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1・サンショウとハーブティー
サンショウとハーブティー・9
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雪乃がいなくなって、二週間が経ってしまった。秀治は有麻の家での暮らしに、早くも馴染み始めている自分が恐ろしかった。
それでもやはり莉々子は、母親のいない生活に慣れられないらしい。秀治の子守唄で寝てくれたと思ったら、「ママ、ママ」と小さく叫びながら、秀治にしがみついてきた。
目は開いていないので、寝ぼけているだけらしい。背中を優しくトントンしてやると、徐々にしがみついた手から力が抜け、ベッドに身を沈めていく。
すうすうという寝息を確認して、トントンしていた手を止める。かすかに揺れる莉々子のまつ毛を見ていると、どうしてだか涙が滲んできた。
自分に注げるのは、父親の愛情だけだ。雪乃のそれとは違うはずだ。どれだけ愛情をかけたところで、秀治は母親にはなれない。
でも今の秀治には、雪乃を探し出して本音を聞くことも恐ろしかった。雪乃に理解できない能力を持つ、自分や莉々子のことを、雪乃がどう思っているのか。もしも雪乃が莉々子に恐怖を覚えていたら、二人を会わせることは不幸に繋がるかもしれない。
莉々子の柔らかな髪を撫でながら、秀治もベッドに身を沈めた。莉々子の髪は、秋の終わりの日向の芝の匂いがした。
気がつけば秀治は、緑の葉に取り囲まれていた。またいつもの夢かと思いかけるが、取り囲む葉がいつもとは違う。
オジギソウやネムの葉に似た植物だった。嗅いだことのある香りが、辺りに漂っている。
何の匂いだったろうと記憶を辿っていると、葉の向こうでうごめく気配がした。
シャクシャクという、小さな音がして、何かがモクモクと動く姿がシルエットになって浮かび上がっている。
「ひ……」
思わず悲鳴を上げかけて、そうだ、これは夢だと気がつく。
夢だ、夢を見ているだけなんだ。目を覚ませば、全て消えるはずだ。
自分に対して、目を覚ませ目を覚ませと念じ続けていると、傍らから悲鳴が聞こえた。
莉々子の悲鳴だ。
「莉々子、莉々子、どこだ」
取り囲む葉の中に手を伸ばして莉々子の姿を探していると、足を蹴られる感触がして、秀治は目を覚ました。
目を開けると、手足をばたつかせながら莉々子が悲鳴を上げていた。ひきつけを起こしたかと一瞬あせるが、夢にうなされているだけのようだ。
「起きろ、莉々子、ただの夢だ」
自分で言いながらゾッとした。ただの夢? 秀治と莉々子が同じタイミングで、恐ろしい夢を見たと言うのか?
その時、周りがザワリというのに気がついた。
ベッドの周囲で、葉がザワザワと揺れている。夢の中でも嗅いだあの癖のある匂いが、部屋の中に満ちている。
(何だ? 何が起きている?)
夢の中でも聞いた、シャクシャクという音が聞こえる。秀治が枕元のライトをつけると、その明かりの中に、それの姿が浮かび上がった。
大きな目玉が、秀治を睨みつけていた。髭のような足のようなものが顔から生え、頭の上には角が突き出している。緑色の体は、うねうねと波打っていた。
「うわあぁぁぁ!」
莉々子を両手で抱きしめながら、秀治は大声で叫んでいた。
先ほどまでの匂いに混じって、やけに青臭い匂いが流れて来る。
『会いたい』
ふっと、その声が、入りこんできた。耳で聞こえるものではない。花の聲と同じで、体に入りこんでくる。
『会いたい、よお』
会いたいって、誰に?
