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「シャーンがね」
月影がジゼルの姉の名を口にした。
「ジゼルは神秘王なのではないかと、言い出したんだ」
「へぇ……それで、なんと答えた?」
「神秘王って? と訊いてみた」
ジゼルがクスリと笑った。
「それでシャーンは納得した?」
「どうだかね。それ以上は何も言ってこなかった」
ジゼルがティーカップにお茶を注ぎ足しながら、薄く笑う。
「あと三年余り……わたしはロファーを守り切れるかな?」
「面白い事にロファーはジゼル、キミを守りたいと思っているよ」
「うん、わたしがロファーにお願いしたから。近づくにはそれが都合が良かった」
「それだけ?」
ジゼルが月影の顔を見る。
「ほかに何が?」
ジゼルの問いに月影は答えることなく立ち上がる。
「そろそろ魔導士学校に戻るよ。自分がいるべきところに……ところで、ロファーの記憶、どこまで消すつもりなのかな?」
少しだけ不満そうな顔をジゼルが見せる。
「ロファーに想いを寄せた女魔導士は結局あきらめて帰った。騒がせた詫びにと馬を寄こした、そう書き換える。で、そのあとの事、ホヴァセンシルの来訪とかは全て消そう」
「判った。僕はロファーと会ったことがない、了解した。ジュライモニアが泊まっていた宿の始末も抜かりなく」
「もちろん。急に気が変わったから街を出る、と宿に手紙を送ろう。薄い水色の封筒と便箋で。型押しはムスカリで」
「花言葉『失望』を採用する? いいかもしれない」
クスッと月影が笑う。
「何か困ったことがあればいつでも呼んで欲しい。何を置いても駆けつける」
そう言いながら月影がジゼルの髪を撫でる。その手に触れようとしたジゼルの手が宙を彷徨った。月影の姿は消えていた――
呼び鈴の音が聞こえた。そのあとにドアを叩く音もする。奇怪しいな、うちに呼び鈴はないのに、と思って、ハッとロファーが目を覚ます。
見渡せば、ジゼルの寝室、ジゼルのベッド、横にはぐっすり眠るジゼルがいる。
(マーシャだ、マーシャがミルクの配達に来た)
慌ててベッドから飛び出し、勝手口のドアを開ける。
「ごめん、昨日の夜、ちょっと大変で」
「おはよう、ロファー。なかなか起きてくれないから、どうしようかと思っていたのよ」
ロバからミルク瓶を降ろすロファーを手伝いながら
「昨夜、大変って何があったの?」
「うん、来客があったんだ。で……」
「で?」
なんだったっけ? 頭に霞が掛かったように思い出せない。
「いや、ごめん。確か魔導士だったと思うんだけど、魔導士様のお客だから、俺にはよく判らないや」
「そっか、でも、大変だったのね」
クスクス笑いながらマーシャが言う。
「魔導士様はいつも大変。そのお世話をするロファーも大変よね」
ミルクの代金をロファーから受け取りながら、マーシャはくすくす笑いが止められない。
「で、まだ起きてこないのでしょう?」
「魔導士様? そうだね、ぐっすり眠っていたよ」
ロファーが苦笑する。
マーシャを見送って、どうせジゼルはまだ起きない、馬小屋と鶏小屋の世話をしておこうとロファーは裏手に回った。
(これか、魔導士がおいていった馬……)
馬小屋には栗毛の馬が一頭増えていて、奥のほうで足を折って座り込んでいる。サッフォやシンザンがそんなふうに座っているのを見たことがない。
(変わっているのか、どこか病気か?)
気にせずロファーは掃除を済ませ、飼葉と水を替えて馬小屋を出ようとした。
「ちょっと、ここ、忘れているよ」
声に振り向くと、座り込んでいる馬の前の飼葉桶が空だ。こんなところにいつの間に飼葉桶を作ったんだろうと思いながら、ロファーはそこにも飼葉を入れる。それから鶏小屋の掃除をし、卵を四つ拾ってキッチンに戻った。
(あれ?)
