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6.5《番外編》 みんなに初恋を聞いてみた
みんなに初恋を聞いてみた ④ 十玖の場合
しおりを挟む中学二年の晩秋。
オレンジの空が辺りを染める放課後、初めて美空の存在を意識した。
日本人離れしているせいか、同年代の子よりも少し大人びて見える彼女は人気のある子で、自分とは別次元の人だと思う以外、これと言った感情を持った事がなかった。
声が、気持ちよかった。
初めて近くで聞いた彼女の声は、ずっと聞いていたいと思うくらい耳障りがとても良かった。
最初、その声に惚れたのかも知れない。
中庭でウトウトしていたら、別れ話が始まって、出て行くにも行けない状態になり、そんな時に屋上から苑子に呼ばれ、自分の間の悪さを呪った。
観念して立ち上がり、美空の涙を見た。
一瞬驚いたようだったが、すぐに睨まれた。
睨まれたのに、十玖は目が離せなくなっていた。
静かに泣いていた美空の止めどなく溢れるオレンジの雫。
綺麗だった。
大きく跳ね上がった心音。
遠くで苑子が呼ぶ声がする。
十玖は半分押し付ける形でタオルを手渡し、逃げるように走り出していた。
その日、帰宅してからも美空が脳裏から離れず、ぼうっとし過ぎて何度も母の平手を後頭部に食らった。
以来、敢えて気にするまでもないと思っていた相手が、やたら視界に飛び込んでくるようになったのは、何故だろう。
こんな事は初めてだった。
気付けば彼女を探してる。見かけると心が踊りだすように嬉しかった。
いつも彼女は満面の笑顔をたたえ、友人たちに愛されている。
ある日、美空と目が合った。
彼女は先日の事を思い出したようで、ぎっと睨みつけてきた。
美空の豹変ぶりにも驚いたが、そこまで警戒されている事実を突きつけられ、ショックな自分に驚いた。
それから事ある毎に睨まれるようになった。なのに美空を目で追ってしまう。理由の分からない切なさが増すばかりで、美空を見るのは止めようと思うのに、目が彼女を追ってしまう。
この感情が何なのか、未知の事で途方に暮れる日々。
三年になる春休み、少林寺の作務で近隣の清掃活動に参加した十玖は、兄天駆の婚約者であり、少林寺仲間でもある有理と行動していた。と言うか、有理が十玖を構いたくて、くっついて歩いてるのだが…。
スーパーの袋とゴミばさみを持った手で、有理が自分の腕を抱く。
「道衣寒い。裸足寒い」
道衣の下はTシャツ一枚。裸足にスニーカーは冷え性の女性には拷問だ。
「だから上着着た方がいいよって言ったのに」
「ゴワゴワして邪魔だったんだもの」
「毎回同じこと言って、懲りないよね?」
十玖は十二年間やってる事なのでもう慣れっこだが、八年目の有理は一向に慣れないらしい。
十玖はため息をついて、スーパーの袋とゴミばさみを下に置くと、帯も解かず上衣を引っ張り上げ、有理に渡す。練習前なので、汗臭くはないはずだ。
この頃の十玖は、有理と身長がほぼ同じ位で、十玖の道衣を着ても全く違和感がなかった。今のサイズだったらかなりぶかぶかで、それはそれでお尻まですっぽり隠れて暖かかった事だろうが。
「優しいねぇ十玖は」
腕を絡め、彼の頭を撫でる有理を押しやりながら、十玖は突然微動だにしなくなった。
有理は凍り付いた十玖の視線の先を追う。
美空がこちらを見ていた。
「知ってる子?」
十玖であることに気付いた美空は、変わりなく安定の睨みを利かせ、ふいっと顔を背けて行ってしまう。有理は「あらら」と十玖をチラ見し、美空を見送ると、泣き出しそうな面持ちの彼の背中をぽんと叩いた。
「彼女…とか? ケンカしてる?」
「そんなんじゃないから」
有理を引き離し、袋とゴミばさみを手にすたすた歩きだした。
「じゃあ、好きな子だ。さっきの誤解しちゃったかな?」
十玖は後ろを振り返った。
自分でも理解できなかった感情を、有理はいともあっさり看破し、赤面する十玖をニコニコ見守ってる。
「…好き……?」
「好きなんでしょ?」
好きか嫌いか言われたら好きだと思うけど、有理の言う “好き” がどんなモノだか解らない。
十玖は顔をしかめて首を傾げた。
「それってどうなのかな? よく分からない」
「もしかして激ニブ? 十玖、一目瞭然だったわよ?」
「一目瞭然って何が?」
「…あんたねえ。あたしの話、聞いてた?」
憮然とした表情の少年は、道端のゴミを拾いながら淡々とした口調で言う。
「彼女に嫌われてるから、天駆に余計な事言わないでよ」
「言わないけど、諦めちゃうの?」
「諦めるも何も、僕にどうしろって?」
「告れ」
「無理」
言い切って、サクサクとゴミを拾い集めながら、集合場所に向かう十玖の背中を有理はニコニコと見守る。
「同じ兄弟なのに、全然似てないよね。天駆は押せ押せだったわよ?」
「天駆は自分に自信があるから」
「あんたは自信なさ過ぎ。頭だって悪くない、顔だっていい、スポーツ万能でどれもダメな男からしたら、“ふざけんなこの野郎”って言われたって仕方ないのに、何が自信ないの?」
「天駆みたいに上手く立ち回れなくて、人を不快にしてしまうから」
「だから尻込みしてるだけ? 変わろうと努力もせずに?」
斜に構えて有理が見据える。
「年少の頃の十玖の方が、変わろうとしただけカッコイイわね」
幼稚園に通いたくて、抗議するために自分の髪を切ったことを言っていた。
我を初めて通そうとした時の事を今でもはっきり覚えてる。大人たちが大騒ぎし、友人たちが大泣きしたあの日、晴れ晴れした気持ちになった。
(でも今は…?)
