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○1章 異世界の少女達
-6 『それは天国か地獄か』
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どうしてこうなったのか。
先ほどまで休憩をとろうとしていたはずなのだが、気がつけば俺は家族風呂の湯船を前にタオル一枚の素っ裸状態で立ち尽くしていた。
事の顛末を一言一句正確に伝えても、自然な流れだと納得できる人は果たしてこの世界に存在するのだろうか。イヤ、絶対いないだろう。
興奮と困惑が入り混じり、躁鬱の振れ幅に吐き気すらこみ上げてきそうだ。
「いいのか。本当にいいのか」
がらり、と女性用の更衣室の扉が開く。俺はその方向へ急いで視線を動かした。
「お待たせしました」
壁に手を這わせながらゆっくりとシエラが出てきた。
風呂に入るということはもちろん、湯船に浸かるということだ。必然的に服を脱ぐわけで、シエラも当然ながら、全裸にバスタオル一枚を巻いただけという非常に不健全な格好で現れたのだ。
タオルが肌に密着して巻きついているせいで腰のくびれや尻肉の膨らみがシルエットそのままに浮かび上がっている。更には豊満に育った胸の二つの丸みはとてもタオル一枚では覆い隠せないほどに存在感を主張していて、シエラが手で探りながら一歩進むたびにゆらんゆらんとダイナミックに弾んでいた。
そんな不埒な格好には恐ろしく不似合いな神聖そうな白い翼が、またより一層フェチズムを刺激してくる。
彼女の姿を見て、絶え間ないドラムロールのように俺の鼓動が激しく脈を打ち始める。
「ハルさん、どこですか」
俺を探して彷徨わせるシエラの手を、俺は少し躊躇いながらも掴んだ。
ひんやりとした彼女の指先に触れただけで、必死で保っている平静さが吹き飛んでしまいそうになる。
「え、えっと……じゃ、じゃあ行きましょうか」
視線は進行方向の湯船だけに向けつつ、手を引いて誘導した。
あまりに無防備すぎる。もし俺が見境のない暴漢であったなら、これチャンスだとばかりに淫らな過ちを起こしていたことだろう。これほど他人を信用するというのも、単純なようで難しいことだ。
「もう湯船です。そこから一歩進んだところに段差があるんで手をついてください。檜の囲いでできた浴槽があるんで、そこから湯に足をつけてもらえば。深くないので溺れもしないですよ」
俺の言ったとおりにシエラは屈んで探り探りに湯船を探し当てた。
浴槽の囲いに腰を落とし、ようやく湯に触れる。湯船は二メートル四方ほどの大きさで、二人で入るには十分だ。
「熱いです」
「源泉掛け流しですからね。まあ意外と湯の量が多いってがうちの旅館の数少ない自慢なんで」
源泉の温度が四十二度ほどあるので少し熱いが、それも入ればすぐに慣れる。
掛け湯を済ませていた俺が先に湯船に入り、ゆっくりと手を引いてシエラも後に続いた。太ももほどの深さのため簡単に足がつく。
「すごく温かいです。このまま腰を下ろせば良いのでしょうか」
「そうですね」
「少し熱くてヒリヒリしますが、不思議と嫌いではない感覚です」
シエラはどうやら早くも気に入ったらしく、手でお湯をすくってはまるで子どものように楽しそうにはしゃいでいる。
そのまま腰を落として屈もうとする彼女を見て、
「あ、タオル」と思わず声を発してしまった。
「タオルがどうかしましたか」
「えっと、いや――」
言っていいものだろうかとしばし逡巡する。
「まあいいか。本来はタオルを付けたままお湯に浸かるのはダメなんですよ。掛け湯もしなきゃ駄目で。まあ今回は俺もいますし特別に大丈夫ってことで……って、なにしてるんですか!」
説明を聞いていたシエラがおもむろに「そうなんですか」と驚くほど素直にバスタオルを取り始め、俺は大慌てで顔を背けた。
一瞬だけ視界に入った彼女の一糸纏わぬ白肌が目に焼きついて離れなくなった。きっと人生の家宝になるレベルだろう。
結局、一糸纏わぬ姿になった彼女を止められず、シエラから背を向けながら俺も同じように湯船に浸かった。
「はあ、やっぱり気持ちいいな」
