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○第2話 三つ目看板猫となかよし夫婦
-11『今を、生きること』
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「み、美咲ちゃん。そんなことまでしなくていいよ」
日も暮れて西日が差し込み始めた喫茶店で、マスターは非常に困ったと言いたげに顔を歪ませていた。
あれから美咲とソルテはおばあさんを絵画教室に残し、店に帰ってきたのだ。
ドアを蹴り破るような勢いで店へと入った美咲は、驚いたマスターに何を言われるでもなく、真っ先に床に膝をついて土下座をしたのだった。その流れるような無駄のない一挙手一投足には、むしろ潔い美しさすら感じられるほどだった。
なんとなく気分がいいので、ソルテは美咲の背中に乗って座り込んだ。
まるまった背中は不安定だが、ブレザー越しの体温がほどよく温かくて心地よい。ソルテの新しいベストポジション辞典に加えるとしよう。前足で目許を引っ掻く。毛づくろいも大切だ。つま先をぺろぺろと何度も舐める。
「すみませんでした、マスターさん」
「いいよいいよ。何か事情があったんでしょう」
「そうなんですけど……」
さすがの元気魔人の美咲ですら、バイト先からの逃走は問題だと受け止めているらしい。しょんぼりと気落ちした顔で、声の調子もあからさまに低かった。マスターが何を言っても、おでこが床にくっついたのかと思うほどに動かない。
これにはマスターも調子が狂うと言いたげに眉をひそめた。
ふむふむと彼があごひげを摩る。と、ちょうどタイミングを見計らったかのようにサイフォンの珈琲が抽出し終わった。いつの間に作っていたのか。
マスターが素早い手つきで珈琲をカップへと少なめに注ぎ、ミルクを入れると、少し泡立たせたミルクの層の上に黄金色のソースを網目状に垂らした。
そして出来上がったそれをソーサーへと移し、
「よければこれ、どうかな」と目の前のカウンターに差し出した。
珈琲のほろ苦い香りの中に、鼻に抜けるような甘い香りが混じっている。その臭いに釣られるように、美咲はカウンターへと飛びついていた。
「なんですか、これ」
「今度新しく商品に追加しようと思っているキャラメルカフェラテです」
「うわあ、美味しそう!」
さっきまでの落胆もどこ吹く風。
すっかりいつもの溌剌な彼女に早戻りである。
「いただいてもいいんですか!」
「まずは手を洗ってからね」
「はい!」
すっかり快活な美咲の返事に、マスターはようやっと安堵に表情を緩ませたのだった。
それから、喫茶店の営業が終わる少し前に沙織が顔を出した。仕事帰りなのだろう。彼女は事の顛末を美咲とマスターに話した。
「そうか。そんなことがあったんだね」
「本当、びっくりしちゃった。美咲ちゃんが来たときは何事かと思ったわ」
カウンターに腰掛けて肘をついた沙織が苦笑まじりに言う。
日も沈み、結露の浮かぶ窓の向こうは真っ暗になっている。
天井から下がるペンダントライトの暖かなオレンジ色が店内を包み、木目調のカウンターや柱がぬくぬくと光合成をしているように色変わっている。空調の温かい風が天井の梁にいるソルテにまで微かに届いていた。
冬の夜は静かで、暖房の効いた部屋で寝転がるこの一時ほど心地の良いものはない。空気が澄んでいるのか音や景色が鮮明で、ソルテはこの冬の夕方から夜に入る時間帯が大好きである。ただし暖かい所に限るが。
「結局、あの絵はどうなったんですか」
美咲が尋ねる。
「ああ、あれね。そのままあそこに置いておくことになったわ」
「あれ? おばあさん、持って帰らなかったんですか」
「ええ。実は、あの絵の続きを描きたいっておっしゃったの。次の教室から旦那さんの変わりに通いたいって、すっごく熱望されて。本当はそんな事例がなかったから良いのかわからないんだけど、あくまで無料でやってる趣味の絵画教室だからね。どうしてもって我侭言われて、ついオッケーしちゃった」
てへ、とわざとらしく可愛げをだして沙織が笑う。
もう三十路手前でしわの寄り始めた厚化粧の彼女には年齢的に厳しいのではないだろうか。とは口が裂けても言えないし、そもそも猫だから喋れない。
「おじいさんとの約束の世界旅行の続きですね」
「なるほど。そう言うと素敵だね」
渾身の沙織の笑みに反応もせず、美咲とマスターは楽しそうに話しを続けていた。虚しさを覚えたのか、薄ら寒い自嘲へと変わっていく沙織の後姿には物悲しい哀愁を覚えた。
