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-2 『挨拶』
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温泉旅館『湯屋 せみしぐれ』
このフィルグがまだ隣の領地への経由地であった頃はそれなりの客で賑わったという、天然温泉が売りのこの町唯一の宿だ。
この国にも全国各地に宿場はあるが、ほとんどは行商などの休憩所として使われる簡素なものが多い。その中でも温泉などに重きを置いた逗留のための旅館というのは珍しいものだ。ここよりはるか遠くの国にはあるらしいが、まだこの国では馴染んではいない。
その珍しさからも当時は多少盛り上がったのだろうが、今は見る影もなく寂れている。
建物は三階立ての木造家屋。立派な鯱をあしらった瓦屋根が特徴的で、支柱や欄干の木に細かな彫刻が施されているほど雅な造りをしているが、今となっては訪れる客も減り、ろくに手入れも行き届いていないほどの衰退の色を濃く見せていた。
立て付けの悪い引き戸を開けて玄関を通るとくすんだ色のカーペットが敷かれていて、フロントの帳簿には薄らと埃を被っている。ロビーの端にある売店の照明は消されており、売り物に蜘蛛の巣まで張っている始末だった。
一目してここが温泉旅館だと理解する人はどれくらいいるだろう。肝試しにやって来ましたと言われるほうが納得がいくかもしれない。
「……営業中なの?」
「も、もちろん」
私の問いに、ロッシェは苦笑まじりに答えた。
「今日はお客さんはいないけど」と更に小さく一言加えられる。
今日どころか、昨日も、その前も客足はなさそうな雰囲気だ。
「これじゃあ閉まってるも同然じゃない」
「裏山の紅葉が色づく季節には人が来るんだけどね。最近は何も無くて」
「なにもなくても来てもらえないと商売がなりたたないでしょ」
これで経営を続けていられるのが驚きなくらいだ。
ロビーの帳簿から宿泊者をざっと確認してみると、一応はここ一週間に数件程度の客入りはある。けれどほとんどが、現状今のように閑古鳥が鳴いているようだ。
――絶望的ね。
思わず全速力で外に飛び出て「馬鹿やろー」なんて叫びながらこの帳簿を天高く投げつけたい気分だ。いや、恥ずかしいからやらないけれど、きっと実際にやってもこの閑散ぶりなら一目にすらつかないだろう。
これではエヴァンスに嘯いてしまった内容と大違い過ぎる。どうにかしてこの旅館を改善させないと。途方も無く不可能なようにも思うが、やらなければ私は知らない男の元へと継がされてしまうのだ。
やってみせましょう。なにがなんでも!
「えっと、シェリーさんでしたっけ」
「シェリーでいいわよ。それに敬語も不要」
「あ、うん。わかった、シェリー。とりあえずここは後にして、まずはお母さんのところに行ってもらっても良いかな」
「ああ、わかったわ。そういう約束だったものね」
突然やって来た家出娘が旅館経営に口を出してくるなんて、本来なら絶対にありえないことだ。けれどこの旅館の若旦那であるロッシェは、私にある条件を持ち出してきたのだった。
それは『僕のお母さんに会ってほしい』というものだった。
理由はわからないが、なにかあるのだろうか。お母さんという事はこの旅館『せみしぐれ』の女将さんということか。ならば彼女にまず許可をもらうというのもなるほど道理だ。
私は二つ返事で彼の提案を受け入れていた。
一度は突っぱねられても絶対に許可をもらう。そう勇んだ気持ちでロッシェに連れられ、やがて旅館の隣に併設された平屋の木造家屋に案内された。旅館の敷地内にあるロッシェの家らしい。
ただいま、と中に入った彼に通され、私は広々とした畳の部屋へと通された。
そこには一枚の布団が敷かれていて、その上に白い寝巻きを羽織った老女が横たわっていた。結った髪は真っ白に色褪せている。歳はおそらく六十か七十前後だろうか。私達に気付いて上半身を起き上がらせたその女性は、年老いてやや体がひしゃげてこそいるものの、若い頃は相当な美人だったのだろうとわかる端正な顔立ちをしていた。
