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Second Chapter
第二の母①
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ギルガンド・アニグトラーンには年老いた乳母キバリがいる。
アニグトラーンの直系が今際の際の乱詛帝に呪われ、代々仕えた召使いでさえその呪いに恐れおののいて次々と辞めていく中、最後まで残った一人だった。
小柄な老婦人であるが、この小さな痩せた体でどうやってと驚くほどに気丈な、いわゆる烈女であった。
ギルガンドが生まれるよりも前に、キバリがやって来た。雨の日、ギルガンドの祖父が当て所も無く道を流離っていた彼女を拾ってきたのだ。
『身分卑しからぬご婦人が、傘も差さずに身一つで雨に打たれていた。事情を聞いても決して話そうとしない。よんどころない訳があって――きっと子を産めなかった等の理由があって、離縁され、実家からも追い出されたのであろう』とアニグトラーンの一族は噂した。
そのままキバリは召使いとして、嫁いだばかりのギルガンドの母親に忠実に仕えていた。
直後に一族を乱詛帝の呪いが襲っても、それは変わらなかった。
何度も何度も飛び散った血の跡を黙ったまま拭き、泣きじゃくる母親の手を握って励ました。
本来ならば直系の跡取りとして待望の子であったはずなのに、今となっては悲運だけを背負わせてしまったギルガンドが生まれても、その忠誠は変わらなかった。
衰弱していく彼の母親を強く励まし、世話をし、彼女の代わりに乳母としてギルガンドを養育した。
並ならぬ教養と学がキバリにはあったが、ギルガンドへの教え方は尋常では無かった。
「それは弱者の行いにござりまする。坊ちゃまは強く、かつ天邪鬼にならねばなりませぬ!」
『強くなれ』は分かる。アニグトラーンは武の名門だ。だが『天邪鬼になれ』とは未だによく分からない。特殊な英才教育であったのだろうか?
しかし彼は若くして帝国十三神将が一人に選ばれた上に、帝国最強の一角を担うまでになった。
「坊ちゃま、奥方様は常に正しくあれと仰有いましたが、私に言わせれば天邪鬼でいる方が難しゅうございまする」
母親を看取った後、広くなりすぎた屋敷をギルガンドは貸家にして、高等武官の手狭な官舎に引っ越した。近付けば呪いが移るぞ、惜しい事だが財物にさえ呪いがあるに違いないだろう、と誰も借りようとはしなかった。
己に残された猶予も3年を切った、もうここには二度と住めないだろうと彼は覚悟していた。
「婆や、まだ私にはよく分からん」
「では坊ちゃま、問題でございまする。『心』とは何でございましょうか」
「は?」
「よくお考え下さいまし」
そう言いつつ、キバリはてきぱきと最低限の荷物をまとめ、管財人を呼んで屋敷の手入れを任せたのだった。
――その日にギルガンドが官舎に帰ってきた時、夕飯時とあって何処の官舎からも炊事の煙が立ち上っていた。道では子供達が木剣を振るったり、駆けっこをしたりして遊んでいた。洗い場にかがみ込んで、焦げた鍋をタワシで擦っている若い召使いは涙目だった。きっと年かさの者に叱られたのだろう。日暮れたばかりの空には緩やかに夜の色が混ざりつつある。
キバリは夕食の魚を焼いていて、香ばしい匂いが部屋中にふんわりと漂っていた。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま」
「ああ。今日は魚か」
「すぐにご用意します」
手早くキバリが夕飯を食器に盛り付けて、二人だけで食卓を囲む。
しばらく灯りの下、心地よい沈黙の中で食していたが、
「実は今日……」
キバリが食器を置いて、目を伏せて話し始めた。
「私の古い知り合いに出会ったのです」
「知り合い……だと?」
彼もそっと食器を置いた。
キバリが己の過去や、その過去を知る者について話し始めたのは、これが初めてだったから。
「……今まで黙っていて申し訳ございませんでした、坊ちゃま。私はプファレの家の出でございます」
プファレ一族。この今でこそ没落しているが、由緒正しい大貴族である。
「道理で……」
一族が話していた以上に、教養があって卑しからぬ風情だった訳だ。
「私は長じて、さる御方の元へ嫁ぎました。ですが子が出来ず、私から離縁を申し出ました。何度も引き留めていただき、女一人生きてゆくに不自由無い財産も分けていただいたのですが、それは親族に奪われ、家を追い出された所をウルガンド様に拾っていただいたのです」
ウルガンドとは、ギルガンドの亡き祖父である。
「その時の知り合いか」
「はい。今日、市場で出会って立ち話をしました。私に会って欲しい者がいるそうです」
「駄目だ!婆やには悪いが、それは詐欺か何かの――」
「もう坊ちゃまの呪いは解けました。こんな老婆にかまけていてはアニグトラーンのお家再興も叶いませぬ。――ですので、これを」
