Killer de M

七宝

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「母さん……?」
 その一言は、しんと静まり返った空気に飲み込まれるようにして消えた。
 少年は、玄関の石床に横たわり、冷たくなっている母の姿を見つめた。彼女の服は鮮血に染まり、電気の付いていない薄暗い玄関でもその色がはっきりと分かる。
 だが、その血は彼女のものではなかった。
 仰向けに倒れている母の周囲には、五人の死体が不自然に転がっていた。そのどれも、少年の知らない顔だった。死体達は睨むように目を見開き、腹部にサッカーボールほどの大きな穴が空いている。そこから、教科書でしか見たことのない胃や肝臓などの臓器や、ドロっとしたワインのような紅い血が流れてて、灰色のタイルを赤黒く塗り替えていた。
 だが、その死体達が何を意味していたかなど、今の少年には知る余地もなかった。
「な……なんだ、これ……」
 少年は目の前の惨状を見つめながら、その場に立ち尽くしていた。嗅覚を埋めるような生臭い血の匂いが鼻をつく。思わずむせこみ、生まれたての子鹿のように足を崩し、弱々しく床に手をついてしまう。生暖かい血が、彼の掌をゆっくりと覆っていき、彼の背筋は、数秒かけてじわりと凍っていった。
 声にならない声が玄関に響き、そのまま彼は床にへたり込んだ。制服が血で濡れた。胃の中に入っていた給食が濁流となって逆流してくるのを感じ、口に手で堅く蓋をして、ぎゅっと目を瞑り我慢する。
 彼は目が潰れんばかりの力でまぶたを閉じながら、現状から逃げるように、朝から今までの記憶を再生していた。

 この日は、全学生が最も胸を躍らせていた日だったであろう。時は七月十九日。夢の夏休み前日である。
 しかしその前に、朝会という試練が生徒達を待ち受けていた。頭が蒸発しそうな暑さの中、大勢の生徒達が全員体育館に集めさせられ、教師たちの永遠にも等しい長い話を聞かされる。生徒達にとっては蒸されているような感覚が長時間続き、まさに生き地獄であった。
 少年は、だらだらと頭から無数の雫を垂らしながらも、光が反射して太陽のように白く光る校長の頭をぼーっと見つめながら、朝会を終えた。
「おーい、了!」
 教室へ帰る途中、日光が届かず涼しい廊下を歩いていると、短めの髪に、賞状を持った体育会系の生徒が一人、少年の元へタタタッとリズムよく駆けてきた。
 少年の名は、荒木了、といった。相手の気持ちを悟れるようにという意味でつけられた名前だ。
「何かあったの?」
 了は立ち止まって振り向き、彼の透き通った目を見た。声をかけた彼は、円田泰晴。了にとっては、小学校からの気を許せる唯一の親友である。
「いや、今日も、必ず誰かと帰んなきゃいけないんだろ?俺と家が同じ方向なの、了しかいねーから、一緒に帰んないか?」
 彼は屈託のない笑みをして、了に言った。了は、眉を右手の中指で軽く掻きながら答えた。これは、彼の小さい頃からの癖だった。
「うん、いいよ。最初からそのつもりだったし……僕らの家の方角だよね、今度のヤツ。」
「ああ。今回のはとりわけ凶悪らしいぜ。でも、最初の事件が二日前っていうから、今日中には終わるだろ……全く、本当にひでーな、ってのは。」
 泰晴は、ポケットに手を突っ込み、窓の外を少し睨みながらぼやいた。
 拒生種。そう名付けられる者達は、普段は自覚もなく普通の人間として生活している。だが、ある日突然、拒生種のみが持つスチュアート細胞が全身の神経に刺激を与え、彼らは急な殺戮衝動に襲われる。それから拒生種は、およそ三日間、隠れながらも人を残忍な方法で殺し続ける。そして、最後には身体の負荷に耐えられず、自らも血だまりの中で死んでいく。
 そのため彼らは人類にとっての天敵とされていて、スチュアート細胞が検出された者はたとえ赤子でも処分される。だが大抵の拒生種は、検査をしてもなぜかスチュアート細胞が検出されない。また、彼らは事件現場に証拠を残さず、残忍な殺し方、というのだけが特徴だった。そのため、事件が起こるたびに国の拒生種対策軍が動かなければならなかった。
 そして三日前、了と泰晴が住む葉南市の南東部、若名区で、拒生種によると思われる殺人事件が起こった。しかし、もう犯人の目星はついていて、まもなく解決する、とニュースでは報道されていた。
「じゃあ、もし先にホームルーム終わったら、校門前で待ってるよ。」
「ああ、じゃあ、またな」
 二人は、それぞれの教室へ早歩きで歩いていった。彼らには、拒生種の問題は、どこか他人事のように、遠い国のことのように思えていた。

