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○4章 守りたい場所
-7 『決断』
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停電の翌日も強面たちは旅館に居座り続け、相変わらず飲めや騒げやの好き放題を繰り返していた。
朝食の準備をしてくれていたクウは、配膳の間、ずっと彼らに対する悪態を隠そうともせずに怒り顔を浮かべていた。
「あいつら、いったいいつになったら帰るんだよ。女将さんもがつんと言ってやればいいのに」
「いろいろあるんだよ、女将さんも」
俺がなだめる言葉を投げかけても、不服そうに口を尖らせるばかりだ。
女将さんもクウたち三人のためを思って頑張っている。
だが、クウが憤りを募らせているのも理解できる。
まだ帰る気配のない強面たちのせいで、いつ女将さんが身体を壊してもおかしくはないのだ。
手遅れになってからでは遅いという焦りと、自分たちが半人前であるという不甲斐なさに身痒い思いをしているのだろう。
口々に苛々を噴出しながらも、それでもクウは俺の世話をしてくれている。
「もう。こぼすなよ。片づけが大変なんだから」
「悪い。というか、これでも一応は客だぞ。練習なんだから言葉遣いも気をつけないと」
「ちゃんと仕事は身についてるからいいんだよ。それに、あんたに今更丁寧に言うのも、その……腹立つし」
強面たちへの苛立ちが俺にも飛び火しているようだ。
配膳などの仕事内容は非常に丁寧なのだが、声には怒気が込められていて、まるで接客という態度とはかけ離れている。
「ああー、もう。米粒ついてるぞ。みっともない」
そう言ってクウが指を突き出してくる。
頬のあたりに指先を当てる。
クウの柔らかい指の感触にくすぐったくなる。
人差し指で米粒を掬い取ったクウは、しばらくそれを見つめてからさっと背後を振り返った。そしてまたすぐにこちらを向いた時には米粒は消えていた。何故か顔は真っ赤になっている。
「なあ、クウ」
「な、なにさ」
朝食の箸を置いて、クウに声をかける。挙動不審に視線を泳がせながら、赤くなった顔をこちらに向けた。
「もしあの連中を追い払える手段があるって言ったら、どうする」
「あるの?」
「……なんとなく、だけど。思いついたのが一つあるんだ」
尻すぼみに声音を下げながら俺は言った。
きっかけは昨夜の停電だった。
それと、強面たちの仲間であるボインと出会ったこと。
その晩、部屋に戻ってからなんとなく考え、一つの案としてまとめてみた。
それがどれほど現実的なものかはわからないが、何もしないよりかはずっとマシだろうと思う。
ただ、それには仲居娘たちの協力が必要だ。急な準備に忙しくもなる。
「どんな手段なの」
「けっこうトンでもないお願いをすることになるけど、それでもいいのなら」
クウは迷わず頷いた。
まっすぐな目で俺を見ている。
「じゃあ言うよ。俺の作戦は――」
おおざっぱに掻い摘んで、俺の空想の中の案をクウに説明した。
俺の考えた作戦を実行するとなると、そのほとんどが仲居たち三人娘に託される。俺は裏方としてサポートするだけで、どうしても負担はどうしても彼女たちに強いてしまうことになるだろう。
実のところ、クウには断られると思っていた。
特にクウにとっては簡単に決められるほど軽いものではないだろうからだ。
だから、もし断られても仕方がないと諦めるつもりだった。
と、突然にドタドタと足音が部屋へと飛び込んできた。
「おー、せんせー。なにおもしろそーな話してるのー?」
サチだった。
どうやら外から盗み聞いていたらしい。
彼女の後には、足音を消してこっそりと入ってくるナユキの姿もあった。
サチが俺に飛んで抱き付いてくる。
「せんせー、なにするのー。なんでもするよー」
「お前は何をするのかわかって言ってるのか。いっつも能天気なんだから」
「わかってるよー」
「本当か」
「ほんとだよー」
「……わ、わたし、も」
ナユキまで頷く。
「……がんばり、たい。女将さんの、ため。ここ、好き、だから。守る」
搾り出すような懸命な言葉。クウの時だってそうだ。
