Killer de M

七宝

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2 律動

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 暗闇は霧となり、辺りの空気を飲み込んだ。すると突然、柔らかい光が空気を優しく包み込む。それは、月光だった。西の空に浮かぶ月はまだ糸のように細く、三日月にもなっていない。その光は、少年の必死の形相を静かに闇に浮かび上がらせた。
「どこだ、あの人っ……!」
 つい先程踏みしめた地面が、もう戻れないほど遠くに見える。了は、走り続けていた。段差につまずいても、警察が彼を補導しようとしても、彼は走り続けた。そうしなければ、自分が心臓の奥からガラガラと音を立てて崩れ出すような、そんな悪い予感や危機感が脳内を渦巻いていた。
 走って、走って、走るうちに、彼女と出会った学校は既に通り過ぎていた。普通に考えれば、彼女が一番いそうなのはここだと思うのだが、彼は、自分の直感に全てを賭け、彼女の居場所をとにかく探していた。
 走り疲れてもなお、彼は地面に腹がつきそうなほど前のめりになり、皮肉なほど優しく吹き付ける生ぬるい風を睨みながら、走れ、走れと呟いていた。それはもはや、自分にさえ届いていない、本能から漏れた言葉だった。ようやく我に返ったときには、彼は二十五メートルプール一面ほどの広さの、薄暗い公園にたどり着いていた。全く知らない場所だった。彼は辺りを、残り少ない体力を振り絞って見渡した。
 すると、背後から聞き覚えのある鋭い声が刺さる。
「お久しぶりですわ、了」
 彼女がなぜこの公園にいるのかは、全くわからなかった。初めから追っていたのか、GPSでも仕込んでいたのかはわからないが、その時の彼にはそんなことはどうでもよく、ただすがる人が欲しかった。
「やっと見つけた……!」
 彼は後ろを振り返らずに言った。その目には、細い月が映り、彼の瞳を僅かに照らしていた。
 少年は、今や彼女だけが頼りだった。彼は物心ついた頃にはなぜか、親戚や父がいなかった。しかし、だからといって友、泰晴に迷惑をかけるわけにはいかない。そのため彼は、不審者と認識していた彼女が、今は後光の差している聖人にすら見えた。
 彼は何かを語りかけようとしていた。おそらくそれは「助けて」の三文字だったが、まもなく脱力し、両足を力なく曲げ、砂の上に倒れこんだ。砂は、容赦なく彼の足や腕に突き刺さり、その反動で口の中にまで流れ込む。吐き出さなければならない、と考えたが、もうそんな体力も残っていなかった。すでに彼は、消えかけの小さな炎のように、活動の限界を迎えていた。
 なぜか砂がほんのり甘く感じる。彼は、以前読んだ戦争の小説を思い出した。あの話の中では泥だったっけ。そんなことを思いながら、彼は光一つない暗闇の、底へ底へと静かに沈んでいった。

 また、あの声が、聞こえる。僕を深淵へ堕とす、あの声が。
「クソ無能」「また、何もできないのか」「死ねよ、いらねーだろお前」「あんなんに頼るほど落ちたのか?」「ゴミ、消えろ」「生きる価値もないな」「殺してやる」
 闇の中で、彼は轟々と流れ続ける濁流のような非難を浴びた。それは、彼にとってはもう聞き飽きていたものだった。いつも、考え事や夢の中で、この声が聞こえる。この地獄から出てきたように低く暗くおぞましい声に、彼は不快感と嫌悪感しか感じなかったが、だからといってどうしようもない。そのため彼は、脳内で歯を食いしばって耐えるしかなかった。
 そして彼はこの声を、「カインド」と呼んでいた。「kind」から取った名前で、もちろん「優しい」という意味だ。彼らは弱い自分を戒めてくれている優しい人たちだ、とでも考えなければ、心が一瞬で砕け散りそうだった。
「本当に役立たずだな」
「……うるさい」
「使えないな」「今すぐ消えた方がみんな喜ぶぞ」
「うるさい……!」
「殺す」「早く死ねよ」「お前が死ねばみんな幸福だ」
「うるさいっ!」
 この非難はなんなんだ?なんで僕が、こんなことを言われなくちゃならないんだ?僕が、一体何をしたんだよ!
