妻が家出したので、子育てしながらカフェを始めることにした

夏間木リョウ

文字の大きさ
3 / 31
1・サンショウとハーブティー

サンショウとハーブティー・3

しおりを挟む
 御園生家は代々この町で、庭師をして生計を立ててきた。有麻も個人で庭師をしていて、代々御園生家が管理してきた庭の整備を仕事にしている。
 祖父の、そのまた父親の時代の話だ。今は御園生家の所有となっているこの洋館は、元々貿易商をしていたイギリス人が建てたものだったという。その家族が仕事の都合で母国に引き上げることになった時、庭の管理を託されたのが庭師をしていた先々代だった。
 彼らはいつかはまた日本に帰るつもりでいたらしいが、商売が頓挫してできなくなり、それで先々代は破格の値段でこの屋敷と土地を譲り受けることになった……というのが、秀治の聞いている話だった。
 だから洋館は大家族が住めるだけの部屋数があり、かつてはガーデンパーティを開いていた離れまでがついている。
 有麻の母親はずいぶん前に病気で亡くなっていて、祖父が亡くなった後は有麻と秀治の母が、ここの所有者ということになっていた。だが秀治の母は、今は遠方で仕事をしていて、ここへ帰って来ることはほとんどない。
 ガーデンパーティーをしていたころの名残で、離れの前は芝生が敷かれた広場になっている。莉々子はそこで遊ぶのが好きだった。
 靴も靴下も脱いで裸足になった莉々子は、芝生の感触に笑い転げている。荷物の中からシャボン玉を出してやると、「二人とも見ててねー」と言って、遊び始めた。
 離れは改築してあり、ガラスの引き戸を開けるとウッドデッキに出られるようになっている。そこのイスに腰かけて、しばし二人で、まだ色の浅い芝と虹色に輝くシャボン玉と、莉々子の蜂蜜色に透けるふわふわとした髪を眺める。
「シャボン玉って最近じゃ、できる場所が少なくてさ」
「へえ、どうして」
「車につくと痕が残るって、うるさく言うご近所さんがいるんだよ」
「世知辛いな」
 会話が途切れたところで、吐息のように有麻は言った。
「雪乃さん、どうかしたか?」
 秀治は大げさにため息をついてみせた。
「家出したかも」
「何で」
「何でも何も、心当たりが何もないから弱ってるんだよ」
「ケンカしたとかは?」
「そりゃあ、ちょっとした言い争いくらいはよくあったけど……」
 雪乃がいなくなる前に、何か言い争ったりしただろうか? 風に流されるシャボン玉を追いかけていく莉々子の姿を眺めながら、秀治は考える。
『あなたには、わからないのよ』
「ああ……、あれか」
「思い当たったか」
 ここで、この庭で、こいつの横でそれを言ってもいいのかと、秀治はしばし逡巡する。
 その様子を見て、有麻が目を細めた。
「ここなら、誰も聞いてない」
 辺りを見回して、確かに、と秀治も思う。ウッドデッキには花のコンテナは置かれていないし、声の届く場所に木も植えられていない。経験上芝生は大丈夫だと知っている。
 秀治は手首にはめた銀色の腕時計をいじりながら、言った。
「雪乃に、例の力のことがばれた」
 有麻は驚いた様子もなく、静かにうなずいた。
「そうじゃないかと、思ってた」

