妻が家出したので、子育てしながらカフェを始めることにした

夏間木リョウ

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1・サンショウとハーブティー

サンショウとハーブティー・2

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 雪乃と知り合ったのは、同じ大学に通っている時のことだった。
 雪乃は結婚願望が強く、早く家庭が持ちたいとふとした時に口にしていた。本人が語りたがらないので詳しく聞いたことはなかったが、温もりに満ちた家庭に憧れていたところを見ると、それとは反対の環境で育ったのかもしれない。
 卒業すると同時に今のアパートに引っ越して同居を始め、しばらくして親族だけで式を挙げた。その一年後に莉々子が産まれた。
 世間的に見ればごくごく普通の家庭だったろう。ありふれた幸せでも、少なくとも秀治はこの生活に満足していた。
雪乃はそうではなかったのだろうか。この生活が幸せではなかったのだろうか。莉々子が産まれた直後は、確かに毎日がてんてこまいで、大人しかった雪乃が声を荒げることもあった。
だけどその大変さも莉々子の成長と共に収まってきたように見えていた。雪乃は専業主婦になることを夢見ていたが、秀治の稼ぎではそれを叶えてやれず、その点だけは申し訳なく思っていたのだが……。
「ねえ、ママそろそろ帰ってくる?」
 莉々子の声に、慌てて秀治は口角を上げて笑顔を作る。娘に不安な顔だけは見せてはならない。
「どうかな。ちょっと遠くまで買い物に行ったのかも。そうだ、莉々子。今日はパパと二人でどこか行こうか。どこがいい?」
「えー、じゃあねえ、動物園」
「よし、じゃあ仕度しよう」
 出かけるとなると、また一騒動だった。服にこだわる莉々子は、花柄のワンピースを着ると言ってきかない。タンスからどうにかそれを見つけ出したのはいいが、まだ肌寒い季節でスカートの下にも何か履かせなければならない。
「このズボンでいいだろ?」
「やだ、へん」
「じゃあ、このスパッツ」
「なにそれ。レギンスっていうの」
「はい、この黒のレギンス」
「だめ、はいいろのレースがついたやつ」
「はいはい、お姫様」
 莉々子の言うとおりのレギンスをどうにか探し出すと、タンスの中はグチャグチャになっていた。雪乃が見たら目を吊り上げて「元通りにしておいて」と怒られるところだが、帰ってからでいいかと放っておくことにする。
 莉々子は靴下にハンカチまで、指定してきた。
「自分で見つけろよ」
「ママは出してくれるもん」
 まったく、女の子は面倒くさい上に口が立つ。ため息をつきながら仕度を整えてやると、出かける前なのに秀治はすでに疲れ切っていた。

 動物園で一日過ごし、夜ご飯も外ですませて帰ると、秀治はもう疲労困憊だった。残った体力を振り絞って莉々子と一緒にシャワーを浴び、歯みがきとドライヤーを終えて、莉々子を寝かしつけにかかる。
 疲れているからすぐに寝るだろうと思っていたが、母親の不在は秀治の想像以上に莉々子を不安にさせていたらしい。
「もう夜なのに、ママどうして帰ってこないの?」
 帰って来るかどうかわからない以上、期待を持たせるようなことは言いたくない。
「絵本読んでやろう。どれがいい?」
 枕元にある絵本は、雪乃が莉々子のために図書館から借りてきているものだ。
 莉々子が選んだのは、白雪姫だった。読みながら途中でまずいなと思った。白雪姫の実の母親は、姫を産んですぐに死んでしまうのだ。
 また莉々子が泣きそうな顔になるのを見て、秀治は絵本を閉じた。
「明日、有麻のところに行こうか?」
「まりあ君? やったあ」
 小さな時にうまく言えずにまりあと呼び出してから、莉々子はずっと有麻のことをまりあと呼ぶ。
「じゃあ、歌を歌ってやろう。何がいい?」
「古時計」
 おおきなのっぽのと歌い出したまではよかったが、歌詞がところどころあいまいだ。でたらめに歌っていたら、莉々子が笑い出す。
「さ、もう寝ろ」
「うん、ねえ、パパはどこにも行かないよね?」
 そう言って秀治のパジャマの袖をギュッと握りしめた莉々子が、愛しくて哀しくて泣きそうになった。
「行かないよ。莉々子のそばにいる」
 小さな柔らかな手をギュッと握りしめて、頭を撫でてやる。莉々子は安心したように、まぶたを閉じてじきに寝息を立て始めた。