 彼は、もう限界だった。心が折られ、さらに見えなくなるまで粉砕されるような気分だった。だがいつも、心が壊れそうな限界に達すると、現実に戻るようになっていた。彼にはその仕組みも、彼をより追い詰めるためにあるのだと見えた。
 闇がうっすらと晴れてくる。彼は土砂降りのようにまだ続く非難の中、少しだけ胸をなでおろした。もうすぐ終わりだ。彼の予想通り、数秒後闇は晴れ、代わりにきらびやかな金色のシャンデリアが目に入った。彼は思わず目を細めた。
 少年は、自分がマシュマロのようにふかふかのベッドに寝ていたことに気づいた。辺りを見渡すと、どうやらここはどこかの豪華な屋敷らしい。どこかの貴婦人が描かれている西洋の絵画。割ったら一生借金に悩まされそうな大きい壺。まさに、小説や漫画に出てくる「豪華な部屋」そのものだった。
 そして彼は、ベッドの端に誰かが腰掛けていることに気づいた。彼女は、黒髪ツインテールに、丸く大きな目をした、メイド服の少女だった。彼が彼女にすぐに気づけなかったのは、彼女の身長が彼のおよそ三分の二で、しかもベッドに腰掛けていたためさらに小さく見えたからだった。了はベッドから勢いよく起き上がり、彼女を見つめながら、これがいわゆる美少女か、と思っていた。
 彼女は、自分を不思議そうに見つめている了に気づくと、目を合わせ、初夏の太陽のように明るくニッと笑った。そして、その笑顔のまま言った。
「お目覚めですか、ゴミ野郎」
「……えっ」
 少年は言葉を失った。目の前のメイドは、先程と同じ笑顔でこちらを見つめている。いや待て、多分聞き違いだ。さっきのカインドで疲れてるんだ。彼は軽く首を振り、頰を強めに叩いてから、気を取り直して聞いた。
「えーっと……君は?」
「答えたくありませんね。あなたに名乗ると名が汚れるので。知りたいならご自分で調べたらいかかですか、クズ」
「あっ……」
 了は一瞬で、これが現実であることを理解した。彼女の毒舌の矢は尋常じゃない速さで彼の心に突き刺さり、彼は少々顔色がくすんだ。彼は、以前何か悪いことをしてしまったのかもしれない、と思い直した。そして、とりあえず謝っておくことにした。
「え、えーっと、なんか、ごめんなさい」
 すると、彼女は笑顔をなくし、見るものを凍りつかせるような、冷たい目で了を睨んだ。
「なにが『なんかごめんなさい』ですか、ボケナスカス野郎。二度とそんな言葉吐かないでください」
 彼女は了にそう言い捨てた後、部屋の隅の小さな机に座り、短めのツインテールをいじり始めた。彼は抉られた傷口にさらに矢を射られた気分だったが、落ち込んだおかげでかえって冷静になり、今の現状を思い出した。
 メイドさんのことも気になるけど、それよりも優先することがある。一体僕はどうなっているんだ?このメイドは答えてくれなさそうだし、あの金髪の子を探さないと。
 彼はそう考えて、「じゃ、じゃあ、あの金髪のお嬢様を探してくるよ」と言い、親指の爪で少し鼻の頭を触り、部屋を出ていった。黒髪メイドは、一つ「ハァ」とため息をつき、机の上に置いてあった小説を手に取り、パラパラとページをめくり始めた。
「なんで……あんなに優しそうなんですか、ゴミ野郎」
 彼女の瞳には悲しみの涙が堰き止められ、今にも流れ落ちそうになっていた。そして、メイド服の裏に隠し持っていた鋭利なナイフを握りしめて、目の前の本をキッと睨みつける。
 少年は、彼女が自分を殺そうと思っていたなど、知るすべもなかった。

 館は、想像以上に広く、大きく、豪華だった。少年は金髪のお嬢様を探して屋敷内を奔走していたが一向に見つからず、小一時間ほど走り続けていた。体は錆びかけの機械のように、「現状打破」という言葉の油を差さなければ動かない状態になってしまった。
