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梅雨に入って空気がうっとうしい。じめじめと纏わり付いてくるものに辟易する。なんにしてもわたしはそうだ。さっぱりしたものが好きなのだ。人との付き合いもあっさりとしたものに限る。ベッタリとした付き合いはわたしには似合わない。
なのに、どうして親元から出るときに、彼女とルームシェアすることを選んでしまったのだろう?
確かに彼女との付き合いは長い。小学生の頃から、言うなれば幼なじみだ。ほかの誰よりも親密に違いない。
親密だからと言って、心の底から彼女を好きかと問えば、そうとは言えない。
家が近所で親同士もよく知っている。中学を卒業してからさえも、彼女とは同じ高校に通った。彼女が同じ学校に行きたがったからだ。わたしのことを好いているらしい彼女には気の毒だが、それがわたしにとっては残念なことだったと、彼女は果たして知っていただろうか?
彼女は勉強が良くできた。わたしの知る限り、女子では常にクラスで、いや、学年で一番の成績だった。どんなに頑張ってもわたしは彼女に敵わなかった。常に〝二番目〟の位置に甘んじるしかない。それがどんな屈辱か、彼女は知っていただろうか?
そう、わたしは彼女が煙たかった。しっかり者で、曲がった事が嫌い、その分いくらか融通か利かないところがあったけど、そんなことより何よりも、わたしは彼女の甘ったれたところが嫌いだった。
「ねぇ、友達でしょ?」
なにかと言うと〝友情〟を楯に取り、わたしの行動を束縛した。〝一緒にいてよ〟と彼女は言う。
「ねぇ」
彼女は言った。
「一緒に部屋、借りようよ。それなら由紀ちゃんのお父さんも許してくれるんじゃない? ほら、わたし、由紀ちゃんのお父さんには気に入られてるし」
彼女の申し出を断るのは難しかった。親元を離れたい、そう言ったのはわたしのほう。だけど、親がなかなか『うん』って言わないのよ――
「二人の職場、近いしさ、二人で借りればその分広い部屋に住めるよ。敷金や礼金だって、いくらか節約になるじゃん」
「そうだね……」
気が進まないうちに不動産屋を連れまわされ、気がついたら契約が終わっていた。二人が一緒と言うことで、わたしの親も彼女の親もダメとは言わなかった。
あぁ、だけど、なんでわたしは彼女を拒絶しなかったのだろう……
明日の夕飯は何にしようか? なんてことを彼女は平気で聞いてくる。ねぇ、わたしたち、結婚したわけじゃないよ。そう言いたい衝動をこらえてわたしは微笑んで見せる。
「ごめんね、香奈ちゃん。わたし、明日は会社の飲み会なの。帰り、遅くなるわ」
「そっか……じゃあしょうがないね」
彼女は気の毒なほど寂しげな顔をする。そしてこう付け加えるのだ。
「寂しいから、なるべく早く帰ってね」
寂しいのなら、親元にいればよかったのに――そう思うわたしは冷たいのか?
あの日も彼女は聞いてきた。
「明日、仕事終わってから何かあるの?」
明日は金曜日だ。そしてあいにく何の予定もない。
「ううん、なにも」
「それじゃあ、二人で遊びに行こうよ」
「うん、いいよ」
嘘のつけない、そして断ることのできない自分の性格を密かに呪った。
そしてわたしは彼女が嫌いだった。二人して盛り場に繰り出せば、そこで声を掛けてきた男たちはいつも揃って彼女を誘う。
「香奈ちゃん、酒、弱いんだねぇ」
そう、確かに彼女は酒が飲めない。
「うん、わたしはダメ……でも由紀ちゃんはお酒、強いのよ」
彼女の言葉に思い出したように
「おう、飲め飲め」と男がわたしのグラスにビールを注ぐ。そしてまた彼女に話し掛ける。
「ねぇ、付き合ってる人、いるの?」
いつものことだ。そしていつものように彼女が笑う。
「さぁ……どうだろ? ねぇ、由紀ちゃん?」
どうしてわたしに話を振るの?
「こんなに可愛いのにいないのよね」
内心の不満を出さないように、できるだけ陽気な声でわたしは彼女の『潔白』を保証してあげる。一瞬にして輝きを増した男の目を見ながら、可愛くなんかないよぉ、と彼女はテレたように言う。そんなことないよ、と男が答える。
十人に一人位は〝由紀ちゃんはどうなの?〟と、儀礼的に聞いてくる。そしてその中からまれに〝由紀ちゃん『も』可愛いのにね〟と言うヤツもいる。
あぁ、どこまで行ってもわたしは彼女の下におかれる。顔だって取り立てて彼女のほうが可愛いわけじゃない。スタイルで言えばわたしのほうがあきらかにキレイだ。彼女なんてよく言えばぽっちゃりで、悪く言えば……
性格だってそう、男の前では猫をかぶっているだけだ。なのに、誰もそれに気がつかない。
気のあるようなことを言って、さんざん奢らせておいて、渡した電話番号はデタラメ、別れたあとに〝いい男、いないわね〟なんて笑う女が、どうしてチヤホヤされるんだろう?