実家ということもあって何度も温泉に入っているが不思議と飽きないものだ。
泉質はナトリウムやカルシウムの多く含んだ塩化物泉で、硫黄泉などのような強すぎる独特な臭いはないが、舌に触れると塩辛さを感じるのが特徴だ。
筋肉痛や関節痛、疲労回復などの効果が期待できると謳われている。日本ではそれほど珍しい泉質というわけではないが、ここの温泉は成分がやや濃いらしく、評判も悪くはない。
「――ひゃあっ!」
唐突にシエラが声を上げる。と同時に、何事かと思って咄嗟に振り返ろうとした俺の背中にぴとりと何かがぶつかる。
柔らかく、その無数の細かい何かが背中を這い、こそばゆさに悶えそうになる。
だがその感覚も、次に背中へと圧し掛かってきた重みによって掻き消された。今度はお湯の中でもわかるほどにつるつるとした何かが腰の辺りに擦れる。
その圧し掛かってきたものがシエラの背中だったと気づくのにそう時間はかからなかった。
「うわああああ」と俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ご、ごめんなさい。お湯を吸った羽が思ったよりも重たくて、身体が倒れてしまいました」
「い、いや。温泉って足元も滑りやすいですし、いいですけど」
むしろ背中でシエラのつるつるの肌を実感できてしまい役得である。
「その羽、そんなに濡れて大丈夫なんですか?」
「ええ。雨に降られたりして濡れることもよくあります。唯一の欠点はしばらく飛べなくなることですが、魔力の薄いこちらの世界ではそもそも飛ぶことはありませんので問題ないのです」
「すごい、飛べるんですね」
「魔力が潤沢な向こうの世界での話ですけどね。こちらの世界はマナが少ないので飛べるといってもほんの短い間しか難しいでしょう」
肩まで湯船に浸けたシエラが腕を伸ばしながら大きな感嘆の息を吐く。
「それにしても本当に心地よいですね。これが温泉というものなのですね」
「向こうの世界には無いんですか、温泉」
「ここのお部屋にもついているお湯を浴びるだけのものなら向こうにもあります。でも湯浴みはあまりないですね。身体を清める時は川や湖で水浴びをすることが多いですし。まあ、それは神事や行楽のような時だけですが」
「へえ、そうなんだ……」
知らない知識に素直に関心していたせいで、思わず敬語で話すことを忘れてしまった。慌てて取り繕おうとしたが、むしろシエラは微笑を漏らして「別に構いませんよ」と言った。
「でもお客様と従業員って立場ですし」
「あの。一つ、私の我侭を言ってもいいですか」
シエラが急に、どこか改まった口調で言う。
「向こうの世界だと、私はどうも過剰に持ち上げて崇められすぎてしまっています」
「過剰に?」
どういうことだろうか。
「はい。実は私、天族と言っても純粋な天族ではないのです。人間との間に生まれた半人半神なのです。生まれも天族たちが暮らす聖域ではなく、普通の人間と同じような市井の中で育ちました。特異な生まれのせいもあって教会で育てられた私は、それでもみんな、天族として私なんかを『神の啓示を授かれる天族の聖女』だと祀り上げるのです。天族と人間の間に生まれた不安定な存在なためか、私は生まれながらに障害を持って生まれました。普通の人に比べて目が弱かったのです。しかしそれが原因か、逆に遠くの声がよく聞こえたり聞き分けられたりできるようになりました。そういった特技が勝手に人伝いで喧伝されて一人歩きして、気がつくと私は常人に聞けないものを聞ける天族の聖女だと担ぎ上げられていました」
語る彼女の声調は快活さを失くし、無機質な感情に満たされているようだった。
「私はそれほどすごい存在ではありません。本当はただの、天族にも人間にもなれなかった落ちこぼれなんです。ここに来たのだって、見識を広めるために異世界を訪れたというのは方便。実際は身の丈に会わない身分を窮屈に感じて、異世界でもどこにでも逃げ出したかったのかもしれません」
彼女の身の上話に、俺は「なるほど」と息をつくほかなかった。