差し出された辞職願をギルガンドはそのまま引き裂いた。
「駄目なものは駄目だ。その場所は何処だ、私も行く!」
アニグトラーンの直系が今際の際の乱詛帝に呪われ、代々仕えた召使いでさえその呪いに恐れおののいて次々と辞めていく中、最後まで残った一人だった。
小柄な老婦人であるが、この小さな痩せた体でどうやってと驚くほどに気丈な、いわゆる烈女であった。
ギルガンドが生まれるよりも前に、キバリがやって来た。雨の日、ギルガンドの祖父が当て所も無く道を流離っていた彼女を拾ってきたのだ。
『身分卑しからぬご婦人が、傘も差さずに身一つで雨に打たれていた。事情を聞いても決して話そうとしない。よんどころない訳があって――きっと子を産めなかった等の理由があって、離縁され、実家からも追い出されたのであろう』とアニグトラーンの一族は噂した。
そのままキバリは召使いとして、嫁いだばかりのギルガンドの母親に忠実に仕えていた。
直後に一族を乱詛帝の呪いが襲っても、それは変わらなかった。
何度も何度も飛び散った血の跡を黙ったまま拭き、泣きじゃくる母親の手を握って励ました。
本来ならば直系の跡取りとして待望の子であったはずなのに、今となっては悲運だけを背負わせてしまったギルガンドが生まれても、その忠誠は変わらなかった。
衰弱していく彼の母親を強く励まし、世話をし、彼女の代わりに乳母としてギルガンドを養育した。
並ならぬ教養と学がキバリにはあったが、ギルガンドへの教え方は尋常では無かった。
「それは弱者の行いにござりまする。坊ちゃまは強く、かつ天邪鬼にならねばなりませぬ!」
『強くなれ』は分かる。アニグトラーンは武の名門だ。だが『天邪鬼になれ』とは未だによく分からない。特殊な英才教育であったのだろうか?
しかし彼は若くして帝国十三神将が一人に選ばれた上に、帝国最強の一角を担うまでになった。
「坊ちゃま、奥方様は常に正しくあれと仰有いましたが、私に言わせれば天邪鬼でいる方が難しゅうございまする」
母親を看取った後、広くなりすぎた屋敷をギルガンドは貸家にして、高等武官の手狭な官舎に引っ越した。近付けば呪いが移るぞ、惜しい事だが財物にさえ呪いがあるに違いないだろう、と誰も借りようとはしなかった。
己に残された猶予も3年を切った、もうここには二度と住めないだろうと彼は覚悟していた。
「婆や、まだ私にはよく分からん」
「では坊ちゃま、問題でございまする。『心』とは何でございましょうか」
「は?」
「よくお考え下さいまし」
そう言いつつ、キバリはてきぱきと最低限の荷物をまとめ、管財人を呼んで屋敷の手入れを任せたのだった。
――その日にギルガンドが官舎に帰ってきた時、夕飯時とあって何処の官舎からも炊事の煙が立ち上っていた。道では子供達が木剣を振るったり、駆けっこをしたりして遊んでいた。洗い場にかがみ込んで、焦げた鍋をタワシで擦っている若い召使いは涙目だった。きっと年かさの者に叱られたのだろう。日暮れたばかりの空には緩やかに夜の色が混ざりつつある。
キバリは夕食の魚を焼いていて、香ばしい匂いが部屋中にふんわりと漂っていた。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま」
「ああ。今日は魚か」
「すぐにご用意します」
手早くキバリが夕飯を食器に盛り付けて、二人だけで食卓を囲む。
しばらく灯りの下、心地よい沈黙の中で食していたが、
「実は今日……」
キバリが食器を置いて、目を伏せて話し始めた。
「私の古い知り合いに出会ったのです」
「知り合い……だと?」
彼もそっと食器を置いた。
キバリが己の過去や、その過去を知る者について話し始めたのは、これが初めてだったから。
「……今まで黙っていて申し訳ございませんでした、坊ちゃま。私はプファレの家の出でございます」
プファレ一族。この今でこそ没落しているが、由緒正しい大貴族である。
「道理で……」
一族が話していた以上に、教養があって卑しからぬ風情だった訳だ。
「私は長じて、さる御方の元へ嫁ぎました。ですが子が出来ず、私から離縁を申し出ました。何度も引き留めていただき、女一人生きてゆくに不自由無い財産も分けていただいたのですが、それは親族に奪われ、家を追い出された所をウルガンド様に拾っていただいたのです」
ウルガンドとは、ギルガンドの亡き祖父である。
「その時の知り合いか」
「はい。今日、市場で出会って立ち話をしました。私に会って欲しい者がいるそうです」
「駄目だ!婆やには悪いが、それは詐欺か何かの――」
「もう坊ちゃまの呪いは解けました。こんな老婆にかまけていてはアニグトラーンのお家再興も叶いませぬ。――ですので、これを」
差し出された辞職願をギルガンドはそのまま引き裂いた。
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