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第一部 揺動のレジナテリス
24.紫紅の司教 ソフィア・カトリート(S-077)
しおりを挟む王都南東部の外れにある質素な教会は《水聖会》と呼ばれる水精術の聖地で、
清貧を貫いた――小さな拠所でしかなかった。
大司教だったソフィア・カトリートは、若干8歳の若さで司祭になった水精術の権威であり、
教会で術を学んだ信徒にとっては教師、孤児には親代わりと言える。
見放された者に向けられる慈愛は、教会の崩れた塀の中で戯れる沢山の猫を見ても明らかで、
いつでも逃げ出せるのに逃げようとはしない、
そんな彼等は各々が気ままに日向ぼっこをして、寄り添い、じゃれ合い、毛づくろい、
時には来訪者を出迎える、小さな門番だったりもした。
角兎月のとある日、ノルドランド王国女王フローラ・ノルドランドは、
従者を伴いお忍びで古びた教会の門を叩いた。
日が天に登るよりも前の少し肌寒い時分のことである。
「はいはい、待って下さいね」
木戸越しにの柔和な声の後に聞こえる軽い錠の音は、
権威も無い象徴としての教会の有様を如実に表していると言えた。
「お久しぶりです、姉様」
「あらあら、フローラ、元気だった? ほら、寒いから早く中に入りなさい」
礼拝を装って頭まで被ったフードを脱ぐと、綺麗な栗髪が流れる。その流れの後ろに
大きな男が長い槍を手に、それでいて控えめに立っていた。
「あら……あら、こちらの方は? 見慣れない肌の色をしてますね」
「ええ……この方はカイルと言います。訳あって今は私の護衛で……」
「あらあら、貴女を護る騎士ね。あらやだ、ちょっと見ない間に――」
「――そ、そんなんじゃ!」
「しーっ、まだ子供達が寝てるから、静かにね」
「……もぅ、やめてください姉様、冷やかすのは……色々大変なんですから」
そういって赤面するフローラの手を取って、ソフィアは礼拝堂の長椅子に彼女を座らせると、
無言で棒立ちになっている大男に手招きをする。
カイルは何も言わずに近づき真後ろに立つと、背を向け玄関を凝視し、
ソフィアは全てを察して女王の隣に座った。
「あのね……もう昔とは違うんだから。何を警戒してるのか知らないけど……」
そう言いながらもソフィアには解っていた。
崩れた外塀、陽光が漏れる内壁、補修された窓。
全てが過去の傷痕で、その生々しさを今なお残しているからだ。
***
「姉様……前にも言いましたが建て直しませんか? 国で補償しますから」
「いえいえ、良いのよ本当に。前にも言いましたが、あれは残しておくべきものなのよ」
「でも……子供達にとっても余り良くないと思うのですが」
「あの子達にはちゃんと話してありますよ。外壁に刺さってるアレも、触っちゃダメって」
「……アレが一番、子供には悪い影響があると思うのですが……」
二人が言うアレとは、教会を囲う外壁の内外に刺さる金属片――《コインスペル》の弾痕で、
かつての火精教との大規模な戦闘の激しさを視覚に訴えかける《争乱の証》だった。
当時大きな力を持ち、絶大な影響力を及ぼしていた二大教の教皇は、
土精術師や風精術師を巻き込んで国を二つに割り多くの死者を出したと言う。
記録は無く口伝で語り継がれたそれは、
この国の歴史を後世に残す意義を、少なからず伝える教訓となった。
「フローラ……あの傷痕はね、ただ消せば良いというものではないのよ。
今では禁止されたコインスペルも何故禁止されたのかが理解出来なければ、
いずれ歴史は繰り返すわ」
「そうでしょうか……少なくとも騒乱以降、違法スペルで罪を犯した者は居ませんが……」
「それは単純に『お金が勿体ない』から、代替品としての《ナゲット》の普及で
硬貨を使う必要が減ったから、それだけでしかないのよ」
「その結果として……違法行為が無くなったのであれば、もう役目は果たしたのでは……」
「……一番の問題は違法行為の有る無しではないの。大事なのはその《威力》なのよ」
コインスペルは土精術のLV2《エッジ》を利用したもので、コインを鋭利な弾刃に変形して、
ただ飛ばすという、容易でも当たれば大きなダメージを与える事が出来る危険なスペルである。