何かがヘンだ。誰か俺に話しかけなかったか? そう思うけれど、それが誰で、なんと話しかけられたかが思い出せない。いつものように、気のせいだ、と済ませてしまう。
なんだか頭痛がする。このところロクに寝ていないせいだ。そうだ、昨夜、何があったんだった? マーシャに訊かれて答えられなかった。
馬小屋の新しい馬はお詫びに貰ったとジゼルが言っていたと思うんだけど、なんだか病気みたいだ。そんな馬をお詫びに貰っても迷惑な気がする。
何か理由があったんじゃなかった? 貰ったのではなく預かった、とか。あぁ、預かった、安全を保証して。って、馬の安全? どうかしている、思い違いだ。そんなはずがない。
うーーーん、あ、そうだ、昨日は月がとても綺麗で、星も降るように煌めいて……あれ? 月が出ていた? 薄緑色の月? 夢でも見たのか?
だめだ、やっぱり頭が回らない、それどころか頭痛が酷くなってきた。身体もえらく重く感じる。だるくて仕方ない。
どうせジゼルは暫く起きない、もうひと眠りしよう。ロファーは寝室に向かった。
――微睡の中、話し声が聞こえる。あの声はカールだ。ジゼルが何か言っている。
「ただの風邪だ。今は薬が効いて、ぐっすり眠っている。明日は店を開けられるだろう」
「そうなんだ? 親方が心配しちゃって……でも助かったよ、魔導士様が外国語に堪能で」
宛名書きの翻訳をジゼルが代わりにやったんだ。ぼんやりとした意識の中でロファーが思う。
「そう言えば、昨日、魔導士様が気にしていた、星降る宿の美少女、昨夜いきなりいなくなったんだって」
「へぇ……何かあったのか?」
「置手紙があったらしい。ジュードが朝、部屋を見たらもぬけの殻で、机に手紙があるだけ」
「厄介ごとを起こされる前にいなくなってくれてよかったじゃないか」
「うん、ジュードもそう言ってた――それじゃ、行くね、ロファーによろしく、お大事にって」
「あぁ、ごくろうさん」
ドアの閉まる音、近づく足音、覗きこむのはジゼル。
「術が強すぎたかな?」
ひんやりとした手が額に触れる。おまえ、俺に何か術を掛けたのか? それでこんなに調子が悪いのか? ロファーは再び深い眠りに落ちていく――
ドアを開け放すとミルタスの芳香が店の中にも漂ってくる。ロファーの好きな季節だ。
「おはよう、ロファー。風邪は治ったかい?」
いつも通り、カールが外国便を持ってくる。
「よぉ、カール。二日も休んですまなかったね」
「元気になったみたいだね。親方にも言っておく、心配してたから」
そしていつも通りに記録帳にサインしてカールが帰る。
昨日、目が覚めたのは夕刻だった。あれほど頭痛がし、だるかったのに、頭も身体もすっきりしていた。
食事の時、馬小屋の新入りは病気なのかとジゼルに訊くと、
「ジュリの事? あれは飼葉を食べるために生きている。ロファーと同じ役立たずだが、殺すには忍びない。引き取って馬小屋に入れた」
とニヤニヤしながらそう答えた。
「そりゃあ良かった。これで、ジゼルの役に立てなくなっても殺されることはないと安心したよ」
ムッとしたが、その程度の皮肉で終わらせたロファーだ。
するとジゼルが声を立てて笑う。
「なんで『ロファーは役立たず』なんて噂が広まったのかな? 代書屋としても、わたしの助手としても優秀なのにね」
それには、さぁね、と惚けたロファーだ。
夕飯を食べ終わると、サッフォを貸すからさっさと帰れとジゼルに言われ、追い出されるように帰ってきた。
「さてっと……」
机に向かい、ロファーが今日、最初の仕事に取り掛かる。長老あての封書だ。目が悪くなった長老のため、大きな文字で書き直してから長老に届ける。
古い友達から定期的に送られてくる手紙を、長老はいつも楽しみに待っている。返事もいつもロファーが代筆する。手紙には心が籠る。優しさが込められている。差出人の人柄がにじみ出て、受け取る相手への思いやりが溢れ出る。