しばらくの静間が訪れて、湯船から溢れた湯の流れる音だけが二人の時間を埋め尽くした。弱音のように言葉を紡ぐ彼女は、神の使いでもなく、どこからどうみてもただの一人の少女だった。
いや、過保護を受けたり崇拝されたり、そんな特別な立場に偶然置かれてしまっただけで、元々はごくごく普通の、少し無警戒で天然な女の子なのだろう。そんな普通の女の子が些細な理由で過保護を受け、みんなと同じように温泉に入ることすら難しい。
当たり前のことができなくなるという窮屈さにひどく辟易しているのだろうと思った。
「……よし、わかった」
俺は大袈裟に頷いて、大見得を切るように天を見上げて言い放った。
「ここにいるのはシエラっていう女の子だ。異世界だとか聖女だとかそんなの知らない。俺と同い年くらいの、ただただ普通の女の子だ。だから無駄に丁重にもてなす必要もないし、敬語なんて使う必要はない、だろ?」
それ以前に顧客と従業員という立場もあるのだが、言い詰めるのも野暮なものだ。対等というサービスを求められているのだから、それに応えるのも仕事になりえるだろう。
俺が自信満々に鼻息荒くそう告げると、シエラは声の張りを取り戻したような快活さで「はい」と返事をした。そうして、
「ハルさん、大好きです」と彼女が言ったかと思うと、急にお湯の飛沫を立てる音が激しく聞こえ、次の瞬間にはのしりと重たい感覚が背中を襲った。
感触からして、彼女が両腕を前に添えて俺に圧し掛かっているようだ。女の子と布きれ一枚も挟まずに触れ合っている。
腕とはいえ温泉で血行のよくなった温かい彼女の柔肌の感触に、イヤでも男性的な劣情がこみ上げそうになる。泉質の塩っけのある臭いに混じって、すぐそばから女の子特有の甘いにおいが漂い鼻腔をくすぐってくる。それだけで俺の意識は鋭敏に尖がってしまいそうだ。
急なスキンシップに俺は「ど、どうしたんだ」と声を上擦らせてしまっていた。
「私の我侭にも付き合っていただきましたし。とても親切で丁寧で、いい人です。だから私、ハルさんのこと好きになりました」
「ええっ。いやいや、急にそんな」
まさか親切にしたことで好意を抱かれてしまったのだろか。
シエラほどの美少女に言われるなど、人生勝ち組と誇っていいほどの幸い事だろう。続きの言葉を期待しておのずと有頂天になってしまう。
「もしよろしければ、これから私ともっと仲良くなっていただけないでしょうか」と弾むような声を投げかけてきたシエラに、よしきた、と俺が嬉し顔で振り返ろうとした瞬間。
「――お友達として!」
と、シエラの口からまるで釘を刺すような一言が先に飛び出し、俺の見切り発車した青春は唐突に終わりを告げるのだった。
「お友達ができるの、初めてなんです。とても嬉しいです」
「そ、そうだよな。友達として。ああ、任せて任せて」
精一杯の強がりで平静を装った俺の声は、きっと無自覚にひどく震えていたことだろう。
この子は良くも悪くも純真無垢で自分に素直に行動するのだ。男泣かせの化身である。
それからしばらく、俺とシエラは他愛のない会話で親睦を深めた。
特にこっちの世界のことについてはよく食いついて、ひたすら彼女の質問責めに圧倒されるばかりだった。
温泉に満足した俺たちはほどほどにあがり、それぞれの更衣室に戻った。
帰りの部屋まで案内しなければならないため、着替えてから更衣室を出てすぐの廊下で待ち合わせることにする。女湯側から出てきたシエラの顔はどこか顔が上気していて、足取りも少しおぼつかない様子だった。
のぼせてしまったのかもしれない。おまけに髪も乾かしきれていない。
せっかくの艶のある黒髪が傷んでしまわないようにバスタオルを使って軽く拭ってやった。
そんな事を何気なく行っていたのだが、最中、いつの間にか俺たちの側に一つの人影が近づいていることに、俺はまったく気づけなかった。
「きぃぃぃさぁぁぁまぁぁぁ!」
俺とシエラの背後から、まるで猿の嘶きのような奇声が轟いた。
悪寒が全身を駆け巡り、鳥肌が騒ぎ立つ。
振り返ったそこには、髪を逆立てながら鬼の形相で佇むマリーディアがいた。
手には刃物が握られ、鋭い光沢を放っている。今にも突っ込んできそうな猛牛のように鼻息が荒く、尖った視線を向けてくるその姿に、俺は天国から地獄へと蹴落とされた気分で絶望した。
