【青天白雪、紅の君。2072】 〜2072年夏、僕は無口な少女と出会った〜

凜 Oケイ

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第三部

@50 忘却

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“男子寮C棟”
 僕は寮に入らず、建物の裏側へと回った。数日前にも経馬と夕食後の散歩がてら訪れた場所だ。舗装された地面にはどこから来たのかわからない小石がいくつか転がっていた。
 僕は自然にあの日の会話を思い返す。ここは頻繁に訪れる場所だったが、あの日の会話は特に記憶に残っていた。言い方を変えれば、何か引っかかるところがあった。
「あれって金星じゃないか?」
 僕は空を指差す。もちろんいま金星は昇っていない。
「…雪降るかなぁ」
 経馬が確かそんなことを言った。僕と彼の言葉を反芻していく。
「さいきん降ってなかったから降って欲しいね。降ったら雪だるまを…」
 自分の声が途切れる。やはり何かが引っかかっているのだ。
 雪…、そう雪。白く降りしきる。何もかもが白い。でも赤があった。赤い眼だ。血のように赤い眼。あの眼で雪は降る。いや、浮いている。そして笑い、僕に話しかける───
「…どうして、どうして忘れることができたんだ!」
 僕は小石を蹴飛ばす。数日前にはカフェにも行った。そこでたくさん話したじゃないか。どうして僕は彼の存在を忘れることができたのだろう。大切にすると自分から言ったのに。
 僕は首を左右に振る。右にも、左にも、そして前にも後ろにも雪はいない。
「雪! どこに行ったんだ!」
 返事はない。風だけが音を立てる。
「雪…怒っているのか…? 僕が君を忘れていたから…」
 返事はない。
「雪、頼む…返事をしてくれ! もう二度と君を忘れないと誓う…」
 返事はない。
「君がいないといけないんだ…隠れないでくれ…」
 返事はない。
 雪を忘れるなんて初めてだった。いつもそばに浮いているのだ。忘れようと思っても忘れることなんてできない。最後に雪を見たのはいつだっただろうか。記憶がかなり曖昧になっている。昨日までいたような気もした。しかし最後の強い記憶はカフェだった。あそこで雪はある告白をした。
“ボクってたびたび消えるでしょ?"
 僕が認識をしていないとき、雪は意識がないという話だった。そしていま僕はある恐ろしい可能性を着想した。それが今も起こっているとしたら? 雪は意識がなく、どこにもいないということになる。
「いいや、そんなのおかしい。僕はいま確かに雪を意識している」
 しかし雪はいない。
 次々と悲観的な推測が浮かぶ。雪が僕のもとから逃げた? 僕が意図せず何らかの方法で雪を消し去ってしまった? そもそも今まで雪と接触できたのが異常だったのではないか? すべての可能性がもっともらしい。しかしどの可能性も根拠不足だった。
「雪…」
 僕はどうするべきかまったくわからなかった。ただ名前を呼び続けることしかできなかった。誰かに相談することだってできない、相談したとしても雪がどこにいるかなんて僕以上に見当がつかないだろう。
 僕はできるだけ自分の思考を落ち着かせる。少なくとも雪を探すのは秒単位、分単位で急を要する事態ではなさそうだ。もし雪が何らかの期限を設けたとしたら僕は既にそれを超過した可能性も高い。
「ゆっくり考えるんだ」
 雪は消失に際して何らかの予兆(サイン)を出していたりはしなかっただろうか。僕に何かを伝えようとはしていなかっただろうか。
 カフェでの会話は大きなヒントになりそうだ。それ以前には? 思い当たることはほとんどなかった。中華人民共和国から帰って、僕はごくごく平和な三ヶ月を過ごした。雪とはたまに他愛のない話をした。しかし雪から何か積極的に話すことはほとんどなかった。そう考えると五日前のカフェでの雪との会話はすこし珍しかった。
 もっと前はどうだろうか。例えばユヅハの家で過ごした三週間弱。僕はあのとき彼に雪という名前をつけた。少年はとても白かったから。僕は更に遡る。七月半ばに僕は雪と出会った。ユヅハと出会ってすぐのことだ。最初の頃、僕は雪を毛嫌いしていた。
 雪と過ごした期間は半年にも満たないが、直感的には幼馴染のような近しさを僕は感じていた。
 雪は物事を言うのに婉曲でわかりづらい表現を使ったりはしない。自分が消えるのを自分の意思かそうでないかに関わらず、あらかじめ予期していたなら僕にそう伝えるだろう。もしそうでないとしたら、雪自身が予期していなかったか、予期に確証が持てなかったかだ。
 僕は自分がまだ冷静であることに安心した。昔の僕なら取り乱して雪の名前を叫んでいただろう。しかし今の僕は状況を変えるのは感情の暴走ではなく冷静な思考であるということを理解している。自然と僕はまずどこに行くべきか決めることができた。寮のランドリー室、雪と出会った場所だ。
 僕は速歩きで寮棟に入り、階段を駆け上がる。エレベータを使う時間すら惜しい。僕は息を切らしながら通い慣れたランドリー室に入った。中にいた生徒が一瞬だけこっちを見て目線を外した。