喋ることは苦手なはずなのに、それでも、仲間のことを想うと頑張ろうとする。もう、俺と目が合って逃げ出そうとはしていない。必死にそこに踏ん張っている。
「でも、どれだけ現実的かまだわからないんだぞ。やったところで意味がないかもしれない。もしかしたら何か悪い方向に悪化するかも――」
「せんせーは、ずっとそのままで満足なの」
それはサチの無邪気な問いだった。
悪意はない。敵意もない。
けれども、その短い一言が、俺の心の奥を深く抉るように突き刺した。本当に痛みが走ったような感覚だった。
「サチは、恐いとかって思わないのか。失敗したらどうしようって」
それは誰もが抱く自然な感情だ。
俺なんて何の権力も財力もないただの人間なのだ。
失敗した尻を拭うにも限度がある。
取り返しのつかないミスだって世の中にはたくさんあるのだ。
しかも俺だけじゃなく、仲居娘たちや女将さんまで巻き込みかねない。
尻込みして何が悪い。
しかしサチの返事は尚もとてもシンプルだった。
「ないよ」と、ただそれだけ。無垢に、心からの言葉だとわかった。
「でも、もし失敗したら、後戻りできなくなることだってあるんだぞ」
「そうなったらまた次のことをするだけだもん」
「まだ子どもだからそう思うんだ。大人になると色々考えることになる。そんな能天気な考え方じゃ――」
「そりゃあサチはせんせーみたいに凄くないよ。まだ子どもだもん。仲居のお仕事だっていっつも失敗ばかりだよ。でも、おかーさんが言ってたんだ。いっぱい失敗しても、ちゃんと反省して、もう一度やればいいって。むしろやらないと怒られるもん。いつまでそこでいじけて固まってるんだーって。だから、失敗してももういっかいするの」
ふん、とサチが大笑いして胸を張る。
「失敗したら、もういっかいだよ!」
「……もう、いっかい」
そのもう一回をできずに挫折した人間がいったい世界にどれほどいるだろうか。
サチはまだ子どもだから気楽に物事を言えるのだ。
でも、本当にそれだけだろうか。こんな時でもサチが笑っていられるのは、ただ単に何も考えない能天気なだけなのだろうか。
そういえばこの旅館で彼女と出会ってから、サチはずっと楽しんでいた。それがどんな状況でも。
女将さんに怒られた時も。強面たちに迷惑をかけられている今だって。
クウたちと違って、一度も自分を曲げたことはなかった。
目の前の楽しいことを、嬉しいことを、目一杯に感じ取る。無邪気な子どものように純粋に受け止める。
俺は、そんなサチにいつしか羨ましさを覚えていた。
そして、彼女を見ていると不思議と笑顔になれた。迷っている自分が馬鹿らしく思えてた。
俺の心のもやもやも、全て笑い飛ばしてくれるように。
彼女が人間ではない何かなのだとするならば、幸せの妖精といったところだろうか。サチは知らないと言うが、本当にそういった妖怪なのかもしれない。
サチのように、俺は前向きになれるのだろうか。
隣で考え込むように黙り込んでいたクウがようやく顔を持ち上げる。
「いいよ。やろう」
クウの返事はとても簡潔で、確かなものだった。
「本当にいいのか?」
「女将さんのためだったら頑張れる。妖怪の血が薄くてほぼ人間同然の女将さんには、妖怪としてボクたちを育てるのは難しいんだ。だから妖怪としてじゃなく人間としてでもちゃんと生活できるように、ボクたちに仲居の仕事を教えてくれてる。事情はいろいろだけど、ボクたちはみんな女将さんに拾われた。そしてこうして生きる術を学ばせてくれてる。だからその恩は返したい。ボクにできることならなんだってやる。それが女将さんへの恩返しになるのなら」
芯のある強い返事だった。
クウのつぶらな瞳は俺をしっかり見据えていて、どこまでも真剣だった。
「わたしも……やり、ます……。がん、ばる!」
いつの間にか傍に駆け寄ってきていたナユキが俺の袖を引っ張りながら言う。
一番怖がって逃げたそうな彼女ですら、何故か今にも泣きそうなほど目を潤ませているが、懸命に俺を見つめようとしている。
三人とも、女将さんのために頑張りたいと思っているのだ。
決めあぐねていたのは俺自身だったのかもしれない。
失敗したらどうしよう。今度はどこへ逃げよう。そんな臆病風に吹かれて怯えていたのだろう。
俺も前を向かなければいけない。この子達のように。
