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3. 梓、出会いを拾う

梓、出会いを拾う ⑦

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 城田は、梓が落ち着くのを辛抱強く待ってくれた。
 “友達” を連呼する梓に彼はいささか複雑な表情を見せたけど、うんうん頷いて「友達なら一緒に夕飯食べようか」と押し切られた。

 城田が梓を連れて行ってくれたのは、おばあちゃんと言われる年代の白人女性が一人でやっている、創作イタリアンの小さな店。
 ちょっと低めのL字カウンターに十席と、四人掛けのテーブルが二席の小ぢんまりした店内は、常連客で犇めき合っていて、城田の顔を見た女店主は奥から形の違う椅子を一脚持ってくる。他の常連客も慣れているらしく、少しずつズレて行って、女店主は一つだけ空いていた椅子の隣に並べて二人に勧めた。

 唖然としていた梓を豪快に笑い、女店主はカウンターの中に戻って行く。
 隣のお客と肩が触れ合いそうな距離。
 身を乗り出して向こうのお客に話しかける人。
 一斉に笑いが巻き起こる店内。
 城田もそれに混じって笑っていると、彼のひとつ向こう隣りの女性に話しかけられ、マゴマゴして俯く梓をネタにし、城田が揶揄われていた。

 心地の良い空間だ。
 料理からは女主人の人柄が伝わって来る。
 それまで緊張し捲っていた梓の心が解きほぐされ、心がほんわかと温かくなった。
 頭の中がいっぱいいっぱいでその上気後れしないように、この店をチョイスしてくれた城田の優しさが胸に染み入る。

 美味しい食事と少々のお酒、愉しい会話のお陰で、時間はあっという間に過ぎていて、何気なく腕時計を見た梓は、一気に現実に引き戻された。



 ふわふわと心が躍るようなひと時から、立ち去らなければならないことに、名残惜しさを感じる。
 けれど、明日も仕事だと思えば仕方ない。
 時間は二十二時を回っていた。

 怖くて意識的に着信を見なかったけど、梓が帰宅していないのは、もうきっとバレている。もし仮に明日、遅刻したりサボったりしたら、どんな仕打ちが待っているか。
 想像した瞬間、背筋が寒くなった。
 店を出て、ブルっと震えた梓に「寒い?」と訊いて来た城田。梓は頭を振って「行きましょ」と先を歩き出す。

 来た時はおどおどしていた梓も帰る頃には満面の笑顔で、常連客と再会を約束して店を出た彼女の変わり様に、城田も「連れて行って良かった」と満足そうに微笑んでいる。
 城田の笑顔を見て、梓は今の今まで忘れていたことを思い出し、真っ赤になって俯くと、隣からクスクス笑う声が聞こえた。

 どれだけ緩みきっているんだろうと、恥ずかしくなって一層赤くなる梓は、やはり城田の笑いツボらしい。「もお知りません」とズカズカ歩く梓に、笑いながら謝っても逆効果というものだ。
 タクシーの拾える所まで、何だかんだと戯れながら歩いていた梓が、突然ピキーンと固まった。城田が訝し気に彼女を見ていると、ジリジリと後退り始める。

「? アズちゃん?」
「………げてっ!」
「え?」
「に…逃げてッ!」

 梓の引き攣れた声。城田の顔に困惑の色が浮かんだ。

「はやくぅ」

 そう言って梓の細い腕が城田を自分から引き離そうとする。押しやられる城田の顔に微かな怒りが浮かんだ。
 今にも泣きそうな梓を置いて逃げる選択肢などある訳もなく、何故急にそんな事を言い出したのか、城田は彼女の視線の先を追った。

 優に百八十センチを超えているだろう長身の、顔だけ見たら決して男には見えない麗人が、こちらを睨み据えていた。
 彼が一歩踏み出すと、梓がジリッと退る。

「し…城田さん」

 口を余り動かさないで梓が呼び掛けた。

「なに?」
「今日は本当にご馳走様でした。先立つ不孝をお許し下さい」
「えッ!? なにそれ!?」

 城田がそういうが早いか、梓が踵を返して走り出したのが早かったか。
 行き成り走り出した梓の背中に「あずさーッ!!」と麗人の怒声が投げつけられ、城田の足が止まった。
 唖然とする城田の前を通り過ぎ様に睨み「殺すッ」と物騒な台詞を残して、彼、南条怜は必死の形相で逃げていく梓を追うのだった。



 本気の彼から逃げるには、ストライドの差に大きな問題があった事を、今途轍もなく痛感していた。
 程なくして怜に捕獲され、がっちり右腕をホールドされたかと思ったら引き摺られるようにして、人目を避けたビルの谷間に引っ張り込まれた。
 お世辞にもきれいな場所とは言い難いそこで、壁際に追い詰められていた。

(……これって、所謂、壁ドンってやつ…?)