こんなことならばシエラの裸をもっと眺めておけばよかった、と短い人生を後悔した。
先ほどまで休憩をとろうとしていたはずなのだが、気がつけば俺は家族風呂の湯船を前にタオル一枚の素っ裸状態で立ち尽くしていた。
事の顛末を一言一句正確に伝えても、自然な流れだと納得できる人は果たしてこの世界に存在するのだろうか。イヤ、絶対いないだろう。
興奮と困惑が入り混じり、躁鬱の振れ幅に吐き気すらこみ上げてきそうだ。
「いいのか。本当にいいのか」
がらり、と女性用の更衣室の扉が開く。俺はその方向へ急いで視線を動かした。
「お待たせしました」
壁に手を這わせながらゆっくりとシエラが出てきた。
風呂に入るということはもちろん、湯船に浸かるということだ。必然的に服を脱ぐわけで、シエラも当然ながら、全裸にバスタオル一枚を巻いただけという非常に不健全な格好で現れたのだ。
タオルが肌に密着して巻きついているせいで腰のくびれや尻肉の膨らみがシルエットそのままに浮かび上がっている。更には豊満に育った胸の二つの丸みはとてもタオル一枚では覆い隠せないほどに存在感を主張していて、シエラが手で探りながら一歩進むたびにゆらんゆらんとダイナミックに弾んでいた。
そんな不埒な格好には恐ろしく不似合いな神聖そうな白い翼が、またより一層フェチズムを刺激してくる。
彼女の姿を見て、絶え間ないドラムロールのように俺の鼓動が激しく脈を打ち始める。
「ハルさん、どこですか」
俺を探して彷徨わせるシエラの手を、俺は少し躊躇いながらも掴んだ。
ひんやりとした彼女の指先に触れただけで、必死で保っている平静さが吹き飛んでしまいそうになる。
「え、えっと……じゃ、じゃあ行きましょうか」
視線は進行方向の湯船だけに向けつつ、手を引いて誘導した。
あまりに無防備すぎる。もし俺が見境のない暴漢であったなら、これチャンスだとばかりに淫らな過ちを起こしていたことだろう。これほど他人を信用するというのも、単純なようで難しいことだ。
「もう湯船です。そこから一歩進んだところに段差があるんで手をついてください。檜の囲いでできた浴槽があるんで、そこから湯に足をつけてもらえば。深くないので溺れもしないですよ」
俺の言ったとおりにシエラは屈んで探り探りに湯船を探し当てた。
浴槽の囲いに腰を落とし、ようやく湯に触れる。湯船は二メートル四方ほどの大きさで、二人で入るには十分だ。
「熱いです」
「源泉掛け流しですからね。まあ意外と湯の量が多いってがうちの旅館の数少ない自慢なんで」
源泉の温度が四十二度ほどあるので少し熱いが、それも入ればすぐに慣れる。
掛け湯を済ませていた俺が先に湯船に入り、ゆっくりと手を引いてシエラも後に続いた。太ももほどの深さのため簡単に足がつく。
「すごく温かいです。このまま腰を下ろせば良いのでしょうか」
「そうですね」
「少し熱くてヒリヒリしますが、不思議と嫌いではない感覚です」
シエラはどうやら早くも気に入ったらしく、手でお湯をすくってはまるで子どものように楽しそうにはしゃいでいる。
そのまま腰を落として屈もうとする彼女を見て、
「あ、タオル」と思わず声を発してしまった。
「タオルがどうかしましたか」
「えっと、いや――」
言っていいものだろうかとしばし逡巡する。
「まあいいか。本来はタオルを付けたままお湯に浸かるのはダメなんですよ。掛け湯もしなきゃ駄目で。まあ今回は俺もいますし特別に大丈夫ってことで……って、なにしてるんですか!」
説明を聞いていたシエラがおもむろに「そうなんですか」と驚くほど素直にバスタオルを取り始め、俺は大慌てで顔を背けた。
一瞬だけ視界に入った彼女の一糸纏わぬ白肌が目に焼きついて離れなくなった。きっと人生の家宝になるレベルだろう。
結局、一糸纏わぬ姿になった彼女を止められず、シエラから背を向けながら俺も同じように湯船に浸かった。
「はあ、やっぱり気持ちいいな」
実家ということもあって何度も温泉に入っているが不思議と飽きないものだ。
泉質はナトリウムやカルシウムの多く含んだ塩化物泉で、硫黄泉などのような強すぎる独特な臭いはないが、舌に触れると塩辛さを感じるのが特徴だ。
