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○2章 あやめ荘の愛おしき日常

 -5 『先駆け』

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 あれほど騒いで誰にも気づかれないはずがなかった。

 俺と千穂は事務所の隣にある応接間で二人並んで正座させられていた。
 正面の黒革のソファにはふみかさんが腰掛け、ストッキングを穿いた脚を艶かしく組ませている。

「事情はわかったわ。つまり、今朝にハルくんが忘れてきたと思っていたカードキーを、千穂ちゃんがこっそりと持ち出していたのね」

 今朝の千穂の様子が変だったのはそのせいだろう。
 ふみかさんに咎められ、千穂も素直に頭を垂れて反省しているようだった。

 しかし問題は、こと重要機密事項である異世界のことを千穂が知ってしまったことにあった。

 俺たちが事務所に向かう最中、口の悪いリザードマンやゴーレム嬢、他にもいくつかの人外種の異世界人を見かけた。もはや言い逃れなどできはしない。

 ふみかさんが上司の人と電話で連絡を取り、しばらく待った結果、仕方なく千穂にも異世界のことを教えることになった。ただし両親や俺、ふみかさんによる厳重な口止めとサポートを行うことが条件だった。

「千穂ちゃんにはどうにせよ、ハルくんみたいにいずれ知らされる可能性もあったから特別に認められただけよ。本来は決して口外してはいけないことなの。だから今後は本当に気をつけてね。最悪、私たちだけの責任問題ってどころじゃ済まなくなるから」

「責任問題どころじゃないって?」

「つまりは私たちだけの首どころじゃない、この旅館自体の廃止だってあり得るということよ。情報漏えいばかりで不利益が続くと政府に判断されればハルくんのような一般人を従業員として利用することもなくなるだろうし、最悪、この施設がよほど効果を見込めないと思われれば取り壊されることだってあり得るの。この旅館の経営にだって相当なお金がかかるもの」

「けっこう切実な事情ですね」
「そうよ」とふみかさんは頷いたが、言葉の内容に反してどこか軽い調子で言葉を続ける。

「まあ、この旅館に関しては異世界側の権力者にも許可を得なければいけないから、そうそう簡単に潰れたりはしないでしょうけどね」
「権力者?」
「ええ。この旅館のそばに異世界との『門』を繋いだ張本人よ。素性に関してはあまり口外しないように約束されているけれど」

 権力者、そんな大層な人物がいるなんて初耳だった。
 シエラのように衣服に装飾品を携えた高貴な印象の客は幾人か見かけたことはあるが、そのうちの誰かなのだろうか。

 それにしても、政府の判断によっては旅館が取り壊されるなんて物騒な話だ。

「千穂が知ったのは確かにまずかったですけど。魔法とかで記憶を消したりって、そういうのできないんですかね」

「さあ、どうかしら。私だって向こうの世界の魔法を全て把握しているわけじゃないわ。ただネットなどでの情報の規制は工作員を使って行われているし、いざ悪意のある方法で広められてしまっても、その情報のパンデミックを引き止める手段はいくつか用意しているみたい。一介の小学生の女の子一人が口を滑らせたところで、信じる人なんていないでしょうね」

「意外としっかりしてるのか、してないのか。よくわからないですね」
「まあ、異世界との正式な交流が開始されてまだ二十年も経っていないから。それを担当している部署も、多少の手探り感は仕方ないわよ」

「二十年ってもうけっこうな年数にも思いますけど」
「こっちの常識が通じない、まさしく経験がゼロから始まったようなものだもの。言葉や人種どころか世界が違うのだから、そんな相手とたった二十年足らずでここまで近づけたのは十分すぎる進歩だと思うわ」

 たしかにこの世界と異世界ではまるで文化形態が違うかもしれないのだ。
 更には彼らの外見はヒトだけでなく、トカゲ人間や岩石人間、更には背の小さな小人族などもいる。

 俺たちの世界の常識とはかけ離れている存在だと、一目見ただけですぐに実感できる。

『異世界人がやって来ました。みなさんこれから仲良くしましょう』と総理大臣が全国放送したところで、それを二つ返事に頷ける人間なんてそう多くはないだろう。

 誰だって最初は恐いと思うし、怪しいと思うし、大丈夫なのかと心配になるものだ。

「異世界人たちのことはこれからゆっくりと公表されていくわ。ここ、あやめ荘は、そんな異世界交流の出発点なのよ。だからハルくん、あなたたちはその第一人者。先駆けよ」
「……先駆け」

 自分が特別な異世界との使者になったかのように言葉に、不思議と悪くない気分だった。幸いにもシエラやエルナト、それにあの無愛想な女の子とも少しは仲良くなれている気がする。

 前向き思考は大事だな、と深く考えることもなく楽観的に思っていた。
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