だけどあの金曜日、一緒に飲んだ相手は彼女に、そしてわたしに一つの転機をもたらした。
「もうわたし、あの人のためなら死んでもいい」
目を潤ませて彼女にそう言わせる相手は背が高く、話が面白く、そして顔もよかった。
彼と知り合ったその日の帰り、
「家の電話番号、教えちゃった」
そう言う彼女にさすがのわたしも抗議したものだ。
「どうして? スマホを教えればいいじゃん」
「だってぇ……自宅の番号も教えてよ、彼がそう言うんだもん」
自宅の電話だと、わたしが出ることだってあるのよ? そう言うわたしに彼女が笑った。
「由紀ちゃんは彼が嫌い? いいんじゃない、電話で話すくらい……」
見抜かれている? 驚愕にわたしは黙り込んでしまった。
彼は確かに素敵だった。どうして彼女ばっかり……今まで溜まっていた不満が爆発しそうに感じる。どうしてわたしではなく、彼女なの?
そんなわたしの心を知ってるのかいないのか、それからの彼女は彼との睦言をわたしに聞かせた。
彼ったらね……彼ったらね……彼ったらね……
やめて、やめて! うっとうしいのよ! わたし、あなたのお母さんじゃないの。恋の報告なんて聞きたくない。まして彼とのアツアツぶりなんか! 叫びだしたい気持ちを押さえてわたしは微笑む。
よかったね……よかったね……香奈ちゃんが幸せでわたしも嬉しい。
そして言葉にせずにこう思う。まるでサカリのついた猫じゃん――
そう、盛りのついた猫、その日も盛んに恋鳴きをしていた。ただでさえうっとうしい梅雨の夜、けたたましいともいえる大音響の鳴き声で猫は恋を語っている。
「あ、由紀ちゃん」
急に彼女の〝彼ったらね〟が止まる。
「布巾、たたんでおいたらダメって言ったでしょ? 広げといたほうが早く乾いて細菌も増えないんだよ」
「……うっとうしいな」
「え?」
テーブルを拭くための布巾を広げながら、わたしは彼女のほうを見ずに言った。
「いや、猫が、ね。うるさく鳴いてるから」
「ああ……」
ふと彼女が黙り込む。猫の恋鳴きを聞いているのだろうか?
気になって彼女を見て、わたしは思わずドキリとした。あんなに沈んだ彼女の顔を見たことはなかった。
自分を見つめるわたしに気がついて彼女が薄く微笑んだ。
「彼の部屋にね……」
ポツリと彼女が言った。
「イヤリングが落ちてたの」
「……きっと、友達の彼女とかが忘れたんだよ」
わたしはとっさに嘘をついた。数日前、彼女の留守中に来た彼からの電話を内緒にしている。その日、わたしは一人暮らしの彼の部屋に泊まった。友達のところに泊まると彼女に嘘をついて……そして確かにイヤリングをなくしている。どこかで落としたと思っていたのに――
「そっか。そうだよね」
泣きそうな顔で彼女は笑っている。そして、
「猫かぁ……鳴いてるね。猫も本気で恋をするのかな?」
と呟いた。
「本気で恋?」
彼はわたしに言った。香奈とは本気じゃないんだ。初めて会ったときから由紀ちゃんが好きだった。だけど香奈に押し切られて……その言葉はわたしを有頂天にさせた。彼女に勝った、と思った。これで彼女を見下せる。
「だってうるさいじゃん、猫。でも、本気で恋をしていて、それでうるさいんだったら仕方ないかな、って」
「……?」
「だけど、遊びであんなにうるさいんだったら迷惑なだけ……遊びで誰かを傷つけるなんて卑劣だよね」
卑劣。その言葉にわたしは顔を叩かれた思いがした。そう、わたしは卑劣だ。『友達』が夢中になっている相手と遊んだ。
そう、遊びなのだ。彼も、わたしも。そして彼にとっては彼女のことも。それを知っていて、彼女を裏切ることで優越感を味わうなんて、わたしは卑劣だ。
わたしはどうしようもない敗北感を感じていた。結局わたしは彼女に、卑劣な人間、と見下されるしかない。彼女の前でいい人を演じ、猫をかぶっていたのはわたしだ。そして化けの皮がはがされる。
彼女がわたしを見つめて言った。
「一人暮らしの彼の家のね、台所にたたんだ布巾が置いてあったの――彼、布巾、洗ったりしない人なのね。誰が来たのかな?」
なのに、どうして親元から出るときに、彼女とルームシェアすることを選んでしまったのだろう?
