きみの嘘。ぼくの罪。すべてが『おもいでだ』としても

寄賀あける

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 目を覚ますと由紀恵ゆきえがいない。喪失感にどっぷりかりながら、そうだ、あの人は月に一度しか会ってくれない。だからその日以外はいなくて当然なんだと思う。そして天井を見て思い出す。しまった、今日がその月に一度の日だった。ここは熱海だ。

 慌てて服を着て、階下に降りる。由紀恵は黙って帰ったのだろうか? 僕を置き去りにして? さっきまで腕の中にいたのに、もういなくなってしまった?

 風呂場まで見たのに由紀恵はいない。二度と会えないわけじゃないのに、なんで僕はこんなに不安で泣きたいほど悲しいのだろう?

 母親は物心つく前に病死した。父親は可愛がってくれたけど、いつも仕事で家にいなかった。七つ年上の兄は年が違い過ぎて遠い存在だった。

 家にいるとき父は、幼い風空ふくひざに抱き、一時いっときも離してはくれなかった。母を亡くした幼子を不憫ふびんに思い、愛する妻の面影を色濃く見せる息子を溺愛していた。けれどその愛情は仕事の合間にだけ見せるもので、幼い息子にとって充分なものではない。

 そのうえ息子が成長するに伴い、帰宅の頻度が激減すれば、息子にとっては父親の愛情などなかったものとなってしまう。住み込みの家政婦がいて生活に不自由はなかったけれど、家政婦は親の代わりになれはしない。

 常に孤独に苛まれた。多くの友人に取り巻かれても、埋められなかった。心の中にどころがない。友人たちは、ともに歩んでいく仲間ではあっても、帰る場所ではなかった。

 そんな風空を満たしたのが由紀恵ゆきえだった。

 風空がサーフィンをしに行った千葉の海で知り合った。大学二年の夏休みのことだ。

 暑い夏、潮風の中、休憩しようと立てかけたサーフボード――ボードをのぞいた通りがかりの美しい人が『ここは海なのに、風と空なのね』と言った。風空はボードに自分の名を書いていた。

 大嫌いな風空と言う名を由紀恵は『素敵ね』と言った。笑われることが多かった名を褒められたことに驚いた。『キミといると暑い夏も涼しい風が吹いてきそうね』とも言った。

 なぜか気になって、かまっているうちにどんどん惹かれていく。だけど由紀恵は、つかず離れずがいいらしい。ずっと年下の、可愛いお友達、由紀恵にとって風空はそんな立ち位置だったのだろう。

 海を見に来ていると由紀恵は言っていた。時どき砂浜を歩くこともあったけれど、駐車場のベンチに座って言葉通り海を見ていることが多かった。風空は由紀恵を見つけると海から上がり、他愛のないおしゃべりをして、また海に戻った。ただそれだけだった。

 風空にしても、本気で由紀恵をどうにかしようなど、考えてはいなかった。ずっと年上の由紀恵は、風空にとって憧れに過ぎなかった。遊び相手はいくらでもいたし、気に入った女の子は誘えば大抵ついてきた。下卑た言い方をすれば女に不自由していなかった。

 だからあの時も、海で拾った女を車に誘い、夜の闇に紛れて欲望を満たしていた。誰かの足音が近づいてくるのに気が付いていたけど気にもしなかった。見たけりゃ見ろよ、その程度だった。

 足音は車のすぐ横を通った。何気なく窓の外を見ると、視線に気が付いたのか、向こうもこちらを見た。視線が交差した瞬間、風空は血の気が引くのを感じる。由紀恵……

 由紀恵の表情が硬くなるのが判った。こちらが風空だと気が付き、車の中で何をしているのかにも気が付いたんだと思った。足音は瞬時も乱れることなく遠ざかった。

 行為を中断し、自分をなじる女を約束通りのところまで送り、急いで元の場所に戻る。もちろん由紀恵を見つけることなんかできない。そして思う。なんでこんなに慌てているんだろう?

 それから由紀恵はしばらく海岸に姿を見せなかった。風空のいない時間に来ていたのかもしれない。

 風空がベンチに座る由紀恵を見つけたのは、南の海上に台風が発生したと天気予報が言い始めた日のことだった。

「明日はサーフィンできないわね」
砂浜を走り抜け、息を切らした風空にポツリと由紀恵が言った。

「明日はまだ大丈夫。台風が来るのは明々後日しあさってだ」
海を見ながらそう言う風空を由紀恵が見上げた。

「昔、好きだった人が同じことを言ったわ」
「好きだった人?」
「高校生だった。彼もわたしも……もう、二十年近く前の話よ」

 彼もよく、ここでサーフィンをしていて、わたしは彼が戻ってくるのをここで待っていた。海から上がると彼は、ここまで走ってきて『待たせたね』って微笑んだ。

「風空、あなたがわたしを見つけてここに駆け寄ってくると、彼が戻ってきたように、いつも感じてた。それを味わいたくてわたし、ここに来るようになったんだわ」
「彼とはどうなったの?」
「どうにも……」
「どうにも?」
「……どうにもならなかったわよ」
そう言って由紀恵が立ち上がる。