あの時のように、強く変化を求める気持ちが湧いてこない。
自分を押さえ込むのに慣れ過ぎてしまったのだろうか?
黙り込んでしまった十玖に、些か哀れむような眼差しで微笑む。
「今は無理して変わろうとしなくてもいいから、どうしても欲しいもの手放せないものが出来た時に、後悔だけはしないでね」
「……ん」
俯いたまま小さく返事した十玖。
兄とは違って不器用な弟を愛おしく見つめ、有理は矢庭に走り出した。
「有理!?」
突然のことで慌てた十玖が背中に声を掛けた。有理は振り返りもせず、
「足冷たい。限界!」
先行くねぇと、そのままダッシュで行ってしまった。
十玖はやれやれとばかりに肩を竦め、ぼちぼちとゴミを拾いながら、集合場所に向かい始めた。
相変わらず、美空に睨まれる日々が続き、分かっていながら彼女を探してしまう不毛さにも慣れ、美空に振られた男子の話を聞きつけると、安堵のため息をついた。
それでもまだ、これが恋だなんて思わなかった。
安堵するのはすべて、あの日の後ろめたさから生じているもので、あんな切ない泣き顔を見たくないからだと信じ切っていた。
決して十玖に向けられたものではなかったが、天真爛漫で物怖じしない美空に、無自覚の愛おしさが募っていく。
いつも満面の笑顔の彼女が、カメラを手にしている時の真剣な眼差しが好きだった。
高校に入って同じクラスになった時、初めて天に感謝した。
睨まれるのに変わりはなかったが、時折、泣きそうな目で睨む事に気がついた。けど何故そんな目で見るのか、彼女に聞くことは出来ないまま、同じ時間を共有することが増えてから、美空を見る度に背徳感に苛まされることになった。
たまに窓の外をぼんやり見ている彼女に、柔らかそうな栗色の髪に、手を差し伸ばしたくて仕方ない。赤みがかったピンクの唇に、何度キスをする夢を見ただろう。何度彼女を抱く夢を見ただろう。
あまりに長い間、彼女を見続けてきたせいで、欲求不満の捌け口を求めているようで、申し訳なさが押し寄せる。何度も自己嫌悪に陥った。
美空が親しげに男と歩いているのを見て、面白くないと感じたことが嫉妬だとすら自覚できず、その男が兄晴日であり、わかった時の安堵感はこれまでの比ではなかった。
――――美空に惚れてんの? お前にはやんねぇよ。
思い切り牽制され、ようやく腑に落ちた。
晴日に “やらない” と言われて、強く欲しいと思った。
ずっとどこかで美空が欲しいと願っていたんだと、気付かされた。
けどそれが何だって言うんだ。どんなに欲しくたって手に入らないものもある。
こんな事なら気付きたくなかった。
しかし事態はどう転がるか分からないものである。
牽制され、ケンカを売られ、お先真っ暗だと思っていたのに、晴日に気に入られ、押し切られ、今に至る。
隣に座って、雑誌を横から覗き込む美空の方に少し寄せてあげる。
さり気なく擦り寄ってくる美空が愛しくてたまらない。
さっき美空の部屋で、やたらめったら物を投げつけられた時、どこからともなく一枚の写真が出てきた。
あどけなさが残った面持ちの十玖。
中庭で寝転んでいる制服は夏服で、日付は三年になってからのものだ。角度から言って、三階の廊下から望遠で撮られている。
しばらく視線を写真に落としていた十玖だったが、腕の中で庇われていた美空の眼前にやおら出すと、美空は悲鳴を上げて十玖から写真をふんだくった。胸に写真を隠し持つと、真っ赤な顔をして俯く。二人の異変に、三人は投擲とうてき行為を中断して集まってきた。
「いつの間に?」
脇から覗き込むと、美空は顔を背けた。今度は反対側から仕掛ける。
「無視しまくってた頃のだよね? 日付」
「どした?」
晴日は訊ねながら、挙動不審の妹をじっと見た。何かを隠し持っているだろう両手をぐいっと上に引っ張ると、写真がヒラヒラと舞い落ちた。晴日は美空を制して写真を拾い上げ、脇から謙人と竜助が覗き込んだ。
「十玖じゃん。わっけ~ぇ」
と晴日。
「隠し撮りだよね?」
