姫ぎみと「鏡のなかに棲む男」

寄賀あける

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 腰かけたままのオリレーズの妻、そのかたわらに立つオリレーズ、少しだけアースが進み出る。裏返したマントはあけぼの、流れる髪は黄金に輝く。

「どうだ、美しいだろう?」
興奮気味のオリレーズに妻は答えず、かすかかに眉を寄せただけだ。

「さぁ、早く! いまさら勿体もったいぶることもなかろう」
「おまえはいてばかりだな。それではどんな曲を奏じても、とてもなど判るまい。もっと落ち着いて堪能しようとは思わないか?」

「俺のことなどどうでもいい――妻が喜んでくれさえすれば」
オリレーズの言葉の、最後のほうは小さな呟きに変わっている。

「だから詩人よ。飛び切り美しい調べを妻に聞かせてくれ」
「まぁ、待て……どんな曲にするのか、考えている」

 竪琴を撫でながら、静かにアースがオリレーズをなだめる。どうにか治まるオリレーズを横目に、アースの神経の向かう先は隣室、フィルの塩梅あんばいを気にしている。

 オリレーズの部屋ではことに驚くフィルがいた。
『オリレーズの部屋に? 無茶言うな、きっと鍵が掛けてある』
『施錠されていたら、もう一度けてみろ。ドアは

 奇妙なアースの言葉、思った通りオリレーズの部屋はしっかりと施錠され、僅かな時間で破るのは無理そうだ。それが、言われたとおりに試してみるとすんなりと開いた。いつの間にか開錠されている。

(ふむ、確かに『二度目には開いた』……これって魔法? アイツ、吟遊詩人で魔法使い?)
フィルの中にアースへの疑念が浮かぶ。だが、そんなことをゆっくり考えている暇などない。気付かれる前に済まさなければ……

 アースは『オリレーズの寝室にある鏡を見つけ、布がかぶせてあればはらい、曇って映らなければ磨け』と言った。多分、寝室はこのドアだ――いくつかあるドアの一つに目星をつけてフィルは中に入っていった。

「それでは今日は異国の曲をご披露しよう」
やっと演奏を始める気になったアースが、薄く微笑んで竪琴に軽く接吻する。それを見て、まるで一幅の絵のようじゃないか、同意を求めて妻を見るオリレーズ、妻は軽くうつむくがオリレーズはうなずいたと思い込んで疑いもしない。

 詩人の長い指が糸を押さえ糸を弾き、優美な音色に部屋が満たされていく。そこへ詩人の歌声が加われば、空気が溶け出してしまいそうだ。その響きに心が揺さぶられて、身体が震えてくるのが判る。だが、この言葉は? そうか、異国の曲と言っていた。言葉の意味が判らずとも、これほどに引き込まれるのなら意味が判ればどれほどのものか――

 なんとか意味の判る言葉にできないものか? 尋ねる機を探そうと、オリレーズが詩人を見る。すると詩人の視線は妻のほうに向かっている。そして妻は……うっとりとした眼差しで詩人を見つめている。あれほど潤んだ瞳、今まで見たことがあっただろうか? 心に焼けつくような痛みを覚えるオリレーズだ――

 アースが言っていた鏡はすぐに見つかった。フィルの背より幾分高さのある姿見は、部屋の隅で厚い布を被せられ、なるべく目立たないように置かれていた。

 おおいを外してみると縁取りに彫刻がほどこされた、古臭いが随分と立派なものだ。
(あぁあ、まったく手入れをしてない。汚れちまって、なんにも映しやしないじゃないか)

 まったく金持ちは物を大事にしない。しっかりした造りのこの鏡、大事に使えばまだまだ使える。売れば庶民なら半年は食える……つい値踏みしてフィルが苦笑する。

(今はこいつの値段などどうでもいい、それより曇っていたら磨けと言ったな――ん? アースのヤツ、とうとう始めたようだ)

 アースが奏でる竪琴のが聞こえ始め、それに唸り声のような音が混じってくる。
(なんだろう、あの音は? 歌声? いいや違う、まるでけものが威嚇しているようだ)

 不思議に思いながら、はぁっと息を吹きかけて、外した覆いで鏡を磨く。だんだんと艶が出て、何かが映し出されていく。自分の顔だと気にもしなかったが、違和感に手を休めて鏡を見る。
「うぉっ!!!」
小さな悲鳴を上げてフィルが尻もちをつく、そこに映し出されるのは顔のない男だった――

 妻の顔を見つめるオリレーズの耳に、もはや竪琴の音も詩人の声も届かない。心の中で自問自答を繰り返す。

 妻を喜ばせるために連れてきた詩人だ。そして妻は詩人を気に入った。今まで、どんな花も宝物も、気に入ることのなかった妻が、詩人に見惚れ瞳をうるませ、涙を零さんばかりになっているじゃないか。俺の目的は達成された、狙い通りだ。なのに、なんだ、この胸の痛みは? 詩人を見つめる妻を、その妻に視線を向ける詩人を八つ裂きにしてやりたい。

 なぜその眼差しを、俺には向けてくれないんだ? そんなに俺の妻になりたくなかったか? あぁ、そうだ、最初から判っている。こんな醜い俺の妻になど、なりたくなかったはずだ。そうだ、だから、妻を責めるのも、詩人を恨めしく思うのも、俺が間違っている。だけど、この痛み、この苦しさをどうしたらいいんだ?

 詩人の十分の一ほども、俺に美しさがあればよかったのか? オリレーズが冷めた視線を詩人に向ける。輝くように美しい詩人――そう思ってオリレーズが我に返る。
(違う、実際に詩人は輝いている。光を放っている……しかもその輝きは徐々に強さを増している。それになんだ、この心地よさは? 懐かしいような切ないような?)

 詩人が放つ光に照らされるオリレーズ、光は身体を照らし、染み込むように体内へと忍び込む。地平に昇る朝日のように心の内さえ温めていく。静かにゆっくり差し込んでくる。
(姫が目をうるませているのは、この光がもたらす癒しのせいだ。だって、この俺でさえ……)
オリレーズの目頭が熱くなる。

「うおおおおおおおっ!!!!」
フィルの悲鳴がとどろいたのはその時だった。ハッとオリレーズが覚醒し、何事かと身構える。隣では妻が立ち上がり、不安げにオリレーズを見る。詩人も竪琴を爪弾くのをやめて、部屋の入口のほうに顔を向けた。

 部屋の入り口に、ゆっくりなにかが近づいてくる。やがて姿を現したのは……ゆらゆらと揺れる影のような男――男には顔がなかった。
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