 切れかけた電灯が明滅する。僕は冷たい長椅子に腰を下ろす。ここに来れば雪と出会えると考えていたのは楽観的すぎた。僕は手を組んで静かに頭を下げた。僕の手と汚れた床が視界に入る。耳には洗濯機の駆動音だけが入る。
 しばらくしてさっきまでいた生徒が洗い上がった洗濯物を携えていなくなり、ランドリー室は無人となった。
「雪」
 僕は呼びかけるが、返事はない。なにも変わらなかった。僕の手と汚れた床しか見えない。
 しばらくして二人の生徒がやってきた。彼らは洗濯機を回し、待ってる間に談笑をして、きっかり三十分後にいなくなった。そしてまた生徒がやってくる。今度は一人で、彼は僕のように静かに三十分間を過ごした。次の生徒はヘッドフォンをつけて音楽を聴きながら鼻歌を歌い続けた。しばらくしてから訪れた生徒はいびきをかいて眠ってしまった。彼がいなくなった頃から僕はすこしずつ寒さを感じ始めた。日が暮れたのだろう。ランドリー室の暖房は弱く、僕は指先の感覚が薄まっていくのを感じた。
 僕は誰もいないときに何回か雪の名前を呼んだが、声は部屋の壁に吸い込まれていくだけだった。寒さがだんだんと末端から四肢に伸びてくるのを認識できた。
 僕の意識は天井の切れかけた電灯のように明滅し始めた。しばらく切れてはまた点き、また切れる。胴体にまで寒さが回り始めた頃、現実と夢の境界は曖昧になりはじめた。
 僕は自分がなぜここにいるのかわからなかった。そうだ、誰かを探しているんだった。でも誰だったっけ。幽霊だよ。幽霊か。うん、幽霊。雪という名前の幽霊を僕は探しているんだ。そうなんだ。
「どうしていなくなったんだろう?」
 さぁね、いる必要がなくなったんじゃない?
「僕を嫌いになったのかな」
 僕は自分に尋ねる。
 違うと思うな。たぶん助けが要らなくなったんだよ。
「助け?」
 僕の視界が一瞬だけ開けた。僕の手と汚い床が見え、そしてまた見えなくなった。
 そう、幽霊はきっと君を助けに来てたんだよ。
「そうか」
「そうかもしれないな」
 僕は遠くに雪が見えた。幽霊ではなく、降りしきる雪だ。遠くなのに、雪の結晶の一粒一粒まで見える。綺麗だ。僕は白いあそこまで歩きたくなった。
「大丈夫?」
 大丈夫だ、一人で歩けるさ。
「大丈夫か?」
 世界が揺れている気がした。やめてくれ、もう少しこのままにしておいてくれないか。
「おい、起きろ」
 僕は目を開ける。じゃあ僕はさっきまで目を開けていなかったのか。さっきまで見えていた景色は何だったのだろう。
「聞こえているのか?」
 目の前に顔があった。眼鏡をかけている。女性の声だ。オレンジ色の服を着ていた。
「おい、」
 僕の頭のなかは一気に澄み渡った。眠ってしまっていたのだろう。そして僕は一気に寒さを感じた。身体が震え、指が動かない。
「…ふ、副寮長」
 僕は腕輪を見る。すでに夜だ。副寮長は僕の手に触れた。
「かなり冷えているな、こんなところで寝るから…」
 僕は震えながら立ち上がる。
「部屋に帰ってシャワーを浴びなさい」
「すみません、迷惑をかけて」
 副寮長は呆れたような表情をしながら手でとっとと行きなさいと表した。
 寮室に帰ると経馬がいた。
「おいコズ、顔色悪いけど大丈夫か?」
「身体を冷やしてしまったんだ」
 僕は副寮長に言われたとおりにシャワーを浴びた。そこそこ低い温度のはずなのに熱湯を浴びたときのような痛みが襲う。しばらくして痛みが収まり、僕はようやく身体が暖まる感覚を覚えた。
「…ようやくわかったよ雪、君の正体が」
 僕は曇った鏡を覗き込む。鏡が僕の視線を検知して自動で表面の曇りを除去し、水に濡れた僕の顔がはっきりと映った。
「君は僕だったんだ」
「君は、僕が僕を助けるために生み出した存在なんだ」
 僕はさっきランドリー室で見た白昼夢を思い出す。僕は確かに雪と話していた。でも雪は目の前にいたわけじゃなかった。僕の中にいた。
 あの白くて幼い子供は僕で、そのぼくは僕の良き相談相手だった。
 僕は七月の僕を覚えている。僕は優等生だった、でももう少しで折れそうだった。自分が何のために努力しているのかわからなくなっていた。そこで雪が現れた。雪は僕をいじめるように思えた。雪のせいで経馬が逃げたように思えた。
「でも雪も僕だった、僕が僕自身をいじめ、経馬を突き放した」
 雪は僕を否定することもした、それでも僕が雪に助けられたと思うのは雪が目の前にいてくれたからだった。雪は良くも悪くも僕自身だった、僕が雪と話したり認識することは僕と僕自身の思いを、半ば強制的に向き合わせた。それが僕を救った。
 僕は自分自身の思いを押し殺し、あえて見ないふりをしていた。自分を認めて欲しいという思いを将来のためという理由に置き換えていた。この満たされない欲求が僕を行動させていたのだ。雪がいなければ、僕は自分の行動の理由も知らずにあのまま優等生として朽ちていただろう。
「だから雪、君に言いたいことがある」
 僕は鏡の中の青年を見つめる。くせ毛で左目の下にほくろがある青年。例え誰かに似ていたとしても、これが僕自身だ。僕は再び自分を統合する、でもそれは再び自分を押し殺すことを意味しない。
「ありがとう、雪」
「どういたしまして、お兄ちゃん」
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