 少年がふと窓の外を見ると、大きな公園のような庭が広がっていた。そこには色とりどりの花が咲き誇り、キャンバスの上に絵の具を重ねたように鮮やかだった。そしてそれらは朝日に照らされ、それぞれの花に灰色のフィルターがかけられたかのように、薄い陰ができていた。それを見て彼は、もう日付が変わっているのを知った。
 それから了が、自らの体を叱咤激励しながら、果てしなく続く廊下を息を切らして歩いていると、思わずため息がでるほどだだっ広いホールに出た。そして、整然と並ぶ座席の遥か奥に、おそらくコンサートで使うものだろう、壇上には、甲虫の背のように光を反射して白く輝くグランドピアノがある。了は、空よりも高く感じられた天井を見渡した後、そのグランドピアノの左側の椅子に凛とした姿勢で座っている、金髪のお嬢様を見つけた。彼はようやくか、と屋敷の広さに呆れ、疲労困憊した足を引きずりながら、そのグランドピアノへ向かって歩き出した。
 すると、了が足の激痛に耐えつつ四歩目を踏み出そうとしたところで、彼女は突然鍵盤に指を重ね、曲を弾き始めた。いきなり彼の耳に重苦しく大きな低音が飛び込み、思わず痛む足を止めて彼女を見る。ホールにはまだ、容赦なく打ち付ける砂嵐のような重低音が響いている。
 ショパンの「革命」。了は、幼い頃通っていたピアノ教室で、その曲を聴いた。彼は、真原先生が弾いていた曲だ、と思い出した。だが、真原先生のはもう少し優しかった。彼女のは、血も涙もない「革命」だ。
 彼の思った通り、少女の演奏では低音は熱く重苦しく、高音は冷酷に残忍に聞こえた。そこに、「優しさ」や「温かさ」の介在する余地はなかったが、全体を通して一本の太い、「覚悟」という芯が入っているのを少年は感じた。
 二分程経ってからだろうか、演奏は重い余韻を残したまま終了した。彼女はもう了の存在に気づいていたらしく、椅子を立つと、迷わずに彼の方へ向かった。
 了は、演奏に気を取られて自分の体力のことを忘れていたが、我に返ると、堰き止められていた疲れがどっと押し寄せ、思わず床へへたり込んだ。彼女はそれを見ると彼にニッと笑いかけた。
「随分と大変な目にあったようですわね。あそこで逃げなくても後からここへ連れてくるつもりでしたのに」
「君は……なんなんだ?僕は一体、どうなっている?」
 少年は、扇子でひらひらと優雅に顔を仰ぐ彼女を真っ直ぐ見つめ、問いかけた。だが彼女は、子供に注意するように、膝を曲げて人差し指で彼を指して言った。
「私に口は一つしかありませんわ。質問は一つずつするものですわよ」
「……はい」
 了は、何か言い返しても埒があかないのを察して、渋々大人しく返事をした。
「じゃあ、一つ目の質問をするよ。君は、僕に何をするつもりなんだ?」
 彼が尋ねると、彼女は扇子をバッと閉じ、「待ってました」とでもいうように胸を張り、なぜか自慢げな顔で了を見つめた。その時に、床に座って彼女を見上げていた了の目に、勢いよく揺れる、胸部の大きな二つの双丘が目に入り、彼は思わず少し顔を赤らめて目をそらした。
「安心しなさい、私たちはなにも危害は加えませんわ。あなたは、ただ私たちの言うことに従っていただければ、安心して生活できますの。勉強も生活も遊びも、全て私たちに任せなさい」
「はぁ……」
 彼は彼女から目を若干そらしながら、強引だなあ、と思いつつ、二つ目の質問を続けた。
「えーと、僕にそんなにしてくれる訳が知りたい。たかが一人の学生が、そんなに必要なの?」
「もちろんですわ」
 光の速さで即答された。彼はその速さに気圧されたが、彼女の回答に耳を傾けた。
