【青天白雪、紅の君。2072】 〜2072年夏、僕は無口な少女と出会った〜

凜 Oケイ

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第二部

@26 仕事場

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 ウェイの家に住み始めて数日が経った。最初は慣れないと思った広港市の街も多少は慣れてきた。フィネコン社のサービスが制限されているというのは未だに不安と不便を感じることもあったが、それがなくなるのも時間の問題だった。
「ウェイ、入るよ」
 僕はコーヒーの入ったマグカップを二つ両手に持ちつつ、肘でドアの端に触れた。ドアは無音で横に滑り開いた。最初はドアノブがないこのドアをどう開けるものかと悩んだが、慣れるとドアノブよりも便利だと思うようになった。
 ウェイの部屋に入るのは初めてじゃないが、彼が仕事をしているのを見るのは初めてだった。部屋の至るところによくわからない機械があり、床と天井にはケーブルが何本も走っていた。その中に佇むのはウェイの椅子だった。彼はぐんにゃりとした形状の椅子に座り、無心にキーボードを叩いている。僕が恐る恐る近づくとウェイは振り向いた。彼は両眼をすっぽり覆うようなゴーグルをつけていた。僕はそれがすぐにGDAIグラスだと気づいた。ウェイはそれを外し、どうしましたかと微笑んだ。魅力的な笑顔だ。
「コーヒーを淹れたんだ。冷めないうちに君に持ってこようと思ってね」
 ウェイは微笑んで僕からマグカップを受け取り一口すすった。
「仕事の邪魔になったかな?」
「いえ、ちょうど休憩しようと思っていました」
 ウェイは椅子から降り、床のケーブルを足でどかして空いたところに座った。僕も真似して空いたところに座る。僕はケーブルがなぜ淘汰されたのかわかる気がした。邪魔だからだ。
「広港市には慣れましたか?」
「ああ、いいところだと思うよ」
「広港市は別名、自由の都とも呼ばれています」
「共産党の独裁に対する防波堤というわけだ」
 ウェイは頷く。
「それもありますが…個人証明が導入されていない都市というのは世界にそういくつもあるものじゃありませんから」
 僕は彼の言葉に疑問を抱いた。
「個人証明がないことが自由っていうのかい?」
「見方によっては。コズさんは自由な社会とは何だと考えますか?」
「難しい質問だね」
 僕はそう言ってウェイの応答を待ったがウェイは無言のままだった。彼は僕の答えを待っているのだ。
「自由は…道の多様さで言い表せると思う。誰が何にでもなれる社会だ」
「コズさんはそれが実現されていると思いますか?」
「ああ、もちろん。…教育はほとんどが無償化されたし、福祉だって過去に比べたら何倍も良くなった」
 それらの実現にかなり貢献したのが個人証明だった。民営化についた汚名を返上し、彼らは行政以上に人々の生活に密着した存在となった。選択可能な福祉というのは、資産家にとっても貧民にとっても魅力的だった。少なくとも日本では。
「ええ、それは事実です。人々の可能性は平等に開かれました」
「僕はそれを自由だと思っているが…違うのかい?」
「我々はその自由を手に入れるために他の自由を代償にしているんです」
 僕はしばらく考える。安価なサービスの対価。
「監視のことを言ってるのか」
「まさにそうです。代価として僕たちは自分たちの聖域を売り渡している」
 このような言説は個人証明が出来(しゅったい)しはじめた頃に活発に言われたものだ。だが実際、フィネコン社の扱う情報が外部に漏れたり悪用された例はない。安全に管理されているのならば自分の聖域、つまりプライバシーを売り渡すことに何の問題があるのだろうか? 
「それが問題だとは思えない。むしろ安全が保障されていると感じるさ」
 僕は街中(まちじゅう)にある冷たい眼たちを思い出した。つるつるしたレンズがあちこちにぶら下がっている。
「では…カメラの存在は自分の生活に干渉しないと?」
 ウェイが尋ねる。眼が前髪に隠れていてもウェイが僕を見つめているということがわかった。
「たかだかレンズだ。自分が監視されているかどうかを気にするのは犯罪者だけさ」
 僕は言い終えてから自分の失言に気がついた。一部の文化圏では人工の生体部品を使用している人間に対して、部品名や素材名を言うことが差別的だと見なされている。
「たかだかレンズという言い方は悪かったかもしれない。すまない」
「何が問題なんですか?」
 皮肉ではなく、ウェイは本当に気づいていないようだった。僕は彼の眼のあたりを覗く。
「君が義眼ということを忘れていた。ほら…レンズだろう?」
「あなたの眼だってそうでしょう?」
 僕は唾を飲む。確かにそうだ。義眼は多機能なものを除けば実際の眼球とそう構造は変わらない。問題なのは素材だけだ。最先端の生体素材か、それとも水晶体や神経か。それは重大な違いなのだろうか?
 僕は心底彼に敬意を払った。彼は小さな倫理的な問題にはあまり頓着しないように見えた。そんな彼の姿勢が僕にはやけに格好付いて見えた。美しい女性的な見た目と打って変わって彼には力強い精神を感じずにはいられなかった。
「監視カメラも人間の眼も、もちろん義眼も本質的には変わりありません。その奥には人格が存在しているのですから。レンズがこちらを向いていたら相手が自分を見ていないと証明できないのです」
 僕は頷く。マオの死で学んだことだ。多くの個人証明企業は必要がなければ映像は自動解析しか通さないと公言しているが、人間による確認がどれほどなされているかは公表されていない。