あて名のない手紙ではだめだ。あて名があり、差出人の名があってこそ、手紙の良さは活かされるんだ。
代書屋の責任の重さをしみじみと感じながら、ロファーは封書を開けていった。
月影がジゼルの姉の名を口にした。
「ジゼルは神秘王なのではないかと、言い出したんだ」
「へぇ……それで、なんと答えた?」
「神秘王って? と訊いてみた」
ジゼルがクスリと笑った。
「それでシャーンは納得した?」
「どうだかね。それ以上は何も言ってこなかった」
ジゼルがティーカップにお茶を注ぎ足しながら、薄く笑う。
「あと三年余り……わたしはロファーを守り切れるかな?」
「面白い事にロファーはジゼル、キミを守りたいと思っているよ」
「うん、わたしがロファーにお願いしたから。近づくにはそれが都合が良かった」
「それだけ?」
ジゼルが月影の顔を見る。
「ほかに何が?」
ジゼルの問いに月影は答えることなく立ち上がる。
「そろそろ魔導士学校に戻るよ。自分がいるべきところに……ところで、ロファーの記憶、どこまで消すつもりなのかな?」
少しだけ不満そうな顔をジゼルが見せる。
「ロファーに想いを寄せた女魔導士は結局あきらめて帰った。騒がせた詫びにと馬を寄こした、そう書き換える。で、そのあとの事、ホヴァセンシルの来訪とかは全て消そう」
「判った。僕はロファーと会ったことがない、了解した。ジュライモニアが泊まっていた宿の始末も抜かりなく」
「もちろん。急に気が変わったから街を出る、と宿に手紙を送ろう。薄い水色の封筒と便箋で。型押しはムスカリで」
「花言葉『失望』を採用する? いいかもしれない」
クスッと月影が笑う。
「何か困ったことがあればいつでも呼んで欲しい。何を置いても駆けつける」
そう言いながら月影がジゼルの髪を撫でる。その手に触れようとしたジゼルの手が宙を彷徨った。月影の姿は消えていた――
呼び鈴の音が聞こえた。そのあとにドアを叩く音もする。奇怪しいな、うちに呼び鈴はないのに、と思って、ハッとロファーが目を覚ます。
見渡せば、ジゼルの寝室、ジゼルのベッド、横にはぐっすり眠るジゼルがいる。
(マーシャだ、マーシャがミルクの配達に来た)
慌ててベッドから飛び出し、勝手口のドアを開ける。
「ごめん、昨日の夜、ちょっと大変で」
「おはよう、ロファー。なかなか起きてくれないから、どうしようかと思っていたのよ」
ロバからミルク瓶を降ろすロファーを手伝いながら
「昨夜、大変って何があったの?」
「うん、来客があったんだ。で……」
「で?」
なんだったっけ? 頭に霞が掛かったように思い出せない。
「いや、ごめん。確か魔導士だったと思うんだけど、魔導士様のお客だから、俺にはよく判らないや」
「そっか、でも、大変だったのね」
クスクス笑いながらマーシャが言う。
「魔導士様はいつも大変。そのお世話をするロファーも大変よね」
ミルクの代金をロファーから受け取りながら、マーシャはくすくす笑いが止められない。
「で、まだ起きてこないのでしょう?」
「魔導士様? そうだね、ぐっすり眠っていたよ」
ロファーが苦笑する。
マーシャを見送って、どうせジゼルはまだ起きない、馬小屋と鶏小屋の世話をしておこうとロファーは裏手に回った。
(これか、魔導士がおいていった馬……)
馬小屋には栗毛の馬が一頭増えていて、奥のほうで足を折って座り込んでいる。サッフォやシンザンがそんなふうに座っているのを見たことがない。
(変わっているのか、どこか病気か?)
気にせずロファーは掃除を済ませ、飼葉と水を替えて馬小屋を出ようとした。
「ちょっと、ここ、忘れているよ」
声に振り向くと、座り込んでいる馬の前の飼葉桶が空だ。こんなところにいつの間に飼葉桶を作ったんだろうと思いながら、ロファーはそこにも飼葉を入れる。それから鶏小屋の掃除をし、卵を四つ拾ってキッチンに戻った。
(あれ?)