「でもまあ、いろんな人がいるんだなって今日は改めて思ったわ。市民センターはいろんな人が来るし、私にはその人たちがどんな人生を送ってきたのか、どんなものを背負ってるのか全然わからずにいたけど。みんながみんなとは言わないだろうけれど、中にはあのご夫婦みたいに、他愛のない事に見えてその実、大切な想いを込めてくる人もいるのね」
「そういうものですよ。幸せの度量も、基準も、人それぞれですから。他人が見て些細なものでも、誰かには大切なものって、山ほどあるものです」
「そうね。実際、あのおじいさんを、私はただの我侭ジジイって思ってたわけだし。そう考えると途端に申し訳ない気分になってくるのがなんだかなあ……」
物憂げに沙織が天井を仰ぎ見る。
ふと、様子を眺めていたソルテと目が合って、彼女はにっと無邪気に笑った。
「でもまあ、ああいう人の手助けになってるっていうのなら、ああいう地味な仕事も悪くはないのかな……なんて。ちょっと思い始めてきたり」
「わー。沙織さん、なんだかかっこいい台詞ですねー!」
遠くでテーブルを拭いていた美咲が不意に茶々を入れる。
「こらっ、美咲ちゃん!」
「すみませーん」
「もう、まったく」
謝りながらも舌を出しておどける美咲に、沙織は口を尖らせながらも、呆れた顔で頬を緩ませたのだった。
「もう。変なことを言うんじゃなかったわ。失敗よ」
「いえいえ。良いお言葉だったと思いますよ」
「もう、マスターまでそんなこと」
頬を膨らませた沙織に、マスターは朗らかに笑った。
美咲も後ろで楽しそうに笑う。そんな二人に釣られるかのように、沙織も口許を和らげて微笑をこぼしていた。
笑声ばかりが飛び交う光景を、ソルテは梁の上から優雅に眺める。
人という生き物は本当に不思議だ。
些細なことに頭を悩め、その生涯で何度も後悔や憂いを覚えたりする。しかしどうしてそこまで気にしようか。
眠気と食い気、それ以上に身に蓄積させるものはない。
眠くなったら寝て、食べたくなったら食べる。
生き物として最低限の、それでいて最上の幸せを満たせているのだから、たった一瞬の後悔くらい、雨に降られた一粒の雫程度の些末事だと切り捨てれば良い。
「おーい、ソルテー。ごはーん」
足元から呼ぶ美咲の声に、ソルテははっと顔を持ち上げて起きる。
ソルテの辞書に過去を悔いるという文字はない。その時の感情に素直になって、気の向くままに生きていく。そうすれば自分のしたいことばかりが自然と目の前にやってくるものだ。
故にソルテの一生は幸福に満たされ、後悔などしている暇もないのである。
「……うにゃ」
ふと、天窓の向こうを何かが横切った。鳥か、野良猫か。つい気になってその方向を注視する。本能だから仕方がない。
「どこ見てるのソルテ? そういえば、おばあさんと一緒の時もずっと変なとこ見てたし」
「そうだ。知ってるかい美咲ちゃん」
「なんですかマスターさん」
「猫はよく、人間には見えないものが見えているんじゃないかって言われるんだ。急に何もないところを睨むように見つめたり、急に立ち止まって何かを探すように首を振ったり。でも実際には見ているのではなく聞いてるだけだって話を耳にしたことがあるよ。耳の良さから、立ち止まって微細な音を拾ったり、その向きなどを探ったりしてるんだってね」
「へえ、なるほど」
「でも――」
コーヒーカップを拭きながらマスターがいたずらに笑む。
「でも本当に、彼らには、僕たちには見えていないものが見えているのかもしれないよ」
「た、たとえば?」
「……お化け、とか」
「ひええええええっ!」
夕焼け色に染まり始めた店内に、美咲のやかましい悲鳴が轟いた。
ああ、うるさい。
まったくどうして彼女はいつもそうなのか。
梁の上からソルテは呆れた眼差しで少女を見下ろす。
他の生き物に何かが見えているのか、いないのか。何かがそこにいるのか、いないのか。
やはりそんなことは些末事である。
人間にとって不可思議な怪異があっても関係ない。
彼らに見えない何かがあろうが、証明できるわけでもない。
ソルテにとっては一切関わりないことなのだ。
それによって日々の平穏を妨害されるわけでもなく、窓の外と同じように、勝手に移り変わっていく景色と差分ない。
他の生き物を知ろうなどとはおこがましく、詰まるところ、自分が日々幸せであればそれで良い。
明日は知らず、今日を生きよ。今を万事健やかたれ。
