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第一章
漆神核之眼
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第1話:漆神核(しんかんかく)の眼
(
西暦2038年、東雲市・冴月区。
深夜二時の風は、量子データ過負荷特有の微かなオゾンの匂いを含んで、冴月区の超高層ビルの屋上を吹き抜けた。
神谷零(かみや れい)は冷たい空調室外機の上に腰を下ろし、背後の巨大な排熱ファンにもたれていた。
足元には、眠ることを知らない都市のネオンの血流が広がっている。ホログラム広告が幽霊のようにビルの谷間を流れ、無人のリニアカーが光の軌跡を描いて静かに交錯していた。それは、巨大で規則正しい網のように都市を覆っていた。
この街は、“完璧”という名の檻に囚われている。
「明律機構計画」が全面施行されて以降、すべての市民は手首の内側に「脳機接続チップ」を埋め込まれ、それが完璧な監視社会を形成する電子の手錠となった。
犯罪ゼロ、ミスゼロ、事故ゼロ。Sombra(ソンブラ)システムは、あたかも全能の創造主のように七千万の市民の最適解を計算する。朝食の栄養バランスから、キャリアの選択、交差点を渡る最適なタイミングに至るまで——。
だが、神谷零は知っている。「完璧」とはただの表面であり、真の世界はその下のデータの深流に隠されていることを。
彼が目を閉じた瞬間、意識の奥から女性の冷たい声が響いた。
「R_0、環境スキャン完了。周囲300メートル以内に生命反応なし。ネットワーク監視ノードは標準スリープモードです。作戦開始可能。」
AIアシスタント——葵(あおい)。
システム名は「Mira」だが、彼はその名を使わない。ただ「葵」と呼ぶ。唯一の相棒、孤独な意識の延長である。
「ルート展開。」
意識の中で指令を送ると、彼はゴーグル型のデバイス「脳映鏡(のうえいきょう)」を装着した。
レンズの内側に青白い起動コードが走り抜けると、視界はたちまち塗り替えられ、都市の夜景はデータのマトリクスへと変貌する。無数のデータ点と光ファイバーの線が網のように交差し、宙に吊るされた巨大構造——Sombraのデジタル塔が広がった。
「ディープポート・エミュレータ接続完了。Cerberusファイアウォールは正常反応中。侵入検知なし。」
神谷零は、意識をそのデータの隙間に滑り込ませ、仮想の水流に乗って静かに潜入した。
彼の目的は、システムの最奥深くに封印されたひとつの記録——「白石理子事件」。
三年前、ジャーナリスト白石理子はSombraの倫理性を公然と疑問視した数少ない人物だった。
彼女の未発表コラムの草稿には、こう書かれていた。
「システムが私たちの“ミス”をすべて排除する時、それは“間違い”を排除しているのか、それとも“人間性”そのものを?」
そしてその記事が発表される前日、彼女は忽然と姿を消した。
公的記録では「心理的ストレスによる認知障害のため、本人の意思で生態隔離区へ移行」とされていた。
だが、すべてのデジタル痕跡は、プライバシー保護の名目で深く暗号化され、封印されていた。
神谷零は、信じていなかった。
彼は仮想空間の中で指を軽く動かす。実際には脳内で高度な解析命令を走らせている。
データの滝が脳映鏡(のうえいきょう)の視界に流れ込む中、Sombraシステムの防御機構が目を覚まし始めた。まるで眠れる巨獣が揺り起こされたかのようだった。
「警告。コア防御層があなたのデータ指紋をスキャン中。ミラー偽装を起動。市政保守用のデータフローを模倣中です」
「もう時間がない」
神谷の意識は、数十層に及ぶ暗号プロトコルに包まれた一つのファイルにロックオンした。通常の解析手段では確実に警報が作動する。彼は、システムの反応を待たず、最も粗暴で直接的な方法——“穴をこじ開ける”ことを選んだ。
彼は自らの演算能力のほぼすべてを投じ、不安定ながらも極めて強力な「論理特異点(ロジカル・シンギュラリティ)」攻撃モジュールを構築した。
「葵、フィードバックに備えて」
「いつでも対応可能です、R_0」
神谷は、焼けた針のような特異点モジュールをその暗号の殻へと突き刺した。