何かがヘンだ。誰か俺に話しかけなかったか? そう思うけれど、それが誰で、なんと話しかけられたかが思い出せない。いつものように、気のせいだ、と済ませてしまう。
なんだか頭痛がする。このところロクに寝ていないせいだ。そうだ、昨夜、何があったんだった? マーシャに訊かれて答えられなかった。
馬小屋の新しい馬はお詫びに貰ったとジゼルが言っていたと思うんだけど、なんだか病気みたいだ。そんな馬をお詫びに貰っても迷惑な気がする。
何か理由があったんじゃなかった? 貰ったのではなく預かった、とか。あぁ、預かった、安全を保証して。って、馬の安全? どうかしている、思い違いだ。そんなはずがない。
うーーーん、あ、そうだ、昨日は月がとても綺麗で、星も降るように煌めいて……あれ? 月が出ていた? 薄緑色の月? 夢でも見たのか?
だめだ、やっぱり頭が回らない、それどころか頭痛が酷くなってきた。身体もえらく重く感じる。だるくて仕方ない。
どうせジゼルは暫く起きない、もうひと眠りしよう。ロファーは寝室に向かった。
――微睡の中、話し声が聞こえる。あの声はカールだ。ジゼルが何か言っている。
「ただの風邪だ。今は薬が効いて、ぐっすり眠っている。明日は店を開けられるだろう」
「そうなんだ? 親方が心配しちゃって……でも助かったよ、魔導士様が外国語に堪能で」
宛名書きの翻訳をジゼルが代わりにやったんだ。ぼんやりとした意識の中でロファーが思う。
「そう言えば、昨日、魔導士様が気にしていた、星降る宿の美少女、昨夜いきなりいなくなったんだって」
「へぇ……何かあったのか?」
「置手紙があったらしい。ジュードが朝、部屋を見たらもぬけの殻で、机に手紙があるだけ」
「厄介ごとを起こされる前にいなくなってくれてよかったじゃないか」
「うん、ジュードもそう言ってた――それじゃ、行くね、ロファーによろしく、お大事にって」
「あぁ、ごくろうさん」
ドアの閉まる音、近づく足音、覗きこむのはジゼル。
「術が強すぎたかな?」
ひんやりとした手が額に触れる。おまえ、俺に何か術を掛けたのか? それでこんなに調子が悪いのか? ロファーは再び深い眠りに落ちていく――
ドアを開け放すとミルタスの芳香が店の中にも漂ってくる。ロファーの好きな季節だ。
「おはよう、ロファー。風邪は治ったかい?」
いつも通り、カールが外国便を持ってくる。
「よぉ、カール。二日も休んですまなかったね」
「元気になったみたいだね。親方にも言っておく、心配してたから」
そしていつも通りに記録帳にサインしてカールが帰る。
昨日、目が覚めたのは夕刻だった。あれほど頭痛がし、だるかったのに、頭も身体もすっきりしていた。
食事の時、馬小屋の新入りは病気なのかとジゼルに訊くと、
「ジュリの事? あれは飼葉を食べるために生きている。ロファーと同じ役立たずだが、殺すには忍びない。引き取って馬小屋に入れた」
とニヤニヤしながらそう答えた。
「そりゃあ良かった。これで、ジゼルの役に立てなくなっても殺されることはないと安心したよ」
ムッとしたが、その程度の皮肉で終わらせたロファーだ。
するとジゼルが声を立てて笑う。
「なんで『ロファーは役立たず』なんて噂が広まったのかな? 代書屋としても、わたしの助手としても優秀なのにね」
それには、さぁね、と惚けたロファーだ。
夕飯を食べ終わると、サッフォを貸すからさっさと帰れとジゼルに言われ、追い出されるように帰ってきた。
「さてっと……」
机に向かい、ロファーが今日、最初の仕事に取り掛かる。長老あての封書だ。目が悪くなった長老のため、大きな文字で書き直してから長老に届ける。
古い友達から定期的に送られてくる手紙を、長老はいつも楽しみに待っている。返事もいつもロファーが代筆する。手紙には心が籠る。優しさが込められている。差出人の人柄がにじみ出て、受け取る相手への思いやりが溢れ出る。
あて名のない手紙ではだめだ。あて名があり、差出人の名があってこそ、手紙の良さは活かされるんだ。
代書屋の責任の重さをしみじみと感じながら、ロファーは封書を開けていった。
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