まずは、前に少しでも進むための、一歩を。
「わかった。やってみよう」
俺の言葉に、三人はそれぞれ深く頷いたのだった。
朝食の準備をしてくれていたクウは、配膳の間、ずっと彼らに対する悪態を隠そうともせずに怒り顔を浮かべていた。
「あいつら、いったいいつになったら帰るんだよ。女将さんもがつんと言ってやればいいのに」
「いろいろあるんだよ、女将さんも」
俺がなだめる言葉を投げかけても、不服そうに口を尖らせるばかりだ。
女将さんもクウたち三人のためを思って頑張っている。
だが、クウが憤りを募らせているのも理解できる。
まだ帰る気配のない強面たちのせいで、いつ女将さんが身体を壊してもおかしくはないのだ。
手遅れになってからでは遅いという焦りと、自分たちが半人前であるという不甲斐なさに身痒い思いをしているのだろう。
口々に苛々を噴出しながらも、それでもクウは俺の世話をしてくれている。
「もう。こぼすなよ。片づけが大変なんだから」
「悪い。というか、これでも一応は客だぞ。練習なんだから言葉遣いも気をつけないと」
「ちゃんと仕事は身についてるからいいんだよ。それに、あんたに今更丁寧に言うのも、その……腹立つし」
強面たちへの苛立ちが俺にも飛び火しているようだ。
配膳などの仕事内容は非常に丁寧なのだが、声には怒気が込められていて、まるで接客という態度とはかけ離れている。
「ああー、もう。米粒ついてるぞ。みっともない」
そう言ってクウが指を突き出してくる。
頬のあたりに指先を当てる。
クウの柔らかい指の感触にくすぐったくなる。
人差し指で米粒を掬い取ったクウは、しばらくそれを見つめてからさっと背後を振り返った。そしてまたすぐにこちらを向いた時には米粒は消えていた。何故か顔は真っ赤になっている。
「なあ、クウ」
「な、なにさ」
朝食の箸を置いて、クウに声をかける。挙動不審に視線を泳がせながら、赤くなった顔をこちらに向けた。
「もしあの連中を追い払える手段があるって言ったら、どうする」
「あるの?」
「……なんとなく、だけど。思いついたのが一つあるんだ」
尻すぼみに声音を下げながら俺は言った。
きっかけは昨夜の停電だった。
それと、強面たちの仲間であるボインと出会ったこと。
その晩、部屋に戻ってからなんとなく考え、一つの案としてまとめてみた。
それがどれほど現実的なものかはわからないが、何もしないよりかはずっとマシだろうと思う。
ただ、それには仲居娘たちの協力が必要だ。急な準備に忙しくもなる。
「どんな手段なの」
「けっこうトンでもないお願いをすることになるけど、それでもいいのなら」
クウは迷わず頷いた。
まっすぐな目で俺を見ている。
「じゃあ言うよ。俺の作戦は――」
おおざっぱに掻い摘んで、俺の空想の中の案をクウに説明した。
俺の考えた作戦を実行するとなると、そのほとんどが仲居たち三人娘に託される。俺は裏方としてサポートするだけで、どうしても負担はどうしても彼女たちに強いてしまうことになるだろう。
実のところ、クウには断られると思っていた。
特にクウにとっては簡単に決められるほど軽いものではないだろうからだ。
だから、もし断られても仕方がないと諦めるつもりだった。
と、突然にドタドタと足音が部屋へと飛び込んできた。
「おー、せんせー。なにおもしろそーな話してるのー?」
サチだった。
どうやら外から盗み聞いていたらしい。
彼女の後には、足音を消してこっそりと入ってくるナユキの姿もあった。
サチが俺に飛んで抱き付いてくる。
「せんせー、なにするのー。なんでもするよー」
「お前は何をするのかわかって言ってるのか。いっつも能天気なんだから」
「わかってるよー」
「本当か」
「ほんとだよー」
「……わ、わたし、も」
ナユキまで頷く。
「……がんばり、たい。女将さんの、ため。ここ、好き、だから。守る」
搾り出すような懸命な言葉。クウの時だってそうだ。
喋ることは苦手なはずなのに、それでも、仲間のことを想うと頑張ろうとする。もう、俺と目が合って逃げ出そうとはしていない。必死にそこに踏ん張っている。
「でも、どれだけ現実的かまだわからないんだぞ。やったところで意味がないかもしれない。もしかしたら何か悪い方向に悪化するかも――」