それ以上に欲することなど何もなく、人間たちにとっての不可思議も、ソルテにとってはまた変わらぬ日常の一場面なのである。
日も暮れて西日が差し込み始めた喫茶店で、マスターは非常に困ったと言いたげに顔を歪ませていた。
あれから美咲とソルテはおばあさんを絵画教室に残し、店に帰ってきたのだ。
ドアを蹴り破るような勢いで店へと入った美咲は、驚いたマスターに何を言われるでもなく、真っ先に床に膝をついて土下座をしたのだった。その流れるような無駄のない一挙手一投足には、むしろ潔い美しさすら感じられるほどだった。
なんとなく気分がいいので、ソルテは美咲の背中に乗って座り込んだ。
まるまった背中は不安定だが、ブレザー越しの体温がほどよく温かくて心地よい。ソルテの新しいベストポジション辞典に加えるとしよう。前足で目許を引っ掻く。毛づくろいも大切だ。つま先をぺろぺろと何度も舐める。
「すみませんでした、マスターさん」
「いいよいいよ。何か事情があったんでしょう」
「そうなんですけど……」
さすがの元気魔人の美咲ですら、バイト先からの逃走は問題だと受け止めているらしい。しょんぼりと気落ちした顔で、声の調子もあからさまに低かった。マスターが何を言っても、おでこが床にくっついたのかと思うほどに動かない。
これにはマスターも調子が狂うと言いたげに眉をひそめた。
ふむふむと彼があごひげを摩る。と、ちょうどタイミングを見計らったかのようにサイフォンの珈琲が抽出し終わった。いつの間に作っていたのか。
マスターが素早い手つきで珈琲をカップへと少なめに注ぎ、ミルクを入れると、少し泡立たせたミルクの層の上に黄金色のソースを網目状に垂らした。
そして出来上がったそれをソーサーへと移し、
「よければこれ、どうかな」と目の前のカウンターに差し出した。
珈琲のほろ苦い香りの中に、鼻に抜けるような甘い香りが混じっている。その臭いに釣られるように、美咲はカウンターへと飛びついていた。
「なんですか、これ」
「今度新しく商品に追加しようと思っているキャラメルカフェラテです」
「うわあ、美味しそう!」
さっきまでの落胆もどこ吹く風。
すっかりいつもの溌剌な彼女に早戻りである。
「いただいてもいいんですか!」
「まずは手を洗ってからね」
「はい!」
すっかり快活な美咲の返事に、マスターはようやっと安堵に表情を緩ませたのだった。
それから、喫茶店の営業が終わる少し前に沙織が顔を出した。仕事帰りなのだろう。彼女は事の顛末を美咲とマスターに話した。
「そうか。そんなことがあったんだね」
「本当、びっくりしちゃった。美咲ちゃんが来たときは何事かと思ったわ」
カウンターに腰掛けて肘をついた沙織が苦笑まじりに言う。
日も沈み、結露の浮かぶ窓の向こうは真っ暗になっている。
天井から下がるペンダントライトの暖かなオレンジ色が店内を包み、木目調のカウンターや柱がぬくぬくと光合成をしているように色変わっている。空調の温かい風が天井の梁にいるソルテにまで微かに届いていた。
冬の夜は静かで、暖房の効いた部屋で寝転がるこの一時ほど心地の良いものはない。空気が澄んでいるのか音や景色が鮮明で、ソルテはこの冬の夕方から夜に入る時間帯が大好きである。ただし暖かい所に限るが。
「結局、あの絵はどうなったんですか」
美咲が尋ねる。
「ああ、あれね。そのままあそこに置いておくことになったわ」
「あれ? おばあさん、持って帰らなかったんですか」
「ええ。実は、あの絵の続きを描きたいっておっしゃったの。次の教室から旦那さんの変わりに通いたいって、すっごく熱望されて。本当はそんな事例がなかったから良いのかわからないんだけど、あくまで無料でやってる趣味の絵画教室だからね。どうしてもって我侭言われて、ついオッケーしちゃった」
てへ、とわざとらしく可愛げをだして沙織が笑う。
もう三十路手前でしわの寄り始めた厚化粧の彼女には年齢的に厳しいのではないだろうか。とは口が裂けても言えないし、そもそも猫だから喋れない。
「おじいさんとの約束の世界旅行の続きですね」
「なるほど。そう言うと素敵だね」
渾身の沙織の笑みに反応もせず、美咲とマスターは楽しそうに話しを続けていた。虚しさを覚えたのか、薄ら寒い自嘲へと変わっていく沙織の後姿には物悲しい哀愁を覚えた。