 目にしたことはあっても、実体験はお初だ。
 心の中で「おおーっ」と一瞬歓喜したものの、相手が怜だという事を思い出し、すぐさま萎んだ。
 剣呑な眼差しの怜が見降ろしている。梓はそっと息を呑んだ。

「アレ誰?」
「………」
「言えないような奴?」
「………」

 絶対に言えない。言える訳がない。
 唇を固く噛んで、口を絶対に割らないと意思表示をすると、怜の右眉がぴくっと動いた。条件反射でつい怯みそうになったものの、更にぐっと食いしばる。
 ポロリと一言でも漏らしてしまったら、どれ程の迷惑が城田に掛かるか、考えるだけで怖い。

 怜との距離がジリッとまた迫る。
 彼女の両脇に着かれている怜のしなやかな腕に目を走らせた。
 梓はその僅かな隙間から抜け出せないか、色々とシミュレーションしてみたが、万に一つの可能性も見出せず、息がかかる所まで近付いて来ている怜の顔を見上げて、ドキリとした。
 僅かに細められた榛色の双眸に色香を感じ、梓の表情に困惑の色が浮かぶ。

(……え…? 怒ってたよね? それでその艶は、なに……?)

 仮にこれが怒っている顔だとして、色気駄々洩れで見られているのだとしたら、大石兄妹は怜に不戦敗を喫することを確証できる。
 梓はただでさえ怜の美貌に弱い。
 女神さまと崇め奉るくらい、怜の麗しい顔を見るのが好きだ。
 だけど。

(……目の前にいる人は、一体だれ?)

 怜の麗しいだけではない何かを秘めた眼差しが、梓の目をじっと見入って来る。そこから目を逸らすことは許されないと、頭の中で声がした。
 壁に肘を着いた怜の右手が、梓の髪を一房抓んだ。それをツンと引っ張り「面白くない」と怜の唇から漏れ聞こえ、梓は思わず「え?」っと訊き返していた。

「無防備な顔で男に笑い掛けるって、何かの冗談?」

 抓んでいた髪を自分の指に巻き付け、口角を上げて微笑んだ怜がその指を口元に持って行く。
 梓は自分の髪に口付けをされ、背筋にぞくりとしたものが走った。
 やっぱりどうにも目に映っている状況が理解できない。
 怜は一体何がしたいのだろう?
 梓を宥める時に、怜が頭頂にキスしてきたことは何度かあるけど、親が子供に対してするようなもので、凶悪な色気を拡散するような事はなかった。
 こんな事をする人ではなかった。

「アレ、だれ?」

 振り出しに戻った。
 梓が大きく首を振ると、巻き付いた指に髪が引っ張られて頭皮が攣れる。彼女が顔を微かに歪めるのを見て、怜は髪をクイっと引っ張り意地の悪い笑みを浮かべた。
 怜にはよく意地悪をされるけど、何かが違う。
 いつもはもっとこう、年下を構いたくて仕方ないと言うか、ちょっかいを掛けて楽しんでるというか、身内の気安さ?と言うか、基本そこには愛情がある。意地悪に愛も何もあるかと突っ込まれるかも知れないけど、梓が本気で怒れない確信犯的な事を得意とする人だ。
 それが今の怜にない。
 寧ろ纏わり付くような、危機感を感じるものを怜から感じる。
 ゾワリと総毛立った。

 怜の繊細な指先が梓の顎を捉えすっと上向かせ、彼女は肩を強張らせた。
 普段ならうっとりと見入ってしまう榛色した双眸。
 脳裏に絶体絶命の言葉が浮かぶ。
 なんでそんな風に思ったのか。
 冷静になれと声に出さずに何度も呟く。

 不意に脳裏をかすめた城田の笑顔。
 彼と一緒に居たことが、追い込まれるほどの怜の怒りを買うことなのか、よく分からない。怒らせても、こんな状況は未だかつてなかった。
 まるで獲物を追い詰めた捕食者の目をする男に、梓は戦慄した。

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