筋肉痛や関節痛、疲労回復などの効果が期待できると謳われている。日本ではそれほど珍しい泉質というわけではないが、ここの温泉は成分がやや濃いらしく、評判も悪くはない。
「――ひゃあっ!」
唐突にシエラが声を上げる。と同時に、何事かと思って咄嗟に振り返ろうとした俺の背中にぴとりと何かがぶつかる。
柔らかく、その無数の細かい何かが背中を這い、こそばゆさに悶えそうになる。
だがその感覚も、次に背中へと圧し掛かってきた重みによって掻き消された。今度はお湯の中でもわかるほどにつるつるとした何かが腰の辺りに擦れる。
その圧し掛かってきたものがシエラの背中だったと気づくのにそう時間はかからなかった。
「うわああああ」と俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ご、ごめんなさい。お湯を吸った羽が思ったよりも重たくて、身体が倒れてしまいました」
「い、いや。温泉って足元も滑りやすいですし、いいですけど」
むしろ背中でシエラのつるつるの肌を実感できてしまい役得である。
「その羽、そんなに濡れて大丈夫なんですか?」
「ええ。雨に降られたりして濡れることもよくあります。唯一の欠点はしばらく飛べなくなることですが、魔力の薄いこちらの世界ではそもそも飛ぶことはありませんので問題ないのです」
「すごい、飛べるんですね」
「魔力が潤沢な向こうの世界での話ですけどね。こちらの世界はマナが少ないので飛べるといってもほんの短い間しか難しいでしょう」
肩まで湯船に浸けたシエラが腕を伸ばしながら大きな感嘆の息を吐く。
「それにしても本当に心地よいですね。これが温泉というものなのですね」
「向こうの世界には無いんですか、温泉」
「ここのお部屋にもついているお湯を浴びるだけのものなら向こうにもあります。でも湯浴みはあまりないですね。身体を清める時は川や湖で水浴びをすることが多いですし。まあ、それは神事や行楽のような時だけですが」
「へえ、そうなんだ……」
知らない知識に素直に関心していたせいで、思わず敬語で話すことを忘れてしまった。慌てて取り繕おうとしたが、むしろシエラは微笑を漏らして「別に構いませんよ」と言った。
「でもお客様と従業員って立場ですし」
「あの。一つ、私の我侭を言ってもいいですか」
シエラが急に、どこか改まった口調で言う。
「向こうの世界だと、私はどうも過剰に持ち上げて崇められすぎてしまっています」
「過剰に?」
どういうことだろうか。
「はい。実は私、天族と言っても純粋な天族ではないのです。人間との間に生まれた半人半神なのです。生まれも天族たちが暮らす聖域ではなく、普通の人間と同じような市井の中で育ちました。特異な生まれのせいもあって教会で育てられた私は、それでもみんな、天族として私なんかを『神の啓示を授かれる天族の聖女』だと祀り上げるのです。天族と人間の間に生まれた不安定な存在なためか、私は生まれながらに障害を持って生まれました。普通の人に比べて目が弱かったのです。しかしそれが原因か、逆に遠くの声がよく聞こえたり聞き分けられたりできるようになりました。そういった特技が勝手に人伝いで喧伝されて一人歩きして、気がつくと私は常人に聞けないものを聞ける天族の聖女だと担ぎ上げられていました」
語る彼女の声調は快活さを失くし、無機質な感情に満たされているようだった。
「私はそれほどすごい存在ではありません。本当はただの、天族にも人間にもなれなかった落ちこぼれなんです。ここに来たのだって、見識を広めるために異世界を訪れたというのは方便。実際は身の丈に会わない身分を窮屈に感じて、異世界でもどこにでも逃げ出したかったのかもしれません」
彼女の身の上話に、俺は「なるほど」と息をつくほかなかった。
しばらくの静間が訪れて、湯船から溢れた湯の流れる音だけが二人の時間を埋め尽くした。弱音のように言葉を紡ぐ彼女は、神の使いでもなく、どこからどうみてもただの一人の少女だった。