腕の中にいた莉々子が、突然むくりと起き上がった。秀治の悲鳴で目を覚ましたのかもしれない。
「きゃあぁぁ!」
莉々子もまた、ライトに照らされたそれを目にして、悲鳴を上げた。
「パパ、何あれ。こわい」
「うん、パパも怖い」
父子でしがみつきあっていると、廊下に足音が聞こえ、ノックもせずにドアが開いた。
「どうした。すごい悲鳴だったけど」
有麻の声が聞こえたその途端。部屋の中に満ちていた植物の気配が消えた。あの妙なものの姿も、気がつけばどこにも見えない。
はあっと大きく息をついて、莉々子の体から腕を離そうとすると、莉々子は秀治にしがみついたままだった。
「大丈夫だよ、ほら、もう怖いものはいなくなった」
莉々子はゆっくりと辺りを見渡し、有麻の姿を見つけるとようやく手から力を抜いた。
「何があったんだよ、一体」
ベッド脇のスツールに腰かけた有麻に、秀治は今見たことを説明した。夢の中で見た景色と、ベッドの上で見たものと。
「莉々子も、夢見たよ」
「パパのと、おんなじか?」
「うん、昼間見た木が出てきたの」
昼間見た木と言われて、秀治も思い出した。莉々子が柴田さんの家で会話していた木。夢に出て来たのは、あの木だ。
「昼間見た木って、何のことだ?」
問いかける有麻に、秀治は昨日の出来事を説明した。莉々子が聞いた木の聲のこと。その木の特徴を。
「オジギソウとか、ネムの木みたいな葉っぱだったな。そういや夢の中で、特徴的な匂いがしてた。あれ、嗅いだことある匂いなんだけどな……。出てこない」
話を聞いていた有麻が、何か思い当たったのか、部屋を出ていった。だけどすぐに何かを手にして戻ってくる。握られていたのは、調味料らしきビンだった。
「この匂いじゃないか?」
蓋を開けたビンを、有麻が秀治の鼻に近づけて来る。刺激的な独特な香り。すぐにウナギの蒲焼が思い浮かんだ。
「ちょっと違うけど、かなり近い。これ、ウナギにかけるやつだな」
「うん」
「サンショウ、か」
「そうだ。これは実を乾燥させて粉にしたものだけど、葉っぱも料理に使われるんだよ。ちょっといい和食の店で、木の芽って呼ばれる葉っぱが料理に載ってるだろ」
「ああ、そうだ。あの葉っぱだよ」
記憶の中の木の芽と、昨日見た葉っぱの形と匂いが、ピタリと重なった。
木の正体がわかり、すっきりした秀治とは反対に、有麻は考えこむ表情になっていた。
「会いたいって言ったんだな? その木」
「そうだよ。会いたい、会わせてって」
「そういやさっきも、そんな言葉聞こえてきたな」
「会いたい。……それが本音だ」
一人つぶやいた有麻は「もう大丈夫だよ」と莉々子の頭を撫で、部屋を出ていこうとする。
「おい、もう出て来ないのか? さっきのやつ」
「わからないから、早く解決させようと思って」
「解決って、どうやって?」
「小百合さんにメールを送るんだよ。次は、息子さんを連れて来てくれって」
子供を連れて来ることには、小百合は懸念を示していた。子供までが、怒鳴られたらどうしようと。
「大丈夫なんだな?」
「大丈夫だって、伝えるよ。おやすみ」
時刻を確認すると、もう三時間は眠れるようだった。まだ寝ぼけている莉々子は、すでに枕に頭をつけている。
怪物のようなあの影の姿を振り払いながら、秀治も横になった。眠りはなかなか訪れなかった。
寝不足の目をこすりながらリビングに行くと、バターのいい香りが漂ってきた。有麻がどうやら、フレンチトーストを焼いているらしい。
「悪い、遅くなった」
「いいよ、あの後寝つけなかったんだろう」
自分と莉々子の洗顔とトイレをすませて戻ると、テーブルに黄金色に焼かれたフレンチトーストが載っていた。傍らにはカットされたバナナが添えられている。それにたっぷりの、カフェオレだ。
「粉砂糖はお好みで。イチゴジャムもあるぞ。去年作ったやつだけど」
「自家製か?」
「仕事先で色々もらっちゃうんだよ。これはイチゴ農家から、商品にならないイチゴをもらって作ったやつ」
莉々子と自分のトーストに、イチゴジャムをたっぷりと載せて口に運ぶ。鮮やかな色と香りは、一年もビンの中にいたとは思えない。
「うまい。お前のほうが、よっぽどカフェやるのに向いてるんじゃないか」
「庭のこと以外は、興味ない」
これだから女が寄りつかないんだと言いそうになって、返される言葉まで予想して秀治は口をつぐんだ。
『奥さんに逃げられる男よりは、ましだ』
「小百合さんから、メールの返事来てたよ。今日の夕方には行けるって」
「へえ、お前も行くのか?」
「見届けようと思う。できれば、秀治と莉々ちゃんにも、立ち会ってもらいたいんだけど」
今の仕事状況を考えて、秀治はしばし悩む。あれとこれを午前中にすませれば、何とか早退できるだろうか。
「わかった。早退して莉々子を迎えに行ってから、柴田さん家に向かうよ」
「ああ、あれの正体を二人で見ておいたほうがいい。また悪夢にうなされるのは、ごめんだろ」
あれの正体?