謙人はニヤニヤと美空を見てる。
「取り敢えず画鋲とか刺した痕はないな」
どう言う意味だ、と突っ込みたくなる竜助の感想。
四人に囲まれ、美空は観念して口を開いた。
「だって十玖、被写体としては最高だったんだもん」
苦手だったけど、と付け足して晴日から写真を奪った。ずっと隠し持ってるつもりだったのに、こんな形で暴露されるとは。
涙目で兄たちを見て、部屋の惨状がいきなり目に飛び込んだ。
ぐちゃぐちゃだ。
「ちょっと!! こんなに散らかして!! 誰の部屋だと思ってるの!?」
美空の八つ当たりキックを受けながら、四人は監視員の納得できるまで片付けする羽目になり、やっと晴日の部屋に戻って来たのだった。
シンセサイザーのページを食い入るように見ている美空は、あーでもないこーでもないと独り言を言ってる。
美空の手を取り、指を絡めて繋ぎ直す。
誰も気付いてない。
美空はチラリと横目に十玖を見、嬉しそうに微笑んだ。
「さっきの写真は、単なる被写体としてだけ?」
こっそり聞いてみた。
「そうだよ」
「本当に?」
更に聞き返してくる十玖に困った顔をして、「それだけじゃなかったかも」と白状した。
破壊力半端ない十玖の嬉しそうな笑顔に、美空の胸がキュンとする。これが鉄仮面と呼ばれた人と同一人物で、しかも今は彼氏なんて、あの頃の自分は想像もしなかった。
そして不意に思い出したことを美空は言葉にしてみた。
「三年になる春休みに、偶然会ったの覚えてる?」
心を読まれたのかと思った。
ついさっき懐かしく思い出していた事だ。
「覚えてるけど」
「苑子ちゃん以外の親しい女の人がいたんだね? 同じ道院の人?」
上目遣いで見入ってくる美空をきょとんと見返し、
「アレ有理だけど」
「…えっ? 養護の鈴田先生?」
何?何? と三人も聞き耳を立ててくる。
「うん。今年で九年目だよ。有理の蹴り技は綺麗なんで、うちの道院じゃ“蹴りの女王”って言われてるんだよね」
校長室で見てしまったあの日の素早い蹴りは、目の錯覚ではなかったらしい。
あの母に次ぎ、未来の姉も強いのか、そう思うと十玖が不憫になってくる。二人に限らず、苑子も美空も萌も(因みに強さの順に並んでる)十玖を取り巻く女はアマゾネスのようだと思い至り、男三人は十玖に憐憫の眼差しを向けた。
本人は気にしてないようだが。
「天駆さんが十玖をキューピッドって言ってたのは、そーゆー事?」
「多分。元々はオープンキャンパスで有理に一目ぼれして、悉く振られたらしいんだけど、有理の大学のサークルとうちの練習試合があって、暇つぶしで応援に来た天駆が、大人に混じって参加した僕をダシに口説き落としたみたい」
「天駆さん、抜かりないなぁ」
心底感心している晴日。
「十玖をダシにするって、手口が怖いわ」
竜助は大袈裟に震えてみせる。
「そこはもお天駆ですから」
実弟のその開き直った一言で、みんな納得してしまうのだった。
後日、十玖は兄の初恋を聞いてみた。
しばらく無言で十玖に見入り、その意図を図りかねているようだった。
「なんで?」
「ん~。この間から美空がみんなに訊いて回ってるから、天駆はどうだったのかなって言う素朴な疑問…?」
「ふ~ん」
お前は? って聞くまでもないのが、つまらない。
天駆はにやりと笑う。
「有理のサインが入った婚姻届けをもぎ取って来れたら、教えてやるよ」
「それは教えたくないって事だね」
「そうは言ってない」
「無理に決まってんじゃん」
大体、弟にそんな大事なものを頼むか? と頭を抱えたくなる。
「十玖なら、或いはって事もあるだろ。有理のお気に入りだし」
「そんなに結婚したいなら、自分で何とかしてよ」
みんな美空にはペロッと話すのに、この違いは何だろう。
「も~いい。じゃね」
そそくさと諦めて、十玖は自分の部屋に戻り、天駆は舌打ちをした。
応援ありがとうございます!
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