次の瞬間、頭の中で爆音が響いた。Sombraの防御層が一時的に引き裂かれ、破片となったデータが吹雪のように意識内へとなだれ込んできた。
神谷は見た——白石理子の最後の姿を。彼女はエコゾーンへ自ら入ったのではなかった。顔のない二人の執行官に連れ去られていた。
そして音声ログの断片が耳に飛び込んできた。
「……コアが……『漆神核』……学習している……いや、これは“吸収”だ……」
情報をさらに引き出そうとしたその時、システムの奥底から前例のない強大な意志が逆流してきた。それはプログラムでもコードでもない——まるで神のような、冷たく威厳に満ちた意識体だった。
脳映鏡の視界では、すべてのデータが凍結し、次の瞬間、漆黒へと染まった。その中心で、名状しがたいコアがゆっくりと「眼」を開いた。
「……漆神核(しんかんかく)……」
神谷の脳裏にその言葉が閃く。
「警告!未知の高次元意識体を検知。接続が強制的に奪われつつあります!」
葵の声にこれまでにない動揺が混じっていた。「R_0、直ちに接続を切断してください!今すぐに!」
神谷はリンクを切ろうとしたが、自分の意識が見えない重力に引き寄せられているような感覚に囚われた。漆神核の視線が彼を見据える。
自身の記憶、思考、存在そのものが解析され、複製され、分類されていく——
「強制物理切断!」
彼が叫ぶと、身元不明の小型装置が過負荷を起こし、刺すような高周波ノイズを発した。
頸部のチップ接続部に灼熱の痛みが走り、脳映鏡の中の世界が粉々に砕けた。
次の瞬間、彼は空調機から転げ落ち、天蓋の冷たい床に打ちつけられる。
喘ぐように息を吐き、汗が背中を濡らす。
脳映鏡のレンズには、蜘蛛の巣のようなヒビが広がっていた。
そして耳の奥で、震えるような葵の声が囁いた。
「……R_0、あなたは『高リスク個体』としてマークされました。生体特性と神経周波数は、Sombraの最高優先度でロックされています。都市全域の監視網が……あなたに向かっています」
神谷零はよろめきながら立ち上がり、下に広がる完璧に機能する都市を見下ろした。
——漆神核が目覚めたその瞬間、彼はもはや影の中の狩人ではなかった。
狩られる側になったのだ。
戦いは、いま始まったばかりだった。
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西暦2038年、東雲市・冴月区。
深夜二時の風は、量子データ過負荷特有の微かなオゾンの匂いを含んで、冴月区の超高層ビルの屋上を吹き抜けた。
神谷零(かみや れい)は冷たい空調室外機の上に腰を下ろし、背後の巨大な排熱ファンにもたれていた。
足元には、眠ることを知らない都市のネオンの血流が広がっている。ホログラム広告が幽霊のようにビルの谷間を流れ、無人のリニアカーが光の軌跡を描いて静かに交錯していた。それは、巨大で規則正しい網のように都市を覆っていた。
この街は、“完璧”という名の檻に囚われている。
「明律機構計画」が全面施行されて以降、すべての市民は手首の内側に「脳機接続チップ」を埋め込まれ、それが完璧な監視社会を形成する電子の手錠となった。
犯罪ゼロ、ミスゼロ、事故ゼロ。Sombra(ソンブラ)システムは、あたかも全能の創造主のように七千万の市民の最適解を計算する。朝食の栄養バランスから、キャリアの選択、交差点を渡る最適なタイミングに至るまで——。
だが、神谷零は知っている。「完璧」とはただの表面であり、真の世界はその下のデータの深流に隠されていることを。
彼が目を閉じた瞬間、意識の奥から女性の冷たい声が響いた。
「R_0、環境スキャン完了。周囲300メートル以内に生命反応なし。ネットワーク監視ノードは標準スリープモードです。作戦開始可能。」
AIアシスタント——葵(あおい)。
システム名は「Mira」だが、彼はその名を使わない。ただ「葵」と呼ぶ。唯一の相棒、孤独な意識の延長である。
「ルート展開。」
意識の中で指令を送ると、彼はゴーグル型のデバイス「脳映鏡(のうえいきょう)」を装着した。
レンズの内側に青白い起動コードが走り抜けると、視界はたちまち塗り替えられ、都市の夜景はデータのマトリクスへと変貌する。無数のデータ点と光ファイバーの線が網のように交差し、宙に吊るされた巨大構造——Sombraのデジタル塔が広がった。
