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第1章『ゆめのはじまり』 Side宗也

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「えっと……あの、これはいったい」

 その女子生徒――秋川美晴(あきかわみはる)は肩を窄めて、震えるような声で言った。

 あの後、しばらくして菜摘が戻ってきたかと思うと、その傍らに彼女が居たのだ。

 しきりに辺りを見回し、秋川美晴は状況を呑みこもうとしている。おそらく菜摘に無理やり引っ張ってこられたのだろう。

 菜摘とは知り合ったばかりのクラスメイトという程度の間柄である俺でも、それは容易に想像がついた。

 秋川美晴という生徒は、教室でも随分と大人しい性格だった。菜摘のように落ち着いているというわけでもなく、本当に、気が弱いといった感じだ。

 かといって暗いわけではなく、楽しそうに友達と言葉を交わし合っているところを何度も見かけている。
 どこか控え目なところがある以外はいたって普通の女の子だった。

 健康的な黄色の肌。太くもなく、かといって細いわけでもない四肢。そのわりに、足首はやけに細い。胸や腰回りも一般的で、どれをとっても普通な少女。そのため、ぱっと見た印象は薄い。

 肩まで下ろしている茶色がかったまっすぐな地毛の髪は、斜陽で艶のある栗色のような色合いを見せていた。

 ふと俺と美晴の目が合う。
 途端、彼女に慌てて目を背けられた。

 避けられているのだろうか。
 思い当たる節は無いが。

「ちょっと、倉庫の整理を手伝ってほしいんだ」

 いやに親しげな雰囲気で、菜摘は美晴に声をかけた。馴れ馴れしく肩に手まで置いている。声調はずっと落ち着いているが、そのにやつくような表情から、内心で激しく返事を促しているのがわかった。

「あ、あたしがですか?」
「うん。なに、大変なお仕事は彼がやってくれるよ。ね、部長くん?」

 唐突に話を振られ、しかし俺は黙ったまま作業を続けた。

 美晴は、なおも怯えるように肩を震わしている。

 無理もないだろう。転入して間もない女子生徒に、いきなり重労働を強いられているのだから。俺だったらまず手伝いはしない。

 微笑を浮かべたまま静かに返事を催促する菜摘から、目を逸らすように美晴は俯く。答えを渋っている様子だ。上下左右に泳ぐ視線は、彼女の心情をはっきりと表している。

 俺がしぼんだボールの入った箱を持ち出していると、また美晴と目が合った。今度は、すぐに背けられるようなことはなかった。

 むしろ俺を強く睨みつけている。

 そして、

「や、やります!」

 校舎や中庭の杉並木がオレンジ色に染まり始めていく放課後に、無駄に清々しい声が鳴り響く。

 なにかを決意したような、そんな声。
 俺はそれを、目を丸くして聞き入っていた。

 なにを気が狂ったのか、とでも言わんばかりに。
 とはいえ現在進行形で気が狂っている俺が空しくなるので、口に出すのだけはやめておいた。




 秋川美晴は、随分と献身的な子だった。

 どうせなら男手が欲しいと思っていた俺だったが、美晴は従順に働いてくれて、十二分に役立っていた。運んでほしいと言えばすぐに手を差し出し、手伝って欲しいと言えば犬のように駆け寄ってきてくれた。

 どうしてそこまで頑張ってくれるのだろう、と不思議に思ってしまうほどだ。

 そのおかげもあってか、作業効率も驚くほどに上がっていた。

「なんだこれ。馬の被りものか?」
「本物の馬の皮かもしれないよ」
「演劇部が使ってたのだと思うんですけど……」

「なんか石の仮面が出てきたぞ」
「強そうだね」
「わわっ、これ重たいんですけどっ?!」

「あ、ヘビだ」
「ヘビだね」
「ええっ、ヘビ?! って、作り物じゃないですか!」

 くぐもった倉庫に、美晴の情けない悲鳴と俺達の笑い声が反響する。

「もう、遊ばないでくださいよ!」
「悪い悪い」
「可愛いね、美晴ちゃん」

 笑い半分に謝る俺たちに、美晴は柔らかそうな頬をぷっくらと膨らませた。それもまた提灯みたいで可愛らしい。

「あ、これだね」

 美晴が参入して十分ほどが経った頃、小屋の奥に顔を突っ込んだままの菜摘が言った。その声に、俺と美晴は作業を止めて駆け寄る。

 髪についた埃を肩で器用に払いながら出てきた菜摘の手には、まさに彼女が言ったとおりの大きさをした箱が掴まれていた。

 色褪せたマジックペンで、「天文部備品」と書かれている。

 開けてみると、中には、和紙のようなもので丁寧に包まれた筒状のものが入っていた。少し傷があるものの、真っ白な表面をしていて、つるつるとした光沢がある。

「望遠鏡、ですか?」

 最初に声を出したのは、美晴だった。

 菜摘が箱から取り出してみると、それは良くわかった。

 市販の、おそらく一万円前後で文具コーナーなどに置いているような天体望遠鏡だった。あまり詳しくは無いが、望遠鏡にしては安物の部類にはいるだろう。性能もあまり期待できそうにない。だけど、無いよりはマシなのかもしれない。

 随分と古そうにも見えるが、純白の鏡筒や銀色の接続ネジなどは依然として綺麗さを保ったままだ。通気性のいい木造小屋に置かれていたためか、レンズにもカビ一つ付着していない。

「目的の品ってこれだったのか。へえ、うちの部にこんなのがあったなんてな」
「天文部の備品だよ。部長くんなのに知らないんだ」
「ここ数年の天文部はろくに活動をしてないからな」

 俺も含めて。

 先代もお茶菓子などを食べあったり談笑したりするだけの、自由な部活だったと聞く。それも天乃菜摘という少女がやってくるまでは、の話だが。

「顧問の先生が、コレを使えばいいって教えてくれたんだ。ちゃんとやれば、わたしたちでもそれなりに綺麗な星空が見れるみたいだよ」

 なるほど、と俺は頷いた。
 美晴も、隣で物珍しそうに望遠鏡を凝視している。

 コレも全て、菜摘が望む「新星を見つける」という夢への布石というわけだ。彼女は着実に、それを果たそうとしている。

 突然、菜摘は俺に気味の悪い微笑を浮かべてきた。

「な、なんだよ」
「ううん。部長くんの口許が笑ってたから」
「な、なっ」

 慌てて顔を腕で隠す。
 いつの間にか緩んでいたらしい頬を急いで引き締めた。

「俺は別に。やっと終わった、って安堵してただけだ」
「そっか。――うん、そっか」

 菜摘は、それからも茶化すように何度も笑みを向けてきた。

 夏が終わって、もう秋だ。
 空は高く、容赦なく暑さを振りまいていた太陽も自己主張を抑え始めている。

 緑に萌えた山並みも、やがて夕陽と同じように赤く染まっていくことだろう。山陰にかかった積乱雲がどこか名残惜しく思えた。

 片付けの最中も、菜摘が落ち着いた語調でからかうように俺へと言葉を投げかけてきていた。美晴はそれを見て苦笑しながらも、小屋に出した物を戻す作業を手伝ってくれた。

 ひどく疲れて、大変で、騒がしいだけの時間だったけれど。片づけを終えて一息ついた時の疲労感は、案外気持ちのいいものかもしれないと思った。

 世界は、少しずつだけど変わっていっている。
 俺の知らないところで、本当に少しずつ。

 そんな気がした。
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