「監視は想像以上に我々の精神と行動に影響を及ぼします。監視の可能性があるというだけで、我々の行動と思考は影響を受けるんです」
 僕はすこし考えたが、同意しかねた。僕が同意を留保したことに彼は気づいたようで話題を変えた。
「コズさん、あなたには人に見られたくない一面があるでしょう?」
 僕はまったく同意した。
「あぁ…でもみんなそうだろう? 君だって何かしら隠していることがあるはずだ」
「もちろんです。誰もがそうなんです。そしてそれは悪いことでも何でもありません」
 彼は言葉を続ける。
「では、もしも誰かが常にあなたを見ているとしたら? あなたは隠された一面を露呈することができますか?」
 僕はすこし考えて、首を横に振った。幽霊のことや僕の抱いている自己嫌悪、それらを他人に見せることはしたくない。
「でも、それが社会における監視と直接結びつくとは考えられない。僕の隠された面は私的な空間での話だ」
 僕の他人に見られたくない部分は基本的には私的な空間、つまりは個室だったりのみで露呈している。それは社会とは切り離されているはずだ。
「言いたいことはわかります。しかし私的空間と社会の区別が薄くなっている社会においてもそれは通用するでしょうか?」
 彼は床に走るケーブルに触れた。
「私がなぜこんな不便なものを使っているかわかりますか?」
「通信や給電が安定しているから?」
「それもありますが、最大の理由は私が管理できるからです」
 彼はケーブルのうち一本を探し当て、それを強引に引っ張った。そうすると端子が抜けて彼の机の上にあった機械のうち一つの光が消えた。
「”便利”な無線同期や空間充電を使用するということは、自分の情報や機器の状態をサービスを提供している企業に筒抜けにさせるのと同義なのです。社会と私的空間の隔たりはもはや幻想に過ぎません」
 僕はマオを思い出す。僕とユヅハが絶対的に安全だと思っていた空間も監視下にあった。
「最終的に我々は自分たちの生活のすべての空間を企業に提供するようになるでしょう。しかしそれは歴史上最も健全な監視です。それは独裁政権や全体主義のためではなく、人々の安全と健康、平等のための監視です」
 ならば何の問題があるのだろうか。
「人々は自分が見られているかもしれないと感じれば、より勤勉に、より倫理的になるでしょう。社会は何倍にも健全で効果的なものになるでしょう。しかしそれで喪われるあまりに大きなものがあります」
 彼はわざとらしく間を空ける。
「それは悪です。悪は人々の意識からすこしづつ刈り取られ、社会はいずれ悪のない社会に近づくでしょう。誰もが望んだ理想郷です」
「悪い話じゃなさそうだが」
「悪の本質は究極の自由です。他者に害を加え、利己的である…。確かにそれは反社会的です。しかしそれを思想として持つのは必要なことです。人類が悪の思想を失ったとき、それは人類の競争能力の終焉です。我々はこれを萎縮効果と呼んでいます。人類はいわば自分自身を去勢しようとしているんです」
 多少の論理の飛躍に目を瞑れば、僕は確かに彼の言説を理解できた。
「すでにその徴候は現れています。宇宙開発がなぜ停滞しているかわかりますか?」
「資金がないからだろう」
「それは表向きの理由です。1969年に月面に星条旗が立てられてから一世紀が過ぎましたが、未だに我々は月面に小規模な研究基地を持っているのみです。過去に比べたら技術の蓄積は幾倍にもなるはずなのに」
「…我々は宇宙開拓の精神を失いました。それは善によって裏付けられています。宇宙環境の保護という名目です」
 彼の言っていることは真実だ。オゾン層の破壊や宇宙ゴミに対する目に見えない嫌悪感と、自分たちの生活に直接関係しない”無駄”なものに巨額の投資がなされているという嫌悪感が合体し、大きな反対運動となった。宇宙開発は過去最大の停滞を迎えている。
「じゃあ監視は人類の発展のためにない方が良いってことかい?」
 といっても監視は安全で、安全は監視だ。透明性のない社会は半世紀よりも前のような腐敗した社会だろう。そういう意味だとしたら僕は彼の意見には賛成できないかもしれない。
「我々には猶予が必要です。不可逆的な変化をもたらす前に我々はじっくり考えるべきです」
「止めることなんてできない」
「そうかもしれない、しかし遅らせることはできる。それが我々の目的です」
 我々、彼と思想を共にする人が他にもいるということだろう。
「重要なのは知り、考えることです。安全と利便性の代償とは何か。その代償の大きさは適切かどうか。他の方法はないのか。爆発的に広がる監視の網は一考の隙すら与えてはくれません」
「僕たちには言論の自由がある。その思想を文書にして公開するのはどうだろうか」
「誰も耳を貸しませんよ」
 僕は口にこそしなかったものの心の底で同意した。すでに山ほど掘り返された議論だ。今やこういった主張は反社会的とまでみなされている。実際にテロリストもまたこのような主張をしているのも原因だろうが。
「ですが、何か大きな事態が起きれば人々の注目を集めたり、網の拡大を遅らせることもできるでしょう」
 僕はその意味を尋ねようとしたがウェイは立ち上がった。休憩終了の合図でもあり、雑談の終了の合図でもあった。
「興味深い話だったよ」
 彼は思想を熱く語るようなことはせず、落ち着いて僕を諭すような口調だった。説得力に満ちていたが、彼はどこかで自分で口にした思想と距離を置いているような気もした。
「コーヒー、美味しかったですよ」
 部屋から出ようとする僕に彼はそう言った。僕は頷き、扉が静かに閉まった。
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