 御園生有麻ありまが一人で暮らす家は、秀治の住むアパートから車で十分ほどのところにある。
 有麻は秀治にとっては、伯父だ。と言っても、有麻は秀治より一つ年上なだけで、中学と高校では、先輩後輩の関係だった。
 駐車場に車を停めると、莉々子はドアを開けた瞬間飛び出していった。秀治は荷物を手に、その後を追いかけていく。
 洒落た青銅製の門を抜けると、玄関まで続くアプローチがある。そこから庭へ向かって、レンガの敷かれた小道が延びている。四月の温かさの中で、生垣のツゲはツヤツヤと光を照り返していた。
 レンガの敷かれた小道沿いには、プリムラとデイジーとが小さな可憐な花を咲かせていて、グランドカバーの緑の葉で覆われた地面には、スミレとパンジーが詰まったコンテナが置かれている。
 秀治が幼いころから馴染んだ、この庭の春の景色だ。
 小道を進むと広大な庭の向こうに、有麻が一人で暮らす洋館が見えてくる。秀治が三歳から高校に入る前まで、住んでいた場所でもある。
 チュチュのように広がるスカートを揺らして、莉々子は小道をはずれ、庭の中へずんずん進んでいく。庭の奥から響くハサミの音が聞こえているのだ。いや、それ以前に、方々からささやきかける聲達が、有麻の居場所を告げてくれている。
 レンギョウの黄色い花の並んだ枝が秀治の袖を引っかけ、それを取っている間に今度はユキヤナギの甘く香る花に目の前をふさがれる。
 この庭に来るといつもこうなのだ。あちらこちらの花が秀治の気を引こうとしてくる。
 有麻に言わせると、秀治は花たらしなのだそうだ。秀治自身にたらしこんでいる自覚はないし、どちらかと言えば、花をたらしこんでいるのは有麻のほうだとも思っている。
 とどめとばかりに、ボケの鮮やかな赤い花に視界を奪われる。枝にからんだ髪を必死にほどいていると、庭の奥から歓声が響いた。
「まりあ君、見っけ」
 ハサミの音が止み、ずいぶん高い位置に、莉々子の頭が見える。
 どうにかボケの枝から解放されて、秀治も奥へと足を進めた。有麻は莉々子を軽々と抱き上げていた。見かけは細身だが、力仕事もこなす有麻にとって、五歳児を抱え上げるくらいなんでもないことだろう。
 莉々子と有麻がそろって、秀治を見つめる。並んだ二つの顔は、本当の父子のようによく似ていた。
 有麻は秀治にとっては、母親の弟に当たる。だけど有麻は後妻の産んだ子供なので、二人の母親は違うのだ。だからこの栗色の髪や瞳は、父親の――秀治にとっては祖父からの遺伝ということになる。母にも秀治にも受け継がれなかったその特徴が、莉々子にははっきりと表れていた。
 その特徴もまた、雪乃を少なからず傷つけていたのだと秀治は思う。莉々子を連れて雪乃の実家に行くと、「どっちにも似てないのね」とがっかりした口調で言われた。期待が外れたとでも言いたげに。
「雪乃さんは?」
 何の気なしに有麻が問う。この庭に雪乃が足を踏み入れたのは、数えるほどしかなかった。秀治にとっての祖父ももういないから、雪乃がここへ来る理由などないのだ。
 それでも、秀治が莉々子を連れてここへ行くと聞けば、雪乃はいい顔をしなかった。だから莉々子がここへ遊びに来られるのは、保育園が休みの日に、雪乃の仕事がある時だけだった。
 それを理解した上で、有麻は聞いてきたのだ。秀治が「仕事」と答えるものだと、思いこんでいるのだろう。
「ちょっと……」と言葉を濁すと、有麻にもその不穏さが伝わったようだった。
「莉々ちゃん、芝生のほうで遊ぼうか」
 有麻にそう言われて、莉々子はうれしそうに駆け出した。
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