「僕のお母さん、ハルだよ。ここからずっと遠くの東の方の国から嫁いできて、父さんと一緒に一代でこの旅館を築いたんだ」
ロッシェがそう紹介すると、その老婆――ハルは、しわしわの口許をゆっくりと持ち上げた。
「初めまして。私はシェリーっていいます」
「ええ」
ハルが静かに頷いて会釈を返す。
ロッシェの母親にしては年老いている。祖母と孫くらい、いやひ孫だと言われても不思議ではなさそうだ。
『お母さんは全然子宝に恵まれなくて、遅くしてやっと僕を身ごもったんだ。それからすぐに他界したお父さんの分も、一人でこの旅館を切り盛りしながら僕を育ててくれたんだ』
ここまでの道中でロッシェがそう言っていたのを思いだす。
その優しい言い方からも、彼の母親への温情が計り知れないのを感じた。よほど大切に思っているのだろう、と。
簡単な挨拶はそこまでとして、私としてはさっそく本題だ。この旅館に私が口出すことを許可してもらわなければ。
彼女の布団の傍に膝をつき、私はなるたけ自然な表情を作って座り込んだ。
「突然ですみません。実は、私はこの旅館をぜひとも盛り上げたいと考えています。この旅館はこの近辺では珍しく、価値のあるものだと思います。しっかりとした経営を行えば必ずや今よりも繁盛し、この旅館の未来を明るくさせることができると思います」
思いついたことをそれっぽく言ってみる。
「私も遠方に出かけて宿に泊まるのは大好きです。お父様に小さな頃から各地へと連れられ、様々なものを見てきました。素人ではありますが、私にも助言を行い、より良くする事は可能だと思われます。ですので、ぜひとも私にもこの旅館の復興のご協力をさせてください!」
私は深く頭を下げた。
ただの小娘が何を言っているのか、と一蹴されないかヒヤヒヤした。そうなってもおかしくはない。
けれど私が顔を持ち上げると、ハルはじっと私の顔を見つめているばかりだった。そしてしばらくして、
「どうして貴女がそこまでするんだい」
ややしゃがれた年老いた声で尋ねてきた。
「それは……」
正直に言うべきか。
いや、言えば私欲のためであると責められるかもしれない。誠実さに欠ける。
どうしたらいい。
私が言葉に詰まっていると、すぐ隣に座ったロッシェが表情を改めてハルへと向き直り、
「お母さん。シェリーは僕と婚約したからだよ」
「ええっ?!」
私は思わず真横を見たが、ロッシェの表情はいたって真面目に母親へと視線を据えていた。
ちょっと聞いてないんだけど。
いや、確かに私もエヴァンスの前で同じ事したけど!
しかしさすがに突拍子すぎる。逆に何か変な物を怪しまれてしまうのではないかとすら思ってしまう。
事実、ハルはその言葉を聞き少し目を丸くしたが、すぐに私の顔をじっと睨むように見つけてきた。じろじろと、穴をあけられそうなほどにしつこく。それでいてまったく一言も発さず表情すら変えないものだから、その意図の汲めなさに、気まずい沈黙が流れた。
障子を挟んだ縁側越しに見える大きな木の葉が風に吹かれていくつか散った後、私を凝視していたハルの目がふっと柔らかな弧を描いた。そしてゆったりと唇が動く。
「そうかい」
たった一言、彼女はそう言った。
「いいんですか?」と私は耳を疑って問いかけるも、ハルはいたって穏やかな表情を浮かべたまま、ただただ大人しく「ああ、いいよ」と口許を緩めるばかりだった。
まさかの即決。
この旅館の女将から、私の干渉の許可をもらえた。
これで私の旅館復興計画を開始できる。
何故かロッシェからも婚約者だと偽られたけど、私も同じことをしてるのだから悪くは言えない。むしろ同じく嘘をついたということで妙な親近感すら覚える。
私の隣にいるその少年は、ハルの返事を聞いて胸を撫で下ろしたようにほっとしている。その幼げな顔立ちは若旦那としては少し頼りないが、それでも私がうまく立ち回れれば業績の回復だって夢じゃないはず。
全ては私の婚約破棄のため。なんとしてでもこの旅館を繁盛させて見せましょう!