昨夜の不気味な影を思い出して、ザワリと秀治の肌が粟立った。
それでもやはり莉々子は、母親のいない生活に慣れられないらしい。秀治の子守唄で寝てくれたと思ったら、「ママ、ママ」と小さく叫びながら、秀治にしがみついてきた。
目は開いていないので、寝ぼけているだけらしい。背中を優しくトントンしてやると、徐々にしがみついた手から力が抜け、ベッドに身を沈めていく。
すうすうという寝息を確認して、トントンしていた手を止める。かすかに揺れる莉々子のまつ毛を見ていると、どうしてだか涙が滲んできた。
自分に注げるのは、父親の愛情だけだ。雪乃のそれとは違うはずだ。どれだけ愛情をかけたところで、秀治は母親にはなれない。
でも今の秀治には、雪乃を探し出して本音を聞くことも恐ろしかった。雪乃に理解できない能力を持つ、自分や莉々子のことを、雪乃がどう思っているのか。もしも雪乃が莉々子に恐怖を覚えていたら、二人を会わせることは不幸に繋がるかもしれない。
莉々子の柔らかな髪を撫でながら、秀治もベッドに身を沈めた。莉々子の髪は、秋の終わりの日向の芝の匂いがした。
気がつけば秀治は、緑の葉に取り囲まれていた。またいつもの夢かと思いかけるが、取り囲む葉がいつもとは違う。
オジギソウやネムの葉に似た植物だった。嗅いだことのある香りが、辺りに漂っている。
何の匂いだったろうと記憶を辿っていると、葉の向こうでうごめく気配がした。
シャクシャクという、小さな音がして、何かがモクモクと動く姿がシルエットになって浮かび上がっている。
「ひ……」
思わず悲鳴を上げかけて、そうだ、これは夢だと気がつく。
夢だ、夢を見ているだけなんだ。目を覚ませば、全て消えるはずだ。
自分に対して、目を覚ませ目を覚ませと念じ続けていると、傍らから悲鳴が聞こえた。
莉々子の悲鳴だ。
「莉々子、莉々子、どこだ」
取り囲む葉の中に手を伸ばして莉々子の姿を探していると、足を蹴られる感触がして、秀治は目を覚ました。
目を開けると、手足をばたつかせながら莉々子が悲鳴を上げていた。ひきつけを起こしたかと一瞬あせるが、夢にうなされているだけのようだ。
「起きろ、莉々子、ただの夢だ」
自分で言いながらゾッとした。ただの夢? 秀治と莉々子が同じタイミングで、恐ろしい夢を見たと言うのか?
その時、周りがザワリというのに気がついた。
ベッドの周囲で、葉がザワザワと揺れている。夢の中でも嗅いだあの癖のある匂いが、部屋の中に満ちている。
(何だ? 何が起きている?)
夢の中でも聞いた、シャクシャクという音が聞こえる。秀治が枕元のライトをつけると、その明かりの中に、それの姿が浮かび上がった。
大きな目玉が、秀治を睨みつけていた。髭のような足のようなものが顔から生え、頭の上には角が突き出している。緑色の体は、うねうねと波打っていた。
「うわあぁぁぁ!」
莉々子を両手で抱きしめながら、秀治は大声で叫んでいた。
先ほどまでの匂いに混じって、やけに青臭い匂いが流れて来る。
『会いたい』
ふっと、その声が、入りこんできた。耳で聞こえるものではない。花の聲と同じで、体に入りこんでくる。
『会いたい、よお』
会いたいって、誰に?
