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1. 残念美女は野獣の元に送り出される

残念美女は野獣の元に送り出される ⑤

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 父の口から信じがたい言葉を聞き、頭が処理落ちした。
 そこから再起動できたのは、お腹に回された京平の腕にくいっと引き寄せられたからだ。平時ならば間違いなく京平に拳を繰り出している所だが、そこまで頭が回らない。
 茫然とした面持ちで晃の顔を見返した。

「…………はい? 今、何と仰いましたでしょうか、お父様」

 動揺を取り繕おうとして、言葉遣いが妙に丁寧になってしまう。

「狭間家で暫く住み込みの家事手伝いをするようにと言いつけましたが、何か?」

 すぐさま返って来た言葉に瀬里の躰が強張った。

(聞き違いでも幻聴でもなかったよ……ははは)

 クラクラする頭に手を添えて、ぐっと眉を絞る。
 住み込みで家事手伝いなんて冗談ではない。ケダモノの棲み処にわざわざ飛び込む馬鹿もおるまい。
 男の子ばかりが四人続いて、半ば諦めた所にやっと待望の女の子が生まれた。蝶よ花よと育てられた瀬里を、京平のような危険極まりない男の元に送り出そうとする父の真意を聞き出さずにはいられない。

「何故にわたくしがでございましょうか?」
「勝明先生を一人放置しておくのが心配で、入院なんてしていられないと京平くんが言うものだからね。不特定多数を切りつけた刃物で怪我をしているのに、とてもじゃないがそんな許可は出せないし、無理もさせられないでしょう」

 そもそも家がご迷惑をお掛けしてしまったのに、そう言って長い溜息が漏れ聞こえた。
 勝明先生と言うのは京平の父親だ。
 そう言えば力から父子家庭だと聞いた事があったなと、思い出す。
 勝明は三兄の康成が、師と崇めるベストセラー作家だ。これまでに数々の作品が映画やドラマになっている。そんな凄い先生ではあるのだが、致命的に生活能力がない……とは、全く同類の康成の談である。

(京平の家庭事情は解るけど、それであたしが住み込む意味が分かんないんだけど)

 納得いかなくて、不貞腐れた表情で晃を見た。

「住み込みって、ちょっと待ってよパパさん。春休み中は目一杯仕事入ってるし、行ったところで役に立たないわよ。そんなの分かり切ってるのに何であたし? そもそも年頃の娘を赤の他人の男鰥おとこやもめの所に送り出すって、正気じゃないわ!」

 最後の方は悲鳴じみた声になっていた。
 ここは何としても拒否しなければ、と悲壮感が漂う眼差しで晃を見る。

「費用は全部あたしが負担するから、家政婦を頼めばいいじゃない」

 親だったら普通、あらゆる危険性を想定して、家政婦を派遣することをまず選択するだろう。それが出来ないほど生活が厳しい訳ではない。金銭と娘の貞操を天秤に掛けて、金銭に軍配が上がるほど逼迫もしていないし、両親は守銭奴でも薄情でもない。
 だから何故、縒りにも縒って京平の家に住み込んでまで、瀬里が労働力を提供しなければならないのか、その必要性が解らないのだ。

「親父が家政婦を入れたがらないんだよ」

 隣から瀬里の疑問に答える声がした。
 首からギギギッと軋んだ音が聞こえそうなぎこちなさで、斜めに京平を見上げる。あからさまに厭そうな顔で「なんでよ」と聞き返した瀬里に、彼は微苦笑を浮かべて言を継ぐ。

「まあ理由は色々あるが、一番は気配が煩いとダメだって事だろうな」
「だったら尚更あたしが行く必要ないじゃない」
「瀬里は足音立てないじゃん」

 間髪入れずに会話に入り込んできたのは、左隣に座った力だった。
 頭をブンと振り、余計なことを言った四兄を睨みつける。力は肩を竦めて「獲物を狙ってる時の猫みたいに気配消すの得意だろ」とニヤニヤ笑い、他の兄弟たちにもうんうんと頷かれ、瀬里は顔をしかめた。

 確かに。
 瀬里をやたら構いたがる兄たちから逃げるために、いつしか身に着いた特技である。その所為でかくれんぼをすると誰にも見つけて貰えず、大概自分から姿を現す結果となったものだと昔を思い起こし、「缶蹴りは無敵だったな」と独り言ちてふっと遠い目になる。

 身軽で気配を殺すのが上手く、時代が時代ならくノ一になれたのにと、身内親戚一同から有難くもない評価を何度頂いた事か。
 しかもそれが今、仇になろうとしている。
 身内の手に依って地獄に叩き落される気分だ。
 ここで自己逃避出来たらどんなに幸せだったか。

(それが出来ない我が身が憎い……っ)

 変な所で理性が邪魔をし、まったく可愛げないとは思う。けど、これも生まれ持った性分だ。儚く意識を消失できるほど繊細ではなかっただけである。

「行きたくない。住み込みなんて冗談じゃない」

 身内が率先して瀬里を送り出そうとするなら、断固とした意思表示は必要だ。口角を下げた不機嫌顔で、晃に半眼を向ける。

「百歩……一万歩譲って家事手伝いしなきゃならないとして、住み込みじゃないといけない訳じゃないよね!?」
「毎日通えるんですか?」

 疑わしそうな目で見返してくる晃に「もちろん」と答えたものの、瞬きしないで目を覗き込むように見つめられると、つい怯んで前言撤回する。

「…………た…ぶん?」
「多分? 話になりませんよ瀬里。あなたに誠意はないんですか?」
「相手によります」
「それは誠意と言わないですね。迷惑を掛けている自覚は有りますか?」  
「あたしだって京平からいつも迷惑かけられてるんだよ?」
「それは今回のように大事でしたか?」

 晃の視線が、瀬里の腹に回された京平の手を見る。釣られるように彼女も目線を落として巻かれた包帯を見た。
 晃の指摘通り、責任を問うような迷惑を掛けられたことはない。京平に精神的苦痛を強いられたと訴えたところで、医療従事者である両親と長兄次兄に掛かってしまえば、あまり意味がないように感じる。
 精神的に追い詰められた振りをしとけば良かったと後悔しながら「ち…がう、けど……」と歯切れ悪く言葉を繰り出しながら、視線を上げて父を見た。

「でもっ。京平の所に行ったら大事になる! 絶対にっ。確実にっ」
「たとえ本当にそうなったとしても、京平くんに責任を取って貰うだけです。勝明先生も瀬里の事をいたく気に入っておられるようだし、問題はないですね」  
「問題大アリでしょおっ! あたしの人生設計、簡単に覆さないでよ!」
「簡単なわけ、ないでしょう」

 唯一の娘なんだから、そう言って疲れたように晃は溜息を吐いた。


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