そう心の中で固く決意を固め、私はぐっと強く拳を握ったのだった。
このフィルグがまだ隣の領地への経由地であった頃はそれなりの客で賑わったという、天然温泉が売りのこの町唯一の宿だ。
この国にも全国各地に宿場はあるが、ほとんどは行商などの休憩所として使われる簡素なものが多い。その中でも温泉などに重きを置いた逗留のための旅館というのは珍しいものだ。ここよりはるか遠くの国にはあるらしいが、まだこの国では馴染んではいない。
その珍しさからも当時は多少盛り上がったのだろうが、今は見る影もなく寂れている。
建物は三階立ての木造家屋。立派な鯱をあしらった瓦屋根が特徴的で、支柱や欄干の木に細かな彫刻が施されているほど雅な造りをしているが、今となっては訪れる客も減り、ろくに手入れも行き届いていないほどの衰退の色を濃く見せていた。
立て付けの悪い引き戸を開けて玄関を通るとくすんだ色のカーペットが敷かれていて、フロントの帳簿には薄らと埃を被っている。ロビーの端にある売店の照明は消されており、売り物に蜘蛛の巣まで張っている始末だった。
一目してここが温泉旅館だと理解する人はどれくらいいるだろう。肝試しにやって来ましたと言われるほうが納得がいくかもしれない。
「……営業中なの?」
「も、もちろん」
私の問いに、ロッシェは苦笑まじりに答えた。
「今日はお客さんはいないけど」と更に小さく一言加えられる。
今日どころか、昨日も、その前も客足はなさそうな雰囲気だ。
「これじゃあ閉まってるも同然じゃない」
「裏山の紅葉が色づく季節には人が来るんだけどね。最近は何も無くて」
「なにもなくても来てもらえないと商売がなりたたないでしょ」
これで経営を続けていられるのが驚きなくらいだ。
ロビーの帳簿から宿泊者をざっと確認してみると、一応はここ一週間に数件程度の客入りはある。けれどほとんどが、現状今のように閑古鳥が鳴いているようだ。
――絶望的ね。
思わず全速力で外に飛び出て「馬鹿やろー」なんて叫びながらこの帳簿を天高く投げつけたい気分だ。いや、恥ずかしいからやらないけれど、きっと実際にやってもこの閑散ぶりなら一目にすらつかないだろう。
これではエヴァンスに嘯いてしまった内容と大違い過ぎる。どうにかしてこの旅館を改善させないと。途方も無く不可能なようにも思うが、やらなければ私は知らない男の元へと継がされてしまうのだ。
やってみせましょう。なにがなんでも!
「えっと、シェリーさんでしたっけ」
「シェリーでいいわよ。それに敬語も不要」
「あ、うん。わかった、シェリー。とりあえずここは後にして、まずはお母さんのところに行ってもらっても良いかな」
「ああ、わかったわ。そういう約束だったものね」
突然やって来た家出娘が旅館経営に口を出してくるなんて、本来なら絶対にありえないことだ。けれどこの旅館の若旦那であるロッシェは、私にある条件を持ち出してきたのだった。
それは『僕のお母さんに会ってほしい』というものだった。
理由はわからないが、なにかあるのだろうか。お母さんという事はこの旅館『せみしぐれ』の女将さんということか。ならば彼女にまず許可をもらうというのもなるほど道理だ。
私は二つ返事で彼の提案を受け入れていた。
一度は突っぱねられても絶対に許可をもらう。そう勇んだ気持ちでロッシェに連れられ、やがて旅館の隣に併設された平屋の木造家屋に案内された。旅館の敷地内にあるロッシェの家らしい。
ただいま、と中に入った彼に通され、私は広々とした畳の部屋へと通された。
そこには一枚の布団が敷かれていて、その上に白い寝巻きを羽織った老女が横たわっていた。結った髪は真っ白に色褪せている。歳はおそらく六十か七十前後だろうか。私達に気付いて上半身を起き上がらせたその女性は、年老いてやや体がひしゃげてこそいるものの、若い頃は相当な美人だったのだろうとわかる端正な顔立ちをしていた。