確かに彼女との付き合いは長い。小学生の頃から、言うなれば幼なじみだ。ほかの誰よりも親密に違いない。
親密だからと言って、心の底から彼女を好きかと問えば、そうとは言えない。
家が近所で親同士もよく知っている。中学を卒業してからさえも、彼女とは同じ高校に通った。彼女が同じ学校に行きたがったからだ。わたしのことを好いているらしい彼女には気の毒だが、それがわたしにとっては残念なことだったと、彼女は果たして知っていただろうか?
彼女は勉強が良くできた。わたしの知る限り、女子では常にクラスで、いや、学年で一番の成績だった。どんなに頑張ってもわたしは彼女に敵わなかった。常に〝二番目〟の位置に甘んじるしかない。それがどんな屈辱か、彼女は知っていただろうか?
そう、わたしは彼女が煙たかった。しっかり者で、曲がった事が嫌い、その分いくらか融通か利かないところがあったけど、そんなことより何よりも、わたしは彼女の甘ったれたところが嫌いだった。
「ねぇ、友達でしょ?」
なにかと言うと〝友情〟を楯に取り、わたしの行動を束縛した。〝一緒にいてよ〟と彼女は言う。
「ねぇ」
彼女は言った。
「一緒に部屋、借りようよ。それなら由紀ちゃんのお父さんも許してくれるんじゃない? ほら、わたし、由紀ちゃんのお父さんには気に入られてるし」
彼女の申し出を断るのは難しかった。親元を離れたい、そう言ったのはわたしのほう。だけど、親がなかなか『うん』って言わないのよ――
「二人の職場、近いしさ、二人で借りればその分広い部屋に住めるよ。敷金や礼金だって、いくらか節約になるじゃん」
「そうだね……」
気が進まないうちに不動産屋を連れまわされ、気がついたら契約が終わっていた。二人が一緒と言うことで、わたしの親も彼女の親もダメとは言わなかった。
あぁ、だけど、なんでわたしは彼女を拒絶しなかったのだろう……
明日の夕飯は何にしようか? なんてことを彼女は平気で聞いてくる。ねぇ、わたしたち、結婚したわけじゃないよ。そう言いたい衝動をこらえてわたしは微笑んで見せる。
「ごめんね、香奈ちゃん。わたし、明日は会社の飲み会なの。帰り、遅くなるわ」
「そっか……じゃあしょうがないね」
彼女は気の毒なほど寂しげな顔をする。そしてこう付け加えるのだ。
「寂しいから、なるべく早く帰ってね」
寂しいのなら、親元にいればよかったのに――そう思うわたしは冷たいのか?
あの日も彼女は聞いてきた。
「明日、仕事終わってから何かあるの?」
明日は金曜日だ。そしてあいにく何の予定もない。
「ううん、なにも」
「それじゃあ、二人で遊びに行こうよ」
「うん、いいよ」
嘘のつけない、そして断ることのできない自分の性格を密かに呪った。
そしてわたしは彼女が嫌いだった。二人して盛り場に繰り出せば、そこで声を掛けてきた男たちはいつも揃って彼女を誘う。
「香奈ちゃん、酒、弱いんだねぇ」
そう、確かに彼女は酒が飲めない。
「うん、わたしはダメ……でも由紀ちゃんはお酒、強いのよ」
彼女の言葉に思い出したように
「おう、飲め飲め」と男がわたしのグラスにビールを注ぐ。そしてまた彼女に話し掛ける。
「ねぇ、付き合ってる人、いるの?」
いつものことだ。そしていつものように彼女が笑う。
「さぁ……どうだろ? ねぇ、由紀ちゃん?」
どうしてわたしに話を振るの?
「こんなに可愛いのにいないのよね」
内心の不満を出さないように、できるだけ陽気な声でわたしは彼女の『潔白』を保証してあげる。一瞬にして輝きを増した男の目を見ながら、可愛くなんかないよぉ、と彼女はテレたように言う。そんなことないよ、と男が答える。
十人に一人位は〝由紀ちゃんはどうなの?〟と、儀礼的に聞いてくる。そしてその中からまれに〝由紀ちゃん『も』可愛いのにね〟と言うヤツもいる。
あぁ、どこまで行ってもわたしは彼女の下におかれる。顔だって取り立てて彼女のほうが可愛いわけじゃない。スタイルで言えばわたしのほうがあきらかにキレイだ。彼女なんてよく言えばぽっちゃりで、悪く言えば……
性格だってそう、男の前では猫をかぶっているだけだ。なのに、誰もそれに気がつかない。
気のあるようなことを言って、さんざん奢らせておいて、渡した電話番号はデタラメ、別れたあとに〝いい男、いないわね〟なんて笑う女が、どうしてチヤホヤされるんだろう?
