きみの嘘。ぼくの罪。すべてが『おもいでだ』としても

寄賀あける

文字の大きさ
8 / 32

しおりを挟む
 あの人が懐空かいあの父親だ。それは愛実あいみの中でもはや確信となっていた。愛実を見上げ、名を呼び、見つめたあの顔は、いつか懐空の実家で見た懐空の子どものころの写真と重なって見えた。

 サインなんか求めなければよかった。たまにはランチしようよ、懐海なつみちゃんにも会いたいし、と真由美まゆみに誘われ出かけたまではよかった。

 幼い子ども連れだ。中華街でなるべくラフな店を選んだ。もともとナツミは赤ん坊のころからということがなく、愛実は大いに助かっていた。夜泣きしたのは一度きり、中耳炎にかかった時だけだ。バスでも電車でもおとなしく愛実に抱かれ、ニコニコと周囲に愛嬌あいきょうを振りまいていた。

 四歳の子に中華はどうかと思わなくもなかったが、焼売や春巻きなどの点心を美味しそうに、上手に食べていた。真由美に『ナツミちゃんはいい子ね』と褒められて、嬉しそうにいた。

 真由美と別れた帰り道、ついでだから本屋に寄ろうと、横浜で一番の書店に足を延ばした。そこで開催されていたサイン会は杉山すぎやまの新作を受けたもので、つい、あの本にサインして貰おうなんて思いついたのが間違いだった。

 懐空かいあの名付けの切っ掛けと聞いていた杉山のデビュー作は探せばすぐ見つかった。新作とその本を併せて買い求めた。

 デビュー当時はアイドル張りの容姿で持てはやされたという杉山の印象は、落ち着いて穏やかな笑みを浮かべた紳士、優しいおじ様と言った感じで、きっと新作ではない本にも快くサインしてくれると思った。

 順番を待つ列は圧倒的に女性、しかも中年女性が多かった。今でも容姿に惹かれているファンも多いのだろうと愛実は思った。杉山は容姿端麗と言う言葉が似合っている。

 順番が回ってくる頃にはナツミが飽きてしまい、なだめるのに苦労し始めていた。愛実がナツミを呼ぶ声が杉山に聞こえてしまったようで、お子さんの名前は? と聞かれた。

 『なつみ』と聞いて、サインを求めたデビュー作のヒロイン『懐海なつみ』を連想したのだと、すぐ判った。

 懐空の〝懐〟と、懐空が住む湘南の海を思い浮かべて『懐海』と名付けたが、もとをただせば杉山のヒロインの名だ。だから『先生のご本から頂戴しました』と答えた。嘘にならないと思った。

 杉山は嬉しそうな顔をしてくれて、愛実はほっとしている。不快感を示されたら居たたまれないと思っていた。

 その杉山がナツミの顔を見つめ、表情を変えた。そして愛実に名を訊いてきた。
「あなたは愛実さんではありませんか?」

 驚きを隠さない杉山、そして愛実も驚きを隠せない。そして直感する――この人は、懐空の父親だ。

 逃げなくては、ナツミを隠さなくては……購入してサインを求めた本を置き去りに、愛実はナツミを連れて逃げた。引き留める声を無視した。駅にたどり着くころ、驚いたナツミは泣いていたが、そのナツミを抱いて改札を通った。

 誰かが追ってくる気配はない。ホームに出て、電車が来るまでの間、ナツミを宥めすかし、飲み物を与えた。抱かれたことと甘い飲み物でナツミはすぐに機嫌を直してくれた。

 杉山は懐空に愛実を見たと告げるだろうか? 愛実がナツミを連れていたと告げるだろうか?

 懐空には内緒で産んだ懐空の子を、懐空の父親は息子に知らせてしまうだろうか?