「僕のお母さん、ハルだよ。ここからずっと遠くの東の方の国から嫁いできて、父さんと一緒に一代でこの旅館を築いたんだ」
ロッシェがそう紹介すると、その老婆――ハルは、しわしわの口許をゆっくりと持ち上げた。
「初めまして。私はシェリーっていいます」
「ええ」
ハルが静かに頷いて会釈を返す。
ロッシェの母親にしては年老いている。祖母と孫くらい、いやひ孫だと言われても不思議ではなさそうだ。
『お母さんは全然子宝に恵まれなくて、遅くしてやっと僕を身ごもったんだ。それからすぐに他界したお父さんの分も、一人でこの旅館を切り盛りしながら僕を育ててくれたんだ』
ここまでの道中でロッシェがそう言っていたのを思いだす。
その優しい言い方からも、彼の母親への温情が計り知れないのを感じた。よほど大切に思っているのだろう、と。
簡単な挨拶はそこまでとして、私としてはさっそく本題だ。この旅館に私が口出すことを許可してもらわなければ。
彼女の布団の傍に膝をつき、私はなるたけ自然な表情を作って座り込んだ。
「突然ですみません。実は、私はこの旅館をぜひとも盛り上げたいと考えています。この旅館はこの近辺では珍しく、価値のあるものだと思います。しっかりとした経営を行えば必ずや今よりも繁盛し、この旅館の未来を明るくさせることができると思います」
思いついたことをそれっぽく言ってみる。
「私も遠方に出かけて宿に泊まるのは大好きです。お父様に小さな頃から各地へと連れられ、様々なものを見てきました。素人ではありますが、私にも助言を行い、より良くする事は可能だと思われます。ですので、ぜひとも私にもこの旅館の復興のご協力をさせてください!」
私は深く頭を下げた。
ただの小娘が何を言っているのか、と一蹴されないかヒヤヒヤした。そうなってもおかしくはない。
けれど私が顔を持ち上げると、ハルはじっと私の顔を見つめているばかりだった。そしてしばらくして、
「どうして貴女がそこまでするんだい」
ややしゃがれた年老いた声で尋ねてきた。
「それは……」
正直に言うべきか。
いや、言えば私欲のためであると責められるかもしれない。誠実さに欠ける。
どうしたらいい。
私が言葉に詰まっていると、すぐ隣に座ったロッシェが表情を改めてハルへと向き直り、
「お母さん。シェリーは僕と婚約したからだよ」
「ええっ?!」
私は思わず真横を見たが、ロッシェの表情はいたって真面目に母親へと視線を据えていた。
ちょっと聞いてないんだけど。
いや、確かに私もエヴァンスの前で同じ事したけど!
しかしさすがに突拍子すぎる。逆に何か変な物を怪しまれてしまうのではないかとすら思ってしまう。
事実、ハルはその言葉を聞き少し目を丸くしたが、すぐに私の顔をじっと睨むように見つけてきた。じろじろと、穴をあけられそうなほどにしつこく。それでいてまったく一言も発さず表情すら変えないものだから、その意図の汲めなさに、気まずい沈黙が流れた。
障子を挟んだ縁側越しに見える大きな木の葉が風に吹かれていくつか散った後、私を凝視していたハルの目がふっと柔らかな弧を描いた。そしてゆったりと唇が動く。
「そうかい」
たった一言、彼女はそう言った。
「いいんですか?」と私は耳を疑って問いかけるも、ハルはいたって穏やかな表情を浮かべたまま、ただただ大人しく「ああ、いいよ」と口許を緩めるばかりだった。
まさかの即決。
この旅館の女将から、私の干渉の許可をもらえた。
これで私の旅館復興計画を開始できる。
何故かロッシェからも婚約者だと偽られたけど、私も同じことをしてるのだから悪くは言えない。むしろ同じく嘘をついたということで妙な親近感すら覚える。
私の隣にいるその少年は、ハルの返事を聞いて胸を撫で下ろしたようにほっとしている。その幼げな顔立ちは若旦那としては少し頼りないが、それでも私がうまく立ち回れれば業績の回復だって夢じゃないはず。
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