だけどあの金曜日、一緒に飲んだ相手は彼女に、そしてわたしに一つの転機をもたらした。
「もうわたし、あの人のためなら死んでもいい」
目を潤ませて彼女にそう言わせる相手は背が高く、話が面白く、そして顔もよかった。
彼と知り合ったその日の帰り、
「家の電話番号、教えちゃった」
そう言う彼女にさすがのわたしも抗議したものだ。
「どうして? スマホを教えればいいじゃん」
「だってぇ……自宅の番号も教えてよ、彼がそう言うんだもん」
自宅の電話だと、わたしが出ることだってあるのよ? そう言うわたしに彼女が笑った。
「由紀ちゃんは彼が嫌い? いいんじゃない、電話で話すくらい……」
見抜かれている? 驚愕にわたしは黙り込んでしまった。
彼は確かに素敵だった。どうして彼女ばっかり……今まで溜まっていた不満が爆発しそうに感じる。どうしてわたしではなく、彼女なの?
そんなわたしの心を知ってるのかいないのか、それからの彼女は彼との睦言をわたしに聞かせた。
彼ったらね……彼ったらね……彼ったらね……
やめて、やめて! うっとうしいのよ! わたし、あなたのお母さんじゃないの。恋の報告なんて聞きたくない。まして彼とのアツアツぶりなんか! 叫びだしたい気持ちを押さえてわたしは微笑む。
よかったね……よかったね……香奈ちゃんが幸せでわたしも嬉しい。
そして言葉にせずにこう思う。まるでサカリのついた猫じゃん――
そう、盛りのついた猫、その日も盛んに恋鳴きをしていた。ただでさえうっとうしい梅雨の夜、けたたましいともいえる大音響の鳴き声で猫は恋を語っている。
「あ、由紀ちゃん」
急に彼女の〝彼ったらね〟が止まる。
「布巾、たたんでおいたらダメって言ったでしょ? 広げといたほうが早く乾いて細菌も増えないんだよ」
「……うっとうしいな」
「え?」
テーブルを拭くための布巾を広げながら、わたしは彼女のほうを見ずに言った。
「いや、猫が、ね。うるさく鳴いてるから」
「ああ……」
ふと彼女が黙り込む。猫の恋鳴きを聞いているのだろうか?
気になって彼女を見て、わたしは思わずドキリとした。あんなに沈んだ彼女の顔を見たことはなかった。
自分を見つめるわたしに気がついて彼女が薄く微笑んだ。
「彼の部屋にね……」
ポツリと彼女が言った。
「イヤリングが落ちてたの」
「……きっと、友達の彼女とかが忘れたんだよ」
わたしはとっさに嘘をついた。数日前、彼女の留守中に来た彼からの電話を内緒にしている。その日、わたしは一人暮らしの彼の部屋に泊まった。友達のところに泊まると彼女に嘘をついて……そして確かにイヤリングをなくしている。どこかで落としたと思っていたのに――
「そっか。そうだよね」
泣きそうな顔で彼女は笑っている。そして、
「猫かぁ……鳴いてるね。猫も本気で恋をするのかな?」
と呟いた。
「本気で恋?」
彼はわたしに言った。香奈とは本気じゃないんだ。初めて会ったときから由紀ちゃんが好きだった。だけど香奈に押し切られて……その言葉はわたしを有頂天にさせた。彼女に勝った、と思った。これで彼女を見下せる。
「だってうるさいじゃん、猫。でも、本気で恋をしていて、それでうるさいんだったら仕方ないかな、って」
「……?」
「だけど、遊びであんなにうるさいんだったら迷惑なだけ……遊びで誰かを傷つけるなんて卑劣だよね」
卑劣。その言葉にわたしは顔を叩かれた思いがした。そう、わたしは卑劣だ。『友達』が夢中になっている相手と遊んだ。
そう、遊びなのだ。彼も、わたしも。そして彼にとっては彼女のことも。それを知っていて、彼女を裏切ることで優越感を味わうなんて、わたしは卑劣だ。
わたしはどうしようもない敗北感を感じていた。結局わたしは彼女に、卑劣な人間、と見下されるしかない。彼女の前でいい人を演じ、猫をかぶっていたのはわたしだ。そして化けの皮がはがされる。
彼女がわたしを見つめて言った。
「一人暮らしの彼の家のね、台所にたたんだ布巾が置いてあったの――彼、布巾、洗ったりしない人なのね。誰が来たのかな?」
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