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○第1話 三つ目看板猫とミステリー少女

1-1 『ソルテ』

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 三つ目の看板猫は今日も優雅に生きている。
 名前はソルテ。どこにでもいるような黒猫だ。

 化け物のような角もなく、尻尾も一本。ただ額に目のような白い傷があることを除けば、背を丸めて佇む姿はいたって普通の猫である。

 ソルテの過ごす日々もまた、何の特別もない普通ばかりだ。

 朝起きて、ご飯を食べて、散歩をしてからお昼寝する。ほとんど、たったそれだけで毎日は廻っている。

 しかしそれで十分に満足である。
 それ以上は望まないし、望む必要すら思わない。

 どこにでもあるような平坦な日常。変わり映えのない外の景色。繰り返すような一分一秒が、しかしソルテにとってはかけがえのない時間なのである。

 故にソルテの日常は平凡であり、それでいてこの上なく満たされているのだ。

 今日が満足な一日であれば、それ以上に他はない――。


  ○1章

 コポコポと湯のあわ立つ音がして、ソルテは三角の耳をぴくりと起こした。

 天窓から差し込む太陽の光を浴びて温まった体を持ち上げる。梁の上にあるアーチ状の窓の手前の柱は、ソルテのお気に入りの日向ぼっこ場所だ。寝起きの欠伸をすると、手で目と鼻を数度擦った。

 天井に吊られたファンのゆるやかな微風に乗って、ほんのりと珈琲の香りが運ばれてくる。眼下では白シャツの上にエプロンを着た初老の男が、カウンターの奥でコーヒーを淹れている最中だった。彼の手元にはフラスコとそれを立てかけるスタンド、そしてコーヒー豆を挽いた粉や小さなガスヒーターなどが並んでいる。

 サイフォンと呼ばれる、加熱などによる気圧の変化を利用した珈琲の淹れ方だ。ソルテには詳しい理屈などわからないが、なんとなく眺めているうちに少しだけ覚えている。

 ヒーターの上に置かれたフラスコには沸騰したお湯が半分ほどまで入れられて、こぽこぽと音を沸き立たせている。

 次にフィルターを包んだろ過器をロートとよばれる先の細まった透明な筒状の物の先端部に入れて留め金を引っ掛ける。

 そうやって固定させてから、中挽きのコーヒーの粉を入れてフラスコに差し込む。やがて沸騰したフラスコのお湯はロートへと上っていき、コーヒーの粉と混ざり始める。

 それを棒で混ぜ合わせてから早めに火を消す。するとまた真下のフラスコに液体が戻っていき、ろ過された綺麗なコーヒー液だけがフラスコの底へと溜まる。それを事前に温めておいたカップに注げば完成である。

 煮立ったお湯とコーヒーの粉が混ざり合った時に立ち上る豊満な珈琲の香りは、ソルテもつい鼻を向けてしまうほどに大好きだ。

 喫茶店のマスターである彼の素早い慣れた手つきは年季を感じさせて、その髭面で白髪の混じる風貌もあってか、まるで熟練のバリスタのようにも見える。

 だが実際は本格的にコーヒーを淹れ始めたのもつい最近で、脱サラして古民家を改装し、シックな外装の喫茶店『スリーアイズ』をオープンさせたのがほんの四年前。野良猫であったソルテが彼に拾われたのとちょうど同じ頃である。

「美味しい珈琲を飲んで、それで誰かに笑ってもらえるのが嬉しいんですよ」

 喫茶店を始めた理由を客に尋ねられれば、彼は決まってそう答える。

 サイフォンどころかドリップコーヒーすら自分で淹れた経験があまりなく、経営学を学んでいるわけでもない彼は、なにもかもが手探りでのスタートだったという。

 しかしそれでも、亡くなった両親が大の骨董好きであったことが幸いし、アンティーク調の棚や小物が並んでいるおかげで雰囲気だけは一端の喫茶店らしさが出せていた。

 要領がよく、知り合いの喫茶店の同業者に指示を請うて瞬く間に上達したおかげもあるだろう。今となっては常連客も少なくはないほどに繁盛していた。

 住宅街の一角にあるせいか、平日の客入りは昼間が一番多い。
 子どもを送り出して家事を終えた主婦たちが集まって四方山話に華を咲かす光景をよく見かける。そのため彼女たちが帰って比較的静かになる夕方時分は、ソルテにとって絶好の昼寝時である。

 天窓から差し込む柔らかな西日にあてられて、ソルテは一眠りしようかと欠伸をして前脚に顎を乗せた。

「うーーーーーーん!」と長い唸り声が足元から響いてきて、びくりと身体が驚かせた。

「わからーーーーん!」とまた大きな一声。一体何事だというのか。

 梁の下を覗き込むと、すぐ真下の席で机に突っ伏す女の子の姿があった。

 ブレザーの学制服を着て鞄を脇に置き、分厚いマフラーを巻いたまま机の上に腕を伸ばしている。肩ほどまでのセミロングの黒髪で、頭のてっぺんにぴょこんと跳ねた癖っ毛が目立つ肌の白い少女だった。手には一枚の紙切れがあり、それをずっと注視しているようだ。

「どうかされましたか」

 エプロン姿のマスターが表情をにこやかにやってきた。
 先ほど淹れたばかりのコーヒーカップを彼女に差し出す。

「わわっ、ごめんなさい。うるさかったですか」

 少女が咄嗟に顔を持ち上げて取り乱す。
 しかしそれでもマスターは穏やかに微笑んでいる。

「いいえ。今は他のお客様もいらっしゃいませんし」
「すみません」
「気にしないで。それよりも、何か悩んでらっしゃるようですが」

 二人の視線の先が同時に、少女の紙切れへと向けられる。

 えへへ、と少女がはにかんだ。

「実は、昔からすごく仲の良かった男の子から変なメッセージをもらっちゃって」
「ラブレター、とかではなく?」
「あはは。それだったらわかりやすくてよかったんですけど……」

 少女が言葉に詰まる。表情も、困っているわけでもなく、苛立っているわけでもなく。ただ怪訝そうに眉間のしわを深めているばかりだ。

 焼きつくほどの視線を紙に向けていた少女が呟くように言った。

「なんか……暗号? みたいな気がするんです」

 その言葉に、マスターは不思議そうに小首を傾げていた。
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