「せんせーは、ずっとそのままで満足なの」
それはサチの無邪気な問いだった。
悪意はない。敵意もない。
けれども、その短い一言が、俺の心の奥を深く抉るように突き刺した。本当に痛みが走ったような感覚だった。
「サチは、恐いとかって思わないのか。失敗したらどうしようって」
それは誰もが抱く自然な感情だ。
俺なんて何の権力も財力もないただの人間なのだ。
失敗した尻を拭うにも限度がある。
取り返しのつかないミスだって世の中にはたくさんあるのだ。
しかも俺だけじゃなく、仲居娘たちや女将さんまで巻き込みかねない。
尻込みして何が悪い。
しかしサチの返事は尚もとてもシンプルだった。
「ないよ」と、ただそれだけ。無垢に、心からの言葉だとわかった。
「でも、もし失敗したら、後戻りできなくなることだってあるんだぞ」
「そうなったらまた次のことをするだけだもん」
「まだ子どもだからそう思うんだ。大人になると色々考えることになる。そんな能天気な考え方じゃ――」
「そりゃあサチはせんせーみたいに凄くないよ。まだ子どもだもん。仲居のお仕事だっていっつも失敗ばかりだよ。でも、おかーさんが言ってたんだ。いっぱい失敗しても、ちゃんと反省して、もう一度やればいいって。むしろやらないと怒られるもん。いつまでそこでいじけて固まってるんだーって。だから、失敗してももういっかいするの」
ふん、とサチが大笑いして胸を張る。
「失敗したら、もういっかいだよ!」
「……もう、いっかい」
そのもう一回をできずに挫折した人間がいったい世界にどれほどいるだろうか。
サチはまだ子どもだから気楽に物事を言えるのだ。
でも、本当にそれだけだろうか。こんな時でもサチが笑っていられるのは、ただ単に何も考えない能天気なだけなのだろうか。
そういえばこの旅館で彼女と出会ってから、サチはずっと楽しんでいた。それがどんな状況でも。
女将さんに怒られた時も。強面たちに迷惑をかけられている今だって。
クウたちと違って、一度も自分を曲げたことはなかった。
目の前の楽しいことを、嬉しいことを、目一杯に感じ取る。無邪気な子どものように純粋に受け止める。
俺は、そんなサチにいつしか羨ましさを覚えていた。
そして、彼女を見ていると不思議と笑顔になれた。迷っている自分が馬鹿らしく思えてた。
俺の心のもやもやも、全て笑い飛ばしてくれるように。
彼女が人間ではない何かなのだとするならば、幸せの妖精といったところだろうか。サチは知らないと言うが、本当にそういった妖怪なのかもしれない。
サチのように、俺は前向きになれるのだろうか。
隣で考え込むように黙り込んでいたクウがようやく顔を持ち上げる。
「いいよ。やろう」
クウの返事はとても簡潔で、確かなものだった。
「本当にいいのか?」
「女将さんのためだったら頑張れる。妖怪の血が薄くてほぼ人間同然の女将さんには、妖怪としてボクたちを育てるのは難しいんだ。だから妖怪としてじゃなく人間としてでもちゃんと生活できるように、ボクたちに仲居の仕事を教えてくれてる。事情はいろいろだけど、ボクたちはみんな女将さんに拾われた。そしてこうして生きる術を学ばせてくれてる。だからその恩は返したい。ボクにできることならなんだってやる。それが女将さんへの恩返しになるのなら」
芯のある強い返事だった。
クウのつぶらな瞳は俺をしっかり見据えていて、どこまでも真剣だった。
「わたしも……やり、ます……。がん、ばる!」
いつの間にか傍に駆け寄ってきていたナユキが俺の袖を引っ張りながら言う。
一番怖がって逃げたそうな彼女ですら、何故か今にも泣きそうなほど目を潤ませているが、懸命に俺を見つめようとしている。
三人とも、女将さんのために頑張りたいと思っているのだ。
決めあぐねていたのは俺自身だったのかもしれない。
失敗したらどうしよう。今度はどこへ逃げよう。そんな臆病風に吹かれて怯えていたのだろう。
俺も前を向かなければいけない。この子達のように。
まずは、前に少しでも進むための、一歩を。
「わかった。やってみよう」
俺の言葉に、三人はそれぞれ深く頷いたのだった。
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