泣かれるのは面倒で嫌いだ。しかし今回は、苛立ちや煩わしさとは違う何かよく分からない胃の辺りの不快感を覚えながら、シュルークが泣き疲れて眠るまで、好きなようにさせた。
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