「でもまあ、いろんな人がいるんだなって今日は改めて思ったわ。市民センターはいろんな人が来るし、私にはその人たちがどんな人生を送ってきたのか、どんなものを背負ってるのか全然わからずにいたけど。みんながみんなとは言わないだろうけれど、中にはあのご夫婦みたいに、他愛のない事に見えてその実、大切な想いを込めてくる人もいるのね」
「そういうものですよ。幸せの度量も、基準も、人それぞれですから。他人が見て些細なものでも、誰かには大切なものって、山ほどあるものです」
「そうね。実際、あのおじいさんを、私はただの我侭ジジイって思ってたわけだし。そう考えると途端に申し訳ない気分になってくるのがなんだかなあ……」
物憂げに沙織が天井を仰ぎ見る。
ふと、様子を眺めていたソルテと目が合って、彼女はにっと無邪気に笑った。
「でもまあ、ああいう人の手助けになってるっていうのなら、ああいう地味な仕事も悪くはないのかな……なんて。ちょっと思い始めてきたり」
「わー。沙織さん、なんだかかっこいい台詞ですねー!」
遠くでテーブルを拭いていた美咲が不意に茶々を入れる。
「こらっ、美咲ちゃん!」
「すみませーん」
「もう、まったく」
謝りながらも舌を出しておどける美咲に、沙織は口を尖らせながらも、呆れた顔で頬を緩ませたのだった。
「もう。変なことを言うんじゃなかったわ。失敗よ」
「いえいえ。良いお言葉だったと思いますよ」
「もう、マスターまでそんなこと」
頬を膨らませた沙織に、マスターは朗らかに笑った。
美咲も後ろで楽しそうに笑う。そんな二人に釣られるかのように、沙織も口許を和らげて微笑をこぼしていた。
笑声ばかりが飛び交う光景を、ソルテは梁の上から優雅に眺める。
人という生き物は本当に不思議だ。
些細なことに頭を悩め、その生涯で何度も後悔や憂いを覚えたりする。しかしどうしてそこまで気にしようか。
眠気と食い気、それ以上に身に蓄積させるものはない。
眠くなったら寝て、食べたくなったら食べる。
生き物として最低限の、それでいて最上の幸せを満たせているのだから、たった一瞬の後悔くらい、雨に降られた一粒の雫程度の些末事だと切り捨てれば良い。
「おーい、ソルテー。ごはーん」
足元から呼ぶ美咲の声に、ソルテははっと顔を持ち上げて起きる。
ソルテの辞書に過去を悔いるという文字はない。その時の感情に素直になって、気の向くままに生きていく。そうすれば自分のしたいことばかりが自然と目の前にやってくるものだ。
故にソルテの一生は幸福に満たされ、後悔などしている暇もないのである。
「……うにゃ」
ふと、天窓の向こうを何かが横切った。鳥か、野良猫か。つい気になってその方向を注視する。本能だから仕方がない。
「どこ見てるのソルテ? そういえば、おばあさんと一緒の時もずっと変なとこ見てたし」
「そうだ。知ってるかい美咲ちゃん」
「なんですかマスターさん」
「猫はよく、人間には見えないものが見えているんじゃないかって言われるんだ。急に何もないところを睨むように見つめたり、急に立ち止まって何かを探すように首を振ったり。でも実際には見ているのではなく聞いてるだけだって話を耳にしたことがあるよ。耳の良さから、立ち止まって微細な音を拾ったり、その向きなどを探ったりしてるんだってね」
「へえ、なるほど」
「でも――」
コーヒーカップを拭きながらマスターがいたずらに笑む。
「でも本当に、彼らには、僕たちには見えていないものが見えているのかもしれないよ」
「た、たとえば?」
「……お化け、とか」
「ひええええええっ!」
夕焼け色に染まり始めた店内に、美咲のやかましい悲鳴が轟いた。
ああ、うるさい。
まったくどうして彼女はいつもそうなのか。
梁の上からソルテは呆れた眼差しで少女を見下ろす。
他の生き物に何かが見えているのか、いないのか。何かがそこにいるのか、いないのか。
やはりそんなことは些末事である。
人間にとって不可思議な怪異があっても関係ない。
彼らに見えない何かがあろうが、証明できるわけでもない。
ソルテにとっては一切関わりないことなのだ。
それによって日々の平穏を妨害されるわけでもなく、窓の外と同じように、勝手に移り変わっていく景色と差分ない。
他の生き物を知ろうなどとはおこがましく、詰まるところ、自分が日々幸せであればそれで良い。
明日は知らず、今日を生きよ。今を万事健やかたれ。
それ以上に欲することなど何もなく、人間たちにとっての不可思議も、ソルテにとってはまた変わらぬ日常の一場面なのである。
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