「あなたは、唯一の適任者ですの。拒生種を殲滅する、ただ一人の」
「……僕が?」
 まるで意味不明だった。先程まで否が応でも意識してしまっていた双丘のことなど瞬間的に頭から吹っ飛んだ。そして、昨日まで無関係だと思って脳内の奥底にしまっていた「拒生種」という言葉が突然勢いよく飛び出てきたため、少年の頭はしばしフリーズした。が、まもなく、彼の頭に疑問が戻ってきた。
「なんで僕が、そんな……」
 すると彼女は目をそらして少し顔をしかめ、ばつが悪そうな顔をした。
「それは……今は聞けばあなたが混乱しますから言いませんわ。ああ、そういえば、あの使用人には会ったんですの?」
 慌てて話題を変えようとする彼女を了は不審に思ったが、また何か言っても埒が開かなそうだ、と考え、気になっていたあのメイドについて聞くことにした。
「うん、会ったけど、結構色々言われちゃって……」
「そうですの……それは迷惑をかけましたわ」
 彼女はまたもやばつの悪そうな顔をすると、座席に腰掛けていた了に頭を下げてきた。了は、不審者だと思っていた彼女がそんな行動をとったことに驚きつつも、「大丈夫だよ」と言い、彼女の頭を上げさせた。
「あのメイドさん……なんかあったの?」
 了は首を傾げ、彼女に聞いた。彼女は了の純粋に疑問を持っている秋空のように透き通った目を見ると、若干目をそらした後、平然を装って言った。
「彼女は昔……辛い思いをしましたの。それには一応あなたも関係していますわ。だけど、これ以上は二人に混乱を招くだけ……だからとりあえず、彼女はあなたを憎んでいる、ということだけ覚えていだたきますこと?」
「う、うん……」
 自分も関係している、というのは気になるが、相手の嫌がることを詮索するのは申し訳ない。「あのメイドさんは僕を憎んでいる」。そのことだけ心に留めとこう。
 彼はそう心の中で決心した。すると、そんな彼を尻目に彼女は突然明るく言った。
「そんなわけで、今日からあなたには私たちの言うことを聞いて拒生種退治をしていただきますわ」
「えっ……?」
 彼は、一般人としては当然の反応をした。いきなり「言うことを聞け」と言われても、動揺と不安しか残らなかった。だが数秒後、彼はこう考えた。
 この人たちは別に僕に危害を加えるつもりじゃなさそうだ。ここ以外に行くあてもないし、悪いけどお世話になろう。それに、僕もあのメイドさんに関係しているってのが気になるし、この人たちについていけば母さんたちの死体の意味もわかるかもしれない。
 そういうわけで、彼はあっという間に拒生種退治の仕事を引き受けてしまった。ここで即決できたのも、彼の人間離れした適応力のおかげかもしれない。だが、それが必ずしも正しい選択だったか、と問われると、おそらく今の少年にはなんとも言えないであろう。彼は常に、直感を信じるが、信じきっているわけではなかった。
「あなたにやってもらう任務は五つ、簡単なのがありますわ。じゃあまずは、一つ目から説明いたしますわ」
 彼女に連れられ、少年は足を引きずりながらホールを出ていった。振り返ると、壇上には相変わらず、虚しく光を反射させるグランドピアノが一人寂しく居座って、誰もいないホールの中で異様な存在感をはなっている。少年はは内心で胸をなでおろした。自分も、孤独になっていたかもしれないんだ。そうなったらきっと、もう人生は終わっていたかもしれない。彼はその事実に少し寒気を感じ、これからの大変であろう日々に向け、心の帯を固く締めた。
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