 乗り込んだ電車はすいていて、愛実は椅子に座りナツミを膝に乗せて考え込んだ。二駅先の横浜駅で乗り換えた。そこからはナツミを抱いて座れるような空席がなく、愛実はナツミを抱いて閉められたドアに寄り掛かった。次、こちら側のドアが開いた駅が、愛実の住むアパートの最寄り駅だった。

 懐空は杉山が自分の父親だと知っているのだろうか? 懐空から聞いた話を思い出す。それは、懐空が大学の先輩から聞いた話だった。先輩は自分の母親からその話を聞き、その母親と懐空の母由紀恵ゆきえは同じ職場だった。

『僕の父は酷い男なんだそうです――』

 大学生になったばかりの懐空、あの頃は愛実と深い仲になるなんて、想像すらしていなかっただろう。

 『酷い男の血が僕の中に流れている』それが辛いと震える懐空に、愛実は『肝心なのは懐空が酷い男にならないことだよ』と背中を撫でた。

 どんな風に男なのかはその先輩も聞いておらず、母親に問いただすようなことをしなかった懐空も知らないはずだ。もちろん愛実も知らない。

 アパートの最寄り駅で量り売りのクッキーを買い、持ち手のついた紙箱に入れてもらう。それをナツミに持たせ、アパートまでのんびり歩いた。クッキーの箱に大喜びのナツミに笑みを向けながら、家に着いたら杉山のことを調べてみようと愛実は思う。

 家に着くと湯を沸かし、濃いお茶を淹れる。自分にはそのまま、ナツミには一片の氷を入れて濃さと温度を調整する。ナツミは愛実と同じで日本茶が好きだった。そして買ってきたクッキーを食べさせ、お昼寝しようね、と寝かしつけた。

 ナツミが眠ったのを見届けて、パソコンに向かう。杉山涼成りょうせいと入力し、検索をかける。そして、懐空の父親で間違いないと確証を得る。杉山の本名は『風空ふく』だった。由紀恵がそこから『空』の字を取って、杉山と自分の息子に『懐空』と名付けたに違いない。

 若い頃の写真を見ると、やっぱり懐空とよく似ている。桜の木のアパートに住み始めた頃の懐空を思い出させる表情は、懐空そのもののように見える。懐空をもっと甘くした感じだ。もっと可愛くした感じだ。

 生家は非上場だが誰でも知っているような大きな会社を経営していた。杉山自身が自分を『苦労知らずのお坊ちゃん』と自嘲して言っていたころもあったらしい。なるほど、上品な雰囲気は育ちの良さからなんだ、と思った。

 都内のマンションで一人暮らしの杉山に結婚歴はなかった。若いころは女優と浮名を流したこともあるようだが、どれも噂の域を出ていない。あの容姿で作家と言うインテリジェンスな職業、若い女の子が気を引こうとしても不思議じゃない。杉山が女の子たちを適当にあしらっていたとしても不思議じゃない。そんな中に由紀恵もいたのだろうか?

 隠し子がいるなどと騒がれたことはなかった。つまり由紀恵の存在は誰にも知られなかったということか……

 愛実を愕然がくぜんとさせたのは、杉山の年齢を知った時だった。プロフィールを出した時、生年月日も見ていたが、それが年齢に結び付いていなかった。現在の年齢を知って愛実が息をのむ。杉山は今年四十九、由紀恵より十四も下だった。

「……」

 懐空が生まれたのは由紀恵が三十五の時だと言っていた。その時杉山は二十一。由紀恵が懐空の妊娠に気が付いた時、たぶん杉山は二十。

「お母さん……」
思わず愛実がつぶやく。由紀恵に会いたいと思った。

 お母さん、あなたも彼の将来を思って、彼のもとを離れたのではありませんか?

 そうだとしたら、なんて因果なことだろう。その由紀恵の息子の懐空もまた、同じ理由で愛する人を失った――

 でも、と愛実は思い返す。

 杉山は愛実の名を知っていた。つまり懐空が自分の子だと知っている。いや、愛実のことを懐空から聞いていただけかもしれない。ナツミの中に懐空を見て、それで懐空から聞いていた愛実のことを思い出しただけかもしれない。

 そしてそれも違う、と思った。

 寿司屋の幼馴染から、毎月、特上寿司で由紀恵がもてなす男の客が来ていると聞いたと懐空が言っていた。五年前の正月のことだ。

 母さんに恋人がいるのかもしれない、懐空は複雑な心境のようで、嫌悪感を隠さなかったけれど、愛実は素敵なことだと思った。

 その少し前、杉山のデビュー作が映画化され撮影の一部は由紀恵が住む家の近くであったと聞いている。その時、杉山が撮影現場に来ていたら? 由紀恵と再会していたら?