「待たせちまってごめんな、了。」
 授業が終わり、了は校門前で泰晴を待っていた。日差しは容赦なく彼に襲いかかり、顔に滝のように汗が流れてくる。屋内とは比べ物にならないその暑さに彼が悶えていると、校舎の方に泰晴の姿が見えた。
 この日は午前授業で、時刻はまだ十三時前だった。視線を横にずらすと、軽く手を振る泰晴の横には、背の小さい、長いポニーテールの快活そうな女子がいた。了は彼女とは初対面だったが、彼女は手を振ってきた。どこかで会ったっけと多少困惑しながらも、了は控えめに手を振り返す。
「えーと……この方は……?」
 了は、彼女を横目に見ながら、泰晴に聞いた。すると彼は、頰を真っ赤に染めながらも言った。
「ああ、こいつは華方菜未っていうんだ。前に言ったろ、俺の、か、彼女だよ。」
 恥ずかしげに少し俯く彼を見て、華方はクスッと、いたずらをした子のように笑う。そして、了の方を向き、「よろしくね」と明るい笑顔で言った。
「名前は何ていうの?」
「荒木了だよ。よろしく。」
「リョウくん、か。よーし、じゃあ、ヤスハルの面白い話、いっぱい話しちゃおっかな。」
「お、おい、待て!」
 そうして彼らは、三人でいつもの通学路を歩いていった。話によると、どうやら華方も家が同じ方向らしく、長時間、和やかかつ騒がしい会話を楽しんだ。
「リョウくんって普段はどんな人なの?」
 華方が泰晴に尋ねる。彼に対しては甘えるように話す彼女を見て、仲良いんだなあ、と了は思った。
「そうだなあ……リョウは、普段から優しいやつなんだ。街で見かけたとき、知らない爺さんの荷物持ってたし、しょっちゅうお土産とか買ってきてくれるし。まさに生きた聖人って感じだな。」
 了は、また中指で眉を掻いた。それから困ったように、眉を少し下げて苦笑しながら答えた。
「いや、さすがにそれは言い過ぎでしょ。まあ、お褒めの言葉はありがたいけど…………あれ?」
 気まぐれに、蒸れたズボンの右ポケットに手を入れた瞬間、彼は漠然とした違和感を覚えた。何か普段と違うのは分かるが、何が違うのかが分からない。そんな、箱の中身を当てるゲームのようなもどかしい気分を覚えた。
「どうしたの?」
 華方と泰晴が、不思議そうにこちらを見る。
 了は、何が違うのだろうとズボンのポケットの中を探った。そして、彼は突然気づいた。冷たく、硬い金属の感触がない。気づいたら、つけていた鈴の楽しげな音もしなかった。
 ない。家の鍵が、ない。……仕方ないな、探さなきゃ母さんに怒られる。
 そう思った彼は、泰晴と華方との充実した時間を捨てるのを惜しみ、貴重品を落とした自分を恨みながら謝った。
「ごめん、家の鍵、落としたみたい。二人で先、帰っててくれない?」
「でも、最近拒生種が出てるんだろ?一人は危険じゃないか?」
 泰晴は了を不安そうな顔で見つめた。了は、君も十分聖人じゃないかと思い、少し嬉しそうな笑みを浮かべて答えた。
「いや、大丈夫だよ。通学路はずっと大きい通りだし。」
「それなら大丈夫か。でも、なるべく早く帰ったほうがいいぜ。じゃあな。」
 二人は、軽く手を振り、歩き去った。彼らは、何度も心配そうに了の方を見ていた。了は、反対の方向へ地面を見ながら歩き出す。

 鍵、鍵、鍵……ここらへんにはないな、どこいったんだろう。
 探し始めてから、三十分程たった。彼は、校門前まで戻ってきていた。通学路をシャトルランのように何往復もするが、鍵は見つからない。灼熱の日差しに照らされ、彼は船酔いを起こしたような軽い気持ち悪さも感じた。
 もう、怒られてもいいから帰ろう。このままでは、この暑さに気が狂ってしまう。
 彼はそう思い、徒労だったと一つため息をついてカバンを背負い直した。そのときだった。
 彼の視界に、キランと光る、小さい物体が見えた。それは、了が泰晴を待っていた場所だった。近づくと、銀色に輝く鈴もついている。良かった。家の鍵だ。やっと見つかった。
 彼は鍵を拾い、ポケットにしまった。そしてもう一度確認してから、家へ向かって歩き出したのだ。その時だった。
「お待ちなさい、荒木了」
 突然、後ろから鋭く冷たい声が聞こえた。彼はなぜか本能的に身の危険を感じ、バットのフルスイングのように勢いよく振り向く。するとそこには、長い金髪をたなびかせ、セーラー服を着た、高校生らしい一人の女子がいた。
「あなたを助けにきてやりましたわ」
 彼女は、隠していた右手から勢いよく扇子を取り出した。そして間髪入れずに、自らの端正で新雪のように白い顔を扇ぎ始めた。了は、もはや不審者に近い彼女の突然の登場に硬直していた。
「ん?何で石になってますの?」
 彼女は自らを扇ぎながらも、固まっている了に首を傾げていた。もちろん彼女の頭に「自分のせい」という考えは一欠片もない。
「それにしても、鍵を囮にしたらまんまと引っかかりましたわね。楽で良かったですわ」
「ちょっと待て」
 了は、「鍵を囮にして」という言葉が耳に入った瞬間、硬直状態から一瞬で回復した。
「君が鍵をわざと落とさせたのか?」
「はい。でも、仕方ないですの。あなたを救うためですもの」
「救う……?」
 当然、いきなり現れた不審者の言うことをまともに聞く人などいない。了も、鍵をなぜ落とされたのか気になりながらも、なぜか自分の名を知っている不審者から一歩一歩遠ざかっていた。
「って、お待ちなさい、了」
「いや、普通待たないよこういうの」
 了は、彼女と十メートルほど離れてから後ろをくるりと向き、早歩きで退散しだした。だが、彼女はそれをカッカッと大きく靴の音を鳴らしながら追ってきた。
「真面目に言ってるますの、了!本当に家には帰らない方がいいですわ!」
 彼女は、走りながらも必死に何度も了を止めた。だが了は当然、鍵をわざと落とさせた不審者の言うことをまともに聞き入れる者ではなかった。
「どうなってもいいよ!僕がどうなろうと、僕の責任だ!」
 彼は、どこまでも続く青空に向かって叫び、走って彼女を振り切った。当然この後、真っ赤な鮮血に囲まれることになるとは、思ってもいなかった。