 秀治の両親が離婚したのは、秀治が三歳のころだったらしい。だから秀治には、父親の思い出というものが恐らくない。
 恐らく、と言うのは、自分でもよくわからないからだ。小さなころに男の人に肩車をしてもらったような記憶は確かにある。だけどそれが、父親なのか、祖父なのか、そこが自分でも心もとないのだ。
 母親は秀治を産む前から保険会社で働いていて、一年だけ産休を取りすぐに仕事に復帰したのだそうだ。シングルマザーとなってもその仕事を続けるために、やむを得ず離婚後、実家で暮らすことを選んだのだ。
 保育園に秀治を迎えに来るのは、大抵有麻の母親だった。夕飯ができるまで庭で有麻と一緒に過ごし、おばさんが作ってくれたご飯を有麻と共に食べた。
 祖父の後妻さんだったその人のことを、秀治はおばさんと呼んでいた。祖父のことはおじいちゃんと呼んでいたのだから、本当ならおばあちゃんと呼ぶべきだったのかもしれなかったが、見た目では自分の母親とそう変わらなかったのだ。とてもおばあちゃんとは呼べなかった。
 秀治は半分以上、おばさんに育ててもらったのだと思っている。実の母の料理より、おばさんの料理のほうが記憶に残っているくらいだ。
 中学を卒業するまで、この家で有麻と兄弟のように暮らしたせいか、秀治は有麻のことも伯父さんだとは思っていない。兄というのとも少し違う。有麻との距離感をうまく言い表す言葉を、秀治はいまだに探しあぐねているのだ。

『あなたにはわからないのよ』
 どういう流れで雪乃はそれを口にしたのだったか。そうだ。確か、保育園からの帰りに、莉々子がモクレンの木と会話していたという話だった。
 そのモクレンの木は、秀治にも心当たりがある。莉々子とは仲良しで、通りかかればいつも一言二言声をかけていた。
 物語好きの五歳児が木とおしゃべりするなんて、それほど珍しいことじゃない。想像力豊かでいいことじゃないかと言った秀治に、雪乃が返したのが『あなたにはわからないのよ』だった。
『わからないって、何が』
『私の気持ちが、よ』
 雪乃は切々と訴えてきた。莉々子がしゃべれるようになったころから、木や花に話しかけていたこと。一方的な話しかけではなく、明らかに会話していたこと。
『あなた、がんづきって知ってる?』
『知ってるよ。子供のころ、食べたこともあるし』
『そう、私は名前を知ってるだけだったけど。莉々子が言ったのよ。この家に前にいたおばあさんは、がんづきが好きだったって。想像力だけで子供が、知らない言葉を言えると思う?』
『テレビか絵本で覚えたんだろ』
 雪乃は泣きそうな顔で、秀治を見つめた。
『あなたも、莉々子とおんなじよね?』
 背中が冷え冷えとするのを、秀治は感じた。
『私はいつだって、仲間外れなんだなって感じてたわ』
 それだけ言うと、雪乃は莉々子を連れて寝室へ行ってしまった。
 泣きそうな雪乃の顔は、そのまま母親の顔に重なった。
 秀治の場合は、メリケン粉だった。
 秀治も子供のころ、莉々子と同じようなことをしていた。道ばたの木に話しかけ、子供が知るはずもないことを口にして、大人を驚かせていた。
 秀治は母親にすごいねと言われたかっただけだ。だけど母親はそんな時決まって、泣きそうな顔になった。
 保育園の先生に、メリケン粉の話をした時のことだ。まだ若い先生は、その言葉を知らなかった。珍しく迎えに来た母親にその意味を問い、母親は瞬時に何が起きたのかを察したようだった。
『小麦粉のこと、昔はそう呼んだらしいです。おじいちゃんに聞いたのよね?』
 メリケン粉のことを教えてくれたのは、お寺にあるケヤキの古木だった。
 ケヤキの木と、のど元まで出かかった言葉を、秀治は呑みこんだ。それを答えても母親を悲しませるだけだとわかったからだ。
 うなずくのは、嘘をつくことだった。でも秀治には、そうするしかなかった。母親の目が、それを望んでいたからだ。
 それっきり、秀治は母親の前では植物に話しかけるのをやめてしまった。
 普通の子供でいてほしい。母親も雪乃も、それだけを願っていたのだろう。
 自分も莉々子も普通じゃない。
 普通では、ないのだ。

 植物の聲が聞ける。
 莉々子と秀治が生まれつき持っているのは、そんな力だ。
 木や花の聲が聞けるし、会話することもできる。
 御園生の血を引く者には、時々その力を持つ者が生まれるのだそうだ。
 秀治の祖父もそうだったし、そして有麻も、そうだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