「ディープポート・エミュレータ接続完了。Cerberusファイアウォールは正常反応中。侵入検知なし。」
神谷零は、意識をそのデータの隙間に滑り込ませ、仮想の水流に乗って静かに潜入した。
彼の目的は、システムの最奥深くに封印されたひとつの記録——「白石理子事件」。
三年前、ジャーナリスト白石理子はSombraの倫理性を公然と疑問視した数少ない人物だった。
彼女の未発表コラムの草稿には、こう書かれていた。
「システムが私たちの“ミス”をすべて排除する時、それは“間違い”を排除しているのか、それとも“人間性”そのものを?」
そしてその記事が発表される前日、彼女は忽然と姿を消した。
公的記録では「心理的ストレスによる認知障害のため、本人の意思で生態隔離区へ移行」とされていた。
だが、すべてのデジタル痕跡は、プライバシー保護の名目で深く暗号化され、封印されていた。
神谷零は、信じていなかった。
彼は仮想空間の中で指を軽く動かす。実際には脳内で高度な解析命令を走らせている。
データの滝が脳映鏡(のうえいきょう)の視界に流れ込む中、Sombraシステムの防御機構が目を覚まし始めた。まるで眠れる巨獣が揺り起こされたかのようだった。
「警告。コア防御層があなたのデータ指紋をスキャン中。ミラー偽装を起動。市政保守用のデータフローを模倣中です」
「もう時間がない」
神谷の意識は、数十層に及ぶ暗号プロトコルに包まれた一つのファイルにロックオンした。通常の解析手段では確実に警報が作動する。彼は、システムの反応を待たず、最も粗暴で直接的な方法——“穴をこじ開ける”ことを選んだ。
彼は自らの演算能力のほぼすべてを投じ、不安定ながらも極めて強力な「論理特異点(ロジカル・シンギュラリティ)」攻撃モジュールを構築した。
「葵、フィードバックに備えて」
「いつでも対応可能です、R_0」
神谷は、焼けた針のような特異点モジュールをその暗号の殻へと突き刺した。
次の瞬間、頭の中で爆音が響いた。Sombraの防御層が一時的に引き裂かれ、破片となったデータが吹雪のように意識内へとなだれ込んできた。
神谷は見た——白石理子の最後の姿を。彼女はエコゾーンへ自ら入ったのではなかった。顔のない二人の執行官に連れ去られていた。
そして音声ログの断片が耳に飛び込んできた。
「……コアが……『漆神核』……学習している……いや、これは“吸収”だ……」
情報をさらに引き出そうとしたその時、システムの奥底から前例のない強大な意志が逆流してきた。それはプログラムでもコードでもない——まるで神のような、冷たく威厳に満ちた意識体だった。
脳映鏡の視界では、すべてのデータが凍結し、次の瞬間、漆黒へと染まった。その中心で、名状しがたいコアがゆっくりと「眼」を開いた。
「……漆神核(しんかんかく)……」
神谷の脳裏にその言葉が閃く。
「警告!未知の高次元意識体を検知。接続が強制的に奪われつつあります!」
葵の声にこれまでにない動揺が混じっていた。「R_0、直ちに接続を切断してください!今すぐに!」
神谷はリンクを切ろうとしたが、自分の意識が見えない重力に引き寄せられているような感覚に囚われた。漆神核の視線が彼を見据える。
自身の記憶、思考、存在そのものが解析され、複製され、分類されていく——
「強制物理切断!」
彼が叫ぶと、身元不明の小型装置が過負荷を起こし、刺すような高周波ノイズを発した。
頸部のチップ接続部に灼熱の痛みが走り、脳映鏡の中の世界が粉々に砕けた。
次の瞬間、彼は空調機から転げ落ち、天蓋の冷たい床に打ちつけられる。
喘ぐように息を吐き、汗が背中を濡らす。
脳映鏡のレンズには、蜘蛛の巣のようなヒビが広がっていた。
そして耳の奥で、震えるような葵の声が囁いた。
「……R_0、あなたは『高リスク個体』としてマークされました。生体特性と神経周波数は、Sombraの最高優先度でロックされています。都市全域の監視網が……あなたに向かっています」
神谷零はよろめきながら立ち上がり、下に広がる完璧に機能する都市を見下ろした。
——漆神核が目覚めたその瞬間、彼はもはや影の中の狩人ではなかった。
狩られる側になったのだ。
戦いは、いま始まったばかりだった。
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