「……現実……なのか……」
 彼は一通り記憶を再生し終わると、虚ろな目で床に広がる血をすくった。まだ生暖かく、指と指の間からゆっくりと床へ滴り落ちていく。もう、むせかえるような血の臭いや臓器がはみ出た無残な死体を見るのに、了は慣れていた。彼には、不気味なほどの人間離れした適応力があったのだが、それに彼は気づいていなかった。
 どこへ行こう。彼は最初にそんなことが頭に浮かんだ。もうここにいても、何も変わらない。警察に通報するか?彼は、リビングにつながる玄関の奥の白い引き戸を見つめた。そして、血だまりと死体をやっとの事で跨いで、リビングへ出た。足についてしまった血がフローリングに垂れ、小さな水溜りとなった。リビングは、いつもと変わらない光景が広がっていて、一瞬彼は、さっきの死体や血だまりは夢じゃないかと思った。だが、すぐに彼はその考えを捨てた。じゃあ何で、僕はここにいて、警察に電話しようとしている?
「もちろん、この現実から、脱け出すためだ」
 彼は自分に言い聞かせるように、静かに呟いた。その言葉は、了の心へゆっくりと溶けていった。
 彼は無機質な固定電話の前に立ち、受話器を静かに取り、慎重にボタンに指を運ぶ。そのとき不意に、ニュースで見た拒生種の解説の一文が、彼の頭に浮かんだ。
「拒生種は、事件現場に証拠を何一つ残さない。残すのは、無残な遺体だけだ」
 冷静に考えれば、この事件の犯人が拒生種だとは一概に断定できなかっただろう。だが了は、冷静に電話しようとしているように見えても、内心では今の状況を理解しきれていなかった。彼は、「はっきりとした真相」を知りたかったのかもしれない。偽物でもいい、何が本当と言えるのかを、教えてくれ。彼はそう思っていた。
 この瞬間、了は心の奥で、拒生種が母達を殺した、と断定した。続けて、こう思った。
 拒生種は証拠を残さない。じゃあここで警察通報したら、自分が疑われるんじゃないか?無実の僕が、殺人鬼に見られてしまうんじゃないのか?
 一言で言えば、彼は混乱していた。いくら高い適応力があるとは言え、それは深層心理や肉体に働くものだ。了の直感には、全く環境への適応力がなかった。
 彼は、逃げなければ、と本能的に察知した。このときの判断は、後から考えれば人生を分ける最大の分岐点だったのだが、この少年は最悪の事態を避けることができた。当然彼は、今そのことを理解できているはずはない。
 どこへ逃げる?そんなことは後からでいい、ここから離れなきゃ。逃げてどうする?……ひとまず、あの変なお姉さんを探そう。あの人なら確実に何か知っている。というか、知っていてもらわなきゃ困る。制服に血がついてるけど、何か言われないか?大丈夫だ、ズボンの膝と裾に少しついてるくらいだ、バレないよ、多分。
 了は自問自答しながらも、玄関の血だまりに浸り、靴底が紅く染まった、スニーカーを慌ただしく履いた。それから扉を勢いよく開けた後、一瞬だけ後ろを振り返った。先程と同じように、名も知らない五人と、今まで一緒に暮らしてきた母の骸が転がっている。だが了は、その死体を見ても「気持ち悪い」以外の感想が見つからないことに気づいた。本来なら、悲しみや辛さが湧き上がってくるのではないのか。彼は軽く首を傾げながらも、そんな場合ではないと首を横に振り、日の暮れかかっている住宅街を走り抜けていった。
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