きみの嘘。ぼくの罪。すべてが『おもいでだ』としても

寄賀あける

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 由紀恵ゆきえが横浜に出かけるという。

「横浜のどのあたり?」
どこに行こうが興味もないが『あ、そう』だけでは冷たいかな、と訊いてみる。

「友達と一緒だからなんとも言えないけど。元町もとまちとか、外人墓地とか? 多分、一泊してくると思う」
「ふぅん……買えたら元町の喜九屋でラム玉、買ってきてよ」
別に食べたくもないが、言っておく。そんな些細なが、由紀恵を喜ばすと懐空かいあは知っていた。

 さすがに五年もの間、必ず月に一度、出かけては一泊する由紀恵を懐空が怪しんでいないはずもなく、由紀恵にしても懐空が気付いていないとは思っていない。

 きっと由紀恵は後ろめたがっている、そう感じる懐空は気にしていない風を装い、土産を強請ねだってみたりする。リクエストにこたえることで、由紀恵の後ろめたさが少しは軽減されている気がした。

 だいたい、普段は化粧しない由紀恵がその日ばかりは薄化粧をし、いつもよりはおしゃれな服を着ている。いくら僕が鈍感でもさすがに気が付くよ、とこっそり苦笑する。

 懐空が知る限り、懐空が大学を卒業するころまで、由紀恵に恋人がいたことはない。懐空を育てることのみが由紀恵の生きる意義だったように見える。化粧もしなければ着飾りもしない。これと言って趣味があるわけでもなく、遊びと言えば仕事先の付き合い程度しかない。

 そんな由紀恵に恋人ができた。はじめはショックでどう対応してよいか判らなかった懐空だったが、それから五年だ。むしろそんな相手が由紀恵にいることで安心している。

 息子の懐空が言うのも変だけれど、この五年間で、由紀恵は少し若返った。他人に言われてもピンとこなかったが、確かに由紀恵は美人なのだとやっと気が付いた。

 恋が母さんを若返らせ、綺麗にしている――つまり母さんは幸せを感じている。それに気が付いた時、なんで僕は裏切られた気分なんかになったのだろうと、懐空は反省している。大事な母親が幸せでいることにショックを受けるなんてどうかしていた、と思った。

 もちろんすぐに割り切れるものではなかったけれど、五年だ。五年もそんな状態が続けば、さすがに慣れる。不快感で具合が悪くなりそうだった由紀恵の外泊も、今ではなんとも感じない。

 だけど心配していないわけではない。

 懐空が気付いていると、気づいていながら何も言ってこない。実はこれこれこう言う人とお付き合いしているの的な話はあってもいいんじゃないか、と思う。それをしてこないということはオープンにできない相手、妻帯者と言うことだろうか? 由紀恵の年齢を考えると、充分あり得そうに思える。

 そうでなければ、とんでもなく若い男とか? そうだとして、自分より若かったらどうしよう、と少し冷や汗をかく。でも、懐空は何も言えないと思う。

 懐空が結婚を考えていた相手は懐空より十二も年上だった。それを打ち明けたとき、由紀恵は『相手が八十のお婆ちゃんでも、たとえ男でも』反対しないと言い切った。懐空が幸せならそれでいいと言った。その由紀恵の相手が若いからと反対できるはずもない。

 ひょっとしたら訊かれるのを由紀恵は待っているんじゃないか、と思わなくもない。でも、もし妻帯者とか、懐空に言えない相手なら由紀恵は返答に困るだろう。結局迷って聞けずじまいの懐空だ。

 由紀恵がそろそろ出かけるというときに、懐空があることを思い出す。
「そうだ、伊勢佐木町の友隣堂の前を通る? 今日、あそこで杉山涼成すぎやまりょうせい先生のサイン会があるはずなんだ。な――」
「行かないわよ!」
「う、うん……」
けんのある言い方で言葉をさえぎられた懐空が驚いて黙る。

「あ……ごめんなさい、急いでるから。それじゃ行くわね」
懐空が呆気あっけにとられる中、由紀恵は逃げるように出かけて行った。

 由紀恵が杉山涼成を嫌っているように懐空には思えてならない。杉山の話が出るたび由紀恵の態度は素っ気ない。

 以前、杉山のデビュー作が映画化され、このあたりの海岸も撮影に使われたが、その話をした時も興味がないというか、『勝手にすれば』みたいな感じで、何か冷淡なものを感じた。