硬貨を触媒に利用するというコスト度外視の術が生まれた経緯は、ただの偶然だったそうで、
とある冒険者が危機に瀕し、打ち根を使い果たし、苦し紛れに青銅貨を握りしめた――
そんなどこにでもあるような逸話が、後の《貨幣危機》を招いたという。
「……実際にこの目で見た事はないですが……それほど強力なのでしょうか?」
「そうね……かなり昔の事だから勿論私も見た事はないけど、
無数の刃が飛び交う異様な戦闘だったと言われています。
体に食い込んだコインは術の回復が間に合わない程に威力が高く、
大勢の方がお亡くなりになったそうですよ」
「それほどまでに……どちらも同じ金属なのに、ですか?」
「専門的な生産技術のことは私も良く分かりませんが、《精錬》と《硬度》によるそうですね。
廃材を溶かして再利用した《ナゲット》は手軽でも、余り威力は出ないようです」
「そうですか……姉様、一度私も見せて貰ってよいですか?」
***
「ほらフローラ、ここ」
教会を囲う壁の外で、無数の弾痕を顔を近づけてしかめるフローラの肩を叩いたソフィアは、
注意深く穿たれた煉瓦の穴を指差した。
パラパラと崩れ落ちる乾いた粘土が薄く積もる爪先を、フッと吹いて義妹の手を取り、
穿孔の奥に頭を覗かせる金属片に触れさせた。
「分かる? これが外壁に刺さってるコインの中で一番奥まで食い込んでる物よ」
「あの……こんなに奥まで刺さるのですか……指が届くか届かないかですが……」
「……怖いわよね。こんなのが刺さったらそりゃ助からないもの、禁止するのも当然だわ。
それにね……こっち来て。あ、カイルさん、ちょっとそこ、ずれてもらえる?」
手を放して三歩壁沿いに移動したソフィアは同じように外壁を漠然と眺めていたカイルを、
中空でソッと払って、壁の損傷が激しい場所を指して続けた。
「そこ見て。コインは食い込んでは無いけれど、小さな金属片が飛び散ってるでしょ」
「え、ええ……これは何でしょう??」
「これもコインスペルの痕よ。威力は小さいけれど飛び散ってるの。
こんな小さな粒でも、沢山当たったら無事じゃ済まないわよね。無数の欠片が食い込むのよ」
「この……さっきのとの違いは何なのでしょう? スペルのレベルでしょうか?」
「そうね……どちらかと言えば、スペルじゃなくて術師のレベルとコインの質でしょうね。
高レベルの術師が《質の良い硬貨》を使えば、より鋭利で貫通力のあるものになるの」
「ということは、レベルが低ければそれほど威力は無いのでしょうか?」
「そういうことではないのよ……今言ったでしょ。一つ一つの破片は小さくても
飛び散れば被害は大きくなる。コインスペルの厄介な所はね……
レベルが低い術者でも、素材が粗雑でも、それなりの威力が出せてしまうことにある。
だから大勢の犠牲が出たのよ」
無言になるソフィアとフローラを、感情のこもらない目で眺めていたカイルは、
昇り始めた朝日を浴びて黄金に輝く頭を二人の間に割って入れて、
外壁を前に無言で散弾の痕を見つめる。
そうして、おもむろに上着を脱ぎ始めた。
「え…! カ、カイル!! い、いきなり何を!!」
「あらあらあらまぁまぁまぁ」
露わになった逞しい褐色の胸筋を惜しげもなく見せつけた後、スッと踵を返して背を向ける。
そこには、壁の無数の弾痕とよく似た傷痕が、痛々しく今もなお残っていた。
ただ一つ違うことは、背中の左右の傷が酷く、中央は無傷であることだった。
「こ……れ……か」
***
「いってきまーすー!!」
数人の子供が元気よく声を発して庭へ駆け出していった後、食堂のテーブルを拭くソフィア、
炊事場に残った女の子と一緒に片付けを手伝うフローラ、
そして彼女が目に届く場所に座って何かを考えているように足を組んで顎を拳で支えるカイル、
三者が三様の朝を過ごした。
輪環蛇が相食む頃、礼拝堂に戻ったソフィアはカイルの隣に座ると、そっと背中に触れる。
既に薄手のシャツで隠された傷痕の凹凸を白い掌でなぞりながら、
そっと耳元で囁く。
「……この傷、今なら綺麗に治せるわよ」
「……いい。こ、のまま……で」
全てを理解した司教の申し出に、態勢も変えずに少し間を置いてカイルは静かに答えた。
