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-9 『やっかみ』
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その日の夜。
今日は本当に一人の客もおらず、私は日中の汗を流すためにまた一人、露天風呂を満喫していた。
この前は日が暮れる前に入ったが、お天道様も沈み夜空を眺めながら湯船に浸かるのもまたいいものだ。山間のこの町は明かりが少なく、月のない夜は一面の星の絨毯が見渡せる。
「これも一つの武器にできないかしらね」
なんて、立ち上る湯気を眺めながら考えつつ、上気する体の心地よさに溜め息をついた。
日中の疲れを癒して心休める。温泉旅館の醍醐味だ。
私もこれまでお父様にいろいろな場所へ連れて行ってもらったけれど、ことお風呂に限ってはここも他に負けていないとは思う。
「ああ。このままお湯の中に溶けてしまいそうだわぁ」
広々とした露天風呂にたった一人っきり。
人目も憚らず湯船にだらりと浸かり、そのまま囲いの石を枕に寝ようと、首を後ろにひっくり返らせた時だった。
「あんまり調子づいてるとやっかみうけるぞー」
ふと間抜けするような声が聞こえたかと思うと、ひっくり返った私の視界に、ブラシの柄で肘をつきながら眺めてくるグリッドの姿があった。
「きゃあっ?!」
私は大急ぎで首を持ち上げ、顔だけ出して浴槽の中に隠れる。
「貴方ねぇ、またなの?!」
私が慌てて声を張るが、グリッドは相変わらず飄々とした顔をしたままのんびりと私を眺めていた。
「いやー。今日はもう誰も入らないって思ったんだけどなー」
「わざと狙って覗きにきてるんじゃないでしょうね」
「ははっ、大丈夫大丈夫。あんだけ仰け反っててもこっちからは谷間の一つ見えなかったから――いでっ」
反射的に私が投げた風呂桶がグリッドの脛を直撃した。さすがの彼も痛そうに屈み込む。苦悶の声を漏らしている様はちょっと可哀想だが、女の子に失礼なことを言った罰だ。
それに私だってちゃんと胸はある。男の子よりは。
だからべつにいじけてないし、泣いてない。口許にしょっぱさを感じたが、これはあくまで温泉の泉質であって、別に私の心の涙が溶け出したわけじゃない。
「まったく。恨むなら勝手に入ってきた自分を恨みなさい」
「と言ってもなあ。いつもならこの時間は誰もいなかったんだし……宿泊客のいない日は清掃時間なんて決められてないしなー。好きなときに来て、落ち葉で排水が詰まってないかとか、苔とかで滑らないように適当に洗うだけだからなー」
「だったらしっかりと決めておくわ。ちょうど良い機会よ。そういう杜撰なところを改めて、ちゃんと規律となるように紙に書き出しておくわ」
それでいいでしょう、と私が訊くと、グリッドは脛を擦りながらも頷いていた。
これでもう間違えて彼が入ってくることはないだろう。ここで遭遇していたのが私ではなくて本物のお客様だったとしたら、これ以上ないくらいの大問題だ。信用を損ねるのは商売として致命的すぎる。
「わかったならさっさと出てってちょうだい。ずっといられたらのぼせちゃうわ」
「はいよー、了解。あ、でも――」
立ち上がって踵を返したグリッドが、しかしふと戻る足を止め、顔は向けずに言った。
「俺みたいに、言われたらなんでもやわっこく変えられる人間ばっかじゃない。変わるっていうのは意外と難しいもんだ。長く時間が経って凝り固まったものなら余計に」
「……?」
「ま、忠告ってやつさー」
グリッドは結局そう言い残し、露天風呂を出ていった。
彼の言葉にはしこりがあった。
私はこの旅館からすれば余所者だ。つい先日やってきたばかりで何も知らない。
そんな私にいろいろと口出しされて不満が出る人がいるのもわかる。けれど私はそれを気にして行動を鈍らせることだけはしたくない。優しい停滞だけではこの旅館は現状を脱却できない。
だから何があっても私は私のために進む道を反らすつもりはない。たとえ、私以外の全員から嫌われても。
『あんまり調子づいてるとやっかみうけるぞー』
「……わかってるわよ、そんなこと」