 懐空の名は、その映画化された杉山のデビュー作のヒロイン懐海なつみを真似たと聞いている。てっきり由紀恵は杉山のファンなのだと思い込んでいた。由紀恵の本棚には古いその本が今も並べられている。

 五年前、愛実の失踪に悩んでいた時、懐空は海岸で偶然、杉山と遭遇した。そして話を聞いてもらった。自分を見失いかけていた懐空が、立ち直るきっかけになった一つだ。

 その時も由紀恵は、その男の人に感謝ね、と言いながら、それが杉山だということを無視していたように懐空は感じている。

 由紀恵と杉山の間に何かあったのだろうか? そんな疑念が懐空に浮かぶ。

 撮影現場に杉山が来ていて、それを知った由紀恵がサインでも求め、つれない対応でもされたのだろうか? それくらいしか懐空には思いつかなかった。でも、そんなことで毛嫌いするのは由紀恵の性格からは考えにくいことだった。

 どちらにしろ、あれこれ考えたところで、結論が出ることじゃない。懐空が気にすることでもない――でも本心は、なぜかすごく引っかかる。気になる。そして、そんな自分もなんだか変だ、と懐空は感じていた。

 自室でパソコンに向かっていると、庭で懐空を呼ぶ声がした。
「懐空! いるんでしょ?」
近所の寿司屋の娘で、幼馴染の満里奈まりなの声だ。懐空より一年下だ。

 懐空の部屋は二階にある。ベランダに出て見下ろすと、満里奈が見上げてニコニコと手を振った。
「寿司なんか頼んでないよ?」
「あー、やっぱり忘れてるんだ? いいから、降りておいでよ」

 忙しいのにな、と思いながら階段を降りる。行かなければ行くまで満里奈は帰らないだろう。いつまでも庭から呼ばれるよりは、さっさと用事を済ませたほうがいい。

 ダイニングのき出し窓を開けるとジョイが勝手に庭に飛び出して、尻尾しっぽを振って満里奈に駆け寄った。
「ジョーイ! 今日もいい子だね!」
満里奈がジョイの頭を両手で包み込むように撫でまわす。

「なんだったっけ?」
懐空の問いに、
「やっぱ忘れてるんだ?」
と、満里奈がむくれる。

「みんなで集まって飲もう、って話したじゃん。今夜だよ」
「あぁ……それ、言われたときに断ったよね」
「たまには付き合いなよ。陽平ようへいが懐空に会いたいって言ってたよ」
「うん……」

 大学を卒業して地元に戻り、最初のころには出ていた地元の飲み会も、ここのところさっぱり出る気がしなくなった。仕事が順調になるのと比例して、どんどん居心地が悪くなる。仲のいい友人もいれば、そうでもない知り合いもいる。

 仕事が順調ってことは、イヤでも世間に名が知られる。名が知られなければ仕事にならない。でもそうなると、中には者も出てくる。そういうことだ。

「少なくとも今日はダメ。締切が近い」
嘘だ。でも、この嘘は便利だ。

「そっかぁ……」
「陽平にはあとでSNSでも入れておくよ」
これで諦めて帰るだろうと思っていた満里奈がまだぐずぐずと何か言いたそうだ。

 ジョイ、おいで、と部屋の中に愛犬を呼び込む懐空に
「作家の仕事ってそんなに忙しいの?」
と満里奈が訊いてくる。

「おかげさまでね――ジョイ、散歩の時間はまだだよ」
部屋に入るなり、リードが置いてある場所に張り付いたジョイに懐空が苦笑する。

「ジョイの散歩、わたしが連れて行ってあげようか?」
「いや、それくらいしないと、本当に運動不足になる。自分で行くよ――せっかく誘ってくれたのに悪いね。忙しいから、それじゃね」

「ねぇ、懐空!」
まだ粘るか、と内心苦笑する懐空に
「何時ころ散歩に行くの? 一緒に行っちゃダメ?」
と訊いてくる。それには軽く溜息ためいきいた懐空だ。

「何のために? それに散歩って言っても結構早めのジョギングだ。満里奈にはついてこれないよ」

 まだ何か言いたげな満里奈を無視して、じゃあ、と懐空は窓を閉めた。
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