いや、過保護を受けたり崇拝されたり、そんな特別な立場に偶然置かれてしまっただけで、元々はごくごく普通の、少し無警戒で天然な女の子なのだろう。そんな普通の女の子が些細な理由で過保護を受け、みんなと同じように温泉に入ることすら難しい。
当たり前のことができなくなるという窮屈さにひどく辟易しているのだろうと思った。
「……よし、わかった」
俺は大袈裟に頷いて、大見得を切るように天を見上げて言い放った。
「ここにいるのはシエラっていう女の子だ。異世界だとか聖女だとかそんなの知らない。俺と同い年くらいの、ただただ普通の女の子だ。だから無駄に丁重にもてなす必要もないし、敬語なんて使う必要はない、だろ?」
それ以前に顧客と従業員という立場もあるのだが、言い詰めるのも野暮なものだ。対等というサービスを求められているのだから、それに応えるのも仕事になりえるだろう。
俺が自信満々に鼻息荒くそう告げると、シエラは声の張りを取り戻したような快活さで「はい」と返事をした。そうして、
「ハルさん、大好きです」と彼女が言ったかと思うと、急にお湯の飛沫を立てる音が激しく聞こえ、次の瞬間にはのしりと重たい感覚が背中を襲った。
感触からして、彼女が両腕を前に添えて俺に圧し掛かっているようだ。女の子と布きれ一枚も挟まずに触れ合っている。
腕とはいえ温泉で血行のよくなった温かい彼女の柔肌の感触に、イヤでも男性的な劣情がこみ上げそうになる。泉質の塩っけのある臭いに混じって、すぐそばから女の子特有の甘いにおいが漂い鼻腔をくすぐってくる。それだけで俺の意識は鋭敏に尖がってしまいそうだ。
急なスキンシップに俺は「ど、どうしたんだ」と声を上擦らせてしまっていた。
「私の我侭にも付き合っていただきましたし。とても親切で丁寧で、いい人です。だから私、ハルさんのこと好きになりました」
「ええっ。いやいや、急にそんな」
まさか親切にしたことで好意を抱かれてしまったのだろか。
シエラほどの美少女に言われるなど、人生勝ち組と誇っていいほどの幸い事だろう。続きの言葉を期待しておのずと有頂天になってしまう。
「もしよろしければ、これから私ともっと仲良くなっていただけないでしょうか」と弾むような声を投げかけてきたシエラに、よしきた、と俺が嬉し顔で振り返ろうとした瞬間。
「――お友達として!」
と、シエラの口からまるで釘を刺すような一言が先に飛び出し、俺の見切り発車した青春は唐突に終わりを告げるのだった。
「お友達ができるの、初めてなんです。とても嬉しいです」
「そ、そうだよな。友達として。ああ、任せて任せて」
精一杯の強がりで平静を装った俺の声は、きっと無自覚にひどく震えていたことだろう。
この子は良くも悪くも純真無垢で自分に素直に行動するのだ。男泣かせの化身である。
それからしばらく、俺とシエラは他愛のない会話で親睦を深めた。
特にこっちの世界のことについてはよく食いついて、ひたすら彼女の質問責めに圧倒されるばかりだった。
温泉に満足した俺たちはほどほどにあがり、それぞれの更衣室に戻った。
帰りの部屋まで案内しなければならないため、着替えてから更衣室を出てすぐの廊下で待ち合わせることにする。女湯側から出てきたシエラの顔はどこか顔が上気していて、足取りも少しおぼつかない様子だった。
のぼせてしまったのかもしれない。おまけに髪も乾かしきれていない。
せっかくの艶のある黒髪が傷んでしまわないようにバスタオルを使って軽く拭ってやった。
そんな事を何気なく行っていたのだが、最中、いつの間にか俺たちの側に一つの人影が近づいていることに、俺はまったく気づけなかった。
「きぃぃぃさぁぁぁまぁぁぁ!」
俺とシエラの背後から、まるで猿の嘶きのような奇声が轟いた。
悪寒が全身を駆け巡り、鳥肌が騒ぎ立つ。
振り返ったそこには、髪を逆立てながら鬼の形相で佇むマリーディアがいた。
手には刃物が握られ、鋭い光沢を放っている。今にも突っ込んできそうな猛牛のように鼻息が荒く、尖った視線を向けてくるその姿に、俺は天国から地獄へと蹴落とされた気分で絶望した。
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