腕の中にいた莉々子が、突然むくりと起き上がった。秀治の悲鳴で目を覚ましたのかもしれない。
「きゃあぁぁ!」
莉々子もまた、ライトに照らされたそれを目にして、悲鳴を上げた。
「パパ、何あれ。こわい」
「うん、パパも怖い」
父子でしがみつきあっていると、廊下に足音が聞こえ、ノックもせずにドアが開いた。
「どうした。すごい悲鳴だったけど」
有麻の声が聞こえたその途端。部屋の中に満ちていた植物の気配が消えた。あの妙なものの姿も、気がつけばどこにも見えない。
はあっと大きく息をついて、莉々子の体から腕を離そうとすると、莉々子は秀治にしがみついたままだった。
「大丈夫だよ、ほら、もう怖いものはいなくなった」
莉々子はゆっくりと辺りを見渡し、有麻の姿を見つけるとようやく手から力を抜いた。
「何があったんだよ、一体」
ベッド脇のスツールに腰かけた有麻に、秀治は今見たことを説明した。夢の中で見た景色と、ベッドの上で見たものと。
「莉々子も、夢見たよ」
「パパのと、おんなじか?」
「うん、昼間見た木が出てきたの」
昼間見た木と言われて、秀治も思い出した。莉々子が柴田さんの家で会話していた木。夢に出て来たのは、あの木だ。
「昼間見た木って、何のことだ?」
問いかける有麻に、秀治は昨日の出来事を説明した。莉々子が聞いた木の聲のこと。その木の特徴を。
「オジギソウとか、ネムの木みたいな葉っぱだったな。そういや夢の中で、特徴的な匂いがしてた。あれ、嗅いだことある匂いなんだけどな……。出てこない」
話を聞いていた有麻が、何か思い当たったのか、部屋を出ていった。だけどすぐに何かを手にして戻ってくる。握られていたのは、調味料らしきビンだった。
「この匂いじゃないか?」
蓋を開けたビンを、有麻が秀治の鼻に近づけて来る。刺激的な独特な香り。すぐにウナギの蒲焼が思い浮かんだ。
「ちょっと違うけど、かなり近い。これ、ウナギにかけるやつだな」
「うん」
「サンショウ、か」
「そうだ。これは実を乾燥させて粉にしたものだけど、葉っぱも料理に使われるんだよ。ちょっといい和食の店で、木の芽って呼ばれる葉っぱが料理に載ってるだろ」
「ああ、そうだ。あの葉っぱだよ」
記憶の中の木の芽と、昨日見た葉っぱの形と匂いが、ピタリと重なった。
木の正体がわかり、すっきりした秀治とは反対に、有麻は考えこむ表情になっていた。
「会いたいって言ったんだな? その木」
「そうだよ。会いたい、会わせてって」
「そういやさっきも、そんな言葉聞こえてきたな」
「会いたい。……それが本音だ」
一人つぶやいた有麻は「もう大丈夫だよ」と莉々子の頭を撫で、部屋を出ていこうとする。
「おい、もう出て来ないのか? さっきのやつ」
「わからないから、早く解決させようと思って」
「解決って、どうやって?」
「小百合さんにメールを送るんだよ。次は、息子さんを連れて来てくれって」
子供を連れて来ることには、小百合は懸念を示していた。子供までが、怒鳴られたらどうしようと。
「大丈夫なんだな?」
「大丈夫だって、伝えるよ。おやすみ」
時刻を確認すると、もう三時間は眠れるようだった。まだ寝ぼけている莉々子は、すでに枕に頭をつけている。
怪物のようなあの影の姿を振り払いながら、秀治も横になった。眠りはなかなか訪れなかった。
寝不足の目をこすりながらリビングに行くと、バターのいい香りが漂ってきた。有麻がどうやら、フレンチトーストを焼いているらしい。
「悪い、遅くなった」
「いいよ、あの後寝つけなかったんだろう」
自分と莉々子の洗顔とトイレをすませて戻ると、テーブルに黄金色に焼かれたフレンチトーストが載っていた。傍らにはカットされたバナナが添えられている。それにたっぷりの、カフェオレだ。
「粉砂糖はお好みで。イチゴジャムもあるぞ。去年作ったやつだけど」
「自家製か?」
「仕事先で色々もらっちゃうんだよ。これはイチゴ農家から、商品にならないイチゴをもらって作ったやつ」
莉々子と自分のトーストに、イチゴジャムをたっぷりと載せて口に運ぶ。鮮やかな色と香りは、一年もビンの中にいたとは思えない。
「うまい。お前のほうが、よっぽどカフェやるのに向いてるんじゃないか」
「庭のこと以外は、興味ない」
これだから女が寄りつかないんだと言いそうになって、返される言葉まで予想して秀治は口をつぐんだ。
『奥さんに逃げられる男よりは、ましだ』
「小百合さんから、メールの返事来てたよ。今日の夕方には行けるって」
「へえ、お前も行くのか?」
「見届けようと思う。できれば、秀治と莉々ちゃんにも、立ち会ってもらいたいんだけど」
今の仕事状況を考えて、秀治はしばし悩む。あれとこれを午前中にすませれば、何とか早退できるだろうか。
「わかった。早退して莉々子を迎えに行ってから、柴田さん家に向かうよ」
「ああ、あれの正体を二人で見ておいたほうがいい。また悪夢にうなされるのは、ごめんだろ」
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