『婚約破棄された悪役令嬢ですが、嫁ぎ先で“連れ子三人”の母になりました ~三人の「ママ」が聞けるまで、私は絶対に逃げません~』

放浪人
恋愛
「母はいりません」と拒絶された悪役令嬢が、最強の“ママ”になるまでの物語。 「君のような可愛げのない女は、王妃にふさわしくない」 身に覚えのない罪で婚約破棄され、“悪役令嬢”の汚名を着せられたクラリス。 彼女が新たに嫁いだのは、北方の辺境を守る「氷の公爵」ことレオンハルト・フォン・グレイフだった。 冷え切った屋敷で彼女を待っていたのは、無表情な夫と、心に傷を負った三人の連れ子たち。 「僕たちに、母はいりません」 初対面で突きつけられた三つの拒絶。しかし、クラリスは諦めなかった。 「称号はいりません。私が欲しいのは――あなたたち三人の『ママ』になれる日だけです」 得意の生活魔法『灯(ともしび)』で凍えた部屋を温め、『鎮(しずめ)』の歌で夜泣きを癒やし、家政手腕で荒れた食卓を立て直す。 クラリスの献身的な愛情は、頑なだった子供たちの心を解きほぐし、やがて不器用な夫の氷の心さえも熱く溶かしていく。 これは、不遇な悪役令嬢が「最強の母」となり、家族を脅かす元婚約者や魔獣たちを華麗に撃退し、最愛の家族から「ママ」と呼ばれるその日までを綴った物語。

愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました

由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。 尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。 けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。 そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。 再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。 一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。 “尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。 静かに離婚しただけなのに、 なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。

処刑前夜に逃亡した悪役令嬢、五年後に氷の公爵様に捕まる〜冷徹旦那様が溺愛パパに豹変しましたが私の抱いている赤ちゃん実は人生2周目です〜

放浪人
恋愛
「処刑されるなんて真っ平ごめんです!」 無実の罪で投獄された悪役令嬢レティシア(中身は元社畜のアラサー日本人)は、処刑前夜、お腹の子供と共に脱獄し、辺境の田舎村へ逃亡した。 それから五年。薬師として穏やかに暮らしていた彼女のもとに、かつて自分を冷遇し、処刑を命じた夫――「氷の公爵」アレクセイが現れる。 殺される!と震えるレティシアだったが、再会した彼は地面に頭を擦り付け、まさかの溺愛キャラに豹変していて!? 「愛しているレティシア! 二度と離さない!」 「(顔が怖いです公爵様……!)」 不器用すぎて顔が怖い旦那様の暴走する溺愛。 そして、二人の息子であるシオン(1歳)は、実は前世で魔王を倒した「英雄」の生まれ変わりだった! 「パパとママは僕が守る(物理)」 最強の赤ちゃんが裏で暗躍し、聖女(自称)の陰謀も、帝国の侵略も、古代兵器も、ガラガラ一振りで粉砕していく。

わたくしがお父様に疎まれている?いいえ、目に入れても痛くない程溺愛されております。

織り子
ファンタジー
王国貴族院の卒業記念パーティーの場で、大公家の令嬢ルクレツィア・アーヴェントは王太子エドワードから突然の婚約破棄を告げられる。 父であるアーヴェント大公に疎まれている―― 噂を知った王太子は、彼女を公衆の面前で侮辱する。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

結婚初夜、「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と夫に言われました

ましゅぺちーの
恋愛
侯爵令嬢のアリサは婚約者だった王太子テオドールと結婚した。 ちょうどその半年前、アリサの腹違いの妹のシアは不慮の事故で帰らぬ人となっていた。 王太子が婚約者の妹のシアを愛していたのは周知の事実だった。 そんな彼は、結婚初夜、アリサに冷たく言い放った。 「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と。

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

処理中です...