「あらあら……どうして? 辛い記憶なんて消してしまった方が良いでしょう……
その傷痕、そのまま背負い続けるのは……きっと辛くて、悲しいことよ?」
「……そ、れで、いい」
表情の動かないカイルの、揺るぎない言葉にソフィアは小さく頷いて立ち上がる。
「そう……分かった。気が変わったらいつでも言ってね」
炊事場に入ったソフィアは、早くも夕食の下拵えをしているフローラの横に丸椅子を置いて、
竈の上に置かれたクズ芋を手に取り、床に置かれた水桶に漬けて擦る。
「フローラ……貴女、私に何か話が合って来たんじゃないの?お忍びで来たくらいだもの、
修道時代を懐かしみに来たって訳ではないのでしょう?今なら他に誰も居ないわ」
「姉様……」
「政教分離でお飾りの司教だけど、水聖信徒は今でも多いのよ?」
「……先日、レインフォールでエリアスが侵入者を捕らえました。その事で……」
「レインフォール? 無断で伐採なんてよくある話でしょう、貴方が見逃してるのも」
「え、ええ……ただ、その……捕らえられた相手と言うのが……帝国皇女なのです」
「あ……あらあら……どういう事なの? どうやって……いえ、何のために??」
「それが……今は何も分かっていません、何も話さなかったそうで」
「貴方は直接話をしたの? まだ捕えているの?」
「いえ……エスパニョール卿の進言で……私は会っていません。それに……
既にエリアスが護送役としてイベリスへ向かいました」
「ど、どういう事……だって貴女、レインフォールにはあの子が――」
「――そう……あの子が……来たのです。エリアスと共に王都へ……それで私……」
***
「ねえさま! みてみて! リコが、ほら! たった!」
「あらあら! もう歩けるかしら? こっちおいで~ ちっちっち」
「ねえさま、リコはネコじゃないです!」
「まぁまぁそうでしたね。フローラはすっかりお姉ちゃんになったのね」
「うん! わたしがまもってあげるんだー!」
「けど……そうしてると本当……? ……似すぎよね」
「え! なあに?」
「いえいえ、なんでもないわ。あ、ほらフローラ、貴女の所に行こうとしてるわよ」
「あ! リコ! こっちこっち! おいで! がんばって!」
「フローラ……よかったわね。これでもう貴女は一人じゃない……だから、きっと大丈夫」
ソフィアの脳裏に一瞬蘇った遠い記憶と約束は、眩いばかりの閃光を放ち駆け抜けていった。
目の前に座る幼い日のそれとは違う、
長く美しい栗毛を少し寂しそうに見つめて、心を鎮めた。
「そう……リコが……それは良かっ……た、のかしらね、私は嬉しいけれど……」
「私も……嬉しいことは嬉しいのですが……」
「そうね……エリアスにとっては複雑かもしれないわね……あの子とはどうなの?」
「エリアスとは……多分上手くいっていると思います。純粋な良い子に育ってましたから、
あの子の心を癒してくれるんじゃないかって……今更勝手な話ですが、心から願ってます」
「ええ、ええ……そうね。私もリコに会いたいわ。大きくなったでしょう?」
「えっと……そうでもありませんでした、一目で気づいたくらいですから」
複雑そうな笑みを向けるフローラにクスクス返すとソフィアは小さな芋を水に放った。
「それで……他に何か頼みがあるのでしょう? リコの事だけじゃないわよね」
「……はい。エスパニュール卿は帝国との仲介役を買って出てくれましたが……
エリアスは帝国への備えを固めるようにと、強く言ってきています」
「それは……そうね、私もその方が良いと思うけど」
「しかし……それは帝国を刺激する事になってしまうのではとも思うのです。
まずは話して解決出来ないかと……必要であれば私が交渉に行こうと思っています」
「フローラ……それはダメ。女王は王都から離れちゃダメ。何があってもね」
「どうしてですか? 私も……王国の為に働きたい。ただ座っているだけは……辛い」
フローラの真摯で真っ直ぐな言葉を受けながら、ソフィアは全く別の事を考えていた。
優しい義妹フローラには《象徴としての女王》それ以外の役割は、
きっと果たせないと。
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