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○2章 あやめ荘の愛おしき日常
-4 『緊急事態』
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「ああ、そこ。いいっ」
わざとなのか、甘い吐息がエルナトから漏れる。
男とは思えない高い声のせいもあってイヤでも意識せざるを得ない。本当に、どこまで俺を弄べば気が済むというのか。
だがしかし、俺だってそうそう翻弄され続けているばかりではない。心を無心にし、煩悩を捨ててひたすら手だけを動かしていく。
こんな場面、誰かに見られでもしたら変な誤解を与えかねないだろう。
だがまあ旅館のスタッフたちはエルナトのことを知っているだろうし、事情は察してくれるはずだ。男同士でマッサージをしているだけなのだから、なにもやましいことなどない。
そう思っていた時、ガタッ、と不意に物音が聞こえた。部屋の扉の方だ。
本当に誰かが来たのかと思いどきりとしたが、まあ大した問題にはならないだろうと気にせずマッサージを続けていく。
「あの子、さっきから覗いてるけど誰?」
エルナトがふとそう言い、俺はやっと扉の方を見やった。
湿度のせいで扉の丸窓が曇っているが、かすかな水滴の隙間からこちらを覗いている人影がある。背が届いていないのか下側からどうにか顔だけを覗かせているようだった。
ぼんやりと見えるシルエットは髪が黒く、子どものような目鼻立ちで、まるで俺の妹のような――。
「……ぅあ?!」
途端に俺は素っ頓狂な声を上げ、手を止めて大慌てで扉へ駆け寄った。
それに気づいたのか、扉の向こうの人影も引っ込んでしまう。
俺が急いで飛び出ると、廊下のずっと遠くを走り去っていく人影が見えた。
「なんであいつがここに」
遠ざかる小さな背中を追って廊下を全力で突っ走った。
追いかける影が角を曲がり、中庭に続く渡り廊下への扉を出ていく。
「――まずい、まずい、まずいぞ」
必死の全力疾走。
逃走者が揺らす二つの黒いおさげ髪と兎のリュックを捉えて一目散にひた走る。
と、中庭に飛び出したその人影が小石に躓き、転げそうになって立ち止まった。
よし、追いつける。
「つかまえたああああああああああ!」
と俺はそのまま逃走者へと突っ込んだ。ぶつかって押し倒す形になる。
いたたたた、と倒れこんだ逃走者が可愛らしい声で呻いた。
追いかけている時点で気づいてはいたが、やはり、そこにいたのは妹の千穂だった。
どうしてお前がここにいるんだ。どうやって入ってきたんだ。
言いたいことが山ほどあるのに、咄嗟の全力ダッシュのせいで激しい息切れを起こし、声が上手く出てこない。
息を落ち着けてやっと出てきた言葉が、
「見ぃぃぃぃたぁぁぁぁなぁぁぁぁ」
マッサージをしていたせいでヌルヌルした手で肩を掴む様子は、さながら這いずるゾンビのように見えたのだろう。たまらず千穂の顔は血の気が引いて顔面蒼白になっていた。
「きゃああああああ、やめてえええええ!」と千穂が泣きそうな顔で絶叫する。
俺の腕を跳ね除けるように振り払って、バタバタと四肢を動かしている。
そのまま泣きじゃくるかと思ったが、しかし何を覚悟したのか下唇をぐっと噛み締めて泣き声を堪え、背負っていた兎のリュックに提げていたキーホルダーのような何かを掴み取る。
可愛らしいクマのデフォルメキャラクターの形をした防犯ブザーだ。
千穂が咄嗟にそれの紐を引き抜こうとする。
「いやああああああ、やめてえええええ!」と今度は俺が絶叫して千穂を引き止めた。
中庭に、二人の奇妙な悲鳴が鳴り響く。
服を着て追いかけてきたエルナトが顔を出すまで、見るも醜い阿鼻叫喚な地獄絵図が繰り広げられていた。
わざとなのか、甘い吐息がエルナトから漏れる。
男とは思えない高い声のせいもあってイヤでも意識せざるを得ない。本当に、どこまで俺を弄べば気が済むというのか。
だがしかし、俺だってそうそう翻弄され続けているばかりではない。心を無心にし、煩悩を捨ててひたすら手だけを動かしていく。
こんな場面、誰かに見られでもしたら変な誤解を与えかねないだろう。
だがまあ旅館のスタッフたちはエルナトのことを知っているだろうし、事情は察してくれるはずだ。男同士でマッサージをしているだけなのだから、なにもやましいことなどない。
そう思っていた時、ガタッ、と不意に物音が聞こえた。部屋の扉の方だ。
本当に誰かが来たのかと思いどきりとしたが、まあ大した問題にはならないだろうと気にせずマッサージを続けていく。
「あの子、さっきから覗いてるけど誰?」
エルナトがふとそう言い、俺はやっと扉の方を見やった。
湿度のせいで扉の丸窓が曇っているが、かすかな水滴の隙間からこちらを覗いている人影がある。背が届いていないのか下側からどうにか顔だけを覗かせているようだった。
ぼんやりと見えるシルエットは髪が黒く、子どものような目鼻立ちで、まるで俺の妹のような――。
「……ぅあ?!」
途端に俺は素っ頓狂な声を上げ、手を止めて大慌てで扉へ駆け寄った。
それに気づいたのか、扉の向こうの人影も引っ込んでしまう。
俺が急いで飛び出ると、廊下のずっと遠くを走り去っていく人影が見えた。
「なんであいつがここに」
遠ざかる小さな背中を追って廊下を全力で突っ走った。
追いかける影が角を曲がり、中庭に続く渡り廊下への扉を出ていく。
「――まずい、まずい、まずいぞ」
必死の全力疾走。
逃走者が揺らす二つの黒いおさげ髪と兎のリュックを捉えて一目散にひた走る。
と、中庭に飛び出したその人影が小石に躓き、転げそうになって立ち止まった。
よし、追いつける。
「つかまえたああああああああああ!」
と俺はそのまま逃走者へと突っ込んだ。ぶつかって押し倒す形になる。
いたたたた、と倒れこんだ逃走者が可愛らしい声で呻いた。
追いかけている時点で気づいてはいたが、やはり、そこにいたのは妹の千穂だった。
どうしてお前がここにいるんだ。どうやって入ってきたんだ。
言いたいことが山ほどあるのに、咄嗟の全力ダッシュのせいで激しい息切れを起こし、声が上手く出てこない。
息を落ち着けてやっと出てきた言葉が、
「見ぃぃぃぃたぁぁぁぁなぁぁぁぁ」
マッサージをしていたせいでヌルヌルした手で肩を掴む様子は、さながら這いずるゾンビのように見えたのだろう。たまらず千穂の顔は血の気が引いて顔面蒼白になっていた。
「きゃああああああ、やめてえええええ!」と千穂が泣きそうな顔で絶叫する。
俺の腕を跳ね除けるように振り払って、バタバタと四肢を動かしている。
そのまま泣きじゃくるかと思ったが、しかし何を覚悟したのか下唇をぐっと噛み締めて泣き声を堪え、背負っていた兎のリュックに提げていたキーホルダーのような何かを掴み取る。
可愛らしいクマのデフォルメキャラクターの形をした防犯ブザーだ。
千穂が咄嗟にそれの紐を引き抜こうとする。
「いやああああああ、やめてえええええ!」と今度は俺が絶叫して千穂を引き止めた。
中庭に、二人の奇妙な悲鳴が鳴り響く。
服を着て追いかけてきたエルナトが顔を出すまで、見るも醜い阿鼻叫喚な地獄絵図が繰り広げられていた。
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