「待って、帰るの?」
風空が由紀恵を引き留める。由紀恵が振りかえって風空を見る。

「いや、あの……こないだの夜、見られたなって」
「あぁ……あんな所じゃ彼女が可哀そうよ」
「いや、彼女なんかじゃ」
「彼女じゃないならなおさら」
「うん……僕を軽蔑する?」
「――ううん、あそこであぁいうことしてるのはキミだけじゃない。感心はしないけどね」
「うん……またここに来る?」

 由紀恵が少し言葉を選んだ。
「判らない――あの夜、車にいたキミを見て、やっぱり彼じゃないって思い知った。でも今日、またここで、わたしに向かって駆けてくるキミを見て、彼が戻ってきたって感じた」
「由紀恵?」
「――いい、気にしないで。それより、明日から、台風が過ぎて波が落ち着くまで、絶対海に入らないでね」
そう言って由紀恵は帰っていった……

「ただいま」
玄関で由紀恵の声がする。現実に戻った杉山が大急ぎで由紀恵を出迎える。
「どこに行ってたんだ? てっきり帰ってしまったかと……」
「あら、再会してから、一度でもわたし、そんなことをした?」

 手にしたコンビニの袋を掲げるように杉山に見せ、由紀恵が笑う。
「お腹すいちゃった。朝ごはんにしようよ」
ほっとした杉山が思わず由紀恵を抱きしめる。
「こらこら……相変わらず子どもみたいね、風空は」

 出会った頃のことを思い出していたんだ、と杉山が言う。湯を沸かしお茶を淹れ、由紀恵が買ってきたおにぎりを食べているときだ。
「出会った頃? 千葉での話?」
「うん……初めてキミを見た時、なんて綺麗な人なんだろう、って思った」
「今更お世辞言っても、なんの得にもならないわよ」
まんざらでもなさそうな顔で由紀恵が笑う。

 そんな由紀恵に杉山が穏やかな眼差しを向けた。
「今でも海は嫌いかい?」
「――あんな海の近くに住んでいて?」
「嫌いになるほど好き、だったっけ?」
「何が聞きたいの?」
由紀恵が杉山から顔をそむける。

「いや……訊いた僕が馬鹿だった」
杉山が覗き込んだ湯飲みに由紀恵が茶を注ぐ。茶は飲み干されていた。

「女の嘘、の話なんだが――」
恐る恐る杉山が由紀恵の顔を盗み見る。そして軽く溜息を吐く。
「いや、いいんだ。なんでもない」

「あら、わたしは聞きたいわ」
「だからなんでもない」
「たまにはちゃんとよ」
由紀恵の言葉に潜む怒りを感じて、余計に杉山が黙ってしまう。

「――あのね、風空。死んだ人は帰ってこないの。サーフィンをするあなたを見て、わたしは海に消えたあの人を、確かに思い出した」
「由紀恵……」
「あの人が帰ってきた、そんな風に感じた――でもあなたはあの人じゃない。わたしのところに帰ってきたのはあの人じゃなくって、誰かを愛することができるわたしの心よ」
判った? と由紀恵が微笑む。

「わたしにとって、あなたは誰かの代わりじゃない。誰とも代われないあなたなのよ、風空」
だからわたしはあなたの傍にいる。今度こそ傍にいる。

「確かにあなたの想像は当たっている。あなたのお父さんから、あなたを誰かの代わりにしないで欲しいと言われた時、『その通りだ』って思った――昨夜、あなたが『女の嘘』と口にしたとき、そのことが見抜かれていたんだって思った」
でも、違ったのね、と由紀恵が杉山を見る。

「あなたを愛してるっていうのが嘘だったんだって、気づかれたんだと思った。うぅん、嘘ではないんだけどね――でも、あの時は嘘だと思っていた。わたしはあなたの中に亡くした人を見ているだけなんだって、そう思っていた。わたしの思い違いだったんだけどね」

 そして由紀恵が微笑む。
「子育てって大変なのよ。妊娠しているときからそう。つわりで毎日気持ち悪いし、治まったかと思うと、身体が重くてしんどくて。お産のときなんか、やめときゃよかったって、思うくらい痛くて苦しくて――」

 生まれたら生まれたで、一時いっときも気が抜けないの。でもね、大切で愛しくて……好きな男の血を享けた子どもなら尚更なのよ。

懐空かいあの名を見ても判らない? あなたを愛していなければ、そんな名前にしなかった――あなたの傍を離れて、わたしはやっと気が付いた。あなたは誰かの代わりじゃない。わたしにとってただ一人のあなたなんだって。会いたいと思うのは海で死んだ彼じゃなかった。いつもあなただった。あなたに会いたくて仕方なかった……懐空がいてくれたから、あなたがいなくてもわたしは生きてこられたの。あなたがいたから幸せでいられたの」
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