 本当のことなど何も判らない。でも、愛実にはそれが事実と思えてならない。

 杉山が懐空の存在を知った時、どう感じただろう? そして懐空は――

 懐空がナツミの存在を知ったら、どう思うのだろう? 喜んでくれるだろうか? それとも、もうわたしのことなど忘れてしまっただろうか?

 忘れてしまったとは思えない。今もわたしの指には懐空がくれたリングが光っている。たとえそばにいられなくても、このリングがわたしと懐空をつないでいる。

 勝手よね――勝手な思い込みだと判っていても、愛実は愛を信じていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。

true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。 それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。 これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。 日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。 彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。 ※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。 ※内部進行完結済みです。毎日連載です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

人質5歳の生存戦略! ―悪役王子はなんとか死ぬ気で生き延びたい!冤罪処刑はほんとムリぃ!―

ほしみ
ファンタジー
「え! ぼく、死ぬの!?」 前世、15歳で人生を終えたぼく。 目が覚めたら異世界の、5歳の王子様! けど、人質として大国に送られた危ない身分。 そして、夢で思い出してしまった最悪な事実。 「ぼく、このお話知ってる!!」 生まれ変わった先は、小説の中の悪役王子様!? このままだと、10年後に無実の罪であっさり処刑されちゃう!! 「むりむりむりむり、ぜったいにムリ!!」 生き延びるには、なんとか好感度を稼ぐしかない。 とにかく周りに気を使いまくって! 王子様たちは全力尊重! 侍女さんたちには迷惑かけない! ひたすら頑張れ、ぼく! ――猶予は後10年。 原作のお話は知ってる――でも、5歳の頭と体じゃうまくいかない! お菓子に惑わされて、勘違いで空回りして、毎回ドタバタのアタフタのアワアワ。 それでも、ぼくは諦めない。 だって、絶対の絶対に死にたくないからっ! 原作とはちょっと違う王子様たち、なんかびっくりな王様。 健気に奮闘する(ポンコツ)王子と、見守る人たち。 どうにか生き延びたい5才の、ほのぼのコミカル可愛いふわふわ物語。 (全年齢/ほのぼの/男性キャラ中心/嫌なキャラなし/1エピソード完結型/ほぼ毎日更新中)

ゲームの悪役パパに転生したけど、勇者になる息子が親離れしないので完全に詰んでる

街風
ファンタジー
「お前を追放する!」 ゲームの悪役貴族に転生したルドルフは、シナリオ通りに息子のハイネ(後に世界を救う勇者)を追放した。 しかし、前世では子煩悩な父親だったルドルフのこれまでの人生は、ゲームのシナリオに大きく影響を与えていた。旅にでるはずだった勇者は旅に出ず、悪人になる人は善人になっていた。勇者でもないただの中年ルドルフは魔人から世界を救えるのか。

男女比1:15の貞操逆転世界で高校生活(婚活)

大寒波
恋愛
日本で生活していた前世の記憶を持つ主人公、七瀬達也が日本によく似た貞操逆転世界に転生し、高校生活を楽しみながら婚活を頑張るお話。 この世界の法律では、男性は二十歳までに5人と結婚をしなければならない。(高校卒業時点は3人) そんな法律があるなら、もういっそのこと高校在学中に5人と結婚しよう!となるのが今作の主人公である達也だ! この世界の経済は基本的に女性のみで回っており、男性に求められることといえば子種、遺伝子だ。 前世の影響かはわからないが、日本屈指のHENTAIである達也は運よく遺伝子も最高ランクになった。 顔もイケメン!遺伝子も優秀!貴重な男!…と、驕らずに自分と関わった女性には少しでも幸せな気持ちを分かち合えるように努力しようと決意する。 どうせなら、WIN-WINの関係でありたいよね! そうして、別居婚が主流なこの世界では珍しいみんなと同居することを、いや。ハーレムを目標に個性豊かなヒロイン達と織り成す学園ラブコメディがいま始まる! 主人公の通う学校では、少し貞操逆転の要素薄いかもです。男女比に寄っています。 外はその限りではありません。 カクヨムでも投稿しております。

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件

さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。 数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、 今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、 わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。 彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。 それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。 今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。   「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」 「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」 「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」 「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」   命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!? 順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場―― ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。   これは―― 【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と 【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、 “甘くて逃げ場のない生活”の物語。   ――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。 ※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。

処理中です...