私はポツリと、他に誰もいない広々とした露天に呟いた。
今日は本当に一人の客もおらず、私は日中の汗を流すためにまた一人、露天風呂を満喫していた。
この前は日が暮れる前に入ったが、お天道様も沈み夜空を眺めながら湯船に浸かるのもまたいいものだ。山間のこの町は明かりが少なく、月のない夜は一面の星の絨毯が見渡せる。
「これも一つの武器にできないかしらね」
なんて、立ち上る湯気を眺めながら考えつつ、上気する体の心地よさに溜め息をついた。
日中の疲れを癒して心休める。温泉旅館の醍醐味だ。
私もこれまでお父様にいろいろな場所へ連れて行ってもらったけれど、ことお風呂に限ってはここも他に負けていないとは思う。
「ああ。このままお湯の中に溶けてしまいそうだわぁ」
広々とした露天風呂にたった一人っきり。
人目も憚らず湯船にだらりと浸かり、そのまま囲いの石を枕に寝ようと、首を後ろにひっくり返らせた時だった。
「あんまり調子づいてるとやっかみうけるぞー」
ふと間抜けするような声が聞こえたかと思うと、ひっくり返った私の視界に、ブラシの柄で肘をつきながら眺めてくるグリッドの姿があった。
「きゃあっ?!」
私は大急ぎで首を持ち上げ、顔だけ出して浴槽の中に隠れる。
「貴方ねぇ、またなの?!」
私が慌てて声を張るが、グリッドは相変わらず飄々とした顔をしたままのんびりと私を眺めていた。
「いやー。今日はもう誰も入らないって思ったんだけどなー」
「わざと狙って覗きにきてるんじゃないでしょうね」
「ははっ、大丈夫大丈夫。あんだけ仰け反っててもこっちからは谷間の一つ見えなかったから――いでっ」
反射的に私が投げた風呂桶がグリッドの脛を直撃した。さすがの彼も痛そうに屈み込む。苦悶の声を漏らしている様はちょっと可哀想だが、女の子に失礼なことを言った罰だ。
それに私だってちゃんと胸はある。男の子よりは。
だからべつにいじけてないし、泣いてない。口許にしょっぱさを感じたが、これはあくまで温泉の泉質であって、別に私の心の涙が溶け出したわけじゃない。
「まったく。恨むなら勝手に入ってきた自分を恨みなさい」
「と言ってもなあ。いつもならこの時間は誰もいなかったんだし……宿泊客のいない日は清掃時間なんて決められてないしなー。好きなときに来て、落ち葉で排水が詰まってないかとか、苔とかで滑らないように適当に洗うだけだからなー」
「だったらしっかりと決めておくわ。ちょうど良い機会よ。そういう杜撰なところを改めて、ちゃんと規律となるように紙に書き出しておくわ」
それでいいでしょう、と私が訊くと、グリッドは脛を擦りながらも頷いていた。
これでもう間違えて彼が入ってくることはないだろう。ここで遭遇していたのが私ではなくて本物のお客様だったとしたら、これ以上ないくらいの大問題だ。信用を損ねるのは商売として致命的すぎる。
「わかったならさっさと出てってちょうだい。ずっといられたらのぼせちゃうわ」
「はいよー、了解。あ、でも――」
立ち上がって踵を返したグリッドが、しかしふと戻る足を止め、顔は向けずに言った。
「俺みたいに、言われたらなんでもやわっこく変えられる人間ばっかじゃない。変わるっていうのは意外と難しいもんだ。長く時間が経って凝り固まったものなら余計に」
「……?」
「ま、忠告ってやつさー」
グリッドは結局そう言い残し、露天風呂を出ていった。
彼の言葉にはしこりがあった。
私はこの旅館からすれば余所者だ。つい先日やってきたばかりで何も知らない。
そんな私にいろいろと口出しされて不満が出る人がいるのもわかる。けれど私はそれを気にして行動を鈍らせることだけはしたくない。優しい停滞だけではこの旅館は現状を脱却できない。
だから何があっても私は私のために進む道を反らすつもりはない。たとえ、私以外の全員から嫌われても。
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私はポツリと、他に誰もいない広々とした露天に呟いた。
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